ゾーヤ・ヴォスクレセンスカヤ

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ゾーヤ・ヴォスクレセンスカヤ(Зоя Воскресенская;1907年4月28日 - 1992年1月8日)は、ソ連の職業的諜報員。大佐。結婚後の姓は、ルイプキナ(Рыбкина)。

経歴[編集]

トゥーラ州ウズローヴァヤ駅の鉄道員の家庭に生まれる。1921年、チェーカー第42大隊の司書に採用され、その後、スモレンスク県特別任務班本部で勤務した。1923年、未成年犯罪者収容所の教官。1925年~1928年、カリーニン名称工場(スモレンスク)で働く。

1928年、モスクワに移り、1929年8月から統合国家政治局(OGPU)外国課(対外諜報)で働き始める。最初の任地はハルピンであり、2年間に渡って東清鉄道問題に関する任務を遂行した。その後、ラトビアドイツオーストリアフィンランドスウェーデンで活動した。

1935年~1939年、副支局長としてフィンランドに赴任。フィンランドでは、マダム・ヤルツェヴァ(Ярцева)(夫の諜報員ボリス・ルイプキン(Борис Рыбкин)の偽名)として知られた。帰国後、分析業務に移り、赤いオーケストラからの諜報情報を分析した。

独ソ戦勃発時、破壊工作・諜報グループの選抜、組織、教育、敵後方への派遣に従事する特別グループの職員であった。特別グループ職員に基づき、独立特別任務自動車化狙撃旅団(OMSBON)が編成され、彼女もそれに参加するはずだったが、異なる指示が与えられた。

当時、夫のボリスがスウェーデンで諜報活動を行う準備をしており、彼女も派遣して夫婦で活動させることが決定された。1941年末、コードネーム「イリーナ」(Ирина)は、大使館の報道官としてストックホルムに赴任した。在任時、情報収集、エージェントの徴募、ドイツ占領地各国のレジスタンスとの接触に従事し、1944年中盤、モスクワに帰還。

戦後、ドイツ課の副課長、課長を務める。1953年春、ヨシフ・スターリンの死後、諜報機関内で粛清が始まり、彼女はヴォルクト収容所の特別課長に左遷された。1955年、年金生活に入る。

パーソナル[編集]

レーニン勲章、十月革命勲章、労働赤旗勲章、祖国戦争勲章、赤星勲章2個、「NKVD功労職員」称号を受賞。

退役後は、青少年向けの作家となり、1968年にソ連国家賞、1980年にレーニン・コムソモール賞を受賞。

外部リンク[編集]

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