体罰

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体罰(たいばつ)とは、進歩を目的とした有形力の行使である。

概要[編集]

体罰は教育である。それは、礼儀作法を身につけさせるための躾や、技芸武術学問を向上させて心身を鍛錬することなどと同様に、教育上の進歩を実現するにおいて必要不可欠なものなのである。

一方、あたりまえのこととして、暴力は許されない。自己の利益、不満解消(鬱憤晴らし)、虐待を目的として人(弱者)に対して有形力の行使をして傷つける行為は、家庭内であれ、学校内であれ、社会内であれ決して許されない。それは、その人間の考えの間違い、心の弱さ、過度の精神的な疲労(人間力の劣化)などが原因となっている。しかし、このような進歩を目的としない「暴力」と、進歩を目的とする「体罰」とは根本的に異なる。

体罰の真実[編集]

初めから「全人」として生まれた人はいない。躾や鍛錬によって生命と身体を維持し家族、民族そして国家を維持しようとする本能を強化し、学習によって理性を作り上げて進歩しながら人格を形成してゆくのである。

しかし、自己の自覚と努力だけでは進歩できない場合もあり、むしろ、それができない人の方が多いのである。それは、進歩のためには鍛錬が必要であることを理性的には理解できても、自らに苦痛を課す鍛錬から逃れようとする心があるからである。これは、「快を求め不快を避ける」という本能的な行動原理によるものであり、教育はこの行動原理に基づくものなのである。

進歩を目的とした躾や鍛錬には少なからず不快感を伴う。躾や鍛錬による不快感は、それを克服させるための行動を起こさせ、その目的を達成すると不快感は消え、快感(幸福感)が得られる。それゆえ、進歩を目的とした躾や鍛錬による不快感は、進歩のためには必要不可欠なものであり、「不快なくして進歩なし」なのである。ところが、躾や鍛錬による不快を「悪」であるとして躾や鍛錬を否定すれば、進歩のための行動が生まれず、いつまでも進歩しないことから、他人との能力差を感じて疎外感や劣等感が生まれ、それが逆に大きなストレスとなって、躾や鍛錬による不快以上の大きな不快が生まれ、社会生活に適合できなくなる。

人生において進歩向上すべき最も重要な時期に、進歩のための不快を避け、不快なくして進歩しようとする怠惰な心の赴くまま身を委ねてしまうと、進歩することができない。克己心を得て進歩のための不快を克服して自己研鑽できる一部の恵まれた者だけが教育的に進歩できても、その他の多くの者が取り残されて社会の全体的な進歩がなければ、社会秩序は安定せず社会全体の民度は高まらない。大人ですら進歩のために必要な矯正措置を不快と感じて避ける怠惰な心があるので、子供たちの場合は尚更のことである。自主性とは理性が完成していることを前提とするので、理性の未熟な子供に自主性を期待することはできない。そのために、教育的矯正が必要となる。その最も重要なものが体罰なのである。

水が高いところから低いところに流れるように、学級生徒の中に怠惰な者がいて、それに対して教師が何らの教育的矯正をなさないとしたら、学級全体が怠惰を是認することになって、克己心を持って研鑽している他の生徒にも悪影響を与える。その結果、学級全体の生徒の進歩が遅れ、学級の秩序が乱れる。

そのことを動物行動学を確立してノーベル賞を受賞したコンラート・ローレンツが科学的に証明した。それは、「種内攻撃は悪ではなく善である」ということである。ここで「善」というのは、種族保存のために必要な秩序維持に必要不可欠なことを意味する。決して、理性的、宗教的に判断した「善」のことではない。善悪は、理性で決するものではなく、固体と種族の本能(生命原理)に適合するか否かによって科学的に決定されることを意味する。種内攻撃は、すべて種内の秩序の形成と維持のためになされる。決して秩序を壊し秩序を乱すためになされるものではない。人間以外の動物は、秩序を壊し秩序を乱す結果を生む種内攻撃をすることがない。そして、本能的行動としての種内攻撃、つまり、同種内における有形力の行使は、種族維持、秩序維持のために必要なものであることを説いたのである。この種内攻撃の最も重要なものに「体罰」がある。

ところが、それでも体罰は悪であるという人がいる。しかし、これには前に触れたとおり科学的な根拠がない。それどころか、進歩を目的とする体罰が悪であれば、それ以外の方法による進歩を目的とする強制力もすべて悪になる。体罰のみが悪であるとする根拠がなく、進歩を目的とする強制力のすべてを否定することは、結局のところ教育それ自体を否定することになる。

さらに、そのような体罰否定論者は、「体罰」を「虐待」と同視する。たしかに、虐待も有形力の行使であるが、虐待は単なる憎悪の発露に過ぎず進歩を目的としない暴力である。同種内でこのような秩序の破壊と紊乱を生む行為をする動物は人間だけである。本能に忠実な人間以外の動物は、無益な殺生や虐待をしない。親殺し、子殺し、夫殺し、妻殺しのような犯罪も犯さない。家族維持や社会秩序維持の本能が劣化すれば犯罪が起こる。虐待とか犯罪が起こるのは、人間にしかない歪んだ理性によるものである。犯罪とは、「歪んだ理性のアダ花」というべきものなのである。

そもそも、同じ有形力の行使ではあっても、目的の有無によってその性質は全く異なる。体罰と虐待(犯罪)とは、進歩を目的とする行為であるか否かによって峻別される。決して体罰の延長線上に虐待があるのではない。この区別の解らない人は、人命救助と治療を目的として外科医がメスを用いて行った手術行為と、憎しみと利害打算によって人を刃物で殺傷する犯罪行為との区別もできないことになる。

また、「刑の疑わしきをば軽んぜよ」(書経)といふ言葉がある。これは、刑罰の謙抑性を説いた言葉である。法はあらゆる違法行為を対象とすべきではなく、刑罰は必要やむをえない場合に最小限度で適用されるべきである。これと同じく、体罰もまた無条件、無制約ではない。体罰が教育として必要なことと、体罰がどのような場合にどの程度必要であり、そして教育目的を実現するためにどうすれば効果的であるかということとは区別しなければならない。体罰は、教育を行う者に認められた懲戒権であり、その権利が認められるか否かという権利の「存否」の問題と、その権利を行使するについてどのような場合にどのような方法や程度で行うことができるかという権利の「要件」の問題とは区別される。ハードとソフトの関係である。これを混同することは、警察官が違法な逮捕をしたことがあったことを理由に、すべての警察官の逮捕権限を全否定することはできないことと同じである。体罰を悪であるとして否定する人は、この区別もできないことになる。

子供は教育的進歩を遂げなければ社会人として完成できないのであるから、体罰を含む教育を受ける権利があり、国家としても体罰を含む教育をすべき義務がある。ところが、学校教育においては、学校教育法第11条但書により、教員による体罰が禁止されている。同条は、学生生徒等の懲戒についての規定であり、「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」と定めている。体罰は教育に必要な懲戒権には原則的に含まれるのであるが、例外的にこれを行使してはならないとしているのである。

しかし、このように学校教育における体罰(学校体罰)による懲戒権の行使は禁止されているが、家庭教育における体罰(家庭体罰)は禁止されていない。それは民法第822条に規定する親権者の懲戒権には体罰を除外されていないからです。つまり、学校体罰は禁止され、家庭体罰は禁止されていないという不統一で論理矛盾な懲戒制度となっているのです。

そのうえ、平成12年には、体罰と虐待の区別もできていない「児童虐待の防止等に関する法律」という欠陥法律が制定・施行される。これにより、進歩目的の有無で区別していないことを口実に、親権者の体罰を虐待とみなして、児童相談所が独断で一時保護と称して児童を拉致し、親子を引き離して長期完全隔離して家庭を崩壊させる事案が恐ろしい勢いで増加している。確かに、これまでの放任教育の結果、あまりにも悪質で悲惨な児童虐待事案が増えてきていることは確かである。これは、「体罰」ではなく明らかに犯罪なのである。

現行の制度では、家庭体罰を肯定し、学校体罰を否定している。学校体罰と家庭体罰とを区別し、学校体罰のみが否定されることの科学根拠は未だに示されていない。さらに、体罰を虐待とを混同しうるような児童虐待の防止等に関する法律が制定運用されるという矛盾に満ちた現行の法制度は、明らかに教育科学に反する。科学でなければ、それは特異な思想か宗教的教義に他ならない。いわば、教育が「体罰禁止教」に支配され、いまや教育は再生不能の状態にまで陥っている。

子供の自主性を尊重し、命の大切さだけを教え続けた個人主義の「理性教育」は、論理矛盾と形容矛盾の最たるものと言える。自分の命を捨ててまで守るべきものがあることを教えなかったからである。自分の命を捨ててまで愛すべき親や子供たちを守ることは、理性教育からは導かれない。そのため、個人主義では、自分の命だけが大切であり、他人の命は大切ではないことになった。戦後教育は、この個人主義に根差した理性教育が正しいとして今日まで来た。その結果は、実に惨憺たるものであった。今では、家庭教育では、家族の序列と秩序が消滅して健全な親子関係が崩壊し、学校教育においても、教師と生徒との序列と秩序が乱れ、イジメや不登校、自殺などが起こって、教育全体が回復不能の状況となり、社会秩序が崩壊寸前にある。怠惰を助長させる放任主義は、まさに教育の放棄であり、社会秩序の崩壊となる。そのために、少なからず他律的な矯正の力が必要となる。競争原理による叱咤激励、信賞必罰や、劣後する者や怠慢な者に対する叱責などの間接的な矯正だけでなく、直接的な矯正力が必要な場合がある。それが体罰である。ですから、体罰は教育なのである。ところが、そのどさくさに紛れて、体罰と虐待とを同一視する傾向が一層進んでいるのである。

このように、現在では悲観的な状況ではあるが、平成21年4月28日の最高裁判所第三小法廷の判決によって、教育再生へのかすかな光明を見出すことができた。この事案は、休み時間に女子児童を蹴っていた男児らを教員が注意して職員室に戻ろうとしたところ男児に尻をけられたので、教員が男児の胸元をつかんで壁に押しつけ、「もう、すんなよ」と怒った行為を、学校教育法第11条但書の体罰禁止条項に違反する行為であるとして男児の保護者が損害賠償を請求したものである。一審と控訴審は損害賠償を認めたが、最高裁では逆転してその請求を退けた。この教員が男児の胸元をつかんだ行為が「体罰」にあたるか否かについて、最高裁は、「許される教育的指導の範囲を逸脱せず、体罰には当たらない」と判断したのである。しかし、この教員の行為は、明らかに体罰である。教育的指導は体罰の一種である。つまり、この最高裁判決は、学校教育法第11条但書を実質的に否定したか、あるいは限定的解釈を行ったものと評価されるのである。

しかし、この判決はまるで多勢に無勢、焼け石に水のような存在で、現在のような不整合な法制度が存在し、その規定を正しいものであるとする体罰否定の人たちが戦後教育を支配し続けたため、学校のみならず、家庭も崩壊し、児童相談所の横暴を許し、家庭裁判所もそれを黙認するに至っている。それゆえ、この最高裁判決を踏まえて、現在の状況を打破して、教育の再生をはかるには、体罰禁止教の支配から我が国を解放して、教育に科学性を回復することである。そのための緊急の課題として、まずは学校教育法第11条但書の削除を実現することが必要である。その上で、体罰の方法や程度に関する法整備を実現して、教育の再生を実現せねばならないと確信する。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]