ジェームス北條
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ジェームス 北條(ジェームス ほうじょう、1875年5月12日 - 不明)は、日本の男性ボクサー、ボクシングトレーナー。神奈川県横浜市出身。本名は北條 利夫(ほうじょう としお)。
経歴[編集]
1875年、競馬の騎手として来日した中国人の父と日本人の母との間に生まれる。横浜市の山手八番館でアメリカ人水兵たちのスパーリングを見てボクシングと出会い、波止場での船員たちのケンカを見てボクシングを覚えた。
1889年、アメリカ・ワシントン州タコマに渡り、10数年間のボクシング修行で腕を磨いた。しかし、ボクサーとしての記録は残されておらず、戦績などは不明となっている。
1896年、友人である齋藤虎之助とともに横浜市石川町の二軒長屋を改造した日本初のボクシングジム「メリケン練習所」を開設。しかし、入門者を手加減無しで殴ってしまうため長続きする者が無く、まもなく閉鎖となった。
練習所閉鎖後、清国公使館守衛の職を経て、御茶ノ水の大日本拳闘会(大日拳)の支部でトレーナーとなる。
昭和に入ると大日拳傘下の葵拳闘倶楽部にて師範を務め、高津五郎、山岡鉄、坂本一などの強豪選手を育成した。
戦後は、進駐軍キャンプで通訳を勤めるほど英会話が堪能であったことから、日本人ボクサーによる進駐軍慰問の橋渡し役となった。また、フィリピン人プロモーターのロッペ・サリエルが東京・品川区に開設したバンブージムでトレーナーとなり、後に世界ジュニアライト級チャンピオンとなりフィリピンの国民的英雄となるフラッシュ・エロルデ少年にボクシングの手解きをした。
晩年の消息は不明となっている。
人物[編集]
奇人として有名であり、いくつかの象徴的なエピソードを残している。
- 若い時から鍛え上げた体は頑健で、鉄棒で大車輪をやってのけた。
- ボクシングの基本は走ることだと選手に教え、ロードワークでは先頭に立ち、芝の愛宕山の急な石段を練習生とともに何度も昇り降りした。ロードワークは晩年まで欠かさなかったという。
- 鍛錬のため乗り物は使わず、どこに行くのにも徒歩であった。横浜で試合がある時は、夜の明けきらない内から都内の道場を出て歩いて行った。戦後、盛岡の進駐軍キャンプの通訳に就任した際も徒歩で向かったが、さすがにこれには懲りて以後は乗り物を使った。
- 潔癖性であり、常に新聞紙を持ち歩いて、トイレの扉の取っ手などは必ず新聞紙を被せて摘んだ。
- 外から丸見えの場所でも平然と全裸で行水を行い、通行人を驚かせた。