カラゴン事件
カラゴン事件(カラゴンじけん)とは、1945年7月8日に、ビルマ南東部モールメン地方のカラゴン村で、日本軍(陸軍第33師団歩兵第215連隊第3大隊)が、村民の男女・子供約600人を英印軍に協力したゲリラとみなして虐待した上、殺害した事件。1946年にイギリス軍ラングーン裁判で第3大隊の関係者が死刑以下の判決を受け、処刑された。
事件[編集]
1945年6月頃、陸軍第33師団歩兵第215連隊第3大隊(大隊長・市川清義少佐)は、モールメン(Mawlamyine)の北東約15キロメートルにあるカラゴン村(Kalagon)付近に英印軍の空挺部隊が降下し、村に武器や弾薬が隠されているという情報を受けて、カラゴン村を調査した[1]。
しかし、カラゴン村の調査では、武器や弾薬について明確な情報は得られなかった[2]。
7月2-3日頃、チョンノクワ(場所未詳)にあった第215連隊の駐屯地へ戻った第3大隊は、第215連隊の柄田節連隊長からカラゴンとTyok(場所未詳)北西の英軍陣地の殲滅命令を受け、120-130人を率いて、カラゴン村へ向かった[3][4][5]。
- 戦後の戦犯裁判で、市川大隊長は、このとき柄田連隊長らから、カラゴン村の村民が英軍を支援し、ゲリラ活動をしているとの情報を伝えられた、と証言した[6]。また柄田連隊長から書面で英軍陣地の殲滅命令を受け、(カラゴン村の村民殺害は自身の裁量で行ったのではないかと尋ねられて)口頭でカラゴン村の村民殲滅を命じられた、と証言した[7]。
- 第3大隊には、師団参謀・平沢少佐と、ビルマ憲兵隊モールメン分隊の憲兵4名が同行した。同行の目的は、第3大隊の督戦だったとみられている。[8]
1945年7月7日夕方、第3大隊と憲兵隊は、カラゴン村に到着すると、村人を集め、男性をモスクに、女性と子供を附属の集会所に閉じ込めた。それから憲兵隊が徹夜で取調べを行い、その間に村民を虐待した。殴打したり、家屋から吊るすなどして拷問しながら尋問した。その中で何人かの村民がゲリラに協力していることを自白した。翌7月8日の午後、村民たちは4人から10人ずつのグループに分けられて、目隠しをし、紐で結ばれて村の各所の井戸の側に連行され、銃剣で刺されてから井戸に放り込まれた[9][10][11]。
生き残った村長の証言によると、戦後殺害された村民の人数を確認したところ、男性174人、女性195または196人、子供266または267人の計637人だった。当時カラゴン村の人口は900人から1千人程度で、約400人の村民は殺されずに助かった[12][10][13]。
- 林 (1998 254)および岩川 (1995 222, 224)は、他の戦犯事件と比較しても被害者が多数にのぼった理由として、尋問は行ったものの、容疑者を絞ることもなく、女性や子供も含めて殺害したことを指摘している。
その後、7月9日に日本軍はダリの森(場所未詳)を捜索するため村を離れ、同月11日に村に戻って物資を掠奪した上で家屋に放火し、同月12日に12人ないし約10人の女性を連れて村を去った[12][14]。
- 拉致された女性のうち2人は、途中で村へ逃げ帰った[15]。
- 戦後の戦犯裁判で、市川大隊長は、女性たちはスパイとして使うために連行した、と証言したが、柄田連隊長は命令は出していない、と証言した[16]。
- 連行された女性たちは、連隊本部が置かれていたワーガレーという部落(場所未詳)で銃剣で刺殺され穴に埋められたとの証言がある[17]。
なお、カラゴン村に対する殲滅作戦を実行した第3大隊とは別に、第2大隊はカラゴン村より更に約20キロ東のエバイン村(場所未詳)を討伐した[18]。
岩根 (2007 114)は、元第11中隊長の戦後の手記にある、「支那(ママ)大陸の戦法にならって」部落と村民の総抹殺が命令された、との記述や、元第9中隊少尉の証言にある、カラゴン村から夥しい物資を捕獲した旨の記述から、カラゴン村に対する殲滅作戦は、中国大陸で日本軍が実施していた三光作戦そのものだったと評価している。
裁判[編集]
起訴[編集]
1945年8月にモールメンの南・タンビザヤ(Thanbyuzayat)で終戦を迎えた第215連隊の将兵は、同年9月にタイのナコンパトム(Nakhon Pathom)へ移され、収容所に入れられた[18]。
事件発生の契機となった「英印軍の空挺部隊」は、スパイ活動に携わり、戦争犯罪の捜査にもあたった特別作戦部隊・136部隊(Force 136)だったため、事件は早くから英軍の捜査対象となり、ビルマで最初の戦犯裁判で裁かれることとなった[19]。戦犯容疑者は、ナコンパトムの収容所からモールメン刑務所[map 1]へ移された[20]。
また英軍は、カラゴン村の事件のほか、エバイン村の事件についても調査し、帰国していた第2大隊の将校2人をビルマに呼び戻して尋問したが、立件には至らなかった[18]。
1946年3月22日に開廷した[21]イギリス・ラングーン軍事裁判所で、陸軍第33師団歩兵第215連隊第3大隊の市川大隊長以下8人とビルマ憲兵隊モールメン分隊の憲兵6人の計14人が、村民の男女・子供を殺害したことおよび住民を殴打し、拷問し、傷つけるなどの虐待を行ったこと、市川大隊長が、村長の妻と9人の女性を誘拐したことが、戦争法規・慣習に違反したとして起訴された[12][4]。
公判[編集]
裁判は同年4月10日まで17日間にわたって行われ、生き延びた複数の村民が証言台に立ち、事件について証言した[22]。
検察側は村民の多くが空挺部隊を支援していた事実を争わなかった[23][24]。
弁護側は、大量の村民の殺害の事実については争わず、日本軍の行為が敵対行為に対する合法的な報復であり、軍事的に必要な行為であったこと、また仮に戦争犯罪であったとしても、被告人は上官の命令を遂行しただけで責任はないと主張して無罪を申し立てた[23][25]。
本人尋問で、第3大隊の市川大隊長は、殺害は上官の命令で、実行するしかなかったと主張した。村民を女性や子供まで殺害したことについて、本当に女性・子供が敵対行為をすると考えたのかと問われて、する可能性があり、女性・子供も含めて殺害するよう命令を受けていたので自分はそれに従った、と回答した。また同部隊の幹部として行動した大尉は、上官からの命令が不法と考えたとき、上官に意見具申する義務があると思わないか問われて、自分は不法とは思わなかったと回答した[26][27][25]。
市川大隊長は、ハーグ陸戦条約にある、占領地住民の取扱いに関する規定について尋問を受け、内容を知らない、と回答した。また占領地の住民を保護すべきことは知っているが、敵軍を支援する住民を保護できない、住民には占領軍に忠実に従う義務がある、と主張した[28]。
判決[編集]
1946年4月10日に判決が下され、第3大隊の関係者は、市川大隊長が絞首刑、実際の処刑にあたった3中隊の隊長3名が銃殺刑、大隊副官と連絡将校、村外で警備にあたっていた中隊長の3名が有期刑、殺害に関係しなかったとされた軍医1名が無罪の判決を受けた。憲兵関係者は、殺害には関係しなかったとして虐待の容疑のみを問われ、憲兵大尉ら3名が無罪、3名が5年から7年の有期刑となった[29][30]。
- 弁護側の「合法的な報復」という主張は、イギリス軍に協力した村民は数十人で、武器の提供の証拠は見つかっていなかったにもかかわらず、女性・子供を含めて600人以上を殺害することは合法的な報復の範囲を超えているとして退けられた[31][27][32]。
- 被告人たちの直接の上官にあたる陸軍第33師団歩兵第215連隊の柄田節連隊長は、公判開始前の供述書では、市川大隊長に村民殺害の命令はしていないと自らの責任を否定していたが、法廷では供述書の内容を否定して自らの責任を認めた[33][32]。
- しかし裁判所は、カラゴン村でなされるべきことについては市川大隊長に自由裁量の余地があり、虐殺は「軍事的必要」や「上官の命令への絶対服従」から正当化されるものではなかったと判断した[33][34]。
確認・処刑[編集]
判決後に柄田連隊長は、確認官に減刑の嘆願書を提出して、カラゴン村の殺害に責任があるのは自分以外になく、村民を殺せと命令したのは自分であり、大隊長には裁量の余地はなかったとして、部下の救済を訴えた[33][35]。
3ヵ月後に確認結果が発表されたが、減刑はなく、全員判決通り刑が確定し、同年7月15日ないし14日にラングーンで市川大隊長以下の4人の死刑が執行された[33][30][34][36]。
女性への性暴力[編集]
起訴状の第3の容疑(女性の誘拐)に関して、公判の中で検察側は、誘拐されたのが若い女性ばかりで、被告の「スパイとして使おうとした」との主張が不自然であることから、「慰安婦」とする目的だったのではないかと追及したが、確証が得られず「誘拐」について有罪を主張するに止まった。誘拐容疑について市川大隊長は有罪となった。なお当初誘拐されたとされていた村長の妻について、市川大隊長は「虐殺された」と証言した。[37][38]
また第2の容疑(虐待)に関連して、軍医少尉が少女を強姦したとして証人が立てられ、検察側は強姦を虐待の方法の一つとして告発したが、証拠不十分として無罪となった[39]。
余録[編集]
陸軍第33師団の田中信男師団長は、歩兵第215連隊の戦記によるとカラゴン村の掃討命令を下したとされているが、起訴されることはなく、自ら責任を認めることもなかった[40][41]。
- 元第11中隊長の手記によると、田中師団長は、戦後、戦犯容疑者が収容所からモールメン刑務所に呼び戻されることになり挨拶に行った際に、自分達で責任を取り、上官に迷惑をかけるな、など部下に責任を押し付けるような態度に終始していたという[42]。
岩根 (2007 113,115)は、下士官だけが戦犯に問われ、命令を下した師団長や連隊長が起訴されずに免罪された点を裁判の最大の問題と評価し、現場で指揮にあたった下士官が厳罰を受けた背景として、戦犯裁判の目的が、日本軍に対して強い怒り・復讐の念をもっていたビルマの住民の意を汲むことにあった、と指摘している。
付録[編集]
関連文献[編集]
- 歩兵第二一五聯隊戦記編纂委員会『歩兵第二一五聯隊戦記』歩兵第二一五聯隊戦記編纂委員会、1972年、JPNO 73012052
- 『弓歩215会だより』1-47号、1973-1996年[43]
- 林博史「英軍による日本軍性暴力の追及」日本の戦争責任資料センター『季刊 戦争責任研究』n.14、1996年9月、69-77頁、NDLJP 4427973/36
地図[編集]
- ↑ Google maps - モールメン刑務所 2018年4月26日
脚注[編集]
- ↑ 岩根 2007 81,91。岩川 1995 221は、ビルマ憲兵隊モールメン分隊の憲兵4名が調査した、としている。カラゴン村の位置については、それぞれモールメンの東北50キロ、東に約50キロと記しているが、Google地図を参照すると、モーラミャインから直線距離で15キロほどの地点にある(Google Maps - Kalagon 2018年4月26日閲覧)。
- ↑ 岩根 2007 84,91 - 戦犯裁判での市川大隊長の証言による。岩川 (1995 221)は、取調べの結果、カラゴン村の近く2、3キロメートルの地点に空挺部隊が降下し、村民たちの支援を受けていることが判明した、としている。
- ↑ 林 1998 256-257
- ↑ 4.0 4.1 岩川 1995 221
- ↑ 岩根 2007 84,92,98
- ↑ 岩根 2007 92
- ↑ 岩根 2007 94
- ↑ 岩根 (2007 112) - 武井省三「軍事裁判に召喚されて」(『歩兵第二一五聯隊戦記』所収)による。
- ↑ 林 1998 253
- ↑ 10.0 10.1 岩川 1995 222
- ↑ 岩根 2007 84-85
- ↑ 12.0 12.1 12.2 林 1998 254
- ↑ 岩根 2007 88
- ↑ 岩根 2007 85,93
- ↑ 岩根 2007 89,93
- ↑ 岩根 2007 93,108
- ↑ 岩根 2007 111
- ↑ 18.0 18.1 18.2 岩根 2007 81
- ↑ 林 1998 253-254
- ↑ 岩根 2007 82
- ↑ 岩根 2007 82。岩川 (1995 213)は裁判開始を同月12日としている。
- ↑ 林 1998 255
- ↑ 23.0 23.1 林 1998 258
- ↑ 岩根 2007 89-90
- ↑ 25.0 25.1 岩根 2007 86
- ↑ 林 1998 257-258
- ↑ 27.0 27.1 岩川 1995 222-223
- ↑ 岩根 2007 85
- ↑ 林 1998 259
- ↑ 30.0 30.1 岩川 1995 224
- ↑ 林 1998 258-259
- ↑ 32.0 32.1 岩根 2007 107
- ↑ 33.0 33.1 33.2 33.3 林 1998 260
- ↑ 34.0 34.1 岩根 2007 84
- ↑ 岩根 2007 110
- ↑ 日付は、岩根 (2007 84)では15日、茶園 (1988 100)では14日。
- ↑ 林 1998 269-273
- ↑ 岩根 2007 86,96-97
- ↑ 林 1998 273
- ↑ 林 1998 261
- ↑ 林 2005 126-127
- ↑ 岩根 2007 112-113
- ↑ 岩根 2007 111,116
参考文献[編集]
- 岩根 (2007) 岩根承成「BC級戦犯裁判にみるビルマ・カラゴン村事件 - 裁かれた高崎215連隊」共愛学園前橋国際大学『共愛学園前橋国際大学論集』n.7、2007年3月、NAID 120005349727
- 林 (2005) 林博史『BC級戦犯裁判』〈岩波文庫〉岩波書店、2005年、ISBN 4004309522
- 林 (1998) 林博史『裁かれた戦争犯罪 - イギリスの対日戦犯裁判』岩波書店、1998年、ISBN 4000009001
- 岩川 (1995) 岩川隆『孤島の土となるとも - BC級戦犯裁判』講談社、1995年、ISBN 4062074915
- 茶園 (1988) 茶園義男『BC級戦犯 英軍裁判資料 上』不二出版、1988年、JPNO 88052724