全日本学生自治会総連合

提供: Yourpedia
移動: 案内検索

全日本学生自治会総連合とは、1948年に結成された日本学生自治会連合組織である。略称は全学連(ぜんがくれん)。分裂を繰り返してきた経緯により、現在5つの団体が「全学連」を名乗っており、それぞれが自らの正当性を主張している。

概要[編集]

全学連は1948年に145大学の学生自治会で結成され、当初は日本共産党の強い影響下にあったが、1955年の六全協以降は日本共産党への批判派が主流派となった。更に主流派各派間で全共闘も結成され、1960年代から1970年代にかけて安保闘争などで激しい学生運動を展開した。1970年代以降は安保条約継続の成立や、沖縄の返還、ベトナム戦争の終了などもあり、運動は退潮となった。

2012年現在、5つの「全学連」が存在しているとされているが、すでに実態のない団体も見られる。かつて最大勢力であった民青系とされる全学連でも、活動実態のある加盟学生自治会はほとんどない。

現在[編集]

現在は以下5団体が「全日本学生自治会総連合(全学連)」として並存し、それぞれが全日本学生自治会総連合としての正当性を主張している。5団体とも「全日本学生自治会総連合(全学連)」と名乗る。また民青系全学連を除き、「全学連(○○委員長)」と委員長名で他の全学連と区別する表記を行っている。本項では各全学連について、上部または関連組織に「系」を付けて便宜的に区別する。

  • 民青系(日本共産党系)
  • 中核派系
  • 革マル派系 - SEALDsなど
  • 革労協現代社派系
  • 革労協赤砦社派系

民青系(日本共産党系)[編集]

日本民主青年同盟(民青)系とされる全学連で、本部は2014年時点では東京都国分寺市にある。かつては国立市にあった。

2012年5月現在で実際に全学連の活動に参加している学生自治会のある大学は8であったが、その後も2012年6月に東京大学教養学部学生自治会が脱退するなど参加学生自治会の減少が続いている。

以前の公式サイトは消失しており、ブログも2014年8月の更新(同年2月に実施された第65回定期全国大会の報告)を最後に、現在(2015年4月)まで更新されていない。

中核派系[編集]

Zengakuren.JP。中核派系とされる全学連である。拠点校は中核派と同様、法政大学とされ、他に東北大学富山大学岡山大学広島大学沖縄大学で「学生自治会」を僭称している。京都大学では2012年以降、それまで存在が形骸化していた「同学会」を同学会規約を参考にした選挙によって再興したと称し、全学連・中核派・同学会の名義を使い分けている。なお中核派系全学連に加盟している団体で、大学に公認されている自治会は現存していない。

革マル派系[編集]

The Zengakuren。革マル派系とされる全学連である。連絡先は創造社(現代文学の社団ではない)。

同全学連の活動家は、「全学連フラクション(ZF)」に組織され、さらに5年以上ZFで活動したものはマル学同革マル派への加盟が認められることが多い。5年というのはあくまで目安であり、実際にはそれより早くマル学同員となるものも、5年以上活動してもマル学同員になれないものもいる。

従来の拠点校とされた早稲田大学(商学部、社会科学部)では、1990年代から2000年代前半に革マル派と同派の影響力を排除しようとする当局との間で激しい対立が続いた。その中で、同全学連の加盟自治会であった商学部自治会が1995年7月に、社会科学部自治会は2005年3月に公認を取り消された。また、大阪経済大学の自治会は、2005年10月に自治会活動家が教職員に対して暴力事件を起こしたとして、同年11月10日に非公認化された。加盟自治会の有無にかかわらず、サークルを通した活動も展開しており、北海道大学北海道教育大学旭川校・帯広畜産大学金沢大学早稲田大学國學院大學津田塾大学和光大学横浜国立大学名古屋大学愛知大学奈良女子大学大阪経済大学神戸大学鹿児島大学琉球大学沖縄国際大学などで活動が確認されている。

革労協現代社派系[編集]

伍代委員長をトップとする革労協現代社派系とされる全学連である。2011年現在は同派が拠点とする大学は1校も無いが、明治大学では「明治大学学生会中央執行委員会・学苑会中央執行委員会」名で学外活動を中心に新歓闘争などを行っている。連絡先は杉並区下高井戸の教育学園ジャーナル社。

スローガンは「反革命戦争とファシズムの危機を蜂起(革命戦争)に転化し、コミューンソビエト)権力を樹立せよ!」。「全学連は、ロシア革命第二次世界大戦を経た現代世界において帝国主義のおこなう戦争を〈反革命戦争〉と把握し、プロレタリア国際主義のもとに、全世界労働者人民の共通の利害を突き出した反戦闘争を展開してきました。」とし、日本革命と武装革命を提唱し、「右翼・ファシスト」との闘争、「反革命革マル」の「せん滅」、「木元グループ」(赤砦社派)の「解体・根絶」などを主張している。

革労協赤砦社派系[編集]

前項の現代社派から分裂した革労協赤砦社派系とされる全学連である。現在、同派が自治会を有する大学は無いものの、千葉大学宇都宮大学東北大学福井大学徳島大学九州大学のサークルに対する活動が確認されている。革命的労働者協会(解放派)の連絡先は、台東区入谷の赤砦社。

歴史[編集]

創立から初期の活動[編集]

全日本学生自治会総連合は、1948年昭和23年)9月に日本全国の国立公立私立の145大学によって結成された。初代委員長は武井昭夫である。

初期の全日本学生自治会総連合は、日本共産党の強い影響の下で、反レッドパージ闘争、朝鮮戦争反対闘争、全面講和運動などを行った。この時期に全学連で活動した者には、後の日本共産党議長不破哲三と副委員長上田耕一郎兄弟、後の日本社会党副委員長の高沢寅男、第3回全学連中央委員会で委員長に選出され、京大天皇事件を引き起こした米田豊昭や映画監督の大島渚田中角栄秘書となる早坂茂三などがいた。

日本共産党への批判と独自の活動[編集]

日本共産党は、1951年10月に開いた第5回全国協議会(5全協)で武装闘争方針を決定。山村工作隊中核自衛隊などによる火炎瓶闘争などを展開したが、「武装闘争路線」は当時の国民の評価が得られず、党勢力は著しく衰退した。これに対し日本共産党は、1955年7月の第6回全国協議会(6全協)で、「現在の日本は革命情勢にない」と総括、武装闘争方針を極左冒険主義だったと自己批判し、微笑戦術をとることに転換、合法路線への復帰を実現した。全学連ではこの方向に批判的なグループが、元国際派学生を中心としたブント結成に流れていく。その後全日本学生自治会総連合の指導部と、学生にも日常の要求に密着した日常闘争を求めるようになった日本共産党の指導部との間に溝ができ、全日本学生自治会総連合の主流派は独自の活動を行うようになっていった。

1956年(昭和31年)のスターリン批判ハンガリー動乱の影響で、全学連の主流派は、反日本共産党の立場を鮮明にし始めた。1958年(昭和33年)には、日本共産党本部での幹部会委員紺野与次郎への殴打事件を契機として日本共産党を除名された者を中心に、学生組織・反戦学生同盟から発展した社会主義学生同盟(社学同)を基盤として共産主義者同盟(ブント)が結成され、学生運動を指導することとなった。

全学連はこのブント指導の主流派と共産党指導の反主流派(全自連にのちになっていく)とに分裂したままで60年安保を迎えることになる。

ブント全学連[編集]

1960年(昭和35年)の安保闘争で学生運動は頂点に達したが、この闘争の総括をめぐりブントは解体することとなった。

反主流派の動向 民青系全学連の再建[編集]

一方、60年安保闘争時の全学連反主流派は、全学連は安保闘争の過程で崩壊したと認識した。そして、全国学生自治会連絡会議(全自連)を結成し、構造改革派との確執、「安保反対、平和と民主主義を守る全国学生連絡会議」(「平民学連」)結成などの再建運動を経て、川上徹を委員長として全学連を「再建」した。この後、全国の学生自治会の過半はこの民青系全学連に組織されることとなる。

川上は後、民青同盟の学生対策担当として196770年(昭和42~45年)の全学連を指導したが、「新日和見主義」分派を形成したことで、1972年に党内処分を受けた(新日和見主義事件)。高野孟は事件を機に、自ら党を離れた。処分は受けていない。

全共闘の時期[編集]

1966年(昭和41年)12月17日ブント中核派社青同解放派の三派が全学連再建大会を明治大学で開いた。1967年(昭和42年)の羽田闘争ではこの三派が主導する三派全学連が登場した。(初代委員長:斎藤克彦明大ブント社会主義学生同盟)その後、1968年に起こった明大紛争でブントが大学側に譲歩したことから全学連でのブント社学同の勢力が失墜し、1969年までに三派全学連は解体し、中核派系全学連と社会党社青同解放派、ブント系の反帝全学連が並立する。

60年敗北の総括をめぐる争いの中でブント各派をそして中核派を全学連執行部からたたき出した日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(以下、革マル派「全学連」)は三派「全学連」設立の際にも参加することなく、東大闘争のさなか早稲田祭実行委員会指導部にいた解放派をこの実行委員会の指導権を巡って武力で早大から駆逐し、さらには東大駒場でも解放派を追撃した。

1968年(昭和43年)におこり1969年(昭和44年)1月中旬に収束した東大闘争では、秋以降から民青系全学連が学内団体(「東大闘争勝利全学連行動委員会」など)および学外からの支援勢力として登場し、新左翼各派の結集する東大全共闘と対立した。特に1968年11月ごろから翌年1月上旬にかけては、全学バリケード封鎖を目指す後者と、これを阻止し入試中止を防ごうとした前者との間で激しい物理的衝突が繰り広げられた。

内ゲバの時代へ[編集]

1972年(昭和47年)の沖縄返還反対闘争を中間点にはさみ、法大での海老原事件を最初として革マル派と中核派の武力衝突が激化した(立花隆著の『中核vs革マル』を参照)。両者の対立は21世紀に入るまで続いたが、その後「手打ち」がなされたと噂され、表面化するような対立はなくなっている。

一方、赤軍派の登場と大菩薩峠事件よど号ハイジャック連合赤軍による内部リンチ殺人あさま山荘事件などが矢継ぎ早に起き、学生運動への市民の忌避感は増大して行った。早大での川口大三郎リンチ事件をめぐって革マル派に対する一般学生による糾弾闘争もあったが、学生たちが党派の内ゲバという殺人をやめさせる力は持ち得なかった。

こうして、学生運動そのものも下火となり、系統を問わず全日本学生自治会総連合も衰退していった。

解放派系全学連の分裂[編集]

1990年代に入る頃には、全日本学生自治会総連合を名乗る団体は4団体存在していた。

1990年代終わり頃に上部団体と共に解放派系全学連が革労協現代社派系と革労協赤砦社派系の2つに分裂した。これ以後、全日本学生自治会総連合を名乗る団体が5団体存在することとなった。

2000年代以降の民青系全学連[編集]

上記の通り各派の全学連が衰退して大学に公認されている学生自治会の参加が0となって行く中でも、民青系全学連は、加盟学生自治会の数を2012年時点で公称170としていた(ただし、活動が確認できないとして代議員選出権等、全学連での権利が停止されている学生自治会はあった)。

しかし、2012年5月時点で、実際に全学連の活動に参加している学生自治会のある大学は8にとどまることが報じられ、その後も脱退する学生自治会が相次ぐなど衰退が露わとなった。

活動内容[編集]

全国大会では毎回著名人による基調講演が行われており、内閣府参与の湯浅誠(2008年大会)などが講師となっている。学生から集めたアンケートなどをもとに省庁等に対する要請行動を行っており、2006年の活動では国立大学の学費値上げをストップさせるなどの成果を上げたと自認していた。

機関紙は「そがく(祖国と学問のために)」(月刊)。一度廃刊となったが、2012年にはコピー機で印刷している。印刷部数はおよそ1000部、定期購読部数は150部以下となっている。

加盟自治会と分担金の減少[編集]

加盟自治会は、加盟分担金を全学連に払うことになっているが、履行しない自治会が多い。

2006年には、加盟分担金合計の過半を立命館大学の加盟自治会による拠出がしめた。立命館大学より会費の代理徴収を続ける条件として全学連・京都府学連への加盟分担金を支払わない事を求められ、自治会側も了承したため、その後は立命館大学の加盟学生自治会も加盟分担金を払わなくなった。

2011年ごろの東京大学教養学部学生自治会(教養学部前期課程の学生より構成され、教養学部後期課程の学生は含まれない)の加盟分担金は、全学連加盟分担金合計の約4割を占めることとなった。

2012年6月、東京大学教養学部学生自治会が脱退を決議し、民青系全学連にとどめが刺されたとみる向きもある。また、立命館大学法学部自治会は、2013年6月19日に開会された2013年度法学部定期学生大会において、「全日本学生自治会総連合および京都府学生自治連合脱退に関する特別決議案」を賛成多数によって決議し、脱退した。

地方組織[編集]

大阪府組織として6大学8自治会が加盟する大阪府学生自治会連合(府学連)があったが、現在は活動を停止している。2005年に旧大阪府立大学大阪女子大学大阪府立看護大学の府立系3大学が統廃合し、自治会組織が再編されるのを契機として、同年2月、第71期府学連大会にて大阪府立大学学生自治会連合が府学連から脱退した。それに対応し、府学連も同大会で役員不足による活動休止を決定し、新たに代替組織として大阪学生要求実現連絡会(大阪連絡会)を設置した。大阪府立大学学生自治会連合は2005年度6月に「大阪府立大学中百舌鳥キャンパス学生自治会」に再編された後、全学連再加盟の検討を続けたが、2008年度後期に加盟しないことを決定した。

2012年ごろまで、東京都学生自治会連合(都学連)、京都府学生自治会連合、愛知県学生自治会連合等があり、都学連には東京学芸大学東京農工大学が、京都府学連には立命館大学京都市立看護短期大学など、愛知県学連は日本福祉大学名古屋大学などの自治会が加盟していた。2014年現在、前記3地方組織のHPは閉鎖されているか、更新が途絶えている。

2000年代以降の中核派系全学連[編集]

2006年3月14日、法政大学「当局」の立て看板撤去に抗議していた中核派活動家など29人(内法大生など大学関係者は5人)が建造物侵入と威力業務妨害の容疑で逮捕された。逮捕時には約200人の公安警察が動員された。中核派はこの事件を「2006・3・14法政大学弾圧事件」と称し強く反発した。25日には29人全員が釈放され、そのうち法大生であった5人には停学や退学処分が下された。その後、処分生5人や法政大学無関係者も含む逮捕者を中心に「3・14法大弾圧を許さない法大生の会」という団体をつくり、学内外で抗議活動を現在も行っている。大学側は警備員を常駐させるなどして対処している。06、07年中に停学学生に対して無期限停学や退学など追加処分が下され、(大学無関係者含めて)逮捕者は40名を超えている。

2007年4月27日、退学処分に対する中核派などのデモ中、中核派全学連活動家の学生ら2名が大学職員への暴行容疑で逮捕された。

2009年4月24日、東京地裁による「情宣活動禁止等仮処分命令」、大学側による処分発令などに対する中核派らによる抗議集会とデモにおいて、中核派全学連活動家の学生ら6人が公務執行妨害などの容疑で逮捕(集会中に5人、デモ後に警察署前で行われた抗議行動で1人)された。

2012年の「定期全国大会(議案)」では法政大学、東北大学、福島大学、京都大学での「活動」が記載された。

2014年には、沖縄大学で学生自治会が「再建」した。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]