内藤昌豊
内藤 昌豊(ないとう まさとよ)は、戦国時代の武将。武田氏の家臣。武田四天王の一人。
「内藤昌豊」の名で伝わるが、『高崎市史』によれば「内藤昌秀(まさひで)」が正しいという説が有力である。(「豊」は父・虎豊から1字を取ったものである。)
生涯[編集]
出奔[編集]
大永2年(1522年)、武田信虎の重臣・工藤虎豊の次男として生まれる。はじめ工藤祐長(くどう すけなが)と名乗った。しかし父の虎豊が信虎の勘気に触れて内藤虎資(ないとう とらすけ)と共に誅殺されたため、難を逃れて兄・昌祐と共に武田家から出奔し、諸国を流浪した。有力説では、関東地方を流浪していたと言われている。
信虎が信玄によって追放された後の天文15年(1546年)、信玄に召還されて、工藤氏の旧領と家督を継ぐことを許された。そのうえ信玄に父の罪を謝罪された上、金子も与えられたという。同時に50騎持の侍大将に抜擢された。
信玄時代[編集]
信玄に仕えてからは、信濃平定戦に参加し、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは、上杉軍の背後を襲う妻女山別働隊の大将として活躍した。永禄9年(1566年)、西上野箕輪城攻めで抜群の功績を挙げたため、戦後に信玄から300騎持の大将に加増された上、箕輪城代に任じられ、上野方面経営の指揮を執った。但し、最近の研究では昌豊が箕輪城代となった年は元亀元年(1570年)頃という説もある。
永禄11年(1568年)、これまでの軍功を賞されて、断絶していた武田家譜代の名門・内藤家の名跡を継ぐことを許されて内藤姓に改め、同時に修理亮を名乗った(工藤氏の家督は兄・昌祐が継いだ)。永禄12年(1569年)の三増峠の戦いでは小荷駄隊を率いて自軍の補給を支える等、華々しい戦功名だけでなく、地味だが重要な役目も的確にこなした。 そののち、厩橋城主・北条高広と共に、武田・上杉・北条による三国同盟の締結を画策し、その促進を跡部勝資に要請するなど尽力するが、最終的に失敗している。
元亀2年(1571年)、北条氏康の死去によって後を継いだ北条氏政が和睦を申し入れてきた際には、信玄の全権名代として交渉にあたりこれを取り纏めている。
元亀3年(1572年)、信玄の西上作戦にも参加し、三方ヶ原の戦いで武功を挙げた。
最期[編集]
元亀4年(1573年)4月に信玄が死去した後は、子の勝頼に仕えた。しかし他の老臣と同じく勝頼には疎まれたという。
天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、戦況不利を悟って山県昌景らと共に勝頼に撤退を進言したが、それが受け入れられることは無く、出撃して激戦の最中銃火に散った。享年54。
人物・逸話[編集]
- 昌豊は信玄の代表的な戦争に全て参加し、常に武功を立てていたが、信玄からは一度として感状をもらうことが無かった。このことについて「甲陽軍鑑」で信玄は、「修理亮ほどの弓取りともなれば、常人を抜く働きがあってしかるべし」と評して敢えて一通の感状も出さなかったという。一方の昌豊も、「合戦は大将の軍配に従ってこそ勝利を得るもので、いたずらに個人の手柄にこだわることなど小さなことよ」と感状を貰っていないことなど気にもかけなかったという。これは信玄と昌豊の信頼関係の厚さを示すものである。
子孫[編集]
死後、内藤昌月が家督を継いだ。実子説もあるが、一方では昌月(千次郎)は保科正俊の三男で養子であるとも。内藤昌弘(- まさひろ)という次男もいたらしいが、詳しい功績は伝わっていない。
関連作品[編集]
関連項目[編集]
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