漢民族
漢民族 | ||
---|---|---|
総人口 | ||
1,310,158,851 全人類の19.73% (including those of ancestral descent) | ||
居住地域 | ||
多数者として -- 香港 -- マカオ 少数者として
|
1,207,541,842 6,593,410 433,641 22,575,365 3,684,936 7,566,200 7,053,240 6,590,500 3,376,031 1,612,173 1,300,000 1,263,570 1,146,250 1,101,314 998,000 614,694 519,561 500,000 343,855 230,515 189,470 185,765 151,649 145,000 144,928 137,790 147,570 135,000 11,218
|
|
言語 | ||
中国語 | ||
宗教 | ||
大乗仏教と道教が支配的。儒教と民間信仰を背景とする[1][2][3][4][5]。 | ||
関連する民族 | ||
脚注 | ||
漢民族(かんみんぞく)は、中華人民共和国(中国大陸)、中華民国(台湾)で大多数を占める民族。約13億人、全人類の19.73%を占める世界最大の民族集団である。
中華人民共和国の民族識別工作では漢族(簡体字: 汉族, テンプレート:ピン音)と呼ばれ、中華人民共和国の全人口の94%以上を占める。漢人ともいい、華僑として中国を離れ、移住先に定着した人は華人と自称することが多い。
漢民族の形成
この言葉が用いられ始めたのは19世紀以後で、清朝を建てた満州人と、元々の居住者を区別するためであった要出典。漢族に典型的な遺伝的血統があるわけではなく[6]、その実体は漢字の黄河文明を生み出した中原と周辺の多民族との間で繰り返された混血。ゆえに、異民族でも漢族の文化伝統を受け入れれば、漢族とみなされる。実際、漢民族は現代に至るまでの長い歴史の間に五胡、ウイグル、契丹、満州、モンゴル、朝鮮その他多くの民族との混淆の歴史を経て成り立っている。そのため、現代の漢族と古代の漢族は実態として全く異なっており、時代毎にその民族要素は大きな変化を示している[7]。だが一方で同一の民族意識を共有する集団としての共通性もまた多く継承している。これは、現代のイタリア民族が多様な民族との混淆の歴史を経ているがゆえに古代のローマ(ラテン)民族と全く同一の存在ではないものの、その間に一定の共通性が継承されていることと似ている。ちょうど、ローマとイタリアとの隔たりを数倍に引き離した関係として漢族古今の差異を例えることができる[誰?]。
もちろん、ここには「中国の文化伝統」が何を指すかという問題がある。現在の中華人民共和国統治地域では、民俗・言語・思想、すべてにヨーロッパ以上の幅があり、それはすなわち古代中国文明からの遥かな隔たりを示している[誰?]。ただし、現在の趨勢では、中国文化は漢字表記の漢語(中国語)を基本とする文化として収斂されつつあり、漢族の定義如何よりも漢族概念自体が漢族を形成しつつある[8]。つまり、古代中世近代の漢民族概念と現代のそれとは別と考えるべきである。梁啓超が『新民説』で「自分が中国人だと反射的に思う人が中国人の範囲である」との言葉を残しているのは最も代表的である。
中国の歴史は絶え間ない民族・人種の混合であった。古くは殷周交代(殷周革命)にまで遡ってその傾向を見ることができる。当時、中原に住み、より東方起源と推定される殷を興した殷族と西方からやってきた周を興した周族が混交し、古代の漢民族が形成された。また、中原の黄河文明とは別起源の長江文明を興した民族に根差すと考えられている南方の楚、呉、越も覇を競った春秋戦国時代を経て、後の漢民族が治める領域が形成されるとともに、両文明の融合が進んだ。そして西戎が優勢であったと考えられる秦族が興した秦が統一王朝を築いたことにより今日の中国の中核的版図が画期され、さらなる民族混交が進むとともに中華文化の中核が形成された[9]。
漢民族という言葉の下敷きとなった漢朝(前漢・後漢)では最盛期には人口が6000万人を数えたが、黄巾の乱など後漢末からの社会的混乱や天候不順のため、中原の人口は500万人を切った。この後は、次段落にあるように北族の時代を迎え、岡田英弘はこの時点でオリジナルな漢民族は滅亡したと考察している。
4世紀頃から北方の鮮卑などの北方遊牧民族に華北平原を支配され(→五胡十六国時代)、この結果、中原に居住した民族の一部は南方に移動(→客家)するとともに、残った民族にも多分に北方民族の血が混ざった[10]。ここにおいて中原の民としての古代の漢民族は消滅したと考えられる[6]。また、後の元や清、或いは金や後金の征服王朝期とともに、中華文化は北方草原文化を取り込む機縁ともなった。
漢民族の大膨張
いわゆる漢民族と現在分類される人口は、唐代頃までに現在の中国内地(チャイナ・プロパー)まで拡張し、その後は国家の繁栄と戦乱に伴って同領域内で大きく増減を繰り返すにとどまった。これは清代中期までは江南・湖広の生産力にまだまだ人口を支える余力があったこと、明・清王朝は長らく海禁政策を採用したこととが大きな理由として挙げられる。加えて、異民族王朝である清朝は満州(現在の中国東北部)・内モンゴル・新疆などへの漢族の移動まで禁じ、意識して漢民族の膨張を抑止しようとした。
19世紀以降の漢民族
ところが、清代中期以降状況が大きく変化する。領域内の平穏と安定した経済によって増え続けていた人口は、イギリスなどの政策転換による銀の流入の減少(阿片戦争参照)、18世紀後半以降の全地球単位の寒冷化(異説もある)に伴う生産力の低下、さらに、太平天国の乱などの清末の一連の反乱により支えきれなくなった。ついに、19世紀後半には人口爆発とも呼べる事態が発生、大量の漢民族の周辺地域への拡散移動が始まった。
河北・山東など華北の人口は内モンゴル・満州へ移動し、華南の人口は東南アジア各地を中心に、一部は日本・朝鮮、さらにはアメリカ・オーストラリアなどに移動した。このうち、満州(現在の中国東北部)は中国内地との隣接区域であり、圧倒的な漢民族の人口圧によって事実上内地化した。例外的に、韓国のチャイナタウンについては、20世紀半ばから後半期にかけて衰退し、消滅してしまった。理由として、朴正煕時代などの強い民族主義政策などが挙げられるが、極めて特異な例として注目される。
東南アジアの漢民族
東南アジアなどでは華僑・華人となり、自らの居住区としてチャイナタウンを作り上げるなど何代にも渡って漢族のアイデンティティを保持し続けている。シンガポールでは華人が最多数派である。マレーシア・インドネシアでは、かつて経済の主導権を握り、マレー人など在来民族との摩擦があった。
タイの華人はタイ人に同化する傾向が強く、また、タイ人の中にも中国由来の文化が取り入れられ、経済的にも政治的にも完全にタイ人と一体化している。政府の要職を占める華人も少なくない。
フィリピンでも華人はフィリピン人に同化する傾向にある。明・清時代からの古い華人が多く、現地化や混血が進んでいる。現在でも中国語を話し、中国の習慣を残している者は60万人から100万人程度と推定される。
ミャンマー(ビルマ)の漢民族は主に3つの出身地に分かれる。まず、移民として流入した華人には2グループあり、陸続きの雲南省からのグループと、他の東南アジア諸国と同じように華南から海を渡ってきたグループに分けられる。雲南省からの流入は今でも続いている。次に、土着の漢民族のグループがある。彼らはミャンマー中央政府から先住少数民族と認められ、「コーカン族」と称されている。コーカン族の主な居住地はシャン州北部の雲南省との国境地帯であり、コーカン地区と称される。
とどまらない漢民族の大膨張
この問題は現代の中華人民共和国時代に至るまで続いており、政府は増加し続ける漢民族人口を新疆やチベットに移住させている。ただし、この政策が少数民族に対する同化政策ではないかとの批判もあり、新疆などでたびたび発生する暴動やテロの一因となっていると考えられる。また、中国東北部からロシア領極東やシベリアに多数の中国人が移住し、ロシア人との摩擦が起こっている(なお、沿海地方は清の領土だった時代があり、中国領時代からの中国系住民もいる)。
脚注
- ↑ Travel China Guide - Han Chinese
- ↑ Windows on Asia - Chinese Religions
- ↑ China - Travel China Guide - Religions and Beliefs
- ↑ Every Culture - Han people: Religion and Expressive Culture
- ↑ Every Culture - Han Chinese in the People's Republic of China
- ↑ 6.0 6.1 中央日報(日本語WEB版)『中国に純粋血統の‘漢族’は存在しない』2007年2月15日
- ↑ 卑近な例を挙げれば、漢族の伝統的な民族衣装は漢服であるが、現在の漢族の正装とされる男性の長袍、女性のチャイナドレスとも満州族の旗袍に由来するものである。
- ↑ ただし、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』やエリック・ホブズボームの『創られた伝統』で明らかにされているように、こうした事態はどの民族にでも起こりうることである。
- ↑ 支那やChinaの起源ともなった。
- ↑ 後の隋王朝の楊氏・唐王朝の李氏の両皇帝一族は鮮卑系の北方民族出身ではないかと推定されるに至っている。
関連項目
このページはウィキペディア日本語版のコンテンツ・漢民族を利用して作成されています。変更履歴はこちらです。 |