アルバート・スポールディング
アルバート・スポールディング(Albert Spalding, 1888年8月15日[1][2] - 1953年5月26日[3])は、アメリカのヴァイオリン奏者、作曲家。
シカゴに生まれる。父ジェームズは、スポーツ用品メーカーを立ち上げた実業家であるアルバート・スポルディングの弟で、母マリー・ボードマンはコントラルト歌手でピアノとハープも堪能にした。幼少期から、その母の影響で音楽に親しんだ。1895年の冬はフィレンツェで過ごし、叔母からクリスマスのプレゼントとしてヴァイオリンを贈られたことでヴァイオリンを弾くようになった。フィレンツェではウルピアノ・チーティにヴァイオリン、アントニオ・スコントリーノに作曲を学んだが、少年時代はアメリカとヨーロッパを往来しており、アメリカに帰国した時にはフアン・ブイトラゴに作曲のレッスンを受けていた。さらにパリにも足を延ばしてナルシス=オーギュスタン・ルフォールにもヴァイオリンを師事している[4]。また、チーティの勧めで1903年にボローニャ音楽院に行き[5]、その翌年には同音楽院のディプロマをヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト以来の高得点で獲得している。1905年には師ルフォールの指揮により、カミーユ・サン=サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番等を演奏してパリでデビューを飾った。その翌年にはサン=サーンスと面会し、サン=サーンスのフィレンツェへの演奏旅行に参加して名声を得た。さらにイギリスに行き、ハンス・リヒターの指揮するロンドン交響楽団とも共演している。1908年にはアメリカに帰国し、ウォルター・ダムロッシュの指揮するニューヨーク交響楽団と共演してアメリカ・デビューを果たした。第一次世界大戦中はアメリカ空軍に所属し、フィオレロ・ラガーディアの副官を務めた[6]。1920年にダムロッシュの指揮するニューヨーク交響楽団のヨーロッパ演奏旅行に帯同する形で演奏活動を再開。第二次世界大戦時も従軍したが、復員後はエルネスト・フォン・ドホナーニと音楽的関係を結ぶも、徐々に演奏活動を減らすようになり[7]、1950年に演奏活動から引退。引退後はボストン大学でヴァイオリンを教えつつ、時々リサイタルを開き、録音活動にも意欲を示した。
ニューヨーク州マンハッタンで脳出血のため急逝[8]。
脚注[編集]
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- ↑ Fairchild Hendon Hendon (1993) FairchildDana Glass HendonWilliam S. HendonMary Ann [ A Year in New York, 1926-1927 ] Lulu 1993 9780557270101 77
- ↑ アーカイブコピー - インターネット・アーカイブ
- ↑ Roth (1997) RothHenry [ Violin Virtuosos: From Paganini to the 21st Century ] California Classics Books 1997 9781879395152 242
- ↑ Carnes (2005) CarnesMark C. [ American National Biography. Supplement 2 ] Oxford University Press 2005 9780195222029 528
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- ↑ (Unknown) Howard Gotlieb Archival Research Center Unknown arch. 2013-10-08 2013-10-08
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