千年川亀之助

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千年川亀之助(ちとせがわ かめのすけ、明治17年1月21日(1884年)-昭和11年3月4日(1936年))は明治時代後期の大相撲力士立田山部屋所属。最高位小結。本名は小島左兵衛(こじま さへえ)。青森県西津軽郡(現・青森県つがる市)出身。身長170㎝・体重94㎏。

四股名は初め豊川左兵衛と名乗っていたが、入幕時(明治41年1月)の四股名は千年川左兵衛で、明治42年(1909年)1月場所で千年川金之助と改め、さらに明治45年(1912年)1月場所で千年川亀之助と改名した。

青森県西津軽郡木造町豊田に生まれる。初めは高砂浦五郎のもとに入門したが病弱だったため出世の見込みなしと見做されて帰郷させられた。しかし力士になる夢を諦めきれず、同郷の立田山(元小結千年川)が経営していた立田山部屋に再入門した。

色白の小兵ながら怪力の持ち主。前捌きがうまく豪快かつ大胆な取り口だったと言われ、左四つ・寄り・掬い投げを得意とした。入幕2場所目の明治41年(1908年)5月場所では、大関駒ヶ嶽國力を高無双という珍しい決まり手で破っている。明治45年5月場所では横綱梅ヶ谷(2代目)から金星を奪い、通算の対戦成績も1勝1敗3分と互角だった。また横綱常陸山とも引き分けたこともあり、更に若手時代の栃木山にも勝つなど、大物食いの評判を取った。これは千年川が所属していた立田山部屋が小部屋で所属陣営も変わったため、当時の強豪力士の大多数を相手にしなければならなかったという事情による。

明治45年5月場所3日目、横綱太刀山を相手に仕切り直しを30回以上繰り返して1時間20分余もの長時間を費やしたものの、太刀山の2突きであっけなく負けた取組は相撲史上有名である。

大正6年(1917年)1月場所を最後に引退。年寄・立田山を襲名したが昭和2年(1927年)5月限りで廃業した。大正10年頃に札幌市へ移住し、相撲道場を設立して後進の指導にあたった。昭和11年3月4日、52歳で没した。

酒豪で豪放磊落で、奇行や大言壮語が多く「ほら吹き」と呼ばれた。部屋の力士を口論して焼け火箸で腹を刺されるなど、奇怪な言動によるトラブルが多かった。また目をつぶって仕切る癖があったという。

  • 初土俵:明治33年5月場所序の口
  • 十両昇進:明治40年1月場所
  • 入幕:明治41年1月場所
  • 最終場所:大正6年1月場所
  • 幕内成績:66勝62敗22分9預31休(19場所)
  • 勝率:0.516

参考文献[編集]

  • 「相撲」編集部編『大相撲人物大事典』ベースボールマガジン社、2001年。
  • 日本相撲協会監修『相撲大事典』現代書館、2011年。