ヤルタ密約

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ヤルタ密約とは、主に日本に関して、アメリカルーズベルト、ソ連のスターリン、およびイギリスのチャーチルとの間で交わされた秘密協定のことである。

概要[編集]

1944年12月14日にスターリンはアメリカの駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンに対して樺太(サハリン)南部や千島列島などの領有を要求しており、ルーズベルトはこれらの要求に応じる形で日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を促した。

ヤルタ会談ではこれが秘密協定としてまとめられた。この協定では、ソ連の強い影響下にあった外モンゴルモンゴル人民共和国)の現状を維持すること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すこと、満州の港湾と鉄道におけるソ連の権益を確保することなどを条件に、ドイツ降伏後2ヶ月または3ヶ月を経てソ連が対日参戦することが取り決められた。

アメリカからソ連に対する対日参戦要請は早く、日米開戦翌日(アメリカ時間)の1941年12月8日にソ連の駐米大使マクシム・リトヴィノフにルーズベルト大統領とハル国務長官から出されている。

このときはソ連のモロトフ外相からリトヴィノフに独ソ戦への集中と日ソ中立条約の制約から不可能と回答するよう訓令が送られた。しかしその10日後にはスターリンはイギリスのイーデン外相に対し、将来日本に対する戦争に参加するであろうと表明した。

スターリンが具体的な時期を明らかにして対日参戦の意思を示したのは1943年10月のモスクワでの連合国外相会談の際で、ハル国務長官に対して「連合国のドイツへの勝利後に対日戦争に参加する」と述べたことをハルやスターリンの通訳が証言している。ヤルタ協定はこうした積み重ねの上に結ばれたものだった。

ドイツが無条件降伏した1945年5月8日の約3ヵ月後の8月9日、協定に従ってソ連は日本に宣戦布告し満州に侵入、千島列島等を占領した。しかし、ソ連参戦の翌日(1945年8月10日)に日本がポツダム宣言受諾を連合国側に通告したため、戦争末期(9月2日の降伏文書調印まで)のきわめて短期間のソ連の戦果に対して日本の領土を与えるという、結果としてソ連に有利な内容になった。

なお、1956年に共和党アイゼンハワー政権は「(ソ連による北方領土占有を含む)ヤルタ協定はルーズベルト個人の文書であり、米国政府の公式文書ではなく無効である」との米国務省公式声明を発出している。また、アメリカ合衆国上院は、1951年のサンフランシスコ講和条約批准を承認する際、決議において「この承認は合衆国としてヤルタ協定に含まれているソ連に有利な規定の承認を意味しない」との宣言を行っている。

その他の国について[編集]

台湾について、米ソ両国はカイロ会談で決定していた中華民国への返還を改めて確認した。また、朝鮮半島は当面の間連合国の信託統治とすることとした。しかし、米ソの対立が深刻になると、その代理戦争朝鮮戦争となって勃発し、朝鮮半島は今に至るまで分断されている。

「ソ連の対日参戦」、独は情報共有、日本は抹殺し侵攻招く。諜報力の違い鮮明(2014年8月)[編集]

日ソ中立条約を破り、ソ連満州(中国東北部)に侵攻して9日で69年となる。

この半年前のヤルタ会談で、ソ連が対日参戦の密約を結んだとの情報を入手しながらソ連侵攻まで情報を生かせず犠牲を増やした日本に対し、同じ敗戦国ドイツはその情報を最重要扱いとして本国や世界中の在外公館で共有し、戦局に生かそうとしていたことが4日、英国立公文書館所蔵の秘密文書で判明した。大戦末期のソ連参戦に対する日独のインテリジェンスの違いが浮き彫りになった。

英国立公文書館所蔵のブレッチリーパーク(英政府暗号学校)が解読した秘密文書(分類番号KV2/155)によると、ドイツストックホルム駐在の情報士官、カール・ハインツ・クレーマーは、ヤルタ会談開催中の1945年2月8日と会談後の21日、親衛隊情報部あてに「ヤルタ会談でソ連が対日参戦する政策に転換した」と電報を打った。

ドイツでは、この情報が政府内で共有され、国家の指導者の判断材料となる最重要情報に指定されたとみられる。ドイツ外務省は2月14、24日、クレーマー情報をそのまま世界各地の全在外公館に伝え、さらに同月19、21日、3月10日に詳報を一斉通報した。

この情報は、もともとストックホルム駐在、小野寺信(まこと)陸軍武官がロンドンの亡命ポーランド政府から入手してクレーマーに提供したものとみられ、米国立公文書館所蔵秘密文書によると、クレーマーは、ドイツ降伏後の尋問で「小野寺と活発に情報交換し、45年2月か3月に連合軍の極めて重要情報の提供を受けた」と答えている。

一方、日本では、参謀本部が同年2月中旬、小野寺武官からの緊急電報を受信しながら、ソ連仲介和平工作を進めていたため、握りつぶされたことが明らかになっている。

その後もベルリン大島浩大使が同年3月にドイツのリッベントロップ外相から知らされ、同22日付で外務省に打電。同年5月以降ベルンやリスボンの在欧武官からもソ連参戦情報が寄せられたが、ソ連頼みの終戦工作にこだわり、終戦間際にソ連の駆け込み参戦を許してしまった。

作家で元外務省分析官の佐藤優氏の話

「崩壊直前ながら、ドイツはインテリジェンス・サイクルが回り、しっかりした分析、情報共有ができていたのに対し、参戦を決めていたソ連に仲介和平の望みを託した日本は、目前の和平工作で頭がいっぱいになり、ソ連参戦情報をノイズ(雑音)と受け止め、抹殺したのだろう。日本は国家として情報を分析、判断する能力が低かった。日本版NSCが発足した今、良き教訓となる」と語っている。

外部リンク[編集]

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