デスマーチ

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デスマーチ とは、プロジェクトにおいて過酷な労働状況をいう。特に納期などが破綻寸前で関係者の負荷が膨大になったプロジェクトの状況を表現するのに使われる。死の行進死の行軍等とも言う。また、ソフトウェア産業に限らずコンピュータが関係する一般的なプロジェクト全般で使われるようになってきた。

概要[編集]

デスマーチとは、長時間の残業徹夜休日出勤の常態化といったプロジェクトメンバーに極端な負荷を強い、しかも通常の勤務状態では成功の可能性がとても低いプロジェクト、そしてこれに参加させられている状況を主に指す。

プロジェクトが死に向かう過酷な状況でメンバーが行進する、という意味で「デスマーチ」と呼ばれる。メンバーは心身ともに極めて重い負担を強いられるため、急激な体調不良、離職、開発の破棄ともとれる中途半端な状態での強引な納品、場合によっては過労死過労自殺に至る。その発生要因はプロジェクトに対するマネジメント(プロジェクトマネジメント)が不適切であることとされている。

「デスマーチ」という言葉を広めたのは、エドワード・ヨードンであると言われている。ヨードンは、その著書『デスマーチ:なぜソフトウエア・プロジェクトは混乱するのか』で、デスマーチの定義を「プロジェクトのパラメータが正常値を50%以上超過したもの」もしくは「公正かつ客観的にプロジェクトのリスク分析(技術的要因の分析、人員の解析、法的分析、政治的要因の分析を含む)をした場合、失敗する確率が50%を超えるもの」としており、具体的には以下のいずれかに該当するものと定めている。

  1. 与えられた期間が、常識的な期間の半分以下である
  2. エンジニアが通常必要な人数の半分以下である
  3. 予算やその他のリソースが必要分に対して半分である
  4. 機能や性能などの要求が倍以上である

デスマーチ状態の解消には困難を極める事が多く、予算や設定納期などプロジェクト内部のメンバー以外の要因も多く絡むため、メンバーのみの努力での解消もほぼ不可能といえる。そのため、長時間残業が常態化することによってデスマーチを当たり前のように感じ、デスマーチに甘んじる負の循環が生まれる。さらに、極度な長時間労働それ自体がプロジェクトメンバーの「努力している」「労働している」という自負心を励起するため、あたかも奴隷が自分に繋がれた足かせの重りを自慢するかのように過酷な残業を自慢する傾向が見られる場合がある。

ソフトウェア産業におけるデスマーチは、「デスマ」という略語が存在し広く通じる程にある意味では普遍的なものであり、プロジェクトがデスマーチの状況に陥ることを「デスマる」と称することもある。

2004年【軍曹が】携帯電話開発の現状【語る】[編集]

俺たちは、仕様も知らされぬまま横須賀に送り込まれた。

依頼主も孫請けらしく、正確な情報はかなり伝言ゲーム的にそれも口頭でしか伝えられない。

俺たちは、経験5年の軍曹1人と、経験2年の上等兵1人と、新人の2等兵3人の小隊だった。現地に就くなり、現場は火を噴いた有様だった。果てしないデバッグの果てに納期を過ぎてペナルティなのか要求項目が倍増したらしいのだ。俺たちが派遣された場所の前任者(というより部隊)は全員ウツになって戦線離脱したらしい。引継ぎも全く無いまま、というよりドキュメントらしい物も無かった。

俺たちが最初に与えられた任務は、10万行に及ぶスパゲッティ・コードを「ちゃんと動くものにする」事であったが、仕様は何度問い合わせても、問い合わせが上位会社へ何段も口頭で伝えられるうちに伝言が自然消滅してしまうようだ。

俺たちには真上の階層の会社の担当者しか知らされておらず、現地で他のチームの者と口を聞く事も一切許されていなかった。ただ、スケジュールだけは何があっても遵守せよと通達された。しかし、仕様は何時まで経っても伝えられなかった。ただ、目の前の大盛りスパゲッティはスケジュールにとても収まりそうになかった。俺たちと唯一連絡の取れる上位の担当者も、既に何日も寝ていないらしく、何かちょっと込み入った質問をすると容易にハングアップしてしまう。指示内容は1日平均5回は変更された。

まず、仕様書が無い。

上に問い合わせてもまともな回答が帰ってくるのは1/10程度の割合だし、問い合わせ件数が増えると回答率も著しく下がった。仕方ないので、スパゲッティ・コードを解読してノートに機能を図示しながら理解を進めていくが、変数名もval0, val1, val2のように取って付けたようなものが大半を占め、何をする機能なのかさっぱり分からなかった。

担当する機能の最上位関数を見つけるのに1週間かかった。その時はS上等兵が歓喜の叫び声を上げたものだ。ノートは1日で平均2冊が消費された。準備してきた物が10冊だったから6日目の朝に売店に買いに行った。

ようやく関数群の体系が掴めてきた(大半がfunc001, func002のような命名)ところで、俺たちは仕様書変更レビューに呼ばれた。質問は上位会社の担当者を通じて口頭で伝えるしか手段が無く、延々と14時間に及ぶレビューでは俺たちに発言権は無かった。

やはり、仕様書にはfunc001, func002のような名前の関数は初版から存在していなかったようだ。変数に至っては、グローバル変数のあまりの多さに、その規模を掴むので精一杯だった。他のチームの顔色を窺うと、今回の仕様変更はミドルウェアとアプリを根底から揺さぶるドラスティックなものであったらしい。俺たちはこの時にスパゲッティを廃棄する決断をすべきだったのかもしれない。それを上位の担当者にきつく禁止されていたとはいえ、その決断を見送ったのが俺たちの地獄の始まりだった。

派遣から2週間後、俺たちは本部に援軍と再見積もりの要請を連絡した。しかし、「依頼元との連絡が極めて難しい状況なので、今はまだガマンしてくれ」の一点張りだった。2等兵たちは祭りの意味も変わらずに闘志を燃やして興奮している。3週間目には、上位会社のSE達数人が集まって、深刻そうな顔をしていた。隣のチームがまた一つ潰れたらしい。状況を聞こうと上位SEに近付くと、厚さ3センチに及ぶ「バグ報告書」を抱えて走り去っていくところだった。

「お願いします。ソースを1から作らせてください」
「駄目だ。今あるものを最小限の変更で動くようにするのだ。」
「無茶です!」
「分かってくれ。他のチームとのインターフェイスをこれ以上変更できないんだ」

俺と上位担当者とのやりとりを、配下の上等兵達が心配そうに見つめていた。

インターフェイスとは、最上位関数のインターフェイスだけではないのだ。スパゲッティの中には多くのグローバル変数が操作されている。他のチームも度重なる仕様変更の末に、当初は整然としていたソースが俺たちの請けた物と同じようにスパゲッティ化しているという話だった。

4週間目、俺は本部に残業代の申請をしたのだが、「もう少し待ってくれ」の一点張りだった。上位担当者が倒れて1週間、俺たちはプロジェクトの中で盲目となった。隣の新しいチーム(そこの後続部隊)では、連日ローカルな仕様変更が口頭で伝えられてくるようで、着任早々に祭りになっていた。俺たちの担当ブロックも、何らかの仕様変更に晒されているはずだったが、連絡は全く来ない。

情報が途絶えてから2週間後、上位会社の担当者が突然替わった。理由は一切知らされず、業務の引継ぎも無かったらしい。新しい上位担当者は俺たちから情報を集めて仕事を始めた。プログラム経験は全く無いそうで、技術的な話になると俺たちの言葉は通じなかった。

派遣開始から1ヵ月半が経ったが、業務上の連絡手段は相変わらず口頭と紙切れメモぐらいで、メールのアカウント申請も伝言ゲームの途上で自然消滅してしまったようだ。上位会社の担当者は俺たちに構っている暇は無くなり、現場に来ているのかもしれないが、机にはカバンが置いてあるだけであった。

噂を立ち聞きすると、山のようなバグレポートの事務的処理に追われているようだった。しかし、そのバグは俺たちの前任部隊の頃のもので、あれから仕様の大幅変更が入っているはずだった。しかし、当時のバグレポートの事務処理を終えてからでないと俺たちの版数からのバグには対応できないとの事だった。

テスト要員チームでも、テスト仕様の変更頻度が彼らの業務処理能力を大きく上回り、前任部隊のバグによるバグレポートを尚も増殖しているところだった。俺たちのコードはその後回しにされていた。

数日後、上位会社の担当者が仕様書を持ってきた。俺たちの知らない内に、版数がメジャーで5つも上がっていた。

まず、グローバル変数の大幅な見直しがあった。共有データの仕様が大幅に変更されていた。基本クラス内で使用する殆どのメンバ関数の中で、それを参照するように仕様が変わっていた。参照だけでなく、更新もするのだ。

しかし、最上位でオブジェクト間の依存関係を説明する個所が、初期バージョンで暫定的に抽象的にかかれていた時のままなので、今回の変更がどの程度の規模なのか分からなかった。ただ、関数の一覧リストがまた一新されていた。

スケジュールは当初の予定のまま、固定されている。この件については、上位会社の担当者に何を問い合わせても無駄であった。

ホテル生活が始まって2ヶ月が経った。その間、1度も群馬には帰れなかった。土日はすべてスケジュール回復対策会議のようなものに駆り出されて、膠着状態の会議に何時間もの間、発言権も無くただ同席させられた。

さすがに2等兵たちは週末には帰らせた。夏になると横須賀の海を楽しんで気分転換をしてくれているようだった。

「今を、その一瞬を今のうちに楽しんでおいてくれ」

俺達は思った。会議では、俺たちの担当ブロックの仕様を根底から覆すような方針が、一時的にとはいえ何度も打ち出されると、冷や汗が出た。10万行に及んだスパゲッティは、俺たちの日夜の努力によって5万行にまで減った。ここへ来て、コメントが普及してきた。そう、俺たちが手がけるまで、コメントなんていうものは全く無かったのだ。

今年は暑い夏だな、俺は深夜に外を歩いている時にちょっとした目まいを感じた。睡眠時間は何とか4時間程度は確保できているが、これだってかなり無理をして確保しているのだ。

何時の頃からか、アプリの担当チームとドライバの担当チームが、上位会社を通じて直に情報連絡をするようになってきた(相変わらず口頭ベース!)。

ミドルウェア部隊がバグレポートの大量発生を起こして、事務処理の為にハングアップ状態に陥ってしまったのだと聞かされた。アプリとドライバのインターフェイスの擦り合わせが始まると、俺たちのブロックは最上位関数からまず歪なものになっていった。バグが出たらその発生階層がトレース出来ないという状況に陥って既に1週間が経った。そんな状態になってから、カーネルの仕様変更にもかなり振り回されるようになり、自分でも何が基準なのかが本当に分からなくなってきた。

何が基準、いや、何が本当の仕様なのか?それすらも確認する手立てが無くなった。担当チーム毎に主張する「仕様」が異なり、それを調整する部門も機能していない。現場は混乱、というより混乱の内容すら正確に把握できている者がいなかった。少なくとも、俺たちがコミュニケーションを許されている範囲では。

この期に及んでも、下位の関数すら1からの作り直しは許されず、既存のコードを編集して直すようにとキツク言われていた。修正個所では必ず元のコードをコメントアウトして残すように言われていたが、それを口頭で伝えられた頃にはスパゲッティのサイズが既に1/2に縮まっていた。俺はその事実を上位会社の担当者に伝えた。

数日後、伝言が口頭で伝わってきた。俺たちが派遣されてきた当初のソースを、全てコメントアウトされた形でソース内に復元させろ、とのお達しだった。

「そんな、無茶ですよ。ソースの可読性が損なわれます!」
「至上命題だ。戻せ。コメント形式で。」

その一言のために、俺たちは丸々1週間、ソースの復元作業に追われた。もはや合理化した個所ですら可読性は原形すら残っていなかった。全てをやり終えたとき、俺たちには疲れた笑いが溢れた。久々に表情筋が動いたのか、非常にぎこちなくなっていた。それでも上位会社とその更に上の者達よりはマシな顔だった。彼らは全くの無表情、というか、強迫観念に駆られた顔であった。

最初に壊れたのは2等兵だった。折角5万行程度にスッキリさせたソースに前のソースを復元させるヴァカげた作業のお陰でソースは一気に15万行程度になってしまった。旧版をコメント行として全て復元させられたのは初めての経験だった。その頃から2等兵の顔つきが怪しくなってきた。そのソースを提出した翌日、コンパイル担当の者(朝から晩までコンパイル!)から伝言が伝わってきた。

「ダブルスラッシュなコメントは禁止だと伝わっていなかったのか?」
「は?」

丁度俺は仲間全員分の出張旅費の清算の為に群馬に戻っていた。上等兵は別件で突っ込まれたドライバの改造作業にハマリ込み、コメント行の話は2等兵達に直接指示が行った。彼らはそれを全て「手作業」で対処した。

俺は出張旅費の生産を終えて皆が立て替えた宿泊費(1人10数万円)を手に、YRPへ戻ってきた。電車の中では久々に熟睡した。目覚めた時はカバンの中の現金を何度も確認したものだった。

ホテルに戻って出張旅費を皆に配ると、疲れが溜まって俺は眠り込んでしまった。翌朝目が覚めてみると集合場所には上等兵しかおらず、仕方ないので残りのメンバとは現地で落ち合うことにした。始業時間になっても2等兵の姿が見当たらなかった。上等兵たちもワケが分からない顔をしていた。

やがて上位会社の担当者が来ると、とにかく何でもいいから昨日頼んでおいたコメント行のダブルスラッシュ修正をやり遂げてくれ、と頼まれて俺は自作のプログラムを久々に使って変換作業を片付けた。変換済み個所が1割くらいスキップした事は気にしていなかった。俺は隙を見て廊下に出て、ホテルに電話を入れた。

「ヌルポさんとデスマさんは今朝早くにチェックアウトしておりますが」

ついに脱走兵が出た。脱走兵が出ると、依頼主からの厳しいペナルティが課せられる。それからというもの、俺たちは脱走した2等兵の分まで作業ノルマをこなさなければならなかった。翌日上司に電話すると、「辞めたよ。」の一言だけ聞かされて切られた。「2人ともですか?」という俺の声が届く前に切られた。

折角ウィークリーマンションを確保できるように会社と交渉してきたというのに、脱走兵が出たという事で俺たちはそのままホテル暮らしを命じられた。毎日朝は駅前のハンバーガー屋だし、このところ体の調子も少しおかしい。何と言うか、太ってしまった。

現場では2等兵の事を思い出す頻度が減ってきた。それぐらい忙しくなってきた。この頃から仕様書が改版されても読まなくなってきた。どうせ数バージョン前のが遅れて届いたんだろうし。上等兵たちもそれぞれ版数の異なる仕様書を愛用し始めてきた。ところどころ都合の良いように自分で赤ペンで書き換えているし。何か、少しずつ歯車が狂い始めてきた。

そういえば、上位会社の担当者も1週間ほど顔を見なくなってきた。彼の同僚に聞くと「変ですね。夏休みは取っていなかったはずですが」と返ってきた。

ハード屋の方で珍しく祭りが起きていた。

いや、普段から祭りのようなのだが俺たちが気付いていなかっただけだった。何でも、ブレッドボードの作成&評価日程がスケジュールから押し出されて、一気にハードだけでも最終製品に仕上げてしまうとの事だった。俺にはそれはどれほど大変な事なのか分からなかった。所詮はハードの話だ。

所詮はハード、俺たちには無関係。そう思っていられたのは、ES製品のASIC(プロセッサ内臓)に付いているはずのJTAG-ICE端子が基板設計ミスによってボード上に繋がっていなかったと知るまでの間だった。

「ICEが繋がらない?」
「端子にジャンパ線繋げれば出来るはずだろ?」
「それがBGA品なんです。ジャンパは不可能です。」

それを横で聞いている時には、意味が分からなかった。

翌日から、ハード屋が職人部隊となった。あのきめ細かいボードに何やら改造を加えて、何でもASIC実装前にジャンパ線を付けているようにも見えたのだが。

とにかく、デバッグ用に予定していた台数に全然足りないのだ。俺たちの割り当て10台も、1台を手に入れるのが精一杯だった。それもちょっと衝撃を受けるとICEの接続が断線してしまう有様だった。

「こんなの使えるか!」と次々にソフト屋はハード屋にケータイを叩きつけた。彼らも数日寝ていない。暴言に無反応であった。最後に、上位会社のその上の会社のSEが来て、デスマで疲れきったハード屋(尚も半田付けで忙しい)の前に座り、一言。

「あんたたちさぁ、やる気あんの?」少しだけ沈黙の間があった。

ハード屋は黙って、その上位SEの手の甲に半田コテを押し付けた。

「うぎゃぁぁぁぁああああああ!」

それを火蓋に、ハード屋とソフト屋の乱闘が始まった。

「ざけてんじゃねーぞ。ゴルァ!」
「上等だ、コラァ!」

こんな現場を上位の上位の会社の人に見られたら…なんと彼らも当事者になって暴れていたのだ。

「軍曹!この場はひとまず逃げましょう」鼻血を流した上等兵が脱出を提案した。俺も殴られている最中だったが、彼の提案に従ってその場を離れた。足にしがみ付く奴がいて、よく分からずに蹴りを入れて逃げた。

喫煙室に行ってタバコに火をともす。よく見たら上等兵の鼻が折れているように見えた。俺は指を差して教えた。彼は笑った。苦笑いだった。途切れ途切れな笑い声は、次第に泣き声へと変わっていった。そしてしゃがみ込んで嗚咽し始めた。夕日の眼にしみる喫煙室にいるのは、俺たち3人だけだった。

俺は窓際に立ち、尾崎豊の「街路樹」を歌い始めた。

翌日、緊急会議が開かれ、俺たちを含めた開発関係者一同が大会議室に召集された。昨日の騒動の件だった。無理も無い。

しかし、吊るし上げられたのは乱闘から離脱した俺たち3人だった。業務時間中に現場を抜け出して喫煙室でサボッていた事を責められた。現場に残っていたって仕事どころではなかったハズだ。

午後になって鼻の治療を終えた上等兵も合流し、俺たちは一応業務を再開した。ここへ来てから作った20冊のノートの半分がゴミ箱の中で燃えカスとなっていた。ケータイ端末も10個ほど砕かれて捨てられていた。

最大のダメージは、レンタル品のICEの破壊であった。誰だ?こんなコトをしたのは。ハラワタが煮え繰り返る思いだった。

次の日になると、皆乱闘の事を嘘のように忘れてデバッグを再開した。ハード屋は、割れたメガネを嫌味のようにそのままかけていたが。

俺たちの仕事もあの酷いスパゲッティから随分苦労してやっと動作可能なものに仕上がってきた。後は異常系の試験だ。障害発生の半分は仕様制限で許してもらえるので、少し気が楽になってきた。反面、再現性の極めて低いバグに遭遇すると、目まいがするものだ。

次に出張旅費の清算に戻った時には、ガラクタ置き場にされていた俺の机の引き出しに何やら包み物があった。

「?」

俺は警戒しながら封を開けてみた。

中にはワイヤレス光学マウスが1個入っていた。手紙もあった。

「軍曹殿。この度は戦線離脱の非礼を申し訳ありませんでした。自分にはあの地獄は耐えられませんでした。ただ、軍曹殿には本当にお世話になりました。いつも僕たちを人間扱いしてくれたのは軍曹殿だけでした。これはほんの気持ちです。軍曹殿は現場でいつも朝一番にマウスの動きが渋いって愚痴をこぼしていたので」

2等兵の1人は、夏の寸志の全額を使って俺にマウスをプレゼントしてくれた。俺はガラクタ置き場の机の前で、暫くフリーズしていた。

デバッグも後半に差し掛かってきたときに、上位会社の担当から例によって口頭の伝言が届いた。

「ミドルウェアのデバッグが完了したから、アプリも対応して修正するように」
「は?」
「そうそう、修正する時は修正前のコードを全てコメント行にして残す事を忘れんようにな」

ミドルウェアの仕様書が手渡された。インターフェイスは跡形も無く変わっていた。

「あの、まるで別物に見えるんですが」
「ああ、今一番先端を行くミドルウェアだ。研究所で開発したばかりなんで、分からない事があっても俺たちに聞かないで欲しい」

それから2ヶ月、ハード屋達に

「ソフトが遅れちゃ俺たちの努力も報われないよな」

と罵られながらも新ミドルウェア対応にアプリを修正し、デバッグに勤しんだ。あれから俺には、ハード屋の手にする半田ごてが武器に見えてしまう。彼らがそれを手にしている時は、臨戦体制に違いない。刺激してはならない。

新ミドルウェアに関して質問すると、情報伝達の経路が長くなったのでレスは極めて悪い。質問への回答は2週間たって1/20の割合でしか帰ってこない。上等兵たちはソースを読んで対処しているので、俺もそうするようになった。

新ミドルウェアへ置き換えてからというもの、ケータイの操作感が著しく重くなった。メニューの切り替わりの遅さが絶え難い。

「ちゃんとメモリ管理をやるとこうなるのだ。軽くサクサク動くケータイのメモリ管理は皆インチキだ。あれじゃあいつかハングアップするに決まってるさ」

ようやく説明に来てくれた上位の上位の上位の会社の研究所のヤツはそう言った。ミドルウェアの立ち上げ期間中、その研究員がいてくれたのだが、言っているコトがチンプンカンプンで半分以上分からなかった。

上位会社の担当から口頭で聞かされたのだが、ASIC内のプロセッサのメモリ制御にバグがあってそれで速度が低迷していたらしい。改善されれば処理速度が2倍になるのでその分ソフトも安定性の良い手法で開発できるようになったんだ、ありがたく思え、と。

しかし、情報が依然まともに伝わって来ないし行かないので、デバッグはなかなか進まなかった。隣の部隊に届く仕様書と時間差があって、マイナーバージョンで5ぐらい遅れているのだ。そのくせテスト時には、俺たちブロックにバグが多い事を責め立てられる。ICEの臍の緒が切れるたびに、あの嫌味なハード屋のところへ頭を下げて直してもらいに行く。作業中ずっと嫌味を言い続けるのだ。

研究所の連中が予定を終えて引き上げる時に、言われた。

「君たちにはちょっと難しすぎたようだね。もうちょっと勉強した方がいいんじゃないの?」

関係無いの隣のチームの奴等も笑った。机にある仕様書の版数は、俺たちのよりもメジャーで1つ先を進んでいるみたいだし。それは見なかった事にした。

翌日、上等兵たちが隣のと同じ版数の仕様書を手に入れていた。仕様書は俺を通してでないと彼らの手には渡らないはずなのに。不思議だ。昼食の時に上等兵が言った。

「あの嫌味ったらしい奴らの仕様書と、俺たちのとスリ替えてきましたよ。ちゃんとコピーして数も合わせてあのチーム皆のをスリ替えたから、誰も気付きませんよ」

それから2~3週間の内に非難の矛先が変わっていったので、俺は会社に対する業務進捗報告で上等兵たちを高く評価して記録した。何だか自分まで共犯者になった気分だ。上等兵たちは仕様書のスリ替え工作を日常的に続けた。

そして、ある日現行犯でバレた。

事態を打開する為に、緊急会議が開かれた。テスト要員を一気に5倍に増やして、人海戦術によるデバッグが賢明だとトップが判断した。トップって社長ではないのだが、俺の会社の上位の上位の・・・に位置する本部長なので、とっても偉い。俺たちの身分から見たら、与党の政治家並かもしれない。

しかし俺たち兵士には選挙権すらないのだ。なぜなら、選挙の日は必ずデスマ生活を送っているからだ。そんな衆議院議員並みの政治力を持った本部長(以下、少将と呼ぶ)が決めた方針なので誰も逆らえなかった。

すぐにも近隣の都市から派遣社員の吸い上げに入った。派遣会社も今までに無い大盛況なので、経験の有無を問わずにフリーターまで含めて確保に走った。すぐにも現場は雑兵で溢れ返った。開発現場では猫の手も借りたい状況なので、面接中もヘッドフォンステレオとサングラスを外さないスキンヘッド野郎ですら雇われた。

その人数に対してテスト仕様書を配布して理解してもらうのは、非常に労力を要した。配布して説明しているそばから改版が行われるので、1日に何回も長蛇の列になった。中には、並ぶのが面倒くさくて、ゴミ箱から「お下がり」を拾ってきて、版数だけ上手に書き直して使っている者も少なくなかった。

俺たちでさえ最新の仕様書にあり付くのは難しく、常にメジャーで1つ以上古い版数だった。前に他のチームの仕様書を盗難した前科があったので、その辺を物色しているだけで嫌な目で見られるようになっていた。奴等はまず言葉がなっていなかった。

「Hey!旦那、バグ報告書ってどう書いたらいいッスか?やっぱ、パソコン使って書けなキャいけないッスか?…え?まじッスか?」

奴等がケータイの新機種で遊べる、という幻想から目覚めていく様はそれなりに面白かった。徴兵制の無い日本では、こういった戦場でも体験しておく事が必要だ。

奴等は本気で、ケータイで出会い系サイトにタダでアクセスし放題、という職場環境を期待していたようだった。上位会社も奴らのタコ部屋に設置するPCを非インターネット環境にしていたようで、その措置だけは珍しく賞賛に値した。それでも、PHS繋いで自費でエロサイトにアクセスしまくっている者が数名いた。

バグ報告書にネタを書きまくる奴等がいたが、最初の1週間で粛清された。テスト要員が本来の目的で稼働できるようになるまでに、およそ3週間がかかった。上位会社が人脈を辿って体育会系の社員を要所要所に配置し、インパール作戦の準備を手際よく進めてくれた。逃げたいヤツは早めに逃げておかないと、体育会社員はプロジェクト完遂までタコ部屋の管理を命じられているので、非常に後悔する事になる。

「まじッスか?」という言葉はその体制が敷かれて2日間で死語になった。奴等が言葉を発する最初には必ず「押忍!発言させていただきます!」が付くようになり、気を付けの姿勢を取るようになった。バグ報告書が床に散乱していると、積極的に「自分がやるであります!」と片付けや整理をしてくれた。体育会連中が初日に施した「研修」の内容が気になったが、業務が相変わらず祭り状態なので俺たちは気にする余裕も無かった。

ただ俺たちも、寝不足続きで寝坊による遅刻をした日には、敷地内を何キロも走らされた。上等兵は「軍曹殿、何か不思議な感覚が宿ってきますね」と活気付いた。俺も同感だった。そんな思いはすぐに伝わり、俺たちは間もなく彼らの手先となっていった。

作業用のPCが古い。とにかく古い。Windows98マシン(PentiumPro 200MHz)でHDDは4GBしかないのだ。マシン自体はWindows95時代のもので、OSだけアップグレードしたものらしい。メモリは32MBである。それでMS-Office2000がフルにインストールされている。肥大化した各種仕様書を開くだけでも重いので、もし何か編集しようとすればたちまちフリーズしてしまう。

そんなマシンでアプリの開発をしているのだが、専用の開発ツール(一応、統合環境という事になっているらしい)は新しいPC環境上で作られたらしく、俺たちに割り当てられたPC上では非常に重い。

デバッグ操作で動作エミュレーションができるのだが、その機能が何よりも重く、なんだかんだとICEを使っての評価になってしまう。上位会社と付き合いの深いソフト会社では、FULL-ICEを与えられている者もいるのだが、そういう者に限ってソフト開発の何たるかを知らずに、ひたすらICEを駆使した力技によるデバッグでプログラムの作成を進めているのだ。信じられない事に、デバッグしながらソースを書き進めているのだ。

俺たちは安価なJTAG-ICEのみで、それも5人に1台程度しか割り当てられていない。言い忘れたが、FULL-ICEを使える階級の連中にはデバッグ用の評価ボード(ハード屋が信号測定をできるようにスケールアップした実験用のボード)が1人1台割り当てられていて、何も不自由なく例のデバッグ型コーディングを進めているのだ。そんな手法でも、手下の派遣社員たち…奴等には派遣社員も技術者レベルが与えられている!!がソース→ドキュソメント変換作業を担っているで、上位に対しては非常に見通しの良いアウトプットができるのだ。

反面、俺たちはエミュレーションも実機評価も自分達では満足に出来ないので、最初に設計ドキュソメントを精密に描いて、仲間内で綿密に検討してからコーディング、正確には既存のソースの修正なのだが、を行っている。

勤務時間中にドキュメント作成は許されておらず、深夜にホテルの部屋で眠い目をこすりながら自前のノートPCで打っている場合が多い。上位からは仕様書の配布がいい加減なのに、俺たちの修正したプログラムに対するドキュメント要求のレベルは非常に高かった。書式も、技術雑誌のカラーページと比較して遜色の無いレベルで見栄えを要求されたので、俺たちは雑誌の出版社への転職スキルが身に付くのではないかと、苦笑いしたものだ。

使用しているPCのHDDがとにかく切迫しているので、HDDの増設できればPCの入れ替えを何度か上位会社に要求したのだが、それらは開発費として支払った中から捻出するようにと言われた。

JTAG-ICEのレンタル費用すら半額はうちの会社の負担となっていて、それがそのまま俺たちのボーナスに反映されているのだ。つまりもう俺たちのボーナスから削るものがなにも無くなってしまったので、会社も何も用意してくれなくなった。

PC等の固定資産設備を申請するのは最上位会社ですら手続きが厳しく、申請時の機種を半年から1年後に取得できる有様なのだ。当然、俺たちの声は伝言ゲームの中でフェードアウトしてしまう。更に、どうやらハード部隊が大掛かりな設備申請を上位の政治力によって無理やり通してしまったらしく、そのしわ寄せが俺たちにまで及んでいるのだ。

奴等は何を買ったのか?

最上位会社での数ヶ月に及ぶ協議の結果、ハードとソフトを協調してシミュレーションできる開発環境が必要となったそうだ。しかし、それにはUNIXマシンとHDDレイドが必要になるらしく、その予算が予想を越えるものだったのだ。まず、UNIXマシンは社内の不要マシンをチューンナップして使う事になったそうで、その場合HDDに最新機種を使えず、 旧型の低容量の物を数多く集めて構築するらしいのだ。

わざわざメーカーと交渉して旧機種の在庫を最新機種をはるかに上回る価格で調達したのだ。40GB分を調達するのに俺たち兵士の月給3人分以上がかかっているらしいのだ。

ハード部隊ではCPUを含めた機能の全てをASICに入れているわけだから、ハード&ソフトの協調シミュレーションも理論上は可能である。ハード部隊とソフト部隊の根強い対立を打開しようと、最上位会社で何ヶ月もかけて検討したシステムらしい。そこで俺たちのソフトを完全体にして動作できるらしのだ。祭りを収束に向かわせる画期的なシステムだと、誰もが信じた。

シミュレーションの規模も大きいので、ハード部隊主催で派遣社員をかき集めたシミュレーションチームが結成された。人海戦術&体力勝負の開発現場に改革が起こる事を期待した。

その画期的なシミュレーション・システムが稼働して翌日の事だった。

「何?全系のシミュレーションをかけると実時間で20msまでしかテストできないだと?」

上位の上位の会社の部長(全体の中では「少佐」に相当)が朝から叫んでいた。20msしか再現できないとは、俺たちの部隊のデバッグしているアプリの起動準備すら出来ていない段階であった。問題の本質はハードディスクの容量が厳しいとの事であった。そう、シミュレーションで再現する時間の20msでディスクが一杯になってハングアップしてしまうのだ。その20msの再現まででも丸々1日かかるらしい。ハード屋は20msを一晩で処理できるのは画期的だと弁解していたが、期待していた俺たちもどうかしていた。

「すぐにもディスクを増設するのだ」少佐が唱えたが、「無理です。設備の予算申請手続きに半年以上かかります!」と大尉が返した。

今回のシステムにしても、大尉が膨大なレポートを作成して予算の申請に1年前から取り組んだ結果なのだ。ようやく申請が通る時期になって、より安価な新型機種への変更が許されなかったという事務処理上のハードルについては、もはや誰も口にしなかった。

俺たちは、ソフト開発部隊1個中隊のPCをリニューアルできる予算を投じたUNIXマシンを半ば呆れ果てた顔で眺めていた。瞬きよりも短い時間をシミュレーションするのに1日~2日もかかるとは。Linuxマシンにして安価な高性能システムを構築するなんて言ったら、上層部を説得するのに2~3年は優にかかる、と少佐殿はおっしゃった。

ハード部門のシミュレーション技術開発部の中尉が、それでも可能なテストについて必死に説明していたが、少佐の一喝で黙ってしまった。

画期的なシミュレーション・システムは、半年後にハードディスクを増設してから利用する事になり、暫くの間はその存在を忘れる事ができた。ハード部門の中尉が「半年後にはSystem-Cを使ったハード・ソフト協調設計を是非とも提案したいと思います」と言っていたが、誰も耳を傾けなかった。ハード屋に読めるようにC言語を歪めるつもりなのだろう、と俺は解釈した。

俺たちはICEの増設を求めていたが、半年後にUNIXマシンのハードディスクを100GB程度増設する計画の前に、ICEのレンタル費用が早くも削減されてしまった。長引く開発の中で、ハード部門とソフト部門の勢力争いがろくな結果をもたらさない。

結局、俺たちは低レベルなICEの奪い合いに明け暮れるのであった。そして、昨年の長かった夏が過ぎ、秋を迎えた。依然、帰れる見通しは立たない。上等兵達は半年以上も里に帰っていなかった。

たまには、上位の上位の会社の観察報告でもしようと思う。

そこは最上位から1つか2つ下の、かなり高位の会社である。俺たちは滅多な事では彼らと直接連絡を取り合う事はないのだが、つまり、彼らは殆どデバッグルームにも実験室にも顔を出す事は無いのだが、俺達は用があって事務所の席(いつのまにか用意されていた)に行くと、いつもある間接部門の様子を垣間見る事ができるのだ。

不思議な世界だ。同僚とのコミュニケーションがメール主体なのだ。それも隣り合う同僚の間でも交わされる会話は、長くても

「メール出したので読んでもらえますか?」
「分かりました。何かあったら返信します」

だけで済んでしまうのだ。その口調も棒読みで極めて事務的な口調なのだ。休む者は決して連絡をよこさないし、居なくても誰も気付かない。たまに用があって欠勤に気付くと、事務的にスケジュールをシフトするだけなのだ。欠勤者は翌日に黙って年休申請をイントラネット上で処理するだけである。

職場には一応先輩が居れば後輩も居るのだが、先輩は後輩に対して決してコワモテな態度は取らず、必ず敬語なのだ。先輩と後輩の間に言葉の上位/下位が存在しないのだ。紳士的で優しい先輩たちじゃないか、と初めは思ったが、実は、先輩は決して、決して、決・・・・・して後輩の面倒を見る事はないのだ。

新人が先輩に何か質問すると、それが少しでも技術的な内容を含むと、「〇×さんが知っているです」と棒読みの口調で伝えるだけなのだ。自分で直接返答できる内容と言えば、事務処理の手順ぐらいなのだ。

新人の技術教育は形だけは充実して見えるのだが、その実体は関連会社への〇投げであって、関連会社では最前線に立つべき軍曹クラスが業務時間を強引に空けられて、その教育セミナーに講師として駆り出されるのだ。関連会社の軍曹レベルは、それでも業務を決して減らしてもらえる事はなく、無い時間を工面しながら教育カリキュラムを必至に実行している。教育カリキュラムを作成するのは遠く離れた間接部門であって、教育を受ける側の部署の管理職レベルとは全くコミュニケーションが無いのだ。

俺は、そこに自分の常駐机を置かれてから1年間くらいその部署を観察していたのだが、先輩が後輩に何か指導している光景は一度も見たことが無かった。そして、これは上司と部下の関係でも同じだった。紳士的で優しく見える上司や先輩は部下や後輩を決して叱る事は無い。叱る事は無いが、何か問題が発生すると責任は上から下へスルーして転嫁される。上は決して下をかばわない。

部下や後輩がデスマーチ状態になっても、上司や先輩は放置して帰ってしまうのだ。ただ、スケジュール要求のみをメールで通知するだけなのだ。入社3年くらいになると要領を得てくるのだろうが、新人は途方に暮れて派遣社員に教えを請うのだ。派遣社員は嫌々ながらも質問には答え、それでも彼等の方がよほど先輩らしく指導をしていた。

部署としてはアプリ開発のかなり広範囲について最終責任を負う立場にあるらしく、ひとたび祭りが始まると新人を含めた若手社員達の顔が蒼ざめる。

いや、実は元から彼らの顔には全く表情というものが無いのだ。これは決して誇張した表現ではなく、カフェテリアで昼食を取っている彼らの雰囲気はお通夜そのものなのだ。それでも昼食時には数名が固まってカフェテリアへ向かうのだから不思議である。

現役選手であるはずの軍曹~上等兵クラスの社員達は、どんなに祭りが盛り上がっても決して事務所から出る事は無く、常にメールによる連絡か、受けた電話の応対ぐらいである。現場を知る者は居ないのではないだろうか?

俺たちは現場に半分以上の時間入り浸るので、移動する時に頼まれ事を引き受けたりするのだが、それは必ず口頭であった。何故なら、問題発生時に責任の所在を示す証拠を残してはならないからである。

そう、彼らは完全な減点査定主義の元に管理されていて、賞与は管理職が意味不明の計算をして秘密裏に分配比率を決めてしまうのだ。社員達はただ明細を貰ってため息をつくだけなのだ。それでも、俺たちの会社の課長クラスよりは遥かに高い賞与を彼らは貰っていると言う。それも入社3年の時点でだ。俺の会社では課長未満は賞与なしである。

彼らは、入社3年以内に、外注の成果を根こそぎ自分達の手柄として吸い上げて、失敗を完全に外注に被せる為のノウハウをOJT(オンザジョブトレーニング)で習得するのである。

社員同士は上下関係、左右関係全てにおいて信頼関係というものを全く持っておらず、どんな簡単な業務でも他所に責任転嫁の足がかりを確保してからでないと動けないのだ。おかげで、俺たちはメールアカウントを申請しても「その内に対処します」とだけ言われ続けた。1年間に渡って。

日常化したデスマーチに俺の部下の上等兵が倒れてホテルで5日間寝込んだ事があったのだが、3日目に俺が「食事を届ける為に夕方に一度外出させてください」と申し出たところ、「許可を得る為の手続き業務に時間がかかるので、もう3日間待ってください」という返答を受けたのだ。俺が上等兵の身を案じている姿が、彼らには奇妙に映ったらしい。何故そのような余分な気を回すのかと、無表情な顔から棒読みの口調で質問されたものだ。

何かがおかしいのだが、俺達にはその雰囲気に対して発言する権利を与えられていなかった。

俺はたまりかねて夕方の定時後に抜け出し、上等兵の様子を見に行った。ホテルの部屋の中で、彼はすっかり病人の色をしていた。毎朝毎晩、 俺は上等兵の様子を確認しに寄っていたのだが、いつも彼は

「私は大丈夫です。ゴホッ、ゴフッ・・・、軍曹殿は気にせずに出勤してください」

と言って、俺が病院に連れて行くのを拒んだ。病院へ行く事になれば俺も欠勤しなければならないと気遣ってくれているのだ。そう、彼は自分の会社ではそのまま欠勤処理されていたのだ。

職場を抜け出して食料と医薬品を調達してホテルに向かうと、上等兵は本当に虫の息に見えた。バスルームには明らかに吐血したのを隠した跡があった。

「ぐ、軍曹殿。私の事は構わないで下さい。貴方の評価まで傷ついてしまう」
「何を言っているんだ!一緒に群馬に戻ろう」

俺はやせ細った上等兵の肩を抱きしめた。骨と皮じゃないか。俺の中で何かが切れた。

抵抗する上等兵を上越新幹線に押し込め、俺たちはそのまま高崎へ向かった。上等兵はそのまま緊急入院する事になった。結核に罹っていたのだ。上等兵の姉が入院手続きを済ませ、俺に

「コボルがこんな酷いことになっていたなんて、一体あなた方はどういう扱いをしてきたんですか!」

と責め立てた。返す言葉が無かった。病室に戻ると上等兵が

「軍曹殿、本当に申し訳ありません。私はもう大丈夫です。軍曹殿まで欠勤処理されると思うと私の胸が痛みます。どうか、横須賀にお戻りください。私の事は心配要りません」

と、か弱い声で訴えてきた。翌日、俺は涙を拭って会社に寄って事情を説明し、横須賀へ戻った。

職場放棄&無断欠勤の容疑を着せられ、俺は始末書を書かされた。休んだ日は自分の会社と常駐先の両方に電話をかけた筈なのに、常駐先では 受けた人間の怠慢によりそのまま無断欠勤処理されていたのだ。勤務記録上矛盾が起きてはならないので、結局俺の所属する会社でも改めて無断欠勤処理をされた。

加えて、部下を過労で壊した罪も着せられて、部下の管理責任まで問われたのだ。それから俺たちは常駐先でチームを解かれ、俺と他の上等兵2人はバラバラに配置されて完全に派遣社員としてのルーチンワークに組み込まれてしまった。

単価も年齢からは考えられないほど安く叩かれた。

俺たちはそれぞれ体育会系社員達からも徹底的にマークされ、事ある毎に腕立て伏せの刑を受けた。他にも、フッキンやスクワットなど、無理のありそうなものを選んで科せられた。

朝出勤すると、派遣社員が誰かしら腕立て伏せやフッキンをさせれらている光景を見るのに、不思議にも目が慣れてしまっていた。そして、自分達の処遇にも。

12月が来た。予想通り、賞与は無かった。入院中の上等兵は健康を取り戻したが、そのまま退職してしまった。俺たちがデスマで現場を離れられないと知ると、横須賀まで挨拶に来てくれた。最後に飲み交わした。横須賀の海岸で俺たちは酔いつぶれて吐いた。そして、夜景を見ながら目に涙を溜めて、尾崎豊の「I love you」を、声を合わせて歌った。

上等兵に会ったのはそれが最後だった。生きてはいるだろうけど、それ以来姿を見ていない。そんなものだ、人生とは。

年が暮れる前に、3人居た上等兵の内の2人が消えてしまった。新兵の補充は聞かされておらず、今やそれ自体はどうでも良くなってしまっていた。居ても互いにバラバラな派遣社員待遇なのだから。自分の会社には何度も帰還要望を出したのだが、「代わりの仕事が無い」の一点張りで、帰れなかった。噂によると、自社の俺の机は新人に譲られたらしい。

YRPに常駐してから部下が減る事はあっても本部から応援が補充されるような事は無かった。年を明けると、上等兵が1人残っているだけだった。群馬にある自社では、忘年会にも新年会にも俺たちは呼ばれなかった。給与待遇は請負ではなく派遣作業者としてのレベルにまで削られて、毎月の生活も外食に頼るとすぐに赤字になる厳しいものであった。俺の部下としてただ1人残った上等兵は、こう問い掛けた。

「軍曹殿、我々は一体どうなってしまうんでしょうか?」
「本部からの連絡が途絶えた以上、目の前の作戦活動に力を注ぐのだ。 俺からはそれしか言えない。」

こんな俺たちも、既に散らされて派遣社員の1人として扱われて、上位会社の体育会系社員達に絞り上げられる毎日を過ごしていたのだ。体育会系社員達は若手でも冬のボーナスを60万以上貰っていたらしい。噂で聞いただけなのだが、胸が締め付けられる思いだった。

そういえば、この上等兵には妻子が居たはずだ。もう3ヶ月以上も会っていないらしい。そう、俺たちは年末も正月も現場を離れる事が出来なかったのだ。風邪を引いても、インフルエンザに罹ろうとも、体育会系社員達は精神論で乗り切れと休ませてくれないのだ。もっとも、彼らの鍛え上げられた強靭な肉体は、風邪ともインフルエンザとも無縁なようであったが。

前に書いたが、上位の上位会社から上は官僚化が進んでおり、従業員同士の人間的交流というものが全く無い。特徴的なのは、無表情に引きつった顔と、早口な棒読みセリフ、そして上司は部下に仕事を〇投げしてサポートもせず、この関係は先輩と部下の関係にも一致していた。

今の事業部体制になってから管理職に対する密告が評価されるようになったらしく、それが原因だという説もある。人間関係が良い悪いという次元の前に、人間関係そのものが無いのだ。

一方的な指示はたとえ机が隣でもメールで行われ、上司は退社直前に「〇×の件、明日の朝イチに報告を待つ」と部下にメールを送る事が日常的に行われていた。当然、彼らの職場でも忘年会や新年会は一切行われなかった。社員同士でも同僚の不正を上司に密告するのが当たり前となり、昼食時に席を外す時にはPCの電源を切っておかないとキーロガーを仕掛けられる惧れがあった。

ある日、上等兵が深刻そうな顔で俺に相談を持ちかけてきた。

「長い間お世話になりました。」
「どうしたんだ?」
「実は、来月から〇×株式会社(上位の上位会社)へ転職する事になったんです。」

俺は一瞬呆然となった。最後の部下まで失ってしまうのか。しかし、

「そ、そうか。故郷の奥さんやお子さんを考えれば、今の給料じゃ食わしてやれないもんナ。君の境遇を考えれば無理もない。それにしてもよく採用されたものだ。」

と激励の声をかけるのが精一杯だった。彼の所得は一気に倍増するらしかった。今年の年間所得は明らかに俺より上になるはずだ。

上等兵と同じ会社に所属する最後の夜、俺たちはホテルの部屋で酒を飲み交わした。

「こんなホテルに缶詰にされるのも、君は今夜限りだな。」
「軍曹殿を残して本当に申し訳ないと思っています。しかし、私にも家族がいますので…」
「分かっている。気にするな。今まで十分に尽くしてくれたよ」

思えば、この上等兵と人間的な会話が出来たのはこれが最後だったような気がする。

上等兵は上位の上位会社へ転籍すると、家族寮と呼ばれるきれいなマンションに移った。そして家族もそこに呼び寄せたのだった。やはり、家庭を持つには社会の階層というのも大きなファクターになるのであろう。新居に引っ越して1週間後、俺は元上等兵に夕飯に招待された。久々に温かい家庭の空気に触れた。奥さんはきれいだし、子供も無邪気でかわいいし。彼が長らく群馬に残してきたものの大きさを見た思いだった。

こんなきれいなマンション生活で、家賃も会社が9割まで補助してくれて、所得も倍増とは世の中は所詮階級社会なんだな、と身近にも感じてしまった。

その後は仕事が忙しくて、元上等兵と会う機会はめっきりなくなってしまった。近くにはいるのだろうけど、仕事で関わる事は無かった。

ある日、俺は仕様書の内容不備について確認しようと、別のフロアへ出向いた。要件を済ませて帰ろうとすると、近くの席に元上等兵を見付けた。何と言うか、何かの強迫観念に駆られたような引きつった、やつれ果てた顔であった。顔色も土色と言ったら良いのか、目も深く落ち窪んだその顔に生気は全く感じられなかった。そして、声をかけると帰ってくる声は、裏声で早口で、そして棒読みの口調であった。辺りを見渡すと、元上等兵は移転先の従業員の1人に溶け込んでいた。何か胸の詰まるような思いだった。

その後、元上等兵が離婚したという話を聞いたのは、今年の7月に入って久々に飲みに誘った時であった。酔いが回って口数が増えてきてもその口調はあのままであった。傷口をさらけ出しているにも関わらず、顔は無表情であった。一度家族の幸せな姿を見ていただけに、俺の胸も痛んだ。離婚に至るまでの過程を聞く内に、俺も耐え切れなくなって、途中何度かトイレに立って、吐いた。

職場の密告制度も激しさを増し、皆が皆を信用できない状況に陥っているらしかった。長引く開発によって予算も底を尽き、外注単価を大幅に下げるだけでは間に合わず上位会社でも従業員のボーナスを削減するという大きな流れの結果であったようだ。

ボーナスの全体金額が決まっているので、全員に均等に割ったら全員が苦しい思いをする。そこで、減点方式の査定に走ったらしい。上司は部下を、先輩は後輩を決して叱る事は無く、見えている失敗も黙ってそのまま起こさせた。そして失敗の責任は全て末端の担当者に被せられ、その者はボーナスの査定で大幅な減点を受けるのだ。逆に、同僚の不正を上司に密告すると加点されるらしく、部署によっては隣席の同僚が昼食に出かけている隙にPCへキーロガーを仕掛けるといった巧妙な罠まで使われたらしい。

そんな職場で、中途採用者は格好の餌食にされた。彼は周囲の人間の失敗責任をいくつも被せられ、ボーナスは大幅な減点査定だったらしい。もっとも、入ってすぐの夏のボーナスが減点食らっていて尚65万というのは同情に値しないと俺は感じた。

俺はこの夏もボーナス無しだった。所属会社に掛け合っても、「開発期間の延長による損失は従業員の責任だ」の一点張りで、俺の形式的な上司は何も責任を取っていないらしかった。

俺の群馬での机は、既に新人に乗っ取られていて、彼は俺が前に手がけていた案件をPC内に整理された資料を元に引き継いで、先輩の指導の元に有力な新規案件を手がけているらしかった。時折事務所に電話をかけると、その新人の先輩が旧案件について質問してくる有様だった。

会社はこの請負業務から手を引きたいようだったのだが、従業員が自ら辞めるというアクシデントでもない限りクライアントが手放さなかったのだ。しかも、追加見積もりはことごとく拒絶されたのだ。その為、俺の所属会社も本件では赤字状態に陥り、経験者まで数人失う損失を被ったのだ。その金額的責任の一部が俺の所得にも反映された。

そんな俺は、8月に入って職場を逃亡した。群馬に勝手に帰って、久しぶりに好きな登山に明け暮れた。自分を取り戻していけそうな気がした。

そう、俺の中で何かがはじけたのだ。

もう2つ3つ好きな山を登ったら、会社に手続きをしに行こうと思っている。携帯電話はうるさいので、1つ目の山の頂上から思い切り投げてしまった。携帯もこんな空気の良いところに投げ捨てられて本望であった事だろう。

故郷の山の空気は、おいしい。ああ、生きていて良かったな、と思えた。

参考文献[編集]

  • エドワード・ヨードン著 / 松原友夫・山浦恒央訳, デスマーチ―なぜソフトウエア・プロジェクトは混乱するのか, シイエム・シイ(2001) ISBN 4-901280-37-6
  • エドワード・ヨードン著 / 松原友夫・山浦恒央訳, デスマーチ第2版ソフトウエア開発プロジェクトはなぜ混乱するのか,日経BP社 (2006) ISBN 4-8222-8271-6

関連項目[編集]

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