重光葵

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重光葵(しげみつ まもる)
Mamoru Shigemitsu,19450902.jpg
1945年9月2日、日本政府全権として戦艦ミズーリ号に到着した重光葵。

68・69、83-85代外務大臣
東條内閣小磯内閣東久邇宮内閣、第123次鳩山内閣
1943年 - 1945年1954年 - 1956年
小磯内閣東久邇内閣
1944年 - 1945年、1945年
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その他政歴
{{{他政歴}}}

生誕 1887年7月29日
大分県大野郡三重町
(現・豊後大野市
死没 1957年1月26日
神奈川県湯河原
政党
称号 {{{称号}}}
出身校 {{{母校}}}
職業 外交官政治家
配偶
降伏文書調印 東京湾上の戦艦ミズーリ 1945年9月2日 中央の署名者は重光外務大臣 その左後方は加瀬俊一

重光 葵(しげみつ まもる、1887年7月29日 - 1957年1月26日)は昭和前期の外交官政治家である。昭和の動乱期に外務大臣を務め、東京裁判ではA級戦犯で有罪。仮釈放と赦免後、政界に再復帰、日本の連合国国際連合)加盟に尽力した。

経歴

生い立ち

大分県大野郡三重町(現・大分県豊後大野市)に士族で大野郡長を務める父・直愿と母・松子の次男として生まれた。しかし母の実家(重光家本家)に子供がなかったため養子となり重光家26代目の当主となった。旧制杵築中学(現・大分県立杵築高等学校)、第五高等学校独法科を経て、東京帝国大学法学部を卒業する。

戦前の公務歴

各国において日本国公使として勤務していたが、1930年には駐華公使となる。1931年9月、日本陸軍の一部が突如中国東北部を制圧しようと満州事変を引き起こし国際問題となる。これに対し重光は「明治以来積み立てられた日本の国際的地位が一朝にして破壊せられ、我が国際的信用が急速に消耗の一途をたどって行くことは外交の局に当たっている者の耐え難いところである」(重光著「昭和の動乱」より)と怒り、外交による協調路線によって収めようと奔走。1932年1月、上海事変が起き重光は欧米諸国の協力の元、中国との停戦交渉を行う。何とか停戦協定をまとめ、あとは調印を残すだけとなった同年4月29日、上海虹口公園での天長節祝賀式典において朝鮮の独立運動家・尹奉吉爆弾テロに遭い重傷を負う。重光は激痛の中「停戦を成立させねば国家の前途は取り返しのつかざる羽目に陥るべし」(重光口述筆記「隻脚公使」より)と言い事件の7日後の5月5日、右足切断手術の直前に上海停戦協定の署名を果たす。上海事変を中国が国際連盟に提訴。1933年2月、国際連盟で日本軍の満州での行動を不当とする勧告案が採択。賛成は42カ国、反対は日本だけであった。これを不服とする日本(全権代表・松岡洋右)は国際連盟から脱退を宣言し国際社会から孤立していく。このころ重光は「欧米の国々は民主主義民族主義を欧州に実現することに努力した。しかしながら彼らの努力はほとんど亜細亜には向けられなかった。欧米は阿弗利加および亜細亜の大部分を植民地とし亜細亜民族の国際的人格を認めないのである」と手記を残し、白人による亜細亜支配であれば許されるのかと怒っている。

その後、駐ソ公使・駐英大使を歴任。特に日英関係が険悪化するなかで関係改善に努力する一方、欧州事情に関して多くの報告を本国に送っている。非常に正確なものだったといわれた。だが、欧州戦争において重光は「日本は絶対に介入してはならない」と再三東京に打電したにも関わらず日本政府は聞き入れず松岡洋右外務大臣が日独伊三国同盟を締結し、結果としてアメリカの対日姿勢をより強硬なものにしてしまった。

1941年12月、太平洋戦争が始まる。日本は欧米の植民地である東南アジアを軍事力で占領。外交官として重光はこれに対し「日本は卑しくも東亜民族を踏み台にしてこれを圧迫し、その利益を侵害してはならない。なぜならば武力的発展は東亜民族の了解を得ることができぬからである」(重光著「昭和の動乱」より)と怒っている。

東條英機内閣・小磯国昭内閣において外務大臣を務める。東條内閣にあっては大東亜省設置に反対したこと、東條総理のブレーンとして、自らの主張を現実にするため、1943年11月の大東亜会議を開くために奔走。人種差別をなくし亜細亜の国々が互いに自主独立を尊重し対等な立場での協力を宣言した。しかしマライ、インドネシア、インドシナ、朝鮮、台湾等はこの会議の参加自体が許されず、参加国は日本の強い影響下のある勢力に限られ、日本は参加国の意見を取り入れなかった。また日本の軍事占領下では資源や食料の搾取、強制労働が続いていた。重光の「亜細亜の独立と武力によらぬ協調」という理想は実現には至らなかった。

敗戦

1945年9月2日、東京湾上に停泊した米国の戦艦・ミズーリ甲板上で行われた連合国への降伏文書調印において梅津美治郎と共に日本政府全権として署名を行った。

太平洋戦争後の極東国際軍事裁判でA級戦犯として禁固7年の判決を受けて服役した。1950年11月、4年7ヶ月で仮釈放。

戦後の公務歴

1951年に出獄後、改進党総裁・日本民主党副総裁を務めた。改進党総裁であった1952年に野党首班として総理大臣の座を吉田と争い2位。続く1953年の総選挙後、少数与党となった吉田茂の自由党からの連立の呼びかけを拒否、野党の首班候補として重光の総理大臣指名が現実のものとなりかけたが野党の足並みが乱れ、左右社会党の支持を得られず決選投票で敗北。吉田との会談により閣外協力を受け入れた。

1954年12月以降、第1~3次鳩山一郎内閣では外務大臣を務める。1955年4月、インドネシアでアジア・アフリカの29カ国が集まるバンドン会議が開かれた。アジア・アフリカの国々が第三勢力として協力し合う方針を示した。日本はこの会議でアジアの一員として国連加盟の支持を得た。9月1日、重光は国連本部を訪れレセプションを開催し、経済復興した日本が国際社会に貢献できると国連加盟をアピールしたが12月、国連安全保障理事会ではソ連の反対により否決。国連加盟を果たすため鳩山内閣は国交がなかったソ連との関係改善を目指し1956年7月、モスクワで重光は日ソ国交回復交渉に入るが、北方領土問題が難航し交渉を妥結できなかった。そのため鳩山首相自ら交渉に望み、領土問題を棚上げすることで10月19日、ソ連との国交を回復し日ソ共同宣言が行われ、国連加盟に反対しないとの内諾を得る。12月18日、全会一致で国連加盟が承認され重光は日本代表として加盟受諾演説を行った。帰国前の12月23日、日本では石橋湛山内閣が設立されたため外務大臣の職を解かれる。日本へ帰国する際、同行した加瀬俊一に対して笑顔で「もう思い残すことはない」と語った。

1957年1月26日、狭心症の発作により神奈川県湯河原の別荘で死去。69歳。

その他

重光は上記の通り、駐華公使として赴任していたとき第一次上海事変終結後の天長節の式典で起きた爆弾テロによって右足を切断したが、全く意に介さなかった。重光を知る者は「欠点がないことがやつの欠点だ」と語ったという。ちなみに同席して片目を潰された海軍大将野村吉三郎はのちに駐米大使となり、日米交渉の最前線に立つことになる。

その後、公務に復帰した際に時の外務大臣・広田弘毅は重光の体を気遣って当時外交懸案の少なかった駐ソ大使に任命して本来駐ソ大使に予定していた東郷茂徳を駐独大使とした。だが、張鼓峰事件の処理などを巡って重光とソ連外務省が対立、さらにはソ連のマスコミによって「無能な外交官」と批判された(松岡洋右がこの話を聞いて重光に同情し、後に松岡外務大臣のもとで行われた主要国大使の一斉解任の際にも重光駐英大使だけは対象から外されたという)。また、極東国際軍事裁判において重光の起訴を最も強硬に要求したのはソ連政府だったといわれている。他方、東郷もナチスに嫌われた挙句に駐独大使を追われ、極東国際軍事裁判では「親独派」の疑い(この場合は親ナチス・ドイツの意味)をかけられている。広田の配慮が裏目に出る事となってしまった。

戦後、進駐軍厚木飛行場に到着した際、横浜市に対して「米軍を絶対に首都には入れないこと、直接軍政はさせないこと、軍票は使用させないこと」を厳命した。

戦後、鳩山内閣で外務大臣を務めた際、鳩山は「官僚政治家ではなく、党人政治家による政権運営を行いたい」と発言したため外交官出身の重光は首相・鳩山一郎との関係が悪化。また、鳩山内閣は日ソ国交回復を最優先課題に掲げていたのに対し重光は対ソ強硬論者であった。というのも、重光の脳裏には駐ソ大使当時の事や日ソ中立条約を一方的に破棄し満洲を侵略してきた野蛮なソ連像が焼きついていたからである。

著作

  • 『昭和の動乱』上、下 (中公BIBLIO文庫、2001年)
ISBN 4122039185、下 ISBN 4122039193

参考文献

『彷書月刊』1988年3月 第4巻第4号 通巻第31号 特集・昭和の外交官

外部リンク

先代:
谷正之
東郷茂徳
岡崎勝男
外務大臣
第68・69代:1943 - 1945
第72代:1945
第83-85代:1954 - 1956
次代:
鈴木貫太郎東郷茂徳
吉田茂
石橋湛山→岸信介
先代:
青木一男
東郷茂徳
大東亜大臣
第2代:1944 - 1945
第5代:1945
次代:
鈴木貫太郎→東郷茂徳
(廃止)
極東国際軍事裁判A級戦犯
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