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(日本のテニス界)
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日本へのローンテニスの伝播については諸説あり、いまだ詳らかではない(なかでは[[1878年]]にアメリカのリーランドが[[文部省]]の体操伝習所で紹介したという説が広く流布しているが、確たる証拠はないとされる)。
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用具の調達が困難であったことからゴムボールを使う日本の独自の[[軟式テニス]](現在の[[ソフトテニス]])を考案し、独自の発展を遂げた。その[[軟式テニス]]で育った選手([[熊谷一弥]]、[[清水善造]]、[[佐藤次郎]]等)が硬式テニスに転向し、欧州、米国に転戦し始める。彼らはその独特のテニス([[軟式テニス]]で培われたドライブ)で大活躍し、世界を驚かせた。清水は[[1920年]]のウィンブルドン選手権「チャレンジ・ラウンド」で決勝に進出し、当時の世界ナンバー1だった米国の[[ビル・チルデン]]に肉薄した。また、その年に開催された第7回オリンピックで日本がシングルス、ダブルスともに銀メダルを獲得した(尚このメダルが日本のオリンピック最初のメダルである)。熊谷は主に米国で活躍し、クレーコートで無類の強さを発揮した。佐藤は当時の世界ランキングで3位まで昇りつめたが、[[1934年]]4月に遠征中に[[マラッカ海峡]]で投身自殺をする。1970年代には日本でもプロ選手が登場、そのプロ第1号(戦後初のトーナメントプロ)である[[神和住純]](父が[[軟式テニス]]の全日本チャンピオン、本人も軟式出身)が世界を転戦する。神和住は主に「WCTサーキット」で活躍し、当時のトップ選手だった[[スタン・スミス]]を2度破るなどの活躍を見せた。近年は[[松岡修造]]の健闘があった。平均的な成績(アベレージ)はいくらか低かったものの、ピーク時は限りなく高く、時にトップランカーと互角に渡り合い、そして倒した。1995年[[ウィンブルドン選手権]]男子シングルスでのベスト8は大健闘といっていいだろう。それ以後、日本の男子選手で世界トップレベルに近づいた選手は少ないが、2008年に[[錦織圭]]が18歳で日本人最年少ツアー優勝を果たして全米オープンでも4回戦に進出、世界ランキング100位以内に入った。
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女子では[[1975年]]の[[ウィンブルドン選手権]]女子ダブルスで、[[沢松和子]]と[[アン清村]]のペアが初優勝したことが日本テニス界の起爆剤となり、世界挑戦を目指すプロ選手が増えてきた。[[1980年代]]に活躍した[[井上悦子]]はその先駆者的な存在となる。やがて、[[1989年]]にプロ転向した[[クルム伊達公子|伊達公子]]が、[[1990年代]]に目覚ましい大活躍を遂げ、日本人の女子テニス選手として初の世界ランキングトップ10選手に成長した。同時期には[[沢松奈生子]]、[[雉子牟田直子]]、[[長塚京子]]、[[神尾米]]、[[遠藤愛]]、[[佐伯美穂]]、[[吉田友佳]]、[[杉山愛]]等が次々と世界ランキングトップ100入りし、日本女子テニスは全盛を築く。[[平木理化]]の[[1997年]][[全仏オープン]]混合ダブルス部門での優勝もあった。しかし伊達が[[1996年]]に引退した後、他の選手の勢いも衰えた。2004年2月に[[杉山愛]]が世界ランキング8位を記録し、日本人女子として2人目のトップ10入りを果たしはしたが、杉山と[[浅越しのぶ]](伊達の後輩にあたる)の活躍に頼りきりの状態が長らく続いてきた。その[[浅越しのぶ]]は2006年を最後に引退を表明し、2009年には杉山の引退も表明された。[[森上亜希子]]、[[中村藍子]]、[[森田あゆみ]]などの今後の活躍が望まれている。
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== ルール ==
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1対1の'''シングルス'''と2対2の'''ダブルス'''がある。
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試合開始前のトスによって決定された一方のプレイヤーが'''サーバー'''、他方が'''レシーバー'''となり、ゲームごとに交替する。また、プレーするコートは、奇数ゲーム終了ごとに交替する。サーバーはベースラインの外から相手コートのサービスエリアでバウンドするようにボールを打つ。レシーバーはサーブされたボールを2回バウンドする前に相手コートに打ち返し、お互いにラリーを続ける。次のようなときに失点(相手方の得点)となる。
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* サーブを2回続けてフォルト(ダブルフォルト)したとき
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* サーブされたボールがバウンドする前にレシーバーが触れたとき
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* 自分のコートでボールが1回バウンドし、もう1回バウンドしたとき
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* 自分のコートでボールが1回バウンドし、逆回転によってネットを越えて相手のコートに戻ったとき(この場合は特殊で、ボールが相手コート上にあってもネットタッチさえしなければ、2バウンドする前にオーバーネットして打ち返し、相手が取れなければそのポイントは自分のものとなる)
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* 自分のコートに落ちたボールがバウンドしなかったとき
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* 自分の打ったボールの1回目のバウンドが、相手のコート外(アウト)だったとき
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* 打ったボールが審判に命中したとき
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* [[ラケット]]以外の部位がボールに触れたとき
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* 相手コート内でボールに触れたとき
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* 体や[[ラケット]]がプレー中に[[網|ネット]]に触れたとき
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* [[ラケット]]以外の持ち物をコート上に2回落としたとき
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得点は、0点=ラブ (love)、1点=フィフティーン (fifteen, 15)、2点=サーティ (thirty, 30)、3点=フォーティ (forty, 40) と数える。一方が4点を取ると1[[ゲーム]]、6ゲームを取ると1セット取得となる。5セットマッチであれば、3セット取得すると勝利となる。ポイントが両者3点(40)ずつになると「デュース」(deuce)となり、相手に2点差をつけるとそのゲームを得る。なお、この時に1点リードしている状態を「アドバンテージ」(advantage)と言う。また、ゲームカウントが 5-5 になると、そのセットを得るためには2ゲーム差をつけて 7-5 としなければならない。
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ただし、ゲームカウントが6-6となった場合は、次のゲームはタイブレーク(tiebreak)という特別ルールのゲームとなり、2ポイント以上の差をつけて7ポイント以上を獲得した方がゲームの取得者となり、このセットを得る。タイブレーク中のポイントの数え方は、zero、one、two、three、…となる(註:この時は0はzeroとなる)。タイブレークが行われたセットのスコアは、例としてセット取得者側から見る場合は7-6(6)のように表記し、この場合はタイブレークが8-6のスコアで終了したことを意味する(カッコ内の数字はタイブレークを取得しなかった方のポイント数である)。主要な国際大会の最終セットでは、タイブレークのルールを採用せず、2ゲーム差が付くまで通常ルールでゲームを続行する場合もある。
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タイブレークのルールは[[1920年代]]に、試合時間短縮のために考案されたものである。[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]でも、[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]だけは、最終セットでタイブレーク決着を採用している。
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なお、現在は有力選手の参加が少なく注目度の低いダブルスの合理化を目的として、2005年秋以降の男子国際大会において、ダブルスのみ、各ゲームともデュースなし(ノーアドバンテージの1本勝負)、1セットを一律5ゲーム先取方式(4-4で通常方式のタイブレークを行う)とする等のルール変更が提案されており、ダブルスプレイヤーを中心として反対運動が起こるなど、大論争が巻き起こっている。
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このシステムを試行した初の国際大会である2005年10月の[[ジャパン・オープン・テニス選手権|AIGジャパンオープンテニス]]では、日本の[[岩渕聡]]、[[鈴木貴男]]組が日本人ペアとして初のツアーダブルス優勝を果たしている。
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[[2006年]]の[[2006年全米オープンテニス|全米オープン]]から、クレーコートであるためにボールマークが残る全仏を除くグランドスラム大会のメインスタジアムと第一コートにおいて、条件つきで判定に異議を唱えられる「[[ビデオ判定#テニス|インスタントリプレイシステム]]」(チャレンジシステム)が採用された。選手が審判の判定に疑問がある場合に「チャレンジ」を行うと、「[[ホークアイ (審判補助システム)|ホークアイ]]」というCGを用いた自動ライン判定システムのスロービデオが流れ、判定がやり直される。この手続きは主審がオーバールールを行うのと同様に、オンプレイの場合はラリー中のボールを止めて行う。明らかなエースおよびアウトやフォルトの場合はポイントが適用されるが、その他の場合はレットとなり、ポイントをやり直す。誤審が判明すればチャレンジする権利は失われないが、判定が覆らなかった場合、その選手はチャレンジ失敗となり、チャレンジする権利を1回失う。権利は1セット2-3回(全米全豪は3回)与えられる。ただしタイブレークになったセットでは1回、ゲームカウントが6-6となった最終セットでは2回権利が追加される。なお、このルールによってテレビ放送でのリプレイが減った。
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== 用具 ==

2011年5月15日 (日) 16:43時点における版

テニス

テニス(tennis)はネット越しにボールラケットで打ち合う球技。リアルテニス、ロイヤルテニスやコートテニス、ローンテニス、ソフトテニス軟式テニス)等があるが、現在では単にテニスと呼ぶ場合、ローンテニスを指す。但し日本では事情が異なり、硬式テニスと呼ばれたり表記されることが多々ある。これはソフトテニス軟式テニス)と区別するためである。日本においては単にテニスという場合、ソフトテニスを指しているのか硬式テニスを指しているのか曖昧なことが多々ある。庭球(ていきゅう)とも表記する。

歴史

テニス
テニス

複数の人間が1つのを互いに打ち合うという形態の球技の起源は、紀元前にまで遡ることが出来る。エジプトでは宗教的な行為のひとつとしてこのような球技が行われていた。紀元前15世紀の壁画で球を打ち合う球技を行う人々の姿が描かれたものが発見されている。

エジプトに存在したこの球技は、古代ローマ帝国にもレクリエーションの1種類として引き継がれたが、現在のテニスの直接の祖先に当たる球技は、8世紀ごろにフランスで発生し、当初はスール(soule < ケルト語 hehaul 「太陽」より。ボールを太陽に見立てたもの)、フランス貴族の遊戯として定着をはじめた16世紀以降にはジュー・ドゥ・ポーム(jeu de paume 、「掌の遊戯」の意)と呼ばれた。

フランスでこの球技が盛んになった理由としては、ローマ時代の直接の影響よりも、8世紀から11世紀まで、イベリア半島から南フランスまで進出していたイスラム教徒(ウマイヤ朝)が、エジプト時代と同様に、宗教的行為として行っていたものに、キリスト教の僧侶が興味を持ち模倣したことからはじまったと言われている。(「ラケット」の語源がアラビア語であることに注意されたい。フランスの僧院で特に盛んに行われるようになったのは、イスラム勢力がヨーロッパから駆逐された12世紀ごろ以降からとされる。)

現代のローンテニスに対して、初期のテニスは普通単に「テニス」と呼ぶが、このことはあまり知られていない。「テニス」の名称は攻守交代の際のサーバーの掛け声である「トゥネ!」(Tenez! 、動詞 tenir の命令形で「(球を落とさないように)取ってみろ」の意)にちなむ。基本的なルールやスコアリング方式はローンテニスと似ている部分もあり、ファイブズ (fives)、ペロタ (Pelota) などのハンドボールから発達した。

昔のテニスのコートは僧院にあり、四方を壁と傾斜した天井に囲まれていて、現代のローンテニスのコートより大きかった。18世紀から19世紀にかけてヨーロッパの貴族の間で大流行し、多くのコートが建造されたが、現存するものは少ない。イギリスでは復元されたコートがクリフトン大学にある。近代における貴族階級の遊戯としてのテニスは、イギリスではロイヤル・テニス (Royal Tennis 、「王家のテニス」の意)、アメリカではコート・テニス (Court Tennis 、「宮廷のテニス」の意) とも呼んでいる。

中世では、ラケット(現代とはやや形状が異なる)、あるいは掌でボールを打ち合っていた。手袋を使うこともある。「ポーム」とは掌を意味する。ボールは固形物(石等)を芯に糸をぐるぐる巻き、皮で被ったもので現代のものよりはるかに重く、弾力性は少ない。サーブは一方の側からのみ行われ、傾斜した屋根を転がるように打ち上げる。レシーブ側のプレイヤーは、落ちてきたボールが二度バウンドする前に打ち返す。失敗したプレイヤーはポイントを失う。ゲームの最初の第一球の打ち込みが「サーブ」と呼ばれるのは、中世においては、レシーバーにあたる人間の従者が第一球を屋根に打ち上げる役目を行っていたことに起源がある(従者「サーバント」が主人に対して行う行為は「サービス」)。14世紀には現在のラケットの原型が登場した。これはまだガットは張られておらず、ガットが張られるようになったのは16世紀になってからである。また、この初期のラケットは選手が自作していたそうである。

現代の多くのスポーツとは異なり、ローンテニスの歴史はごく浅い。1873年12月ウォルター・クロプトン・ウィングフィールド少佐が考案した「スフェリスティキ(sphairistike 、ギリシア語σφαιριστική 、「球戯術」の意。略してスティッキ(sticky))」がその原型。現在の社会体育、生涯スポーツの概念の先駆けとなる発想で、ラケット、ネット等をセットで商品化し、芝生の上なら何処でも楽しめる『持ち運びのできるテニス』などともいわれた。ボールは中空のゴムボール(軟式テニスボールと同様なもの)を採用し、当初現在のように硬質のフェルト(現在のテニスボールに独特な毛羽立ち)で覆われていなかった。

ウイングフィールド少佐の考案したテニスのコートは、中心部分が細くなっている蝶ネクタイ型をしていた。1874年、ウイングフィールド少佐はテニスに商用としての可能性を見て特許を取得したが、商業的には成功しなかった。ウイングフィールド少佐は特許の期限切れにともなう再申請をおこなっていない。しかし、イギリスやアメリカで有閑階級を中心に急速に広まった。アメリカではニューヨークのスタッテン島、メアリー・ユーイング・アウターブリッジの家で最初にプレイされた。

中空のゴムボールでは芝生上でしばしば不安定なバウンドをみせることがあり、フェルトを巻いた現在のボールに近いものも考案された。その二種のボールはながらく併用されていたが、やがてフェルトカバーボールが主流となっていく。

1881年にはローンテニス・クラブが設立。1877年ロンドンで、アマチュアの大会として第1回目のウィンブルドン選手権が開催された。1881年には、アメリカ国立ローンテニス協会(今のアメリカ・テニス協会)が、ルールを標準化し、かつ競技を組織化した。1881年に「全米シングルス選手権」(最初の名称:U.S. National Singles Championship)の第1回大会がアメリカロードアイランド州ニューポートで開催され、6年後の1887年に「全米女子シングルス選手権」(U.S. Women's National Singles Championship)が始まった。これらが現在の全米オープンの原型となった大会群である。男子テニス国別対抗戦のデビスカップは、ナショナルチームの間で1900年から始まった。

日本のテニス界

日本へのローンテニスの伝播については諸説あり、いまだ詳らかではない(なかでは1878年にアメリカのリーランドが文部省の体操伝習所で紹介したという説が広く流布しているが、確たる証拠はないとされる)。 用具の調達が困難であったことからゴムボールを使う日本の独自の軟式テニス(現在のソフトテニス)を考案し、独自の発展を遂げた。その軟式テニスで育った選手(熊谷一弥清水善造佐藤次郎等)が硬式テニスに転向し、欧州、米国に転戦し始める。彼らはその独特のテニス(軟式テニスで培われたドライブ)で大活躍し、世界を驚かせた。清水は1920年のウィンブルドン選手権「チャレンジ・ラウンド」で決勝に進出し、当時の世界ナンバー1だった米国のビル・チルデンに肉薄した。また、その年に開催された第7回オリンピックで日本がシングルス、ダブルスともに銀メダルを獲得した(尚このメダルが日本のオリンピック最初のメダルである)。熊谷は主に米国で活躍し、クレーコートで無類の強さを発揮した。佐藤は当時の世界ランキングで3位まで昇りつめたが、1934年4月に遠征中にマラッカ海峡で投身自殺をする。1970年代には日本でもプロ選手が登場、そのプロ第1号(戦後初のトーナメントプロ)である神和住純(父が軟式テニスの全日本チャンピオン、本人も軟式出身)が世界を転戦する。神和住は主に「WCTサーキット」で活躍し、当時のトップ選手だったスタン・スミスを2度破るなどの活躍を見せた。近年は松岡修造の健闘があった。平均的な成績(アベレージ)はいくらか低かったものの、ピーク時は限りなく高く、時にトップランカーと互角に渡り合い、そして倒した。1995年ウィンブルドン選手権男子シングルスでのベスト8は大健闘といっていいだろう。それ以後、日本の男子選手で世界トップレベルに近づいた選手は少ないが、2008年に錦織圭が18歳で日本人最年少ツアー優勝を果たして全米オープンでも4回戦に進出、世界ランキング100位以内に入った。

女子では1975年ウィンブルドン選手権女子ダブルスで、沢松和子アン清村のペアが初優勝したことが日本テニス界の起爆剤となり、世界挑戦を目指すプロ選手が増えてきた。1980年代に活躍した井上悦子はその先駆者的な存在となる。やがて、1989年にプロ転向した伊達公子が、1990年代に目覚ましい大活躍を遂げ、日本人の女子テニス選手として初の世界ランキングトップ10選手に成長した。同時期には沢松奈生子雉子牟田直子長塚京子神尾米遠藤愛佐伯美穂吉田友佳杉山愛等が次々と世界ランキングトップ100入りし、日本女子テニスは全盛を築く。平木理化1997年全仏オープン混合ダブルス部門での優勝もあった。しかし伊達が1996年に引退した後、他の選手の勢いも衰えた。2004年2月に杉山愛が世界ランキング8位を記録し、日本人女子として2人目のトップ10入りを果たしはしたが、杉山と浅越しのぶ(伊達の後輩にあたる)の活躍に頼りきりの状態が長らく続いてきた。その浅越しのぶは2006年を最後に引退を表明し、2009年には杉山の引退も表明された。森上亜希子中村藍子森田あゆみなどの今後の活躍が望まれている。

ルール

1対1のシングルスと2対2のダブルスがある。

試合開始前のトスによって決定された一方のプレイヤーがサーバー、他方がレシーバーとなり、ゲームごとに交替する。また、プレーするコートは、奇数ゲーム終了ごとに交替する。サーバーはベースラインの外から相手コートのサービスエリアでバウンドするようにボールを打つ。レシーバーはサーブされたボールを2回バウンドする前に相手コートに打ち返し、お互いにラリーを続ける。次のようなときに失点(相手方の得点)となる。

  • サーブを2回続けてフォルト(ダブルフォルト)したとき
  • サーブされたボールがバウンドする前にレシーバーが触れたとき
  • 自分のコートでボールが1回バウンドし、もう1回バウンドしたとき
  • 自分のコートでボールが1回バウンドし、逆回転によってネットを越えて相手のコートに戻ったとき(この場合は特殊で、ボールが相手コート上にあってもネットタッチさえしなければ、2バウンドする前にオーバーネットして打ち返し、相手が取れなければそのポイントは自分のものとなる)
  • 自分のコートに落ちたボールがバウンドしなかったとき
  • 自分の打ったボールの1回目のバウンドが、相手のコート外(アウト)だったとき
  • 打ったボールが審判に命中したとき
  • ラケット以外の部位がボールに触れたとき
  • 相手コート内でボールに触れたとき
  • 体やラケットがプレー中にネットに触れたとき
  • ラケット以外の持ち物をコート上に2回落としたとき

得点は、0点=ラブ (love)、1点=フィフティーン (fifteen, 15)、2点=サーティ (thirty, 30)、3点=フォーティ (forty, 40) と数える。一方が4点を取ると1ゲーム、6ゲームを取ると1セット取得となる。5セットマッチであれば、3セット取得すると勝利となる。ポイントが両者3点(40)ずつになると「デュース」(deuce)となり、相手に2点差をつけるとそのゲームを得る。なお、この時に1点リードしている状態を「アドバンテージ」(advantage)と言う。また、ゲームカウントが 5-5 になると、そのセットを得るためには2ゲーム差をつけて 7-5 としなければならない。

ただし、ゲームカウントが6-6となった場合は、次のゲームはタイブレーク(tiebreak)という特別ルールのゲームとなり、2ポイント以上の差をつけて7ポイント以上を獲得した方がゲームの取得者となり、このセットを得る。タイブレーク中のポイントの数え方は、zero、one、two、three、…となる(註:この時は0はzeroとなる)。タイブレークが行われたセットのスコアは、例としてセット取得者側から見る場合は7-6(6)のように表記し、この場合はタイブレークが8-6のスコアで終了したことを意味する(カッコ内の数字はタイブレークを取得しなかった方のポイント数である)。主要な国際大会の最終セットでは、タイブレークのルールを採用せず、2ゲーム差が付くまで通常ルールでゲームを続行する場合もある。

タイブレークのルールは1920年代に、試合時間短縮のために考案されたものである。4大大会でも、全米オープンだけは、最終セットでタイブレーク決着を採用している。

なお、現在は有力選手の参加が少なく注目度の低いダブルスの合理化を目的として、2005年秋以降の男子国際大会において、ダブルスのみ、各ゲームともデュースなし(ノーアドバンテージの1本勝負)、1セットを一律5ゲーム先取方式(4-4で通常方式のタイブレークを行う)とする等のルール変更が提案されており、ダブルスプレイヤーを中心として反対運動が起こるなど、大論争が巻き起こっている。

このシステムを試行した初の国際大会である2005年10月のAIGジャパンオープンテニスでは、日本の岩渕聡鈴木貴男組が日本人ペアとして初のツアーダブルス優勝を果たしている。

2006年全米オープンから、クレーコートであるためにボールマークが残る全仏を除くグランドスラム大会のメインスタジアムと第一コートにおいて、条件つきで判定に異議を唱えられる「インスタントリプレイシステム」(チャレンジシステム)が採用された。選手が審判の判定に疑問がある場合に「チャレンジ」を行うと、「ホークアイ」というCGを用いた自動ライン判定システムのスロービデオが流れ、判定がやり直される。この手続きは主審がオーバールールを行うのと同様に、オンプレイの場合はラリー中のボールを止めて行う。明らかなエースおよびアウトやフォルトの場合はポイントが適用されるが、その他の場合はレットとなり、ポイントをやり直す。誤審が判明すればチャレンジする権利は失われないが、判定が覆らなかった場合、その選手はチャレンジ失敗となり、チャレンジする権利を1回失う。権利は1セット2-3回(全米全豪は3回)与えられる。ただしタイブレークになったセットでは1回、ゲームカウントが6-6となった最終セットでは2回権利が追加される。なお、このルールによってテレビ放送でのリプレイが減った。

用具