鳩山和夫

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鳩山 和夫(はとやま かずお、1856年5月6日安政3年4月3日) - 1911年明治44年)10月3日)は、江戸末期の武士美作勝山藩士で、明治維新後は政治家代言人(弁護士)となった。正四位勲三等法学博士。外務次官、衆議院議長を歴任し、教育でも専修学校(のち専修大学)の設立に大きく貢献をした大功労者である。また、東京専門学校(のち早稲田大学)の校長なども歴任をした。長男は鳩山一郎(政治家、首相)、次男は鳩山秀夫(法学者)である。

生涯

1856年5月6日、武蔵国江戸虎門(のち東京都港区)に美作勝山藩(のち岡山県真庭市)の藩 鳩山博房(江戸留守居役)の4男として生まれる。

1875年開成学校(のち東京大学)を卒業。第一回留学生に選ばれ、米国へ留学。コロンビア大学法学士を取得。その後イェール大学(エール大学)で法学博士号を取得する(~(1880年(明治13年))。1880年、帰国後、専修学校(現在の専修大学)の設立に大きく貢献、大功労者。また代言人・東京帝国大学講師等を歴任。1881年11月、旧信州松本藩士である渡辺努の娘・多賀春子と結婚。

1882年2月、東京府会議員に当選。1883年1月、長男・一郎誕生。1884年2月、次男・秀夫誕生。

1885年4月、外務省入省。外務省書記官、取締局長、東京帝国大学教授に就任。1890年7月:東京専門学校(のち早稲田大学)校長に就任。秋頃、小石川区音羽町(現・文京区音羽)に居を移す。

1894年3月、衆院選議員に当選。1896年12月、衆議院議長に就任。1897年3月、衆議院本会議で二つの議案で可否同数となったため議長決裁権を行使(2案とも否決)。日本政治史で国会で2回議長決裁権を使ったのは鳩山だけである。

1898年9月、外務次官に就任。1902年9月、東京専門学校が早稲田大学となり、早稲田大学校長。

1908年11月、東京市会議員に当選、就任。当時の制度によって、衆議院議員は引き続き兼務した。1910年5月、東京弁護士会会長に就任。1911年10月3日、午前7時30分頃、死去。享年55。

生涯に渡って北海道開墾に影響力を発揮し、栗山町の「栗山共同農場」を擁する地区は鳩山川・鳩山池・鳩山神社(旧称・紅葉神社)まで現存する鳩山地区と呼ばれるに至った[1]。「地盤を引き継いでいない」ことを理由に世襲政治家ではないと自身をアピールする曾孫の鳩山由紀夫は、1986年衆院選から1993年衆院選までの3回の衆院選でこの鳩山地区を含む選挙区から立候補している(1996年衆院選以降は鳩山の選挙区から鳩山地区は外れている)[2]

家族・親族

関連項目

外部リンク

脚注


議会
先代:
日本の旗 日本 衆議院議長
第6代:1896年 - 1897年
次代: