保坂展人
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保坂 展人(ほさか のぶと、1955年11月26日 - )は、日本の教育ジャーナリスト、政治家。総務省顧問、社会民主党副幹事長・広報委員長・東京都連合副代表。衆議院議員(3期)などを歴任した。
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経歴[編集]
- 東京都千代田区立麹町中学校在学中に学園闘争の影響を受け「麹町中共闘」を結成。機関誌「砦」を発行し、ビラを配ったり大学生の「共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派」の集会に参加するなど積極的な運動を行っていた。
- 内申書に中学校での学生運動経歴を書かれ高校受験の面接では質問が思想的なものに集中したとし結局全ての高校を不合格となり、東京都立新宿高等学校定時制に進学することとなった(後に中退)と自身で述べている。
- 内申書に不利な経歴を書かれたとして千代田区教育委員会を提訴するものの、内申書の内容は執筆を担当した教員の裁量であるとして敗訴した。保坂は最高裁に上告したが、最高裁は「思想、信条そのものを記載したものではないことは明らかである」とし棄却した。判決は重要判例として憲法の講義でよく紹介される(麹町中学校内申書事件)。
- その後は、教育ジャーナリストとして管理教育の打破を訴えた。ミニコミ誌「学校解放新聞」を発刊したり、子どもの立場からの教育問題を雑誌に寄稿したりして1980年代の反管理教育ブームの旗手として知名度を上げていった。飲酒を理由とする退学処分をめぐって学校と裁判を起こしていた西原理恵子(現在は漫画家)を取材したこともある。また、公文式の批判本を著した。
国政活動[編集]
比例区復活当選から落選まで[編集]
- 1996年、土井たか子に請われ社民党より衆議院第41回総選挙に東京22区より立候補し、小選挙区で落選したが、重複立候補した比例代表区で復活当選した。小選挙区では供託金没収点未満(得票率5.89%)であり、供託金を没収された。この件をきっかけのひとつとして、一定の人々は、小選挙区で得票率が著しく低い人物が当選することに批判的な議論を提起した。この後国会は、小選挙区で供託金没収点未満であった候補は比例区で当選できないよう公職選挙法を改正した。小選挙区での得票率5.89%は復活当選の中では歴代最低記録である。
- 福島瑞穂・辻元清美と並んで「土井チルドレン」と呼ばれている。
- 1999年の通信傍受法案審議中、自分の携帯電話が「盗聴」されていると告発した。保坂がテレビ朝日『朝まで生テレビ』に出演した際の交渉会話が記録された怪文書が朝日新聞社に届けられ、これは警察が試験的に始めた通信傍受によるものという内容だったという。実態はわからないが、当時の与党からは「組織的犯罪対策三法成立を妨害しようとした者の犯行ではないか」(当時の自治大臣・野田毅)という批判も出た。また、電話の相手は普段は平河クラブ(与党担当の記者クラブ)・宏池会担当のテレビ朝日記者であったという。保坂は被疑者不詳のまま検察に告訴したが、2000年、証拠不十分で不起訴処分となった。
- 2000年の第42回総選挙で再選した。保坂は選挙区を東京6区に替え、小選挙区と比例代表東京ブロック(名簿順位1位)に重複立候補した。選挙区では落選したが供託金没収点(有効投票の10%)は超えており、社民党は比例代表東京ブロックで1議席を獲得したため保坂は再選を果たした。
- 青少年保護を理由とした有害図書規制にも批判的で、そのためか2003年の第43回総選挙ではコミックマーケット準備会代表であった米澤嘉博らが推薦人に名を連ねた(ただし米澤は個人としての推薦で、コミックマーケット準備会自体が推薦したわけではない)。2005年12月の「コミックマーケット69」に初めて参加(一般参加者)した。
- 2003年の総選挙では落選した。前回総選挙と同様に重複立候補(比例名簿第1位)したが小選挙区では当選できず、得票率は全体の9%で供託金没収となった。比例区での復活当選に必要な小選挙区有効投票の10%を得られなかった。この選挙で社民党は、比例代表の東京ブロックにおいて議席を獲得することができなかった。
復活当選[編集]
- 落選中は演説などをこまめに行い、2004年6月には東京都狛江市長選で現職で日本共産党の党員である候補矢野裕の応援演説にも駆けつけたことがある(落選中も含めて他党の人が日本共産党の候補者の応援をすることは最近では極めて珍しい。狛江市は保坂が前年の総選挙で立候補した東京6区ではなく東京22区であった)。
- 2005年の第44回衆議院議員総選挙で当選し、国政復帰を果たした。このときは選挙区での立候補を断念し、比例東京ブロック単独で出馬した。名簿順位は第2位だったが、社民党の党勢を考えると1議席獲得できるかどうかという状況であった。この選挙では自民党が大勝し、東京都でも小選挙区において自民党が東京18区(菅直人の選挙区)を除く全ての議席を獲得した。また、比例代表では8議席分が配分されるはずであった。しかし自民党の予想外の大勝で重複立候補した候補者のほとんどが小選挙区で当選し、これを除くと自民党の名簿登載者が7人しかいないという事態が生じた。このため公職選挙法の規定により、ドント方式においてその次の順位に付けていた社民党が1議席を配分されることとなった。社民党で名簿順位1位の中川直人は小選挙区との重複立候補で小選挙区で有効投票の10%を得られていなかったために当選資格を失い、比例区のみで出馬した名簿順位第2位の保坂が当選した。
再度落選[編集]
2009年、第45回衆議院議員総選挙では東京8区から出馬。民主党は候補の擁立を見送り、保坂の推薦に回った[1]。当初は2000年、2003年と出馬した東京6区からの立候補を検討していた。しかし、同区を地盤とする民主党の現職・小宮山洋子と社民党との選挙協力のため、保坂は民主空白区である東京8区に移転する形となったが、自民党現職石原伸晃に敵わず落選。比例復活もならなかった。その後、総務大臣に就任した原口一博により、国民新党顧問の亀井久興らとともに総務省顧問に任命された[2]
国会における質問[編集]
- 保坂が再び当選したとき社民党は国会での議席数を大きく減らしており、国会で割り当てられる質問時間は限られていた。そこで保坂は質問主意書を利用し、死刑の廃止についての質問や通信傍受法案批判、年金財政のデータ公開要求などを行った。
- 国政復帰後も共謀罪や教育基本法審議で論陣を張り、共謀罪では「目配せでも成立」との答弁を引き出した。[3]また教育改革タウンミーティングの「発言者謝礼5000円」問題や裁判員制度広報費問題では最高裁判所の不適切な契約を追及している。国会質問数は第166国会(2007年1月25日 - )で420回を超えている。
- 2007年2月6日に厚生労働大臣・柳沢伯夫が若者の結婚・出産願望が高い事を示した上で、「ご当人の若い人たちは、結婚をしたい、子どもを2人以上持ちたいという極めて健全な状況にいるわけです」などと発言したことに対し保坂は自身のブログで「『健全』『健全』と2回も出てくる。『若い人たちが結婚して2人以上の子どもを持ちたい』という願望を持つことが『健全』だというなら、政界では若手だが世間では中年の(私も同世代と断っておく)安倍総理は『夫婦ふたりで子どもなし』は『不健全』ということにならないか」と当時の内閣総理大臣・安倍晋三に子供がいないことを例に挙げて発言を批判した。柳沢は自身の発言について「子供を持とうと『思うこと』を『健全』としたのであり、子供が『いること』が『健全』だとしているわけではない」と述べている。
- 現在は衆議院法務委員会、文部科学委員会に所属。チャイルドライン設立推進議員連盟事務局長、死刑廃止を推進する議員連盟事務局長。公共事業チェック議員の会事務局長で静岡空港反対運動[4]やグリーンピア問題などにも積極的に取り組んでいる。
- 2007年12月の党大会で、副幹事長に就任した。
- 2008年6月17日、宮崎勤の死刑執行が行われると亀井静香と一緒に緊急記者会見を開き「死刑執行数が増えているのは、国際社会では異常。国連で人権を主張する資格はない」と激しく鳩山邦夫法務大臣を非難した。
その他[編集]
- 中核派がイニシアチブを取っていると警察庁に指摘をされている[5]「百万人署名運動」では、呼びかけ人を務める[6]。
- 2006年12月1日の衆議院文部科学委員会で現行著作権法の規定ではダウンロード違法化が実現したときに国会インターネット審議中継のビデオライブラリの配信が違法となってしまう可能性があるのではないかと指摘したのに対し、文化庁が「参考人質疑など被写体となった当事者の許諾を得ることが必要となる」と答弁するなどその事実を認めた[7]。
- 2008年、児童ポルノ禁止法について新たに単純所持の禁止などを追加する改正の動きに対し、慎重な議論を求める請願を255人の署名とともに衆議院に提出。児童ポルノ画像や映像の所持・取得に罰則を設けることは「多くのえん罪事件や捜査権の乱用、プライバシー侵害や行き過ぎた監視国家化が引き起こされる」と主張し、新たな罰則を設けないよう求め。児童ポルノの定義を明確なものにすることや、イラストを同法に含めないことも求めている[8][9]。
- 2008年11月10日に動画投稿サイトニコニコ動画のコンテンツであるニコニコ生放送で「青少年ネット規制法」の制定や「児童ポルノ禁止法」の改正についてのネット政策討論会を行う。20時20分より開場し開演は20時30分から、終了したのは21時30分。事前に「ニコ割アンケート」で児童ポルノ禁止法、ネット規制問題に対するユーザーの考えを聞き、その結果に基づいて進行した[10][11]。
- 2009年4月4日にコンテンツ文化研究会の主催により、「児童ポルノ禁止法」やインターネット規制をテーマにした「保坂展人と語る、マンガ規制・ネット規制の今」に参加した。当イベントには保坂展人のほか、山口貴士、渋井哲也も参加[12]。
主な著作(共著含む)[編集]
- 『どうなる!?高齢者の医療制度』 阿部とも子共著 ジャパンマシニスト社 2008年6月 ISBN 978-4-88049-183-7
- 『学校だけが人生じゃない』 結書房 2006年11月 ISBN 4-902127-10-5
- 『共謀罪とはなにか』 海渡雄一共著 岩波書店〈岩波ブックレット〉 2006年10月 ISBN 4-00-009386-X
- 『官の錬金術』 岩瀬達哉・大川豊共著 WAVE出版 2005年11月 ISBN 4-87290-237-8
- 『佐世保事件からわたしたちが考えたこと』 岡崎勝共編著 ジャパンマシニスト社〈Oha special〉 2005年3月 ISBN 4-88049-144-6
- 『年金を問う』 岩波書店〈岩波ブックレット〉 2004年10月 ISBN 4-00-009337-1
- 『年金のウソ』 ポット出版 2004年6月 ISBN 4-939015-66-1
- 『次世代政治家活用法』 リヨン社 2003年3月 ISBN 4-576-03056-6
- 『きこえますか 子どもからのSOS』 ぎょうせい 2001年
- 『こうすれば学校を救える』 風媒社ブックレット 2000年
- 『学校を救え!』 ジャパンタイムズ社 1999年
- 『愛することと働くこと』 築地書館 1997年
- 『あきらめなかった少女たち』 リヨン社 1996年
- 『ちょっと待って!早期教育』 学陽書房 1996年
- 『いじめられている君へ いま言えること、伝えたいこと』 徳間書店 1995年
- 『続・いじめの光景』 集英社文庫 1995年
- 『いじめの光景』 集英社文庫 1994年
- 『先生、その門を閉めないで』 労働教育センター 1990年
- 『あたたかい人間の言葉で伝えたい』 リヨン社 1990年
- 『やだもん』 小学館 1987年
- 『元気印青春論』 大和出版 1986年
- 『学校が消える日』 晶文社 1986年
- 『花を飾ってくださるのなら 奈々15歳の遺書』 講談社 1986年
- 『ガンバレ!はみだしっ子』 ポプラ社 1984年
- 『学校に行きたくない』 集英社 1984年※のちに「今、いじめが爆発する!」というタイトルで2時間ドラマ化された(月曜ワイド劇場枠で放送)。
- 『先生、涙をください!』 集英社 1983年
脚注[編集]
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- ↑ 2008/09/12 次期衆院選公認内定、推薦を追加決定 常任幹事会
- ↑ 『総務省顧問の発令』総務省、2009年10月23日。
- ↑ 第163回国会 法務委員会第6号(平成17年10月21日(金曜日))
- ↑ 保坂展人のどこどこ日記 浜岡原発・静岡空港に行ってきた
- ↑ 平成16年警察庁広報誌『焦点』270号
- ↑ http://s04.megalodon.jp/2008-0211-1024-45/www2u.biglobe.ne.jp/~hyakuman/sandou.html
- ↑ 保坂展人のどこどこ日記・2006年12月3日付
- ↑ 第170回国会 40 児童買春・児童ポルノ禁止法改正に当たり、拙速を避け、極めて慎重な取り扱いを求めることに関する請願
- ↑ ねとらぼ:「エロゲーは危険な社会を作り出す凶器」――規制を求める請願、衆議院に - ITmedia News
- ↑ ニコニコニュース‐エロゲを守れ? 11月10日生放送に保坂衆議院議員が出演
- ↑ 『ネット政策討論会~児童ポルノ禁止法、ネット規制問題について語る~』Part1‐ニコニコ動画(ββ)
- ↑ コンテンツ文化研究会:「保坂展人と語る、マンガ規制・ネット規制の今」無事に成功致しました。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 保坂展人 公式サイト
- 保坂展人のどこどこ日記 - ブログ
- 社会民主党東京