仏教善玉論
仏教善玉論(ぶっきょうぜんだまろん)とは、日本の宗教史における思想の一つで、プロイセン・ドイツを模範とし成立した明治政府により人工的に作られた「国教」たる国家神道が平和主義、人間主義の仏教に厳しい取り締まりを加えて従わない者を容赦無く弾圧し、この反動主義が日清・日露戦争やアジア太平洋戦争といった日帝による一貫した帝国主義、侵略戦争の体制を支え軍閥を育て悲惨な戦禍を招いたのだとするラディカルなハト派リベラルの主張を特徴とする。「仏教善玉説」とも呼ばれる。
概要[編集]
無論各種の言論統制法規が細部まで整備されていた日帝時代にあって神道、皇室と真正面から対決する現在(20世紀末~21世紀初頭)の仏教善玉論に類する思想は広く流布はされなかった。仏教善玉論が体系的な思想として大きく成長していったのは1945年の日本敗戦後、GHQによる米政時代である。ただし戦後の日本人の宗教意識の希薄化などから多くの世俗化した伝統仏教諸宗派では主流とならず主に新宗教系の仏教諸宗派、大学教育で革新系の教職員たちからマルクス史観の強い感化を受けた僧侶などの間で伝えられた。
それまでの日本仏教で穏健な民俗文化として普通に見られた神仏習合への激しい嫌悪、創価学会第3代会長池田大作の講演に見られるように広島と長崎への原爆投下を「報い」と教化する[1]他戦災を仏罰、背教と説くといった傾向が独善性、自己中心的な中華思想を感じさせるとして仏教内部でも非難の対象となる例がある。 日本画家の平山郁夫の手による「広島生変図」(1979年)では原爆の紅蓮の炎で焼かれる広島の街を仏尊の不動明王が空から見下ろす構図があたかも原爆は背教による報いだと被爆者や遺族の気持ちを踏みにじっているという批判がしばしばなされたが(密教仏としての不動明王は炎、憤怒を象徴するとされる)平山本人はむしろ「人々の苦しみを、代わりに引き受ける慈愛の仏」といった民俗信仰としての不動信仰をもとにこの案を決めたともされている。
関連項目[編集]
脚注[編集]
- ↑ 『会長講演集』 第3巻 290~291頁、聖教新聞社。