銃殺刑

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銃殺刑(じゅうさつけい、銃殺隊による処刑、Execution by firing squad)は死刑の方法の一つであり、特に戦時において一般的な処刑方法である。

銃殺隊

銃殺隊(firing squad)は数人の兵士で構成され、刑の対象となる人物に向けて同時に射撃を行うことにより刑が執行される。数人が一斉射撃することにより、一人で射撃する場合(銃殺射殺)に伴う射殺失敗を防ぐことが出来、また銃殺隊のうち誰が致命傷となる弾丸を撃ったのか分からなくて済むという効果もある。

処刑される人物は、通常、目隠しを顔に巻きつけられたり、頭にフードをかぶせられたりする。あるいは動けない様に縛られるなど拘束される。銃殺隊の前に立たされることもあれば、座ったまま射殺されることもある。

場合によっては、銃殺隊のうち一人だけに、実包の代わりに空包を装填したが渡されることがあるが、誰に空包入りの銃が渡されたかは決して明らかにされない。これは銃殺隊の一人ひとりの心の負担や罪悪感を軽くし、処刑に当たって隊員が動揺するなどの事態を防ぐためとされている。銃殺隊員たちは処刑後に「自分の銃は空砲だったかもしれない、自分は殺さなかったかもしれない」と考えることができ、他の隊員に責任転嫁をすることもできる。もっとも、射撃に熟練した兵士は反動の大小で実包と空包の違いを判断することは出来るが、後々の心理的な利益のために射撃時の反動に注意を払わなかったり、後で「あの反動は空包のものだった」と思い込んだりすることがある。

銃殺刑の対象

銃殺刑は、普通は戦時のスパイ処刑に適用される。第一次世界大戦時の有名なスパイ、マタ・ハリも銃殺刑に処された一人である。

また敵国のゲリラパルチザンに対して現地軍が執行する場合もある。日本の例では、1932年上海での天長節祝賀記念式典に爆弾テロを行い高官多数を殺害した朝鮮の独立運動家・尹奉吉に対し、上海派遣軍の軍法会議が銃殺刑を宣告し、金沢へ移送し銃殺を行っている。しかし、現地人への見せしめとしての公開銃殺は戦時国際法に違反するため、執行した現地司令官らが後に軍法会議で銃殺刑に処される可能性がある。

軍人の中には銃殺刑を名誉ある処刑方法と考える者もあるため、戦争犯罪者などには銃殺でなく一般の犯罪者と同じ絞首刑を以ってすることもある。逆に、ポーランドソビエト連邦デンマークノルウェーなどでは第二次世界大戦後の戦争犯罪者の処刑に銃殺を用いていた。

銃殺刑は軍法会議において、敵前逃亡など臆病な行為(cowardice)・脱走(desertion)・反抗(mutiny)など重大な軍規違反に対して、最高刑または懲戒の意味で言い渡される。また兵士による犯罪、例えば殺人や強姦などでも銃殺刑の判決が適用される。アメリカ合衆国において銃殺刑に処されたもっとも有名な兵隊は、1945年に処刑されたエディ・スロヴィク二等兵(Eddie Slovik)であろう。第二次大戦ではアメリカ軍に2万人を超える脱走兵が出て、49人が死刑判決を下されたが、彼だけが実際に銃殺された。アメリカ軍において、脱走の罪で銃殺刑を受けたのは実に南北戦争以来であった。

銃殺刑に処された有名な軍人としては、第二次世界大戦時のドイツ軍人、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク陸軍大佐も挙げられる。1944年7月20日、彼は東プロイセンの総統大本営「狼の巣」の作戦会議室に時限爆弾を仕掛けてアドルフ・ヒトラー総統を暗殺し、ナチス政権打倒のためのクーデターを起こそうとした。爆弾は爆発したがヒトラーの暗殺に失敗し、7月21日未明にフリードリヒ・フロムFriedrich Fromm)上級大将による即決の軍法会議により、ヒトラー暗殺未遂及びクーデター未遂の共犯者であるヴェルナー・フォン・ハエフテン少尉、フリードリヒ・オルブリヒトFriedrich Olbricht)大将、アルブレヒト・メルツ・フォン・クイルンハイム大佐と共にベルリンの国防省の中庭で銃殺された。詳しくはヒトラー暗殺計画#1944年:ヴァルキューレ作戦を参照

またフランスの将校、ジャン=マリー・バスチャン=チリーJean-Marie Bastien-Thiry)空軍中佐も銃殺刑に処された有名な軍人である。アルジェリア独立を承認しアルジェリア戦争を終わらせたシャルル・ド・ゴール大統領に反感を募らせた彼は、秘密軍事組織Organisation de l'armée secrète:通称OAS)に参加してクーデターを起こすべく大統領暗殺を企て、1962年8月22日に決行したが僅かの差で失敗して後に逮捕され、軍法会議の判決は銃殺刑となり1963年3月11日に刑を執行された。

銃殺刑は政治犯に対し執行されることもある。ルーマニアの元大統領、ニコラエ・チャウシェスク1989年末に逮捕され、銃殺刑に処された。

銃殺隊による銃殺刑は、銃による他の処刑、たとえば拳銃で首の後ろを撃つ射殺などとは区別される。しかし、こうした拳銃によるとどめの一撃(クー・デ・グラース、coup de grâce)は銃殺隊による銃殺と共に使われることがある。例えば、銃殺隊の一斉射撃で即死していなかった場合、拳銃で止めが刺されるほか、一斉射撃の後で処刑を確実なものとするため銃殺隊長が必ず拳銃で止めを刺す場合もある。

軍隊以外に適用される銃殺刑

アメリカ合衆国成立後、およびその独立前、1608年から1987年までに142人が判決で銃殺刑に処されたとされる。(M. Watt Espy と John Ortiz Smylka の共著、Executions in the U.S. 1608-1987 による)多くは南北戦争時の脱走兵やスパイだが、その他は軍人ではなく一般の犯罪者である。ユタ州では長年死刑に銃殺刑が使われ、志願した5人の警官により銃殺隊が組織されていた。2004年に銃殺刑を禁ずる州法が成立したが、それ以前に銃殺刑の判決を受けた死刑囚には遡及しないため、まだ銃殺刑が行われる可能性はある。その他、アイダホ州オクラホマ州では未だ銃殺刑は適用可能だが、現在では薬物注射による処刑(薬殺刑)が主流であり、銃殺刑は万一の場合のバックアップとして規定されているに過ぎない。

タイノンタブリー県にある重罪犯専用のバンクワン刑務所にはタイ唯一の処刑場があり、斬首刑が廃止された1935年から薬殺刑が導入された2003年まで銃殺刑が行われていた。ドイツ製短機関銃H&K MP5及びライフル銃が使用され、死刑囚に目隠しをして十字架に対面させ、両手・両足・胴を拘束し背後から射撃するというものだった。

21世紀初頭現在の中華人民共和国では世界で最も多くの死刑が執行されておリ、一般犯罪者の死刑執行に銃殺が行われる場合があり、まれに一般公開もされる。受刑者は後ろ手に縛られ、座らせられた後、後ろから後頭部を撃たれて処刑される。

関連項目

外部リンク

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