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=== 恋愛作品のヒット ===
 
=== 恋愛作品のヒット ===
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「ウイングマン」終了後は「[[超機動員ヴァンダー]]」・「[[プレゼント・フロム LEMON]]」と短期終了の連載が2作続き、不遇の時代を迎える。再び担当となった鳥嶋のサポートから「[[恋愛]]モノ」に取りかかり、『ウイングマン』とは逆に恋愛にSF要素を取り入れた読切「[[電影少女#ビデオガール|ビデオガール]]」を[[1989年]]([[平成]]元年)に発表、同年さらにこれを元にした「[[電影少女]]」の連載を開始する。『電影少女』は単行本巻数としては『WJ』時代最長となる15巻まで続き、[[OVA]]化・[[実写]][[映画]]化等様々な[[メディアミックス]]展開が行なわれるヒット作となった。両作は桂にとって漫画家としてのターニングポイントとなっており、作風に様々な変化をもたらした(詳細は[[#作風|作風の節で後述]])。またこの年公開された[[映画]]『[[バットマン (映画)|バットマン]]』をきっかけに桂は『[[バットマン]]』のファンとなり、以降の作品に影響を与えた(詳細は[[#趣味|趣味の節]]で[[#バットマン|後述]])。
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「電影少女」終了後、[[1992年]](平成4年)からは鳥嶋が創刊編集長を務めた『[[Vジャンプ|週刊少年ジャンプ特別編集増刊 V JUMP]]』において「[[SHADOW LADY]]」【VJ版】を連載、その後『WJ』に戻り[[1994年]](平成6年)から「[[D・N・A² 〜何処かで失くしたあいつのアイツ〜]]」・[[1995年]](平成7年)からは「SHADOW LADY」【WJ版】とアクション色の強い作品を続けて発表する。『D・N・A² 』の連載は単行本5巻分と比較的短期だったが、テレビアニメ化されている。
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[[1996年]](平成8年)には初の青年誌向け作品として「[[M エム|エム]]」を『[[MANGAオールマン]]』にて発表する。そして翌[[1997年]](平成9年)にはWJ編集部の意向に沿う形で、SF要素を一切排した恋愛漫画「[[I"s]]」の連載を開始する。同作は『WJ』時代最長の作品となり、連載終了後にもメディアミックスが行なわれるヒット作となった。
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=== ヤングジャンプへの移籍 ===
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[[2000年]](平成12年)の「I"s」連載終了と同年に掲載された読切「Dr.チャンバリー」を最後に、桂は長年活動の場として来た『WJ』を離れる。そして[[2002年]](平成14年)に発表された「[[M エム|M 完全版]]」以降は活動の場を『[[週刊ヤングジャンプ]]』に移し、同年より「[[ZETMAN]]」の連載を開始する。5年以上に渡って連載が継続されており、桂最長の作品となっている。移籍後に発売された『I"s』の[[完全版コミックス|完全版]]は『WJ』連載作品でありながら[[ヤングジャンプ・コミックス]]レーベルからの発売となっている。
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== 年表 ==
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{{Small|※連載誌の記載がないものは『[[週刊少年ジャンプ]]』において連載。}}
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* [[1962年]](昭和37年) - [[福井県]]で生まれる。
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* 197?年(昭和4?年) - [[小学校|小学生]]の頃に[[千葉市]]に引っ越す。その後[[中学校|中学]]になる頃に[[市原市]]へ引っ越し、20歳頃までを過ごす。
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* [[1980年]](昭和55年) - [[高等学校|高校]]卒業間際に[[週刊少年ジャンプ#新人漫画家の募集企画|フレッシュジャンプ賞]]に応募していた作品が[[鳥嶋和彦]]の目に止まる。また「[[桂正和コレクション#ツバサ|ツバサ]]」で第19回[[手塚賞]]佳作受賞。阿佐ヶ谷美術専門学校へ入学する。
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* [[1981年]](昭和56年) - [[専修学校|専門学校]]在籍中に「[[桂正和コレクション#転校生はヘンソウセイ!?|転校生はヘンソウセイ!?]]」で第21回手塚賞準入選を受賞。[[漫画家]]として[[デビュー]]する。
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* [[1983年]](昭和58年) - 「[[ウイングマン]]」で連載デビュー( - [[1985年]])。初の[[単行本]]となる『ウイングマン』1巻が8月に発売。
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* [[1984年]](昭和59年) - 『夢戦士ウイングマン』として『ウイングマン』が初のテレビアニメ化。初の短編集『[[桂正和コレクション]]』1巻を発売。
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* [[1985年]](昭和60年) - 「[[超機動員ヴァンダー]]」連載開始( - [[1986年]])。
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* [[1987年]](昭和62年) - 「[[プレゼント・フロム LEMON]]」連載開始(同年終了)。
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* [[1988年]](昭和63年) - 「[[桂正和コレクション#小さな灯り|小さな灯り]]」を『[[スーパージャンプ|週刊少年ジャンプ特別編集 スーパージャンプ]]』に掲載。初の[[青年漫画|青年誌]]掲載。
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* [[1989年]](平成元年) - 「[[電影少女]]」連載開始( - [[1992年]])。
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* [[1991年]](平成3年) - 『[[電影少女#映画|電影少女 -VIDEO GIRL AI-]]』として『電影少女』が初の[[実写]][[映画]]化。
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* [[1992年]](平成4年) - 『[[電影少女#OVA|電影少女 -VIDEO GIRL AI-]]』として『電影少女』が初の[[OVA]]化。『[[Vジャンプ|週刊少年ジャンプ特別編集増刊 V JUMP]]』において「[[SHADOW LADY#VJ版|SHADOW LADY]]」【VJ版】連載開始( - [[1993年]])。
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* [[1993年]](平成5年) - 「[[D・N・A² 〜何処かで失くしたあいつのアイツ〜]]」連載開始( - [[1994年]])。
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* [[1994年]](平成6年) - [[OVA]]『[[I・R・I・A ZEIRAM THE ANIMATION|I・Я・I・A ZЁIЯAM THE ANIMATION]]』の[[キャラクターデザイン]]を担当。
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* [[1995年]](平成7年) - 「[[SHADOW LADY#WJ版|SHADOW LADY]]」【WJ版】連載開始( - [[1996年]])。
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* [[1996年]](平成8年) - 「[[M エム|エム]]」を『[[MANGAオールマン]]』に掲載。初の青年向け漫画。
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* [[1997年]](平成9年) - 「[[I"s]]」連載開始( - [[2000年]])。
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* [[1998年]](平成10年) - 初の[[イラストレーション|イラスト]]集『'''4C'''』を発売。
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* [[1999年]](平成11年) - [[テレビゲーム|ゲーム]]『[[LOVE & DESTROY]]』のキャラクターデザインを担当。
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* [[2002年]](平成14年) - 「[[M エム|M 完全版]]」より活動の場を『[[週刊ヤングジャンプ]]』に移し、「[[ZETMAN]]」を連載開始( - 連載中)。
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* [[2011年]](平成23年) - [[テレビアニメ]]『[[TIGER & BUNNY]]』のキャラクター原案を担当。
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== 作風 ==

2012年6月9日 (土) 20:52時点における版

桂 正和
桂 正和

桂 正和(かつら まさかず、本名同じ、1962年12月10日 - )は日本の男性漫画家。プロダクション名は STUDIO K2R。福井県生まれ。阿佐ヶ谷美術専門学校中退。血液型A型

1981年昭和56年)に『週刊少年ジャンプ』(集英社)32号掲載の「転校生はヘンソウセイ!?」でデビューし、1983年(昭和58年)に同誌5・6合併号から連載を開始した『ウイングマン』で連載デビュー。主に『週刊少年ジャンプ』で活躍し、その後『週刊ヤングジャンプ』(同)に移籍。代表作に『ウイングマン』・『電影少女』・『I"s』など。『週刊ヤングジャンプ』誌上において「ZETMAN」を連載中。

評価は日本国内に留まらず香港台湾アメリカフランスなど様々な国のファンより支持されている。

来歴

連載デビューまで

1962年昭和37年)福井に生まれ、小学生の時に千葉県千葉市村田町へ引っ越し、さらに中学になる頃に同県市原市八幡へ移り20歳頃までを過ごす。子供の頃からは得意で受賞などもしていたが、アニメ漫画にはさほど惹かれておらず、ウルトラシリーズ仮面ライダーシリーズといった特撮ヒーロー物に夢中になっていた。

中学時にV55 (Technics) という50万円のコンポーネントステレオが欲しく、当時50万円だった賞金目当てに手塚賞への応募を始める。最初の道具は手塚治虫の入門書を読んで小遣いで揃えた物だった。それまでは漫画家を目指していたわけでもない上に漫画もほとんど読んでおらず、当初は賞金だけが目的であった。目的のコンポは賞金を手に入れる前に買ってもらったが、漫画を描き続ける中で描くおもしろさを覚え、高校時には授業中にペン入れをするなどして漫画に没頭する。そして1980年(昭和55年)の高校卒業間際にフレッシュジャンプ賞に投稿した作品が選外ながらも編集者鳥嶋和彦の目に止まり、また同時期に手塚賞に応募していた「ツバサ」が佳作に入選する。

高校時代には『電子戦隊デンジマン』をきっかけとし東映特撮テレビドラマにのめり込む(詳細は趣味の節後述)。こうした特撮ヒーロー物のファン故、そのトレースしただけの様なSF作品ばかりを描いていたが、担当となった鳥嶋にラブコメディ作品を描く様に薦められ「転校生はヘンソウセイ!?」を執筆する。同作は初めてのラブコメであったにも関わらず手塚賞準入選に入賞して『週刊少年ジャンプ』 (以下『WJ』)に掲載され、専門学校在籍中に漫画家としてのデビューを果たす。その後『WJ』で「ウイングマン」の連載を開始し多忙となったこと、そして3年への進級に失敗したことから専門学校を中退。同作は自身の好きなヒーロー物にラブコメディ要素を取り入れたことによりヒットし、アニメ化もされた。

恋愛作品のヒット

「ウイングマン」終了後は「超機動員ヴァンダー」・「プレゼント・フロム LEMON」と短期終了の連載が2作続き、不遇の時代を迎える。再び担当となった鳥嶋のサポートから「恋愛モノ」に取りかかり、『ウイングマン』とは逆に恋愛にSF要素を取り入れた読切「ビデオガール」を1989年平成元年)に発表、同年さらにこれを元にした「電影少女」の連載を開始する。『電影少女』は単行本巻数としては『WJ』時代最長となる15巻まで続き、OVA化・実写映画化等様々なメディアミックス展開が行なわれるヒット作となった。両作は桂にとって漫画家としてのターニングポイントとなっており、作風に様々な変化をもたらした(詳細は作風の節で後述)。またこの年公開された映画バットマン』をきっかけに桂は『バットマン』のファンとなり、以降の作品に影響を与えた(詳細は趣味の節後述)。

「電影少女」終了後、1992年(平成4年)からは鳥嶋が創刊編集長を務めた『週刊少年ジャンプ特別編集増刊 V JUMP』において「SHADOW LADY」【VJ版】を連載、その後『WJ』に戻り1994年(平成6年)から「D・N・A² 〜何処かで失くしたあいつのアイツ〜」・1995年(平成7年)からは「SHADOW LADY」【WJ版】とアクション色の強い作品を続けて発表する。『D・N・A² 』の連載は単行本5巻分と比較的短期だったが、テレビアニメ化されている。

1996年(平成8年)には初の青年誌向け作品として「エム」を『MANGAオールマン』にて発表する。そして翌1997年(平成9年)にはWJ編集部の意向に沿う形で、SF要素を一切排した恋愛漫画「I"s」の連載を開始する。同作は『WJ』時代最長の作品となり、連載終了後にもメディアミックスが行なわれるヒット作となった。

ヤングジャンプへの移籍

2000年(平成12年)の「I"s」連載終了と同年に掲載された読切「Dr.チャンバリー」を最後に、桂は長年活動の場として来た『WJ』を離れる。そして2002年(平成14年)に発表された「M 完全版」以降は活動の場を『週刊ヤングジャンプ』に移し、同年より「ZETMAN」の連載を開始する。5年以上に渡って連載が継続されており、桂最長の作品となっている。移籍後に発売された『I"s』の完全版は『WJ』連載作品でありながらヤングジャンプ・コミックスレーベルからの発売となっている。

年表

※連載誌の記載がないものは『週刊少年ジャンプ』において連載。

作風