ハプニング

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ハプニングは、1950年代から1970年代前半を中心に、北米・西ヨーロッパ・日本などで展開された、ギャラリーや市街地で行われる非再現的で一回性の強いパフォーマンスアートや作品展示などを総称するのに用いられる美術用語。ハプニングの創始者と言われているアラン・カプローによると「きまった時間と空間の中で演じられる点では演劇に関連をもった芸術形式」。

最初の「ハプニング」[編集]

アラン・カプロー1959年ニューヨークのルーベン画廊で行った『6つの部分の18のハプニング(18 Happenings in 6 Parts)』という催しが、最初に「ハプニング」という名前を使ったイヴェントだった。

まずカプローは、ニューヨーク・メトロポリタンの住民に、ルーベンとカプローの連名で手紙を送った。「18のハプニングが行われます」「アラン・カプローがそれらの計画を実現するのに協力していただくべく招待します」「75人の参加者のうちのひとりとして、あなたはハプニングの一部分となるでしょう。同時に、あなたはそれを体験するでしょう」

画廊の中に木の枠を組んで小屋を作り、それを半透明のビニールシートで3つの部屋に分けて、その壁のところどころにタブローを吊るす。それぞれの部屋に椅子を大量に並べ、異なる色で点滅する電灯で照らす。その部屋の中で、カプローを含む6人の芸術家がカプローの書いたシナリオに沿って、入念にリハーサルをしたのちに、それぞれのアクションを行うというイヴェントだった。

このイヴェントは評判を呼んだ。タイトルの一部でしかなかった「ハプニング」だったが、そのアクションまでもがハプニングと呼ばれるようになり、さらには一般化し、ある種の芸術形式として定着した。

その後、アル・ハンセンキャロリー・シュニーマンクレス・オルデンバーグジム・ダインジョージ・シーガルレッド・グルームスロバート・ホイットマンなどの画家が様々な形式のハプニングを展開していった。

ハプニングは特に抽象表現主義の画家に愛された。抽象表現主義が爛熟し、アクション・ペインティングを超えたサムシング・ニューを追求しようという情熱と、ジャンク・アートのオブジェ性と卑俗性などの要素が複雑に絡み合ったこのアクションは、ひとつの芸術的な転換期にある画家にはひどく新鮮に映ったのだろう。しかし、多くの画家はハプニングを行うことで自らの「本来の作品」の着想を得た後、徐々にハプニングから離れていった。

変貌するハプニング[編集]

ハプニングの起点はアラン・カプローの、ジャクソン・ポロックアクション・ペインティングへの多大な関心にあった。(1.ペインティング Painting)カプローはそれを展開してアクション・コラージュを考案した。(2.アッサンブラージュ Assemblage)それにさらに空間的な要素を追加した。(3.エンバイラメント Environment)そして出来上がった「描く自分とその対象物」という構図はわずかにスライドし「自分と様々な物質の相互作用」という構図に落ち着いた。(4.ハプニング Happening)

空間的な要素を追加するきっかけになったのは、1958年にカプローが学んでいたニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチジョン・ケージの講義を受けたことによる。(同じクラスに、アル・ハンセンジョージ・ブレクトディック・ヒギンズなどがいた。)

カプローは、演劇やゲーム、あるいはスポーツといった既存の概念を避けるように心がけ、イベントを数多くこなしていく間に「自らのハプニングの定義」を明確にしていったが、ハプニングは様々な芸術家に愛されていく中で、少しずつその概念や役割を変えていった。

音楽家のハプニング

演技や個性のドラマティックな表現の否定。アクションの起点となる楽譜を「正確に」緊張に耐えてアクションを遂行する。(ジョン・ケージ一派、ラ・モンテ・ヤングなど)

舞踊家のハプニング

ハプニングの瞬間的衝動に基づく行動を定型の舞踊に持ち込み、その境界を揺さぶる。ジャディソン教会ホールを中心に「ダンス・イヴェント」の名でさかんに行われた。(アン・ハルプリンイヴォンヌ・ライナーロバート・モリスなど)

演劇人のハプニング

1964年、イギリスのエジンバラで行われた国際演劇会議の「未来の演劇」の日に、ケネス・デューイは会議そのものをハプニングにしてしまった。(後にフルクサスが行う『フルクサス会議』のさきがけといえる)

反芸術の意図でのハプニング

物体の破壊や恐怖で観客に「もっとアクティブになれ」と挑戦する。西ドイツの「デ・コラージュ」(ヴォルフ・フォステルナム・ジュン・パイク

フルクサスのハプニング

当初は「芸術と日常の垣根をなくす」という反芸術的な意図でハプニングを用いたが、メンバーの多さ・曖昧さ・リーダーへの反発などの様々な理由で徐々にメンバーそれぞれの特徴をもったハプニングが生まれるようになった。演劇やゲーム、あるいはスポーツといったカプローが避けていた概念を持ち込み、ユーモアにあふれたハプニングを展開した。また、ハプニングとは別の「イヴェント」という表現活動も行った。

世界のハプニング[編集]

フランス

1960年頃から、詩人のジャン・ジャック・ルベルを中心に。また、ベン・ヴォーティエのメール・ハプニング。

チェコ

ミラン・クニザク

オランダ

シモン・ヴァンケンヌーグバルト・ヒューゲスマリーケ・コーゲル

日本

1950年代のはじめの吉原治良を中心とした具体美術協会のアクションをひとつの表現とみなした活動。 1960年代のテレビ番組「木島則夫ハプニングショー」で「ハプニング」という言葉が流行。 草月ホールアングラとの結びつきなど。

影響・評価など[編集]

ハプニングはパフォーマンスアートインスタレーションに大きな影響を与えた。また、日本と米国においては、同時代に盛んだった市民運動や反戦運動、学生運動などのカウンターカルチャーと強い結び付きを得て、しばしば行政当局に事前の許可を取らないゲリラ的活動をとった。そのため、若い世代には「ハプニングは全てゲリラ的活動」という誤解が蔓延っている。

一般にハプニングは物事を予期しない方向に連れて行き退屈感を緩和するということで、管理されたセリエル音楽や偶然性が強い不確定性の音楽と一定の共通点がある。ただし、このハプニングという「技法」は音楽などの再現芸術にとって普通一回しか有効ではない。

参考資料[編集]

  • 美術手帖 1967年5月号、1968年8月号 ハプニング特集

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