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(華人労務者の内地移入)
(戦時中の花岡鉱山)
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=== 戦時中の花岡鉱山 ===
 
=== 戦時中の花岡鉱山 ===
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花岡鉱山は、[[秋田県]]北部に位置し、1915年以来、合名会社[[藤田組]]が経営していた鉱山で、太平洋戦争開始後の1942年に鉱山全体が軍需工場に指定され、月産3-5万トンの生産を義務付けられていたが、鉱山関係機械が不足し、また鉱山労働者が兵役にとられて労働力も不足していた<ref>野添(1993)pp.6-7、西成田(2002)pp.363-364</ref>。このため、高齢者や女性、少年が動員され、坑内労働にあたっていたが、太平洋戦争末期になると機械の調達ができなくなり、労働力の不足は深刻だったため、日本に連行されてきた朝鮮人や、米国人の俘虜、中国人の徴用工などが採掘作業に使役された<ref>野添(1993)p.7</ref>。
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=== 鹿島組花岡出張所 ===
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[[鹿島建設|鹿島組]]は花岡鉱山の選鉱場([[鉱滓ダム|鉱滓堆積ダム]])の付帯工事を請け負っており、また[[七ツ館事件]]の後、花岡川の水路変更・改修工事も請け負うことになった<ref>大館郷土博物館(2014)、西成田(2002)pp.363-364、石飛(1996)p.58、野添(1993)p.8</ref>。鹿島組は、これらの工事に充てるため華人労務者を使役することを考え<ref>野添(1993)pp.8-9</ref>、日本政府の「華人労務者移入計画」に基づく割当を受けて、職員を中国に派遣して華北労工協会と「労工供出契約」を締結し、「労工教習所」にいた中国人700人の中から300人を選別して日本に連行した<ref>新美(2006)p.184</ref>。
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1944年8月に、花岡町にあった鹿島組花岡出張所に第1次・300人弱の華人労務者が到着した<ref>野添(1992,pp.10-13)は、第1次は出発時300人だったが、乗船までに1人が逃亡して射殺され、1人は乗船時に海に飛び込み、1人が船中で病死して、下関に到着したのは297人、下関から貨物列車で大館を経由して花岡に到着するまでに2人が死亡し、花岡に到着したのは295人だったとしており、新美(2006,p.304)では出発時299人、到着時294人としている。西成田(2002,p.364)によると、鹿島組花岡出張所の『華人労務者就労顛末報告書』は8月8日付で297人を「移入」したとしている。野添(1993,p.21)では花岡到着の全数を297人としている。</ref>。華人労務者たちは、花岡出張所の「中山寮」に入れられ、鉱滓堆積ダムの建設工事や花岡川の改修工事などに使役された<ref>大館郷土博物館(2014)、李(2010)p.98、野添(1993)pp.15-16、林(2005)p.10</ref>。
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藤田組の花岡鉱山で使役されていた華人労務者は「東亜寮」に入っており、「中山寮」の華人労務者とは区別されていて、待遇も異なっていた<ref>西成田(2002)pp.365-366</ref>。
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== 事件 ==
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2017年12月31日 (日) 02:14時点における版

花岡事件(はなおかじけん)は、1944年8月から1945年10月頃までに、中国の河北省山東省などから日本に連行され、秋田県北秋田郡花岡町にあった鹿島組花岡出張所の土木工事現場で使役されていた華人労務者約1,000人のうち、400余人が死亡した事件。1945年6月30日または7月1日に華人労務者による暴動事件が発生し、鎮圧時・鎮圧後に数十人が殺害されたり死亡したりしたが、同出張所の華人労務者の死亡率が高い状況は暴動の前後も続いており、差別的な待遇による過酷な労働・生活環境や、出張所責任者の物資横流しによる食糧の不足、出張所の輔導員(監視員)による日常的な暴行などの非人道的な取扱いが、暴動事件や高い死亡率の原因になったとみられている。

1948年にアメリカ軍による戦犯裁判で同出張所の関係者や地元の大館警察署の関係者が虐待・虐待致死容疑で有罪判決を受けた。1949年頃から1960年代前半にかけて、花岡に残された事件犠牲者の遺骨を発掘し、中国に送還する運動が行なわれた。1995年に東京地裁に鹿島建設(旧鹿島組)に対する損害賠償請求訴訟が提起され、2000年に東京高裁で和解が成立。鹿島が5億円を中国紅十字会に信託し、2009年12月末までに花岡平和友好基金から「受難者」約1,000人のうち、和解に応じた約480人に補償金が支払われたが、10数人が和解を拒否した。2015年に大阪地裁日本政府に対し損害賠償と謝罪を求める訴訟が提起された。

背景

華人労務者の内地移入

1937年7月の盧溝橋事件以降、中国大陸での戦線拡大により労働力が不足していた旧満州国北海道の土木建築業界や鉱山採掘業界から、華北の労働力を生産に充てたいと要望があり、政府・軍部との協議を経て、1941年頃から、華北では治安維持を名目にした討伐作戦や清郷工作により捕えた労働者を旧満州などへ連行し働かせることが行われるようになった[1]

1942年11月27日東條内閣は、日中戦争の長期化と太平洋戦争の開戦にともない労働力が不足するようになった内地国民動員計画産業に充当する労働力として華人労務者の内地「移入」を認める閣議決定をした[2]。1943年4月から11月にかけての試行の後、1944年2月の次官会議の決定を経て、「移入」は本格的に行われるようになり、河北省山東省河南省などで日本軍に捕えられた中国人約4万人が日本に連行された[3]

「華人労務者移入計画」に基づく割当を受けた企業は、華北労工協会と「労工供出契約」を締結し、「労工教習所」[4]に収容されていた中国人を華人労務者(華工、華労)として日本に連行して使役した[5]。華人労務者には元農民が多かったが元軍人も含まれており、当時、実質的な交戦国だった中国から日本への労務者の移入を治安面で警戒する向きもあり、軍部からは強圧的に接すれば暴動のおそれがあり、宥和的に接することが有効な対策との意見があったが、外交筋から「甘やかすとつけあがる」的な主張もなされており、事業所によって華人労務者の管理方針には差異があった[6]

戦時中の花岡鉱山

花岡鉱山は、秋田県北部に位置し、1915年以来、合名会社藤田組が経営していた鉱山で、太平洋戦争開始後の1942年に鉱山全体が軍需工場に指定され、月産3-5万トンの生産を義務付けられていたが、鉱山関係機械が不足し、また鉱山労働者が兵役にとられて労働力も不足していた[7]。このため、高齢者や女性、少年が動員され、坑内労働にあたっていたが、太平洋戦争末期になると機械の調達ができなくなり、労働力の不足は深刻だったため、日本に連行されてきた朝鮮人や、米国人の俘虜、中国人の徴用工などが採掘作業に使役された[8]

鹿島組花岡出張所

鹿島組は花岡鉱山の選鉱場(鉱滓堆積ダム)の付帯工事を請け負っており、また七ツ館事件の後、花岡川の水路変更・改修工事も請け負うことになった[9]。鹿島組は、これらの工事に充てるため華人労務者を使役することを考え[10]、日本政府の「華人労務者移入計画」に基づく割当を受けて、職員を中国に派遣して華北労工協会と「労工供出契約」を締結し、「労工教習所」にいた中国人700人の中から300人を選別して日本に連行した[11]

1944年8月に、花岡町にあった鹿島組花岡出張所に第1次・300人弱の華人労務者が到着した[12]。華人労務者たちは、花岡出張所の「中山寮」に入れられ、鉱滓堆積ダムの建設工事や花岡川の改修工事などに使役された[13]

藤田組の花岡鉱山で使役されていた華人労務者は「東亜寮」に入っており、「中山寮」の華人労務者とは区別されていて、待遇も異なっていた[14]

事件

詳細は 花岡事件 (暴動事件) を参照
  1. 杉原(2002)pp.35-44
  2. 野添(1993)pp.9-11、杉原(2002)pp.45-49,西成田(2002)pp.60-61、林(2005)pp.9-10、石飛(2010)pp.20-21。国立国会図書館リサーチナビ トップ>政治・法律・行政>日本> 昭和前半期閣議決定等> 華人労務者内地移入ニ関スル件 2017年12月30日閲覧。
  3. 西成田(2002)pp.175-183、野添(1993)pp.11-14
  4. 実質的には「捕虜収容所」だったが、日中戦争開戦後も日本は形式的に中国と交戦中であることを認めていなかったため、捕虜の存在を認めず、別名称を用いた(新美,2006,pp.212-213)。
  5. 西成田(2002)pp.54-58
  6. 西成田(2002)pp.68-71
  7. 野添(1993)pp.6-7、西成田(2002)pp.363-364
  8. 野添(1993)p.7
  9. 大館郷土博物館(2014)、西成田(2002)pp.363-364、石飛(1996)p.58、野添(1993)p.8
  10. 野添(1993)pp.8-9
  11. 新美(2006)p.184
  12. 野添(1992,pp.10-13)は、第1次は出発時300人だったが、乗船までに1人が逃亡して射殺され、1人は乗船時に海に飛び込み、1人が船中で病死して、下関に到着したのは297人、下関から貨物列車で大館を経由して花岡に到着するまでに2人が死亡し、花岡に到着したのは295人だったとしており、新美(2006,p.304)では出発時299人、到着時294人としている。西成田(2002,p.364)によると、鹿島組花岡出張所の『華人労務者就労顛末報告書』は8月8日付で297人を「移入」したとしている。野添(1993,p.21)では花岡到着の全数を297人としている。
  13. 大館郷土博物館(2014)、李(2010)p.98、野添(1993)pp.15-16、林(2005)p.10
  14. 西成田(2002)pp.365-366