「毎日新聞」の版間の差分

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今回、迷って1票を投じた有権者は自民に全権を委ねたわけではない。巨大与党の勇ましい決断は危うい。監視し熟議する政治が必要だ。それは「見えざる手」ではなく、有権者の手で育てたい。議事堂に刻まれた歴史に触れてそう思う。
 
今回、迷って1票を投じた有権者は自民に全権を委ねたわけではない。巨大与党の勇ましい決断は危うい。監視し熟議する政治が必要だ。それは「見えざる手」ではなく、有権者の手で育てたい。議事堂に刻まれた歴史に触れてそう思う。
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== 「衆院選で圧倒的議席得た自民党。しかし私が取材した限り、有権者の反応過去2回と決定的に違った。熱狂はなかった」 ==
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国政の担い手を決める重要な審判の日なのに、どうしてごくりと生唾をのみ込むような緊張感がわかないのだろう。
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[[2012年]][[12月16日]]夜、党関係者や記者でごった返す自民党本部で開票状況を取材しながら、そんな思いにとらわれた。
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自民党296議席の2005年選挙、民主党308議席の2009年選挙に続いて、民意はまた大きく振れた。自民、公明両党で計325議席。参院で否決された法案を衆院の3分の2以上の賛成で再可決できる320議席を超えた。しかし、私が取材した限り、有権者の反応は過去2回とは決定的に違った。
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2005年、私は兵庫県尼崎市にある阪神支局に勤務していた。遊説に訪れた[[小泉純一郎]]首相(当時)が「[[郵政民営化]]の是非を問う選挙だ」と絶叫するや鈴なりの聴衆は喝采を送り「純ちゃーん」の声援が飛んだ。首相官邸を担当していた2009年は、民主党候補が街頭で配る簡易版マニフェストがみるみるはけていくことに「政権交代近し」を実感した。
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今回衆院選序盤の6日、安倍氏の関西地方遊説に同行した。声をからし、経済政策や教育再生を訴える姿勢に決意のほどは見えたものの、聴衆にこれまで2回の選挙のような「熱狂」はなかった。印象に残ったのは、拍手をした後、なんとなく周囲の様子をうかがうような人が多かったことだ。報道各社の情勢調査は序盤から自民党の優位を繰り返し伝えたが「こんなにいいはずがない」という同党幹部の受け止めには、私もまったく同感だった。
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民主党はだめだが、「第三極」政党にも託せない。今回は消去法で自民党?。有権者にそんな心理が働いた結果だとしたら、次にまた自民党がつまずいた場合、民意はどこに向かうのだろう。今回記録した戦後最低の投票率59.32%は、政治不信が燃え上がる火種のような気がしてならない。
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だからこそ、安倍氏の責任は重大だ。2006,2007年の首相在任中、「美しい国」「戦後レジームからの脱却」と大上段に構え、[[国民投票法]]や[[教育基本法]]改正を実現した一方で、党や内閣の要職への側近の重用は「お友達人事」と批判され、指導力不足も露呈した。2007年[[参院選]]で大敗し、健康問題もあって間もなく政権を投げ出した残像はなお消えない。しかも、国会は衆参両院で与野党勢力が逆転した「ねじれ」状態になり、安倍氏以後の自民党の首相は政権運営に行き詰まってほぼ1年ごとに交代した。
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安倍氏は当時を「肩に力が入っていた」と振り返る。5年間の雌伏の日々を経てどこが変わったのか、注視しているのは私だけではないだろう。
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衆院選中に毎日新聞が実施した特別世論調査で「最も重視する争点」を尋ねたところ、「景気対策」が32%でトップだった。「憲法改正」はわずか2%。安倍氏が来夏の参院選までは改憲の悲願を封印し、経済対策に重点的に取り組もうとしているのは理にかなっている。自民党自身が2007年参院選の敗因を「政策の優先順位が民意とずれていなかったか」と総括したことを忘れてはならない。
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安倍氏は連立相手の[[公明党]]と合わせても過半数に届かない参院対策として、他党と政策ごとの「部分連合」を探る考えだ。その際には、単なる数合わせでなく、中小政党の主張にぜひ幅広く耳を傾けてほしい。
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自民党には到底及ばないにせよ、各党にはそれぞれの支持者がいる。政党間の対話は、国民各層との対話だ。少子高齢化が進み、財政も火の車の日本では、どの党が政権を担おうとも、将来の負担増を国民に丁寧に説明する必要がある。だからこそ、安倍氏には奥行きあるリーダーに変身してほしい。
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16日夜、安倍氏は党本部でカメラマンから「歯を見せて笑って」と要望されても表情を崩さなかった。「自民党への厳しい目は続いている」。安倍氏のみならず、自民党幹部が口をそろえる自省のフレーズが、本心からのものであることを願ってやまない。
  
 
==発行所==
 
==発行所==

2013年1月3日 (木) 19:18時点における版

毎日新聞(まいにちしんぶん)は日本新聞の一つ。発行部数は公称393万部。 毎日新聞社が発行している。かつては朝日新聞と共に2強に数えられていたが、その後の拡販競争と経営危機で遅れをとり、現在では讀賣新聞朝日新聞に大きく水を開けられている。(この2紙と毎日をあわせて三大紙と呼ばれる)。
現在のスローガンは、「論争がある。本当が見える。」

新聞販売店の愛称は「毎日ニュースポート」であるが、近年は余り呼称される機会が少ない。

略史

  • 1872年東京日日新聞』、東京浅草の日報社から創刊。
  • 1875年 『東京日日新聞』、新聞の個別配達実施。
  • 1876年 日報社、『中外物価新報』の印刷発行を三井物産から請け負う。
  • 1882年 『日本立憲政党新聞』創刊。(1885年、『大阪日報』と改題。さらに1888年、『大阪毎日新聞』と改題)
  • 1906年 大阪毎日新聞社、東京の『電報新聞』を買収、同紙を『毎日電報』に改題して東京進出を果たす。
  • 1911年 大阪毎日新聞社は日報社を合併。(『東京日日新聞』と『大阪毎日新聞』の題号はそれぞれ変更せず。)
          大毎発行の『毎日電報』を『東京日日新聞』に吸収させる。(東京日日は地紋の桜模様や「余録」欄等を継承)
  • 1936年 『東京日日新聞』が『時事新報』を合同。
  • 1943年 東西で異なっていた題号を『毎日新聞』とする。
  • 1951年 名古屋の中部支社を中部本社に昇格。名古屋での新聞の発行を再開。
  • 1959年 札幌に北海道支社を新設。北海道でも新聞の発行を開始。
  • 1965年 西部本社、北九州市門司区から現在の小倉北区の『毎日西部会館』に移転
  • 1966年 東京本社、有楽町から現在の竹橋(パレスサイドビルディング)に移転。
  • 1967年 6月15日、西部本社セット版地区の地方版を2ページにする(地方版ワイド化のはしり)。
  • 1971年 3月12日、西部本社で輪転機八台を損傷する火災が発生する。
  • 1972年 沖縄返還協定密約をめぐる「外務省機密漏洩事件」(いわゆる「西山事件」)発生。
  • 1976年 「記者の目」欄開始。(その後記者の目(テレビ版)5社ニュースなどで放送された)
  • 1977年 負債を整理する旧社(株式会社毎日)と、通常の業務を行う新社(株式会社毎日新聞社)とに分離する「新旧分離」方式で会社を再建。登記上の本店を大阪から東京に移転。
  • 1985年 新旧両社が合併し会社再建計画終結。
  • 1992年 大阪本社、堂島から現在の西梅田に移転。
  • 2002年 創刊130周年を迎える。
  • 2003年 中部本社が名古屋駅前のビル建て替え(トヨタ自動車と共同)のため、名古屋市中区正木の日本経済新聞名古屋支社の旧社屋ビルに仮移転。

全国紙への道

『東京日日新聞』は1872年条野伝平西田伝助落合幾次郎が創刊した東京最初の日刊紙。当初は浅草茅町(現在の浅草橋駅近辺)の条野の居宅から発刊したが、2年後銀座に社屋を建てて進出。雑報入りの「新聞錦絵」が東京土産として話題を呼んだ。
1873年岸田吟香が入社し、平易な口語体の雑報欄が受け大衆紙として定着するも、1874年入社と共に主筆に就任した福地源一郎が社説欄を創設してから、紙面を一新。政府擁護の論陣を張る御用新聞となり、自由民権派の政論新聞と対抗した。桜痴(福地源一郎)の社説、 吟香の雑報、それに成島柳北の雑録が、 この新聞の三大名物と謳われた。

しかし、1880年頃から政府批判の高まりとともに、御用新聞批判も強まる。そして1888年、社長交代をきっかけに論調が中立路線に転換して大幅に部数を伸ばすが、1891年に長州藩閥の機関紙化してしまい、元の木阿弥となる。その後、伊藤博文井上馨三井財閥の支援を受けるが、1904年には一転して三菱財閥が買収。加藤高明が社長に就任するが経営不振は打開されず、1911年『大阪毎日新聞』に買収される。

その『大阪毎日新聞』は明治初期には政治色が強かったため経営上振るわなかったが、1889年から穏和な論調に転換、広告収入の増加もあって『大阪朝日新聞』(現『朝日新聞』)と並ぶ関西の有力紙となっていた。

さて、その後の新体制は第一次世界大戦の勃発を他紙に先駆けて報道、ロシア革命の報道やレーニンの会見でも注目を集める。この頃、シベリア出兵には慎重論をとり、国内問題では米騒動などの社会問題も取り上げ、普通選挙運動にも賛成の立場をとったが、同様の論調をとる東西『朝日新聞』と覇権争いを全国的に繰り広げた。こうした動きは結果的に両社の発展につながったと言える。

業績を回復した『東京日日新聞』は、大正期には東京五大新聞(報知時事國民東京朝日・東京日日)の一角に数えられ、関東大震災も大毎のバックでこれを乗り切った。震災報道では朝日陣営の後手に回ったが、報道そのものは東京日日の方が評価が高かったとされる。この後、東都新聞界は大阪資本の朝日・東京日日の二強体制となり、1929年には『國民新聞』主筆の徳富蘇峰が移籍。1936年には『時事新報』を合同した。1939年東京・有楽町に完成した新社屋には当時東京でも珍しいプラネタリウム「東日天文館」が設置され、壁面には電光ニュースがまたたいた。(なお、この天文館は1951年、ラジオ東京(現在のTBS)のスタジオに転用された。)

1943年紙名を『毎日新聞』に統一。名実共に全国紙となった。
(なお、『東京日日新聞』の名前は1946年、毎日系の新興夕刊紙として一時復活していた。この新『東京日日新聞』は1956年に休刊しており、現存しない。)

紙面・論調

右派から左派的と言われる事があるが、保守的な論調が顔を覗かせる時もある。これは、昔から社内に派閥があり、様々な考えを持った記者を抱えていることが影響していると言われている。また、無理に論調を統一しようという雰囲気に乏しいことは、多様な見解を掲載できるという意味でプラスに働いているともいえよう。
そのマイナスの側面としては、政府の方針、政策に対して、批判するわけでも賛同するわけでもなく、玉虫色に論評するだけの記事も少なくない。社説などは、92年の湾岸戦争時に自衛隊の海外派遣を強く批判し、憲法改正にも反対してきたが、この10年で大きく方針を転換。現在は「論憲」を掲げて自衛隊の海外派遣に賛成することもある。
上記の通り、紙面論調が一致しない故に右派左派問わず情報提供者からの所謂「特ダネ」を紙面に載せることが多く「スクープの毎日」として知られている。
一方、社会面、夕刊特集面など護憲・反戦平和的な記事が散見されるページも健在である。このような二面性はマスメディアにとって「命綱」であるはずの表現の自由に関わる問題でも見受けられ、全国紙の中では「青少年の保護」を大義名分に掲げた表現規制に最も肯定的な論調を取っているが(一例・2006年1月18日付社説)、こうした姿勢は紙面審議会委員から批判されている。
そのうえ、学界ではほぼ否定されている「ゲーム脳」理論を無条件で称賛するなど(但し『サンデー毎日』ではゲーム脳批判記事も掲載している)、漫画アニメゲーム愛好者からは嫌われる傾向が強い。その一方で、全国紙では最もゲーム情報に力を入れているうえ漫画・アニメ・ゲーム情報を掲載したフリーペーパー『まんたんブロード』を発行している。
また、社説では他紙よりも社会関係の社説を載せることも多い。最近の例を挙げれば、強制わいせつ罪現行犯で逮捕された自民党中西一善衆議院議員(当時)への批判、またワールド・ベースボール・クラシックの誤審に対する批判も書かれた。全国紙でこの関連の社説が書かれたのは毎日だけである。
経営危機の後、収入源として聖教新聞の印刷を一部請け負うようになったため、創価学会関連の記事や広告が比較的多く、また創価学会幹部の発言がコラムや対談記事として掲載されることがある。そのため特定の宗教団体を巡る記事を掲載するに際して、編集の独立性に対する萎縮的効果を生じているのではないかという指摘がある(週刊ダイヤモンド2004年8月7日号に詳述)。ただし、創価新聞・公明新聞といった創価学会関連紙の印刷請負は毎日新聞に限らず、朝日・読売・日経の全国紙および中日(東京)・北海道・西日本新聞等のブロック紙・地方紙にあまねく存在する。

紙面では文化および日曜版の書評欄が特筆に価する。特に書評に関しては、委員一名の推薦で自由に新刊本を紹介できる制度を取っている。この点でも、意見の多様性を認めようという社の気風が表れている。また、他社に比べて書評文の分量が多いなど、斬新な紙面づくりを行っており、評価が高い。

一般紙では、テレビラジオ番組表(ラ・テ欄)を最終面に掲載するのが当たり前となっているが、ラ・テ欄を全国紙で初めて最終面に掲載したのは毎日新聞である(西部本社版が最初。その後、全国で最終面掲載となった)。

注目を集めた報道

新聞界の権威である新聞協会賞に全国紙で最多受賞。 2000年度の受賞記事である、考古学会のゴッドハンドと言われた藤村新一による旧石器捏造事件スクープは、教科書にも記載のある日本最古の遺跡、上高森遺跡が存在しなかった可能性を示唆し、日本の考古学に重大な影響を与えた。その後、2001年、2002年度、2003年度の4年連続で受賞した。

疑義が持たれた報道、スキャンダル

  • 新聞報道史上大問題となると同時に毎日新聞社を壊滅的経営危機に追い込む原因となった「西山事件」については別項参照。
  • 近年、保守派の論客が虚報・誤報だと指摘している日中戦争当時の「百人斬り競争」報道は毎日新聞の前身、東京日日新聞によるものであり、戦後開かれた南京軍事法廷において、「百人斬り」を行ない「捕虜および非戦闘員に対する虐殺競争をおこなった」「南京大虐殺の共同正犯」(軍事法廷判決文)と判決を受け二人の元将校が処刑された。(百人斬り競争の項を参照)
  • 2003年にはヨルダンアンマン国際空港で、毎日新聞のカメラマンが“取材活動の記念に”とイラクから持ち出したM77子弾の不発弾が爆発し、警備隊員などが死傷する事故が起きた。カメラマンは過失致死などの罪で実刑判決を受けた。毎日新聞社は政治力を駆使しヨルダン国王の特赦を獲得したが、記者は釈放・帰国の後、懲戒解雇された。
  • 2004年1月31日には、系列ホテル「国際観光ホテルナゴヤキャッスル」のコーヒー豆納入を巡り、当時の毎日新聞社長が自宅付近で拉致される事件が発生した。しかし、毎日新聞社はこの事実を一ヶ月間隠蔽し、警視庁が犯人の起訴を発表する僅か10分前になってから事件を発表した。この一連の隠蔽行動に、日頃、企業に対して厳しく説明責任を追及してきたはずのマスコミ自身が、企業としての説明責任を果たしていないのではないか、との指摘がなされた。
  • 2004年11月、奈良市において毎日新聞販売店店員が小学一年の女子児童を誘拐し殺害。奈良小1女児殺害事件の項を参照。

橋下の入れ墨調査に疑問。私の体にもタトゥーが入ってる。後悔したことはない

多様性こそ社会

大阪市で行われた全職員を対象としたタトゥー(入れ墨)調査を、私は疑問に感じている。調査をしなければ分からない程度であれば人目に付くこともなく、職務に支障が出るとは到底思えない。調査の発端は、児童福祉施設の職員が腕の入れ墨を児童にあえて見せたこと。入れ墨の有無ではないはずだ。

私は米国留学中にタトゥーを入れた。もちろん今も体にある。人種差別を批判する米国の音楽を好きになり、タトゥーに興味を持った。米国でファッションとして浸透していることもあった。同時に、社会問題に関心を抱くきっかけにもなった。そのおかげで今の私がある。取材の時は人目に触れない服装を心掛けている。タトゥーを彫ったことを後悔したことはない。

タトゥーを入れている人は日本社会では少数派。嫌悪感を感じる人が多くいるのも分からなくはない。
しかし、なぜレッテルを貼って管理する必要があるのだろうか。自分が嫌いなものを排除すれば、楽だろう。
しかし、そういう社会を望むのならば、ロボットの社会を作ればいい。

日本には四季がある。春夏秋冬、違う表情を見せる。人間も、それぞれが違うからこそ面白い。
私は、そう思う。

大阪通り魔殺人事件…男が更生の機会を得られず、失望した可能性は否定できない」信濃毎日新聞

「人を殺せば死刑になると思った。誰でもよかった」。大阪市で起きた通り魔事件で逮捕された男が、そう供述している。

7人が死亡し、10人がけがをした東京・秋葉原の事件をはじめ、これまでに起きた無差別殺傷事件の犯人たちが口にした「理由」と同じである。

40代の男性と60代の女性の命が奪われた。助けを求める声を無視し、男は何度も刃物を振るっている。残忍な犯行に至った詳しい動機の解明を急いでほしい。男の生活や精神状態などを十分に調べ、事件の背景に迫らなければならない。

男は、覚せい剤取締法違反の罪で服役していた新潟刑務所を、5月下旬に満期出所したばかりだったという。「住む家も仕事もなく、生きていくにはどうしたらいいのか、と自殺を思い立った」と供述している。刑務所の出所者が社会復帰するための環境整備の遅れが、以前から指摘されている。

保護観察が付く仮出所者は、住居や就職などで公的支援を受けることができる。刑期を終えた満期出所者は対象外で、支援策は手薄な状態にある。2011年の犯罪白書によると、出所者が5年以内に再び刑務所に入る割合は、仮出所者が30%なのに比べ、満期出所者は53.4%と半数を超えている。再犯者の7割が無職という分析もあり、働く場の大切さを示している。

法務省は、出所者を雇う意思のある企業に登録してもらう制度「協力雇用主」を設けている。昨年までに9千社余りが登録した。出所者を雇用した企業を、入札などで優遇する自治体もある。経済界もNPO法人をつくり、雇用を後押ししている。

しかし、再犯の不安や経営状況の悪化から採用実績は伸び悩んでいる。更生保護施設でも、住民の反対で出所者が入れない事例も出ているという。

男が更生の機会を得られず、失望した可能性は否定できない。国は社会復帰を促す環境整備にさらに力を入れる必要がある。私たち市民も、出所者の孤立を防ぐ対策に理解を深めたい。

【毎日小学生新聞】 韓流を愛してやまないファンは、日本と韓国の関係が悪くなったときの『冷却剤』の役割を果たしてくれます」

韓流ブームの聖地。ここはソウルから北東に約60キロメートル。朝鮮半島の大河・漢江のダム湖に浮かぶ南怡島です。

木の葉のような形をした周囲6キロメートルの島で、名前は15世紀の朝鮮時代の勇敢な武将、南怡将軍から来ています。17歳で武士の試験に合格。大きな乱を平定し活躍しましたが、王様が変わると逆に嫌らわれ、27歳でこの世を去りました。そしてお墓がここにあるのです。

今は自然豊かな総合リゾート地として知られています。ところで、このメタセコイヤの並木道、どこかで見たことはありませんか?そうです、韓国のドラマ「冬のソナタ」(2002年)の雪景色シーンで有名になりました。

「冬ソナ」は2003年にNHK BSで放送され、日本で「韓流ブーム」が起きるきっかけとなりました。主人公を務めた俳優ペ・ヨンジュンさんは「ヨン様」と呼よばれ、今も高い人気を誇こります。南怡島はそのロケ地なので、ブーム発祥の地とも言えるでしょう。

家族3人で島を訪ねた女性(43)は、夫の仕事で日本からソウルに来て4年目。

「韓国語の勉強のために見始めたが、人の気持ちの描き方がストレートでおもしろく、すっかりはまってしまいました」と、韓流ドラマの魅力を語ります。

映画や音楽くも含む「韓流」はほかの国でも人気です。今年は歌手PSYが韓国語で歌う曲がアメリカやイギリスで大ヒットしました。日本と韓国はときに竹島の問題などで熱くなり、関係が悪くなることがありますが、「韓流を愛してやまないファンは、 そんなときの『冷却剤』の役割を果してくれる」と話専門家もいます。【ソウル・西脇真一】

毎日小学生新聞 2012年11月10日

信濃毎日新聞「有権者は自民に全権を委ねたわけではない。巨大与党の勇ましい決断は危うい。監視し熟議する政治が必要だ」

国会議事堂は昭和から平成の激動の議会史を見つめてきた。1936(昭和11)年の完成後に衆院は戦前2回、戦後は24回の総選挙で選ばれた議員を迎えた。今回、「自民大勝」がその歴史に新たに刻まれる

英国経済学者アダム・スミスは「国富論」で説いた。自分の利益を考え行動すれば「見えざる手」に導かれて社会全体の利益につながる―。選挙に「見えざる手」があるとすれば、導かれた政治のかたちは「自民1強」だった。

この1カ月で円安が進み、平均株価は千円余り上がった。大胆な金融緩和や財政出動など自民党総裁安倍晋三さんの「アベノミクス」を市場の「見えざる手」が期待し、自民支持にもつながったのか。 そうなら反動や副作用が起き、歯止めなき「アベインフレ」の恐れはないのか

国会議事堂の建設は17年の歳月をかけた。完成を信濃毎日新聞は「憲政史を飾る一頁」と伝えた。けれど、この年の2月に「二・二六事件」が起き、しゅん工前の内部が軍靴で汚れた。議会政治は既に政党間の批判合戦で衰退していた。 事件後は軍部批判もしぼみ、暴走を許した。

今回、迷って1票を投じた有権者は自民に全権を委ねたわけではない。巨大与党の勇ましい決断は危うい。監視し熟議する政治が必要だ。それは「見えざる手」ではなく、有権者の手で育てたい。議事堂に刻まれた歴史に触れてそう思う。

「衆院選で圧倒的議席得た自民党。しかし私が取材した限り、有権者の反応過去2回と決定的に違った。熱狂はなかった」

国政の担い手を決める重要な審判の日なのに、どうしてごくりと生唾をのみ込むような緊張感がわかないのだろう。

2012年12月16日夜、党関係者や記者でごった返す自民党本部で開票状況を取材しながら、そんな思いにとらわれた。

自民党296議席の2005年選挙、民主党308議席の2009年選挙に続いて、民意はまた大きく振れた。自民、公明両党で計325議席。参院で否決された法案を衆院の3分の2以上の賛成で再可決できる320議席を超えた。しかし、私が取材した限り、有権者の反応は過去2回とは決定的に違った。

2005年、私は兵庫県尼崎市にある阪神支局に勤務していた。遊説に訪れた小泉純一郎首相(当時)が「郵政民営化の是非を問う選挙だ」と絶叫するや鈴なりの聴衆は喝采を送り「純ちゃーん」の声援が飛んだ。首相官邸を担当していた2009年は、民主党候補が街頭で配る簡易版マニフェストがみるみるはけていくことに「政権交代近し」を実感した。

今回衆院選序盤の6日、安倍氏の関西地方遊説に同行した。声をからし、経済政策や教育再生を訴える姿勢に決意のほどは見えたものの、聴衆にこれまで2回の選挙のような「熱狂」はなかった。印象に残ったのは、拍手をした後、なんとなく周囲の様子をうかがうような人が多かったことだ。報道各社の情勢調査は序盤から自民党の優位を繰り返し伝えたが「こんなにいいはずがない」という同党幹部の受け止めには、私もまったく同感だった。

民主党はだめだが、「第三極」政党にも託せない。今回は消去法で自民党?。有権者にそんな心理が働いた結果だとしたら、次にまた自民党がつまずいた場合、民意はどこに向かうのだろう。今回記録した戦後最低の投票率59.32%は、政治不信が燃え上がる火種のような気がしてならない。

だからこそ、安倍氏の責任は重大だ。2006,2007年の首相在任中、「美しい国」「戦後レジームからの脱却」と大上段に構え、国民投票法教育基本法改正を実現した一方で、党や内閣の要職への側近の重用は「お友達人事」と批判され、指導力不足も露呈した。2007年参院選で大敗し、健康問題もあって間もなく政権を投げ出した残像はなお消えない。しかも、国会は衆参両院で与野党勢力が逆転した「ねじれ」状態になり、安倍氏以後の自民党の首相は政権運営に行き詰まってほぼ1年ごとに交代した。

安倍氏は当時を「肩に力が入っていた」と振り返る。5年間の雌伏の日々を経てどこが変わったのか、注視しているのは私だけではないだろう。

衆院選中に毎日新聞が実施した特別世論調査で「最も重視する争点」を尋ねたところ、「景気対策」が32%でトップだった。「憲法改正」はわずか2%。安倍氏が来夏の参院選までは改憲の悲願を封印し、経済対策に重点的に取り組もうとしているのは理にかなっている。自民党自身が2007年参院選の敗因を「政策の優先順位が民意とずれていなかったか」と総括したことを忘れてはならない。

安倍氏は連立相手の公明党と合わせても過半数に届かない参院対策として、他党と政策ごとの「部分連合」を探る考えだ。その際には、単なる数合わせでなく、中小政党の主張にぜひ幅広く耳を傾けてほしい。

自民党には到底及ばないにせよ、各党にはそれぞれの支持者がいる。政党間の対話は、国民各層との対話だ。少子高齢化が進み、財政も火の車の日本では、どの党が政権を担おうとも、将来の負担増を国民に丁寧に説明する必要がある。だからこそ、安倍氏には奥行きあるリーダーに変身してほしい。

16日夜、安倍氏は党本部でカメラマンから「歯を見せて笑って」と要望されても表情を崩さなかった。「自民党への厳しい目は続いている」。安倍氏のみならず、自民党幹部が口をそろえる自省のフレーズが、本心からのものであることを願ってやまない。

発行所

印刷工場

対象地域

  • 東京本社版 東北、関東、甲信越、静岡県
  • 大阪本社版 近畿、三重県伊賀・熊野地方、北陸、中国(山口県、島根県石見地方除く)、四国
  • 西部本社版 九州(沖縄県含む)、山口県、島根県石見地方
  • 中部本社版 東海(静岡県、三重県伊賀・熊野地方除く)
  • 北海道支社 北海道

関連紙

ここまでは毎日新聞社が直接発行している新聞・雑誌である

関連項目

毎日新聞社の事業

毎日新聞関連テレビ番組

その他

関連・兄弟会社

関連放送事業者

  • 東京放送(TBS) - 放送事業が民間に開放される動きを察知した毎日新聞社は、いち早く民放ラジオ局開設に向けて動き出した。結局電通読売新聞社朝日新聞社との合弁となりラジオ東京(JOKR)が設立されたが、同社設立までの間積極的に動いていたのは毎日系だけだった。このため開局当初から関係が深く、出資比率がほぼ同じであったはずの新聞各社よりも実際は結びつきが強かった。
    1961年以降、新聞出身者の同社常勤役員は毎日系だけとなる。1973年12月には出資新聞各社の合意に基づき新聞資本の統一が行われることとなり、1974年5月までに読売新聞社や朝日新聞社から株式を購入し、筆頭株主になったものの、直後に毎日新聞社自体の経営が悪化。
    TBSは毎日新聞社が筆頭株主になる事で経営に介入される事を警戒。しかし毎日新聞社は経営体質改善のため、TBS株の売却益で累積損失の圧縮を図る事を決意。
    こうした両者の思惑が一致して、1977年度中に毎日新聞社はTBSの持株の大部分を毎日放送他に売却して資本関係を薄めたが、一方で歴代社長を同社非常勤役員に派遣。友好関係は維持して現在に至っている。
  • 毎日放送(MBS) - 大阪地区でも、毎日新聞社が阪急電鉄日本電気と提携し、新日本放送(NJB)を設立。名古屋の中部日本放送(CBC)と共に民放第一号の名乗りを上げたが、実際に開局に尽力したのは毎日本社ではなく、毎日新聞を依願退職して同局に移籍した高橋信三(専務・社長・会長を歴任)であったといわれる。このため従来から独自色が強く、現在毎日新聞は同社の大株主上位10位に名を列ねていない(2004年3月31日現在)。元々筆頭株主だったが、TBS株式売却と同時期にやはり外部に大量放出。毎日放送側の意向が強かったと言われる。
    在阪局で同じく新聞と共通の名前を持つ朝日放送讀賣テレビ放送とは新聞社の関係度合いが異なる。
  • アール・ケー・ビー毎日放送(RKB) - 福岡地区も毎日新聞社と新日本製鐵(当時八幡製鉄)、西日本鉄道などが中心となり、ラジオ九州(RKB)を設立。1958年西部毎日テレビジョン放送(当時の八幡市に所在。未開局)を合併し、現在の商号に変更。この局も毎日新聞というよりは毎日出身者である金子秀三(専務・社長・会長を歴任)の影響力が大きかった。毎日新聞・MBS・TBSのいずれとも関係が深く、現在も毎日新聞は同局第2位の大株主(7.74%、2004年3月31日現在)。

上記三社は毎日新聞社が公表する「友好会社」である。グループ会社ではなく、立場は対等であり、代表者同士が相互に社外役員に就任している。

  • ラジオ福島(RFC) - 第4位の大株主(10.00%、2004年3月31日現在)。

上記は毎日新聞の関連会社である。
以下は出資先や報道協力会社等に該当する局である。

紙齢について

日本最古の日刊新聞」と言われることがあるが、1870年(明治3年)横浜で創刊された『横浜毎日新聞』とは全くの無関係である。
それでも「最古の歴史」と呼ばれるのは、前身の『東京日日新聞』(1872年2月創刊)に由来しているからである。同じく「最古の歴史」を標榜する『報知新聞』(1872年6月創刊)や『読売新聞』(1877年創刊)よりも古いとされるが、『東京日日新聞』の名前自体は1943年に一度途絶えており、また1946年傍系紙として復活して『毎日新聞』とは別新聞となっていた時期もあるため、この「最古の歴史」には疑問の声がある。

外部リンク

毎日新聞関連

その他