中日ドラゴンズ
中日ドラゴンズ(ちゅうにちドラゴンズ、Chunichi Dragons)は、日本のプロ野球チームでセントラル・リーグのチームのひとつである。
愛知県を保護地域とし、本拠地はナゴヤドーム(名古屋市東区)。また、二軍(ウエスタン・リーグ所属)の本拠地はナゴヤ球場(名古屋市中川区)。
目次
球団の歴史
1リーグ時代
横浜にメジャーリーグ選抜軍が来日した1934年、読売新聞社が大日本東京野球倶楽部(現・読売ジャイアンツ)が日本初のプロ野球チームとして結成され、それから遅れること2年後の1936年1月15日、新愛知新聞社を親会社として名古屋軍(なごやぐん)が誕生した。河野安通志を総監督(GM)に迎え、池田豊が監督に就任。明治大学の中根之、アメリカ人で捕手のバッキー・ハリス、内野の名手・芳賀直一、日系アメリカ人の高橋吉雄、主将の桝嘉一、スローボーラー・森井茂らが初期メンバー。上述のメジャーリーグ選抜軍来日時に、読売の正力松太郎が新愛知新聞社の田中斎に名古屋でのプロ野球球団結成の働きかけを行なったのが球団誕生の契機。新愛知新聞社傘下の國民新聞社でも大東京軍を結成。当初、読売の正力松太郎が推し進めていた日本職業野球連盟(現在の日本野球機構の源流)とは別個に、独自リーグ大日本野球連盟を組織して各地に同様の球団を結成(4球団)し、配下には3Aに相当する下部組織を作るなどの、当時としては先進的な構想を抱いていたが頓挫。結局、上記の既存の2球団が正力が設立した日本職業野球連盟に加盟することとなった。当初の会社名は名古屋軍が株式会社大日本野球連盟名古屋協会、大東京軍が株式会社大日本野球連盟東京協会であり、大日本野球連盟構想の名残が見られる。1937年、河野が球団を去りイーグルスを結成すると、中根、ハリス、高橋らが後を追い、池田も混乱を嫌って監督を辞職。後任監督は桝嘉一。主力が抜けたことでチームは低迷し、慢性的な選手不足の戦前職業野球において、大沢清、西沢道夫、松尾幸造、村松幸雄など好成績を残す選手が隙無く台頭したが、チームの総合力は東京巨人軍や大阪タイガースに及ばなかった。
1942年、戦時下の新聞統廃合令で親会社の新愛知新聞社と名古屋新聞社(旧名古屋金鯱軍の親会社)が統合し、中部日本新聞社が発足。合併に伴う本社人件費の増大により球団経営見直しの声が挙がり、球団への投入資金は大幅減少。また、新聞社の営利事業兼営が認められなくなったため、中部日本新聞社取締役の大島一郎(旧新愛知新聞社の創業家出身)が個人的に出資して1943年のシーズンを終えることはできたが、大島個人の財力には限界があり、名古屋軍理事の赤嶺昌志が球団・選手を一手に引き受け、1944年2月5日に球団を理研工業(旧理化学研究所を母体とする理研コンツェルンの一企業)の傘下に入れ、選手を同工業に就職させた。球団名を産業(さんぎょう)に改称し、選手は工場で勤労奉仕をする傍ら試合を行った。名古屋軍の選手も他球団同様例外なく多くが兵役に駆られ、神風特攻隊で戦死した石丸進一をはじめ、戦禍に散った。
1945年11月、大島が球団スポンサーに再度なり、1946年2月1日のリーグ戦再開に伴って中部日本新聞社が経営に復帰。株式会社中部日本野球倶楽部を設立し、チーム名を中部日本(ちゅうぶにっぽん)として再出発。球団愛称は中部とした。同年、現役遊撃手杉浦清が監督就任。現在に至るまで、球団唯一の選手兼任監督となっている。
1947年のニックネーム導入にあたり、3月10日当時のオーナーだった杉山虎之助(中部日本新聞社社長)の干支である辰の英訳「ドラゴン」から中部日本ドラゴンズ(ちゅうぶにっぽんドラゴンズ)に改称。服部受弘が野手に投手に大車輪の働きをみせて戦後すぐのチームを支えた。しかし、オフの11月1日付で解雇された赤嶺が退団すると、赤嶺を慕う加藤正二、古川清蔵、金山次郎、小鶴誠ら11選手も退団し、藤本英雄も巨人に復帰。またしてもチーム力が低下。退団した赤嶺一派は各球団を渡り歩き、赤嶺旋風と言われる混乱を巻き起こした。
1948年に中日ドラゴンズ(ちゅうにちドラゴンズ)に改称。オフに木造の中日スタヂアム(中日球場)が完成。翌シーズンより球団初の本拠地として使い始めた。1949年は天知俊一が監督に就任し、杉下茂が入団。西沢道夫が打者として中日に復帰。
2リーグ分立
1949年シーズンオフ、中部日本新聞社のライバルである毎日新聞社が設立した新球団「毎日オリオンズ」のプロ野球参入に、中日を筆頭に同じく毎日のライバルである読売新聞社を親会社に持つ巨人など、後にセントラル・リーグを結成するチームが猛反発。このことがきっかけとなり、中日ドラゴンズ・読売ジャイアンツ・大阪タイガース・松竹ロビンス・大洋ホエールズ・広島カープ・西日本パイレーツ・国鉄スワローズからなるセントラル・リーグ(セ・リーグ)と、阪急ブレーブス・南海ホークス・東急フライヤーズ・大映スターズ・毎日オリオンズ・西鉄クリッパース・近鉄パールスからなるパシフィック・リーグ(パ・リーグ)が分立することになった。
セ・リーグ加盟後
1950年5月25日、大リーグに倣い球団と球場を同一経営することとなり、中日球場を経営していた株式会社中日スタヂアムに合併。名古屋野球株式会社となる。1951年1月25日、名古屋野球株式会社から株式会社名古屋野球倶楽部が分離。2月6日より名古屋鉄道が経営参加しチーム名も名古屋ドラゴンズ(なごやドラゴンズ)に改名。名鉄と中日新聞が隔年で経営することとなり、この年は名鉄が経営を担当。8月19日に試合中の火災で全焼した中日球場(中日球場で予定されていた残りの試合は鳴海球場などに変更して行われた)は、オフに鉄筋コンクリートで再建された。
1953年12月19日、今後の球団経営は中日新聞が行うことを決定。1954年1月14日に株式会社中部日本野球協会に商号を変更し、チーム名も中日ドラゴンズ(ちゅうにちドラゴンズ)に戻す。1月30日に名鉄が経営から撤退。1954年、天知監督の下、西沢・杉山悟・杉下茂・石川克彦らの活躍で初優勝。日本シリーズでも西鉄ライオンズを4勝3敗で下し、初の日本一。天知監督を親分に見立て「天知一家」と俗称された。
1959年、伊勢湾台風による中日球場水没で公式戦の一部を他会場に振り替える。1960年2月に会社名を株式会社中部日本野球協会から株式会社中日ドラゴンズに変更。1961年は濃人渉監督が就任し、ブリヂストンタイヤより入団した新人・権藤博の活躍で巨人に1ゲーム差と迫るが惜しくも2位。1962年、プロ野球で初めて、元メジャーリーガーのドン・ニューカムとラリー・ドビーを入団させるが3位。1965年~1967年、西沢監督のもとで3年連続2位と健闘するが、惜しくも優勝には届かなかった(1967年に西沢監督が途中休養し、近藤貞雄が監督代行を務めたが2週間ほどで復帰。)。1968年の杉下監督を挟み、1969年から元巨人の水原茂監督が就任するが4位、5位、2位と今ひとつ伸びなかった。しかし水原監督下で育った選手が1972年以降大きく開花し、1974年の優勝に繋がっていく。
1972年から与那嶺要ヘッドコーチが監督に昇格。巨人に対しては闘志をむき出しにし、1972・1973年と勝ち越してV9巨人を苦しめた。
この時期、中日スタヂアム時代のナゴヤ球場は中日新聞社の関連会社(株)中日スタヂアムが運営していたが、1970年代頃からほかの事業がうまくいかず経営が悪化。1973年に社長が三重県の志摩海岸で自殺していたのが発見され、倒産していたことが発覚(倒産後発生した同社の不渡手形をめぐる恐喝・殺人事件については中日スタヂアム事件を参照)。当時東海地方に主催試合を行える球場がなかったためたちまち本拠地消失の危機を迎えてしまったが、債権者の同意を得て1974年・1975年のシーズンを乗り切ることができた。そして、1976年に中日新聞社と中日のグループ会社で地元の中継権を持つ中部日本放送・東海テレビ放送・東海ラジオ放送、地元・愛知県および名古屋市の財界の雄、トヨタ自動車工業や中部電力など東海地方の有力企業が共同出資し、新たな運営会社(株)ナゴヤ球場が設立されて中日スタヂアムの運営を引き継ぎ、球場名もナゴヤ球場と改称され1996年まで本拠地運営した。
1974年は高木守道、星野仙一、松本幸行、トーマス・マーチン、谷沢健一らが活躍し、巨人のV10を阻止してリーグ優勝を果たした。しかし日本シリーズではロッテオリオンズに2勝4敗で敗退。翌1975年は広島の「赤ヘル旋風」の前に2位で終わり、1976年は後楽園球場の人工芝に全く馴染めず、後楽園での対巨人戦に全敗したのが響いて4位、Bクラス転落[1]。与那嶺監督は1977年まで務めた。1978年から中利夫が監督になり、初年度は5位、1979年は3位とAクラス入りを果たすも、1980年は6位と振るわず同年限りで辞任。この年、高木守道が現役引退。
近藤・山内監督時代
1981年から近藤貞雄が監督に就任。初年度は5位に終わるも、翌1982年には星野や木俣達彦などのベテランに代わり、平野謙や中尾孝義、上川誠二らの若手を登用した。他の野手では大島康徳や田尾安志、ケン・モッ力、宇野勝、谷沢ら、先発には郭源治、都裕次郎ら、リリーフには牛島和彦の活躍があった。「野武士野球」と呼ばれる攻撃的な打線、継投を駆使する投手起用を見せた。プロ野球記録の19引き分けを記録したため、シーズン終盤に2位で優勝マジックナンバーが点灯。10月18日、横浜スタジアムでの対大洋最終戦は中日が勝てば中日優勝、大洋が勝てば巨人優勝という天王山。この試合は小松辰雄の完封勝利によって見事3度目のリーグ優勝を決める。。日本シリーズは西武に2勝4敗で敗退。この年限りで星野仙一が引退。
1983年、戦力不足からチームは5位に終わり近藤が退任。1984年、山内一弘が監督に就任。初年度は2位となったが、その後は1985年・1986年と2年連続5位。山内は1986年シーズン途中で休養に追い込まれ、シーズン終了まで高木守道ヘッドコーチが監督を代行した。 シーズンオフに星野仙一が監督に就任。牛島、上川、桑田茂、平沼定晴との4対1トレードにより、ロッテオリオンズから2年連続三冠王の落合博満を獲得する。享栄高校から近藤真一がドラフト1位で入団。
星野・高木監督時代
1987年、ロサンゼルス・ドジャースとの提携によりユニフォームをドジャース風に変更。新人の近藤真一が、8月9日の対巨人戦でプロ初登板初先発ノーヒットノーランを達成。5月には一時的に首位に立つも、巨人の猛烈な追い上げの前に、最終的には2位。シーズンオフに大島康徳と平野謙を放出。また、この年甲子園で春夏連覇を果たしたPL学園の主将、立浪和義がドラフト1位で入団。
1988年、4月終了時点で首位広島に8ゲーム差の最下位、7月8日に6連敗で29勝31敗2分で借金2。しかし翌日以降巻き返し、結局50勝15敗3分、勝率.769で10月7日に逆転優勝する。生え抜き監督での優勝は球団史上初。小野和幸が最多勝で、小松と共に先発陣を牽引。リリーフ・郭源治が44セーブポイントでMVP。日本シリーズでは西武に1勝4敗と敗退。翌1989年は3位、1990年は4位とBクラスに沈むも、1991年は優勝した広島と3ゲーム差の2位。同年オフ、星野監督は「健康上の理由」で退陣。
1992年、高木守道が監督に就任。成績は60勝70敗で12年ぶりの最下位。この年、中日を扱ったアメリカ映画『ミスター・ベースボール(Mr.Baseball、トム・セレック主演、フレッド・スケピシ監督)』が公開されている。
1993年、今中慎二と山本昌広のダブル左腕エースが共に17勝で最多勝、今中は沢村賞、山本は最優秀防御率のタイトルを獲得。しかし、前半戦で2位以下に大差をつけて独走したヤクルトが優勝、中日は2位に終わる。シーズン終了後、落合が巨人にFA移籍。
1994年、シーズン中盤まで巨人との首位争いとなったが、8月18日からの8連敗となり、9月に入るとこの年に任期が切れる高木監督の後任として星野仙一の名が報じられたが、9月20日からの9連勝を始めとする猛追を見せて首位の巨人に並び、10月8日、史上初の最終戦同率首位決戦(10.8決戦)となった。試合は巨人に落合博満、松井秀喜の本塁打に加えて当時の3本柱の槙原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄のリレーでかわされ、3-6で敗戦。優勝を逃した。この年はアロンゾ・パウエルが首位打者、大豊泰昭が本塁打王と打点王、山本昌が最多勝、郭源治が最優秀防御率と、多くの投打のタイトルを獲得した。
1995年、前年度の優勝をヤクルトと最後まで争っての2位という成績を評価され高木監督が続投。しかしチームは不振を極め、結局シーズン途中に辞任。徳武定祐ヘッドコーチ、次いで島野育夫二軍監督が代行を務めた。結局、このシーズンは5位に終わる。
1996年、星野が監督に復帰し、ナゴヤ球場最終シーズンとなった。韓国ヘテ・タイガースから宣銅烈を獲得。抑えとして期待されるも、日本の野球に慣れるのに時間がかかって不振に終わる。この年は長嶋巨人による「メークドラマ」の年だったが、巨人があと1勝で優勝という時点で(巨人の残り試合は全て対中日戦だったのでマジックはつかなかった)で勝ち続け、9月24日から6連勝。そして10月6日、ナゴヤ球場で行われる最後の公式戦。この試合を含む残り3試合の対巨人戦に全勝すればプレーオフというところまでこぎつけるが、3試合目に2-5で敗れ去り優勝はならなかった。この年は山崎武司が本塁打王になるなど大豊、パウエルを主軸とした打線が活躍を見せ、“強竜打線”の愛称も一層の定着を見せた。
ナゴヤドーム移転
1997年、ナゴヤドームに本拠地を移し、新時代の一歩を踏み出すが、狭いナゴヤ球場から一転して広くなったナゴヤドームに野手陣の慣れが追いつかず、前年の強竜打線も沈黙して5年ぶりの最下位に終わる。しかし、前年不振だった宣銅烈がその年のオフを返上し猛練習。結果最優秀救援投手になった横浜佐々木主浩と並ぶ38セーブを挙げ、山本昌が3年ぶり3度目の最多勝に輝くなど投手陣は奮闘を見せた。オフにはドームに対応した野球を目指して抜本的な改革が行なわれた。守備力と機動力を確保するためパウエルを解雇し、韓国ヘテから李鍾範を獲得。阪神との交換トレードで矢野輝弘と大豊を放出し、関川浩一と久慈照嘉を獲得した。この年のドラフトでは川上憲伸が1位指名している。
1998年、前半戦までは勝率5割付近の成績だったが、後半戦、独走していた横浜をハイペースで追走。8月27日には1ゲーム差に迫った。しかし終盤の対横浜戦7連敗が響き、2位に終わった。野口茂樹が最優秀防御率、この年から中継ぎに転向した落合英二が最優秀中継ぎ投手、ルーキー川上憲伸が新人王を獲得した。オフには福留孝介がドラフト1位、岩瀬仁紀が2位で入団。
1999年、開幕から11連勝。投手陣は、野口茂樹や川上憲伸、山本昌に武田一浩の先発陣に加え、新人の岩瀬仁紀が65試合に登板、サムソン・リー、落合英二らと共に不動のセットアッパーとなる。抑えの宣も好調で、12球団随一の投手王国を誇った。この年は大型連勝が多く、7月2日から8連勝したのに加え、シーズン終盤も9月21日から再び8連勝し、9月30日の神宮球場での対ヤクルト戦で、11年ぶりのリーグ優勝を果たした。前半戦を首位で折り返しての優勝は球団史上初。ナゴヤドーム移転後初の日本シリーズでは福岡ダイエーホークスと対戦するも、工藤公康擁する投手陣を打ち崩せず、山崎の欠場も響いて1勝4敗で敗れ、45年ぶりの日本一奪回はならなかった。
2000年、序盤は不調だったが5月には10連勝を記録し、2位は確保するものの投打ともに前年の面影はなく、特に対巨人戦は対戦成績で9勝18敗。本拠地のナゴヤドームで2勝12敗、打たれた本塁打が26本とホームの中日が1年で打った本塁打(32本)に迫る勢いで被弾した。9月24日の東京ドームでの対巨人最終戦では、4-0でリードの最終回にエディ・ギャラードが江藤智に同点満塁本塁打、二岡智宏にサヨナラ本塁打を浴びて優勝を決められてしまった。シーズン結果は2位。
2001年、シーズン5位で、4年ぶりのBクラスに終わる。星野監督が「健康上の理由」で辞任。
2002年、山田久志ヘッドコーチが監督に就任。中日OB以外から選ばれる監督としては山内一弘以来となる。谷繁元信が横浜からFA移籍。8月1日の巨人戦で川上憲伸がノーヒットノーランを達成。チームは対巨人戦9連敗が響き3位。
2003年、一度は入団契約を交わしながらも突如翻意し、ボストン・レッドソックスに入団したケビン・ミラーの代わりにロサンゼルス・エンゼルスよりアレックス・オチョアが来日。チーム最多勝は前年オフに移籍してきた平井正史(12勝)で、川上憲伸と朝倉健太と前年好成績を残した2人のケガによる離脱などもあり、ローテーションを守ったのは山本昌だけであった。7月5日の東京ドームでの対巨人戦で立浪和義が2000本安打達成。打線は4番打者が流動的で固定出来なかった。5位に低迷していた9月9日に山田監督の休養(事実上の解任)を発表し、佐々木恭介ヘッドコーチが監督代行となった。最終的には、優勝した阪神と14.5ゲーム差の2位で終わる。
落合監督時代
2004年は、1988年優勝時の4番打者の落合博満が監督に就任。1987年以降の星野色を一掃し、就任1年目でリーグ優勝を果たす。主力は元より控え選手も数多く起用し、守り勝つ「オレ竜野球」を見せた(チーム失策数45はセ・リーグ最少記録。ゴールデングラブ賞を5部門で受賞し、こちらはセ・リーグ最多記録)。日本シリーズでは、西武に3勝4敗で敗退。
2005年は横浜よりタイロン・ウッズが加入し、ドラフトでは中田賢一をはじめ即戦力となりうる新人を確保。球団初の開幕2試合連続サヨナラ勝ちなど滑り出しは好調だったが、この年から導入されたセ・パ交流戦で15勝21敗と苦戦を強いられる。オールスター前後の11連勝など後半戦には粘り強さを見せ、首位阪神に2度にわたって0.5ゲーム差まで迫ったものの連覇はならず、最終的には10ゲーム差の2位に終わった。
2006年は投手陣と堅守、打撃陣がうまく絡み合う「オレ竜野球」で6月半ばから首位を独走。8月に球団史上最速マジックナンバー(M40)を点灯させた。シーズン終盤には阪神の猛追に遭うものの、一度も首位を明け渡さずに10月10日に2年ぶり7度目のセ・リーグ優勝を決めた。セ・リーグ5球団に勝ち越しての「完全優勝」だった。日本シリーズでは北海道日本ハムファイターズに1勝4敗で敗退。
2007年は常に上位を保ち、終盤には巨人、阪神との三つ巴の展開となったが、最後は巨人にかわされて2位となり、連覇はならなかった。セ・リーグでは初の開催となるクライマックスシリーズでは、第1ステージでは3位の阪神と対戦し2連勝、第2ステージはレギュラーシーズン1位の巨人と対戦し3連勝。結果的には5勝無敗で、球団史上初となる2年連続の日本シリーズ出場を一気に決めた。前年と同様、日本シリーズで日本ハムと対戦し、第5戦で山井大介と岩瀬仁紀による完全試合もあり、4勝1敗で53年ぶりに日本シリーズで優勝した。また、ナゴヤドームで日本シリーズに優勝したのは初で、名古屋での日本シリーズ優勝も53年ぶりだった(前回の日本一の時は中日球場)。この年の中日は「リーグ優勝できずに日本シリーズに優勝したチーム」となっている。また、二軍チームもファーム日本選手権にて巨人を下し、同じく優勝している。アジアシリーズでは初戦に韓国代表のSKワイバーンズに日本代表として初めて敗れ、2位で決勝戦に進むが、1位のSKワイバーンズに勝って優勝し、アジア王者となった。
2008年はシカゴ・カブスに移籍した福留孝介の穴埋めとして西武からFA宣言した和田一浩を獲得したものの、4番タイロン・ウッズの打撃不振や主力の野手・投手に故障者が続出し(前年の阪神に続く規定投球回到達者なしのチームとなった)、前年に比べると苦戦を強いられた。阪神との直接対決で6勝17敗1引分けと大きく負け越したことも響き、優勝争いに一度も絡むことはなかったが3位となりクライマックスシリーズの出場権を得た。クライマックスシリーズ第1ステージは阪神との大接戦を2勝1敗で制したものの、第2ステージでは拙攻と投手陣の不調(特に救援陣)もあり、巨人に1勝3敗1引分けで敗退、3年連続日本シリーズ進出はならなかった。オフには、川上憲伸がFAで大リーグ・アトランタ・ブレーブスに移籍。
2009年は前年退団したタイロン・ウッズの代わりとして獲得したトニ・ブランコが本塁打王と打点王の二冠に輝く活躍を見せ、前年は不振だった立浪和義も代打で好成績を残して勝利に貢献した。川上が移籍したことによって生じた先発投手陣の穴も吉見一起やチェン・ウェインの活躍により埋まることとなった。また、川井雄太が球団新記録の開幕11連勝を達成した。シーズン序盤は下位に低迷したが、交流戦辺りから追い上げを見せ、一時は首位巨人とのゲーム差を1.5まで詰めた。しかし、巨人に8勝16敗と大きく負け越したのが最後まで響き、最終的には首位巨人に12ゲーム差をつけられて2位に終わった。3位・ヤクルトとのクライマックスシリーズ第1ステージは2勝1敗で制したが、巨人と対戦した第2ステージは初戦こそ勝利したものの2戦目以降は3戦で計19失点と投手陣が打ち込まれて1勝4敗で敗退し、シーズンを終えた。この年限りで立浪が引退した。ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の候補にドラゴンズから4選手が選ばれたが全員が辞退したことが話題となった。
2010年はチーム打率が12球団中11位(.259)だったものの、チーム防御率は12球団最高の3.29となった。ホームゲーム、特に本拠地のナゴヤドームでは51勝17敗1分けと圧倒的な強さを見せた。巨人戦はナゴヤドームでは9連勝を含む10勝2敗(クライマックスシリーズでは3勝1敗)、対阪神戦も10勝2敗と大きく勝ち越している一方で、ロードゲームでは26勝44敗2分けと差が激しかったが、セ5球団で負け越したのはヤクルトのみであった。 この年の序盤は先発投手陣が不調だったが、浅尾拓也や高橋聡文ら中継ぎ投手陣が活躍した。野手では主力の井端弘和がシーズン中盤から故障で長期離脱したこともあり、一時は首位巨人に最大8ゲーム差をつけられながらも、和田一浩や森野将彦らが引っ張り、井端に代わってレギュラーに定着した堂上直倫ら若手の台頭もあって後半戦から追い上げた。優勝マジックを1とした10月1日、マジック対象の阪神が広島に敗れたことから4年ぶり8度目のリーグ優勝となり、巨人のリーグ4連覇を阻止した。クライマックスシリーズでは、3位から勝ち上がった巨人と第2ステージを戦い4勝1敗として、3年ぶりとなる日本シリーズ出場を決めた。ロッテとの日本シリーズでは、第6戦は延長15回、シリーズ歴代最長時間試合となる5時間43分の末、2-2で引き分け。第7戦は2試合連続の延長戦に。ロッテに逆転を喫し7-8で敗れ、2勝4敗1分けで日本一を逃している。
2011年は交流戦ではセ・リーグで唯一の勝ち越しチームとなり、リーグ首位にも立つなど好調であったが、高橋聡文、中田賢一、山本昌、トニ・ブランコ、谷繁元信、井端弘和ら主力選手の故障が相次いだ事に加え、統一球の影響などで前年MVPの和田一浩を中心に打撃陣が絶不調に陥り、7月に大きく失速。8月3日には首位ヤクルトから10ゲーム差が付き、8月10日には借金6で5位にまで転落した。ところがリーグトップの投手陣の働きに加え、中継ぎから先発に転向したエンジェルベルト・ソトの活躍などで、巨人、阪神、広島との2位争いに踏み止まり、9月になると谷繁、ブランコ、井端の復帰や大島洋平、平田良介ら若手の成長もあり、徐々に首位ヤクルトとの差を縮めていく。その最中、任期満了による落合監督の同年シーズン限りでの退任とCBC野球解説者・高木守道の次期監督就任が9月22日に、10月6日にはコーチ11人の退団が発表された。しかし発表は悪影響とはならず、9月を15勝6敗3引分け、10月を11勝5敗2引分けと勝利を重ね、10月6日に首位に浮上。10月18日に142試合目にして優勝し球団史上初となるリーグ連覇を達成した。チーム打率(.228)、得点数(419得点)は共にリーグワーストであり、両部門がワーストでのリーグ優勝はプロ野球史上初のことである。クライマックスシリーズでは、ファーストステージを勝ち上がったヤクルトとファイナルステージを戦い、4勝2敗で2年連続となる日本シリーズ出場を決めた。ソフトバンクとの日本シリーズでは、第6戦までお互いの本拠地で敗戦するという展開となったが、相手の本拠地での第7戦において敗れ、3勝4敗で日本一を逃している。シリーズに入っても打線は低調(チーム打率.155)で、日本シリーズにおける歴代ワースト記録となった。
高木監督時代(第二次)
2012年から高木守道が17年ぶりに監督復帰。落合色を一掃し、コーチ陣を権藤博らOBで占める事となった。また、落合監督時代に8年間使用されたユニフォームも一新され、チームカラーが従来のブルー・ホワイトから、1954年の初の日本一の時のチームカラーで、球団旗にも使用されているネイビー・レッド・ホワイトに変更された。選手面では楽天を退団した山崎武司が10年ぶりに、大リーグ・アトランタ・ブレーブスを退団した川上憲伸が4年ぶりにそれぞれ中日に復帰。一方でチェンが大リーグ・ボルチモア・オリオールズに移籍。開幕から連勝、連敗を何度も繰り返し安定感こそ欠いたものの、巨人と首位争いを繰り広げ、前半戦を2位で折り返した。だが、関東(首都圏)遠征試合の弱さは今季も露呈し、東京ドームの対巨人戦8連敗を含む15連敗を喫した。
チーム成績・記録
- リーグ優勝・9回(1954年、1974年、1982年、1988年、1999年、2004年、2006年、2010年、2011年)
- クライマックスシリーズ優勝・3回(2007年、2010年、2011年)
- 日本一・2回(1954年、2007年)
- アジアチャンピオン・1回(2007年)
- Aクラス・48回、但し、2リーグ分裂後は45回(1938年秋、1943年、1947年、1950年~1959年、1961年~1963年、1965年~1967年、1971年~1975年、1977年、1979年、1982年、1984年、1987年~1989年、1991年、1993年~1994年、1996年、1998年~2000年、2002年~2011年)
- Bクラス・28回、但し、2リーグ分裂後は17回(1937年春~1938年春、1939年~1942年、1944年~1946年、1948年~1949年、1960年、1964年、1968年~1970年、1976年、1978年、1980年~1981年、1983年、1985年~1986年、1990年、1992年、1995年、1997年、2001年)
- 最下位回数・8回 但し、2リーグ分裂後は5回(1937年秋、1946年[2]、1948年、1964年、1968年、1980年、1992年、1997年)
- 連続Aクラス入り最長記録・10年(1950年~1959年,2002年~2011年)
- 連続Bクラス最長記録・4年(1939年~1942年)但し、2リーグ分裂後は3年(1968年~1970年)
- 最多勝 89勝(1950年)
- 最多敗 83敗(1948年、1964年)
- 最多引分 19分(1982年)
- 最高勝率 .683(1954年)
- 最低勝率 .283(1937年秋)
- 最小ゲーム差 1.0ゲーム(1961年、1994年)
- 最大ゲーム差 34.5ゲーム(1948年)
- 最多連勝記録 15連勝(1955年)
- 最多連敗記録 15連敗(1946年)
- 最多本塁打 191本(1984年)
- 最少本塁打 1本(1937年春)
- 最高打率 .282(1984年)
- 最低打率 .182(1941年)
- 最高防御率 1.41(1943年)
- 最低防御率 4.75(1995年)
- 連続試合無失点勝利 5試合(2010年)日本プロ野球記録
- 連続イニング無失点 50(2010年)セ・リーグタイ記録。
歴代本拠地
- 1948年 後楽園球場
- 1949年~1975年 中日球場(1952年のフランチャイズ制導入に伴い、正式に愛知県が本拠地となる)
- 1976年~1996年 ナゴヤ球場(中日球場を改称)
- 1997年~ ナゴヤドーム
チーム特徴
- 中部地方唯一の球団ということもあり、東海3県や北陸3県には熱心なドラゴンズファンが多く、中日新聞東海本社が置かれている浜松市やその隣の磐田市を中心とする静岡県西部地方、中日スポーツの購読エリアの滋賀県(特に岐阜や三重の県境に近い彦根市や長浜市周辺)、長野県飯田市周辺の南信地方や松本市周辺の中信地方にも多くのファンがいる。近隣の岐阜や豊橋、浜松などでは毎年地方試合が開催されており、特に豊橋市民球場開催時は、往年のナゴヤ球場を彷彿させる応援であり、昔の応援を懐かしむファンも、東三河だけでなく各地からつめかける。
- ニックネームの「ドラゴンズ」は親会社・中部日本新聞社(社名は当時)の杉山虎之助社長の干支「辰」にちなむ。現在の球団名「中日ドラゴンズ」の初出は1948年のことで、親会社よりも先に「中日」と名乗ったことになる。
- 明治大学出身者が多い。その他、応援スタイルや、ユニフォームのデザイン等共通点が多い。
- 親会社が新聞社というライバル関係もあり、「巨人にさえ勝てば優勝しなくてもいい」「巨人にだけは勝て」と言われていたと、数多くのOBが証言している。巨人のみに主眼を置いた結果が、巨人戦で力を使い果たし下位球団に取りこぼしが発生し、結果「2位が多い」「優勝できない」ことの一因とも言われている。日本シリーズで敗退することが多く、これも(巨人を破って)リーグ優勝した時点で達成感があり、日本シリーズで敗退する一因とも言われている。
- 巨人対阪神戦が「伝統の一戦」と呼ばれて阪神がライバル球団とされているが、通算の巨人との対戦成績(勝率)は中日が阪神を上回りセ・リーグ球団中1位である(2011年シーズン終了時点。中日は769勝949敗49分で.4476、阪神は750勝959敗62分で.4389となっている)。
- 巨人対阪神戦がイベント的な盛り上がりを見せるのに対し、巨人対中日戦は親会社同士の関係も有り、殺気立った遺恨試合の様相を呈することも少なくなく、特に1990年代以前はその傾向が強かった。多くの選手が異様な雰囲気だったことを証言している。また、怪我で巨人を自由契約になった近藤貞雄や、川上哲治に巨人を追われた経緯を持つ与那嶺要、巨人からドラフト1位指名の確約をもらいながら実際には指名されなかった星野仙一など、個人的な遺恨がチームに持ち込まれていたこともある。
- 監督選考に際し、生え抜き中心と言う訳では無く2年以上在籍した移籍選手でも数年監督を務める傾向がある一方で、山内一弘や山田久志の様に、ドラゴンズの選手経験が無い、所謂「外様」に関して言えば風当たりが厳しく、外様監督でのリーグ優勝や日本一経験があるのも、2010年シーズン終了後現在ではノンプロの天知俊一(1954年)のみである。ただし、監督交代の激しいチーム事情もあり、かつては2~3年以内やシーズン途中での監督辞任、休養による交代も珍しくは無く、特に95年シーズンは2度の監督交代が行われた(高木守道→徳武定祐→島野育夫)。通算で5年以上務めたのは、天知、与那嶺要、星野仙一、落合博満の4人だけである。
- 日本シリーズには10回出場しているが、1954年に最初の日本一になってから2007年に二度目の日本一になるまで6連敗した。これは日本プロ野球の単独ワースト記録である。また、1954年に最初の日本一になってから2007年に日本一となるまで53年間日本一になっていなかったのは、日本一を達成している球団中最長記録である。またクライマックスシリーズが制定された以降はリーグ優勝以外の球団が日本一になる可能性があるため、リーグ優勝を経ての日本一という俗に「完全優勝」と言われる概念が生まれた。この概念においては1954年から57年間(2011年現在)完全優勝から見離されており、これも日本プロ野球の最長記録である。2007年の日本一はリーグ2位からクライマックスシリーズを経てのものである。日本シリーズでの通算成績は、60試合を行って23勝、勝率.383は日本プロ野球に現存する球団(日本シリーズ未進出の楽天を除く)中では最低である。
- 一方、交流戦においては初年度(2005年)こそ15勝21敗で、12球団中9位と苦戦したものの、2006年以降は軒並み勝ち越し、もしくは五分以上の成績を残しており、2011年交流戦終了時点で通算192試合を消化し、98勝91敗3分、勝率519であり、ヤクルトと並んでセリーグトップタイの成績である。ちなみに2011年の交流戦は24試合で14勝10敗、勝率583で、12球団中4位、セリーグでは1位であり、且つセリーグ球団唯一の勝ち越しである。加えて、2012年5月20日の西武戦に勝利し、セリーグ最速の交流戦通算100勝到達球団となった。
- かつてはパリーグ球団相手に勝てない(日本シリーズでの分の悪さや交流戦初年度の苦戦等に因り)と言われてきたが、パリーグ勢が奮闘している交流戦(2011年までの7年間は全てパリーグ球団が優勝している)においてはむしろそこそこ健闘している部類である。
- 2位になることが非常に多く、1950年に2リーグ制になってから2010年までの61シーズンで2位に23回なっている(1リーグ時代は2回で、合計25回)。この回数は、2リーグ制移行後の両リーグ最多であり、1リーグ時代を含めても、1球団の記録としては最多である(1990年代以降だけでも1991年、1993年、1994年、1996年、1998年、2000年、2003年、2005年、2007年、2009年の10回)。そのため、2位が中日の「定位置」と呼ばれることもある(「万年2位」、「優勝と縁遠い」という悪いニュアンスも含む。『サンデードラゴンズ』で「もう2位はいらない」というナレーションが入ったこともある)。23回の2位の内、最多優勝は巨人の14回。特に1963年、1994年、1996年、2000年、2009年は、直接対決で巨人に敗れて優勝を決められた。
- 逆に優勝時は巨人が2位になることが多く、1999年の5度目のリーグ優勝までは、すべて2位球団は巨人だった(ただし1988年のマジック対象チームは広島だった)。優勝時に巨人が2位でなかったのは2004年が初めてである。このときは2位・マジック対象チームはヤクルトだったが、優勝を実質的に争ったライバルは巨人だった。
- 2位が非常に多いのは、巨人が2リーグ制移行後に33回も優勝していることもあるが、1994年の10.8決戦での敗北などに代表されるように、ここ一番で勝ち切れない体質も指摘されている。1990年代以降だけを見ても、1991年の広島、1993年のヤクルト、1994、1996、2007年、2009年の巨人、1998年の横浜、2005年の阪神との優勝争いが挙げられる。その多くの年では首位と大きくゲーム差がついた状態から猛追して、あと一歩というところまで迫りながらも天王山の試合で致命的な敗北を喫し、優勝を逃した。ただし2010年は首位巨人に一時は8ゲーム差をつけられながら後半に追い上げ、阪神も含めた三つ巴の優勝争いを制している。2011年も首位ヤクルトに最大10ゲーム差をつけられながら後半の猛進撃で追い抜き、直接対決でも圧勝して優勝を果たしており、2年続けて上記のパターンを破る形になった。また1999年、2006年には逆の立場で、一時の独走状態からそれぞれ巨人、阪神の猛迫を受けながら、最接近を許した直後の試合でライバルを退け、優勝を果たした。
- かつては「前半戦を首位で折り返すと優勝できない」というジンクスがあり、1979年、1984年、1991年などはこのパターンで優勝を逃した。しかし1999年にこのジンクスを破って以降は、2004年、2006年も最後まで首位の座を明け渡すことなく優勝している。
- 打線の愛称は「強竜打線」「恐竜打線」など。かつてナゴヤ球場(改修前)を1軍の本拠地にしていた時期は、狭い球場を生かした打力が売りのチームだったが、ナゴヤドームへ移転してからはチームが不振に陥り、一転して投手を中心とした守備重視のチームへと切り替え、2004年以降は奮起も目立つ。
- かつては数年周期で低迷の年が来て、その翌年に優勝争いに絡むことが多かったが、2004年以降はほぼ毎年優勝争いに絡んでいる。
- 育成選手の背番号が他球団では100番台を使うなか、育成選手には200番台を採用している(100番台はチームスタッフに採用している)。
- 巨人、阪神、オリックスとともに、日本プロ野球開始時から存続している4球団(経営母体も不変なのはオリックスを除く3球団)のひとつである。
- 落合監督の時代となった2004年以降、助っ人の新外国人選手にドミニカ共和国出身選手が多いという特徴があり、2009年、2010年はアジア出身を除くと全外国人枠選手がドミニカ出身の選手である。詳細は中日ドラゴンズ#ドミニカ共和国とのつながり参照。
- 2011年現在まで12球団で最も長くAクラスを維持しているチームである(最後のBクラスは5位である2001年)。2011年にリーグ優勝を果たしたため10年連続Aクラスとなり、連続Aクラスの球団記録に並んだ(1950年~1959年)。
- 又、長期低落のない球団であり、複数年以上の連続Bクラス転落が少ない球団でもある。複数年以上の連続Bクラスは1987年以降、一度も記録しておらず、セ・リーグ勢では連続Bクラス転落から最も遠ざかっている球団である。ちなみに、最後の連続Bクラス転落は1985年~1986年の2年連続5位である。そして、球団最長の連続Bクラス期間は1968年~1970年の3年連続Bクラスが最長であり、1950年の2リーグ分裂以降、セ・パ12球団を通じて、読売ジャイアンツ(2005年~2006年に2年連続で記録)に次ぐ短さである。加えて、2リーグ分裂以降の1950年~2011年終了時点の62シーズンで、Aクラスが45回もあるのに対し、Bクラス転落はわずか17回だけであり、読売ジャイアンツに次いで、Bクラス転落回数の少ない球団である。
応援スタイル
選手別のヒッティングマーチを歌いながら、メガホンなどを叩くスタイルである。1980年代~1990年代初頭までの選手別応援歌は他の楽曲から流用したものが多く見られる(例:立浪和義:ガラスの十代、落合博満:マグマ大使など)。1997年のナゴヤドーム移転後からは全国中日ドラゴンズ私設応援団連合が4つのチャンステーマ以外は高木守道現監督を含む全ての選手応援歌を作曲・作詞して演奏している。1回の攻撃開始、7回の攻撃前、9回以降の攻撃前、得点時に「燃えよドラゴンズ!」を演奏する。ただし、8回の攻撃前には「ドラゴンズマーチ」を演奏する(選手用応援歌とは別パート)。他球団では得点時やラッキーセブンで曲が使い分けられることが多いが、中日は得点時・勝利時等で全て燃えよドラゴンズを演奏する。応援歌が無い選手には「ガッツだドラゴンズ」(新人王資格あり)、「ドラゴンズマーチ」(新人王資格なし)が演奏される。過去は5年目までが「ガッツだドラゴンズ」、それ以降が「ドラゴンズマーチ」だったが、2004年~2005年オフシーズンに中堅所のベテランから5、6年目の選手を大量に解雇・放出したこと、大学生・社会人ドラフトの分離によって高年齢ながら入団後まもない選手が増えることが予想されることにより基準が3年目までに変更された。2007年シーズンは「ドラゴンズマーチ」に一本化していたが、2008年シーズンは基準を新人王資格の有無に改め、「ガッツだドラゴンズ」の演奏が復活した。
- チャンステーマは4つある。
- チャンステーマ1:元中日ゲーリー・レーシッチらに使われた山本リンダの「狙いうち」(2002年後半から)。
- 通称「狙い撃ち」。2003年から青とピンクの手袋をはめて応援するスタイルを始めたが、あまり広まっていない。
- チャンステーマ2:元中日アロンゾ・パウエルの応援歌(2004年から)。
- 通称「パウエル」、又は「Get Victory」。下記の「川又」は歌詞付であるが、「パウエル」は歌詞中に選手名を含むため、チャンステーマとしては歌詞なしである。
- チャンステーマ3:元中日川又米利に使われていたささきいさおの「ぶっちぎりの青春」(2005年から。全国では2006年夏から)。
- 通称「川又」。初めは対巨人戦限定、関東以北限定だったものの、2006年8月下旬よりナゴヤドーム等全国の球場でも使われている。また、現在では途中で2回程、選手の名前を合いの手として入れることがある。
- チャンステーマ4:元中日平野謙に使われていた「狼少年ケン」(2012年から)。
- 通称「平野」。平野のコーチ就任に合わせて制定された。演奏中は速足で歩く時のように手を交互に動かし、途中で3回ほど「アイヤ」と合いの手を入れるスタイルを取り入れた。
- 優勝がかかった重要な試合では、チャンステーマがメドレーで演奏される(「チャンステーマ2」→「チャンステーマ3」→「チャンステーマ1」の順)。
- 他にも特徴的な応援としては、小田幸平が打席に立った時に「O・D・A」コール、井端弘和のファンファーレ等[3]がある。(他球団でも同様のスタイルがあるが)9回ツーアウトになると「あと1人(ツーストライクで「あと一球」)」(ビジターでは投手名)コールが起きる。
- 2008年以降は応援団の中でも主導的役割を担っていた竜心会、白龍會が暴力団との関係を疑われたことを理由に全球場を出入り禁止になってしまっている。それに抗議するため他の応援団も応援を取りやめた。当初は何のリードもない応援だったが、笛と太鼓による応援は復活している。ただし、トランペットによる応援はしばらく復活しなかった。現在はトランペットと太鼓による応援が復活している(自粛していた関東地区も2010年6月以降復活)。
ジェット風船の使用については、それが認められていたナゴヤ球場からそれが禁止のナゴヤドームに本拠地を移して以降、ジェット風船はビジターや地方球場のみ使用している(ジェット風船の色はカラフル)。2012年8月8日のナゴヤドームでの広島戦において、同球場史上初めてジェット風船の使用が許可され、中日ファンは青色の風船を飛ばした。今回はあくまでもテストケースとしてのもので、当日の入場券と引き換えにジェット風船2個セットを記念品として贈呈し、それを打ち上げるというものだった。(市販品は持参禁止)
デザイン
参考書籍:「ベースボールマガジン」1998年夏季号(1998年、ベースボール・マガジン社発行)、「プロ野球ユニフォーム物語」(2005年、ベースボール・マガジン社発行。文:綱島理友、絵:綿谷寛。書籍コード:ISBN 4583038070)
球団旗
名古屋軍時代
- 創立(1936年) 白地にえび茶色の円が入っており、その中に白抜きで鯱鉾で「N」の字をあしらい「B」と「L」の字を入れたマークが描かれていた。
- 1937年 - 1940年 えび茶色地に先述のマークが入ったものが使われた(「L」の字が省かれたマークのものも使用)。
- 「N」は名古屋(Nagoya)の、「B」はベースボール(Baseball)のそれぞれ頭文字だが、「L」に関しては、綱島理友が著書『プロ野球ユニフォーム物語』で、「名古屋軍主導で大日本野球連盟というリーグ(League)を独自に立ち上げていたこと(結局は頓挫し、系列会社傘下の大東京軍とともに日本職業野球連盟に合流)と関係しているのではないのか」という旨で推測している。
- 1940年秋 - 1943年 紺色地に、「名」の字をあしらったマーク(赤に白縁取り)が入ったデザイン。
※産業軍時代(1944年) - 中部日本軍時代(1946年)は不明。
中部日本ドラゴンズ - 名古屋ドラゴンズ時代
- 1947年 - 1948年 オレンジ地に、中央に大きく黒の中日新聞社社章(中日マーク)。
- 1949年 白地に、左上に赤の中日マーク、右寄りに大きく西洋風のドラゴンの絵(黒基調)が入る。
- 1950年 バックが山吹色になる。
- 1951年 - 1953年 上が白・下がえび茶色のセパレート型。上の左よりにドラゴンの顔をデフォルメした絵(黒)が、下に白く「DRAGONS」の文字が入る。
中日ドラゴンズ(第二期)時代
- 1954年 - 1964年 1949年に使われたデザインからドラゴンの絵に代わり、えんじ色で筆記体の「Dragons」ロゴが入ったもの(中日マークはそのまま)。
- 1965年 - 1967年 ここから、中日新聞社社旗(上が赤・下が紺のセパレート型。赤の左寄り部分に中日マークが、紺の右寄り部分に「中日」の文字がそれぞれ白文字で入る)をアレンジしたものが使われる(ただし、赤のスペースがやや狭く、紺のスペースがやや広くなっている)。真中に大きく「D」が入り、その左(赤色部分)に「中日」の文字が入る。
- 1966年ごろ - 1986年 赤・紺それぞれ5分5分のデザインとなる。上には大きく筆記体の「Dragons」ロゴ、下には大きく「中日」が入る(どちらも白文字)。
- 1988年 - 前年から使っていた ロサンゼルス・ドジャース型ユニフォームの採用に伴い、「Dragons」ロゴがドジャースに忠実なデザイン(ヒゲも「g」にかかるほど長い)に変更された。
- 1990年代後半頃からそれぞれのロゴが小さいものを併用する(印刷物には、それ以前から小さい方のデザインが掲載される傾向にある)。
ロゴマーク
商標としての筆記体「Dragons」ロゴは、1969年からユニフォームで使われたものを1983年2月4日に出願し、1986年2月28日に登録された。登録番号:第1843922号。
星野仙一監督就任後に採用されたドジャースをカバーした書体については、同じ書体の「D」マークとともに、1990年4月10日に出願し、1993年5月31日に登録された。登録番号:第2543391号。
また、「Dragons」ロゴ単体も1991年8月26日に出願し、1994年1月31日に登録された。登録番号:2618847号。
1987年 - 1996年に使われたドラ坊や(1981年に登場したマスコットキャラクター)ペットマークも1993年6月29日出願し、1997年10月9日登録された。登録番号:4065874号。
現在の「DRAGONS」ロゴは、2003年12月22日出願、2004年7月9日登録。登録番号:第4786013号。
また、「ドラ坊や」登場前は「野球ボールをくわえた東洋龍」をデザインしたものをペットマークに使用。当時のジャンパーやユニフォームの袖にワッペンが縫い付けられていた。
ユニフォーム
名古屋軍 - 産業軍時代(1936年 - 1944年)
- 1936年 帽子…白に黒の「N」マーク。シャツ…立ち襟付きのスタイル。アンダーシャツ…白。ストッキング…白を基調としながら、上部にえんじ色と黒の線が2本入っていた。胸マーク…黒に白縁取りのブロック体で「NAGOYA」(2004年以降の胸マークに近い書体)のロゴがアーチ状に入る。左袖には、黒の長方形に金色の「NBL」マーク(球団旗の節参照)が入ったマークが付けられた。ベルト…茶。
- 帽子ツバにえんじ色。シャツ・パンツ…白。
- シャツ・パンツ…グレー。
- 1937年 - 1938年 帽子…黒に金糸で「N」・銀糸で「B」を重ねたマーク(球団旗の節参照)。シャツ…立ち襟付きのスタイル。アンダーシャツ…黒。ストッキング…上部に赤・下寄りに白を配し、赤部分には黒を黄色で挟んだ線が入る。背番号…赤。左袖…新愛知新聞社社章が入る(赤に黄色縁取り)。
- 1938年 - 1939年 概ね'37年からのデザインに近いものを使用。線は無く、左胸に「N」の飾り文字('39年は「n」)が入っていた。右袖に新愛知社章。
- 1939年 - 1940年
- '40年の満州遠征終了時まで使用 帽子…白に赤く「N」マーク(飾り文字)・赤ツバ。シャツ・パンツ…白。アンダーシャツ…白。線(前立て2本・袖口2本・パンツサイド1本)…赤。左胸マーク…黒で「N」マーク。背番号…黒。左袖…黄色に黒縁取りで新愛知社章。ベルト…黒。ストッキング…'37年 - '38年のものに近いが、線は黒が2本入ったのみ。パンツ右尻部分にポケット無し。
- '40年の満州遠征終了後(日本野球連盟による、球団名などの日本語化以降)使用 「N」マークが「名」マーク(球団旗の節参照)に変更(胸・帽子ともに、黒色)。
- '39年シーズン途中、小西得郎が監督就任した頃より使用 創立時に近いデザイン。帽子…従前と同じ。アンダーシャツ・ベルト・ストッキング…創立時と同じ。胸マーク…創立時とほぼ同じ(配色は、黒に白・赤縁取り)。背番号…黒。左袖…赤に黒縁取りで新愛知社章。
- シャツ・パンツ…白。
- シャツ・パンツ…グレー。
- '40年の満州遠征終了時まで使用 帽子…白に赤く「N」マーク(飾り文字)・赤ツバ。シャツ・パンツ…白。アンダーシャツ…白。線(前立て2本・袖口2本・パンツサイド1本)…赤。左胸マーク…黒で「N」マーク。背番号…黒。左袖…黄色に黒縁取りで新愛知社章。ベルト…黒。ストッキング…'37年 - '38年のものに近いが、線は黒が2本入ったのみ。パンツ右尻部分にポケット無し。
- 1940年 - 1942年 帽子…黒に金糸で「名」マーク。シャツ・パンツ…グレー。アンダーシャツ…黒。左胸マーク…赤に黒縁取りで「名」マーク。背番号…赤に黒縁取り。左袖…赤に黒縁取りで新愛知社章。ベルト…茶。ストッキング…上部黒・下寄りに白。
- 1943年 - 1944年 帽子(軍帽型)・シャツ・パンツ…国防色(オリーブグリーン系)。アンダーシャツ…黒。ベルト…黒。ストッキング…黒。
- 1943年 帽子マーク…金糸・黒ぶちで桜のマーク。背番号…黒。
- 1944年(産業軍時代) 左胸…白円に黒線で独特の囲み方をしたマーク。背番号廃止。
- 小阪三郎選手が白のアンダーシャツを着た写真がベースボール・マガジン社に残っている。
中部日本軍 - 中日ドラゴンズ時代(1946年 - 1959年)
- 1946年 - 1947年 帽子…白にえび茶色のツバ(えび茶色の「C」マークが付いたものもあり)。シャツ(立ち襟付き)・パンツ…白。アンダーシャツ…白ないしは、えび茶色のものを使用。線(前立て2本・袖・パンツサイド)…えび茶色。胸マーク…2段組みで上に「CHUBU」下に「NIPPON」のロゴが入る(上はアーチ状。'46年は物資不足のため、ペンキで描かれていた)。背番号…えび茶色。ベルト…茶。ストッキング…グレーを基調とし、上部にえび茶・白・えび茶の線が入る。
- 1947年 帽子…黒に白の「C」マーク。シャツ・パンツ…ダークグレー(シャツ前立て部分…白)。袖線…白・赤縁取り。前立て線…赤。ベルトループ・パンツサイド線…白。ポケット線…白。ベルト…茶。ストッキング…上・中部がグレー(上寄り部分に白・赤縁線が2本入る)。下部が白。胸にアーチ状で白・赤縁の「CHUNICHI」ロゴが入る。背番号…白・赤縁。左袖…シーズン途中より、金糸で西洋風ドラゴンのマーク('49年〜'50年の球団旗にも黒を基調に描かれる)が入る。
- 1948年
- 帽子…白に紺ツバ。紺・赤縁の「C」マークが入る。シャツ(立ち襟付き)・パンツ…白。アンダーシャツ…紺。線(袖・立ち襟・前立て・ベルトループ・パンツサイド)…紺。胸マーク…紺の筆記体で「Doragons」(「Dragons」の誤りだが、物資不足のため、このまま使われた)。腰番号(パンツ左部分に存在)・背番号…紺。ベルト…茶。ストッキング…白に太めの紺線2本。
- 前年のものをマイナーチェンジ。帽子マークは「D」に変更。前立て部分もダークグレーとなり。そこに白と赤の線が入る。パンツ線も白と赤の線になる。アンダーシャツ…白のほかに、あずき色のものも使用。ストッキング…白に、太めの紺線3本追加。
- 1949年 - 1950年 帽子…濃紺に赤・白縁の「C」マーク('50年より、金糸の「C」と白の「N」を重ねたマークを使用)。シャツ・パンツ…グレー。アンダーシャツ…濃紺。ベルト…茶。
- 帽子…先述のほかに、グレーに濃紺ツバ、赤・白縁の「C」マークが入ったものも使用。線(袖口2本・前立て2本・ベルトループ部分2本・パンツ2本・ポケット部分)…濃紺。左胸…赤・白縁の飾り文字で「D」マーク。ストッキング…白地に太めの濃紺線2本入る。
- 線(袖 - 脇 - パンツサイド・前立て2本・ポケット)…赤。左胸…赤・青縁の「C」と「N」を重ねたマーク。左袖…赤・青縁の中日新聞社社章(以下、中日マーク)入る。腰番号(パンツ右部分に存在)・背番号…赤。ストッキング…上部濃紺、下部白。[4]
- 1950年 - 1951年
- 帽子…濃紺に、金糸「C」と白「D」を重ねたマークの入ったもの。シャツ・パンツ…白。アンダーシャツ…黒。線(袖2本・前立て2本・脇〜パンツサイド・ポケット)…青。胸マーク・腰番号(パンツ左部分に存在)・背番号…濃紺。左袖…青の中日マーク。ベルト…茶。ストッキング…濃紺を基調としたデザイン(太めの白線〔黄色の縁取り・真中にも黄色の線が入ったもの〕が入ったものと、太めの黄色線が2本入ったものの2種類を使用)。
- 1950年 - 1953年 帽子…濃紺に、白く「N」マーク。シャツ・パンツ…濃紺の縦じまが入ったスタイル。胸マーク・腰番号(パンツ右部分)・背番号…濃紺(腰番号以外は白縁取り入り)。ベルト…茶。ストッキング…濃紺と黄色を基調としたスタイル(上中部に濃紺と黄色線1本、下部に黄色のデザインと、太めの黄色線2本入ったものの2種類を使用)。
- ホーム用('52年のフランチャイズ制導入時より正式に) - シャツ・パンツ…白。胸に筆記体で「Dragons」。
- ビジター用('51年まで) シャツ・パンツ…グレー。胸に花文字で「NAGOYA」。
- 1951年 帽子…白に赤ツバ、赤「N」マーク。シャツ・パンツ…白。アンダーシャツ…赤。線(袖・前立て・パンツサイド)…赤。胸マーク(若干アレンジされた筆記体で「Dragons」)・背番号…赤。ベルト…茶。ストッキング…赤を基調に、上寄り、紺に白で挟んだ線が3本入る。
- 1952年 - 1959年 帽子…濃紺に白のマーク( - '53年…「N」、'54年 - …「C」)。アンダーシャツ…濃紺。胸マーク・背番号…濃紺。ストッキング…濃紺。左袖…'54年以降濃紺で中日マーク入る。
- ホーム用 シャツ・パンツ…白。胸に筆記体で「Dragons」。
- ビジター用 シャツ・パンツ…グレー。胸マーク(アーチ状)…'55年までは「NAGOYA」、その後は「CHUNICHI」。
- '54年には、胸に「Dragons」が、左袖にアーチ状で「NAGOYA」(背番号も含め、それぞれ濃紺に白縁取り)が入ったものも使用。
中日ドラゴンズ時代(1960年 - 現在)
- 1960年 - 1961年 帽子…えび茶色に、銀糸の「C」と金糸の「D」を組み合わせたマークが入る。アンダーシャツ…えび茶色。線(袖2本・首周り・ベルトループ・パンツサイド2本)…えび茶色。胸マーク・左袖マーク・胸番号・背番号…えび茶色。
- ホーム用 シャツ・パンツ…白。左袖マーク…えび茶色で中日マーク。
- ビジター用 シャツ・パンツ…グレー。左袖マーク…上に中日マーク、下に「NAGOYA」マーク(いずれもえび茶色)。
- 1962年 帽子…濃紺に、金糸の「C」と銀糸の「D」を組み合わせたマーク(書体変更)が入る。アンダーシャツ…濃紺。線(首周り・袖・パンツサイド)…山吹色を濃紺で挟んだ。胸マーク・胸番号・背番号…山吹色を濃紺で挟んだ。左袖マーク…金糸・濃紺縁の中日マーク。ストッキング…濃紺。
- ホーム用 シャツ・パンツ…白。胸に筆記体で「Dragons」。
- ビジター用 シャツ・パンツ…グレー。胸にアーチ状で「CHUNICHI」。
- 1963年 - 1964年 帽子…青に、銀糸の「C」と金糸の「D」を組み合わせたマークが入る。アンダーシャツ…青。線(首周り・袖2本・パンツサイド2本)…青。胸マーク・胸番号・背番号…青×白。左袖マーク…金×青で中日マーク。ベルト…青。ストッキング…青。
- ホーム用 シャツ・パンツ…白。胸に筆記体で「Dragons」。
- ビジター用 シャツ・パンツ…グレー。胸にアーチ状で「CHUNICHI」。
- 1965年 - 1968年シーズン途中(5月前半頃) 帽子・アンダーシャツ…'62年と同じ(書体は従前と同じ)。線(首周り・袖・パンツサイド)…濃紺を赤で挟んだ。胸マーク・胸番号・背番号…濃紺・赤縁。左袖マーク…濃紺・白縁のワッペンが入る(ワッペン内には、金糸の龍マークが、右上端には赤の中日マークがそれぞれ入る)。ストッキング…濃紺。
- ホーム用 シャツ・パンツ…白。胸に筆記体で「Dragons」('67年にはドジャースのロゴに近くなる)。
- ビジター用 シャツ・パンツ…グレー。胸にアーチ状で「CHUNICHI」。
- 1969年春季キャンプにも、上記のデザインを練習用として再び使用。
- 1968年シーズン途中(5月16日) - 終了 スカーレット(以下、赤)と青を基調としたスタイル。帽子…青に赤の天ボタン・ツバ、金の龍のマークと赤の中日マークが入る。シャツ・パンツはニット製、また、シャツはノースリーブスタイル(どちらも日本プロ野球史上初。製作はデサント)。アンダーシャツ…赤。線(首周り・ベルトループ・パンツサイド)…赤。胸マーク・胸番号・背番号…赤・青縁。ベルト…青。ストッキング…赤に、太めの青ラインが1本入る。
- ホーム用 シャツ・パンツ…白。左胸…飾り文字で「D」マーク。胸番号は右の方に入る。
- ビジター用 シャツ・パンツ…ライトグレー。胸マーク…筆記体で「Chunichi」。
スカイブルー基調ユニフォーム使用時代(1969年 - 1986年)
- 1969年 - 1973年 概ね'63年〜'64年のものに近い(概ね、青はスカイブルーになっている)。帽子…スカイブルーに白の天ボタン・空気穴。白のブロック体で「CD」マークが入る。左袖…黄金の龍と中日マークのワッペン(スカイブルーの縁取り。中日マークは右上にあり、'72年まで赤、'73年は金色だった)。パンツのベルトループ部分にスカイブルーのラインが囲われている。パンツサイドの線は、細線を2本重ねて太く見せている。ベルト…黒。
- ホーム用 シャツ・パンツ…白。胸ロゴ(筆記体で「Dragons」)・胸番号・背番号…スカイブルーに赤縁取り。
- ビジター用 シャツ・パンツ…水色(ライトブルー)。胸ロゴ(アーチ状にゴシック体風書体で「CHUNICHI」)・胸番号・背番号…スカイブルーに白縁取り。
- 1974年 - 1986年 帽子…'84年までは従前と同じ。'85年以降は空気穴もスカイブルーになる。シャツ…'80年までボタン型。'81年 - '82年はヘンリーネック式(前ボタン2つのみ)のプルオーバー型(球団史上初のプルオーバー)。'84年以降はVネック式のプルオーバー型。アンダーシャツ…スカイブルー。ストッキング…スカイブルー。スパイクはホーム用、ビジター用共に'75年から'86年までは青地に白ライン、'86年ホーム用のみ白地に青ライン。
- ホーム用 シャツ・パンツ…白。線(袖口)…赤・スカイブルー。線(首周り・肩・脇 - パンツサイド)…スカイブルー。胸マーク・胸番号・背ネーム('77年 - )・背番号…赤・スカイブルー縁。ベルト…スカイブルー。
- ビジター用 シャツ・パンツ…ライトブルー。線の配色はホーム用と逆。胸マーク・胸番号・背ネーム('77年 - )・背番号…赤・白縁。ベルト…赤。
ベルトのバックル部分が通常のベルトのものとは異なり「D」の形をしていた。
ドジャース型ユニフォーム使用時代(1987年 - 2003年)
- 1987年 - 2003年 当時監督就任した星野仙一が、親友のトム・ラソーダが監督を務めるロサンゼルス・ドジャースに承諾を得たうえで、ドジャースのユニフォームに忠実なデザインを採用。帽子…青に白く「D」マーク('96年までは筆記体、'97年以降は斜体のブロック体)。アンダーシャツ…青。胸マーク…青の筆記体(ドジャースと同じ書体)で「Dragons」。胸番号…赤。背ネーム…青('95年までゴシック体、'96年以降はドジャースと同じブロック体)。背番号…青('95年まで従来通りの書体、'96年以降ドジャースと同じブロック体)。左袖…'96年は創立60周年記念マーク。'97年 - 2001年はシャオロンの入ったマーク。'02年以降はキャッチフレーズの入ったマーク。右袖…'99年以降「CHUNICHI」。ベルト…青。ストッキング('90年代後半ごろ〜ソックス)…青。
- ホーム用 シャツ・パンツ…白。
- 1987年 - 2001年ビジター用 シャツ・パンツ…グレー。
- 2002年ビジター用 シャツ…青。パンツ…グレー。胸マーク・背番号…銀色・青縁取りに白のシャドゥ。背ネーム…銀色。公式戦用としては、球団史上初のツートンカラー(シャツとパンツの基本色が違う)ユニフォーム(練習着としては、第二次星野仙一監督時代〔'96年 - 2001年頃〕にドジャースの練習着と同様のデザインを使用)。
- 2003年ビジター用 シャツ・パンツ…グレー。線(袖・前立て・パンツサイド)…青。胸マーク・胸番号・背ネーム・背番号…従来のものに白縁取り付き。
- 1998年(日曜ホームゲーム限定使用) 選手会の要望により採用。当時の星野監督の母校明治大学のスクールカラー青紫を基調としたデザイン。帽子…白に青紫の縦じまと「D」マーク、青紫ツバ。シャツ(ノースリーブ)・パンツ…白に青紫縦じま。アンダーシャツ…青紫。左胸…青紫「D」マーク。右胸番号…赤。背番号…青紫。ベルト…青紫。ストッキング・ソックス…青紫。
落合博満監督時代(2004年 - 2011年)
- 従来の青色・フォント(番号・背ネーム)を残しながらも、ドジャース型になる前(1974年 - '86年)のスタイルとの融合が見られる。また、1948年以来(1949年を除く)、長らく愛称「ドラゴンズ」のロゴが筆記体の小文字(「Dragons」)だったが、ブロック体の大文字(「DRAGONS」 「D」の字のみは「CD」マークにアレンジ)に変更された(ユニフォーム以外では、一部を除き、従来の「Dragons」ロゴが使用される)。書体は、名古屋軍創立時の胸ロゴに近い。帽子…青に、白の「CD」マーク('86年までとやや違う)。ベルト…青。ソックス…青。
- ホーム用 シャツ・パンツ…白。ライン(肩・脇腹・パンツサイド〔ベルトループにはかからない〕)…青。胸マーク・胸番号・背番号…青。胸に「DRAGONS」。左袖マーク…白地に青で「CHUNICHI」ロゴ入りマーク。
- ビジター用 シャツ…青。パンツ…白。線(肩・脇腹)…白。胸マーク・胸番号・背番号…白。左袖…白・青縁で「DRAGONS」ロゴ。
- 復刻ユニホーム 2010年8月に開催された「オールドユニホームシリーズ」で1954年当時のユニホームが復刻された。復刻ユニホームは中日球団としては初。なお通常ホーム用の左袖「中日新聞」広告は、当時も使われた中日マークに置き換えて掲示された。なおパンツはラインなしの白色ということで通常ビジター用を履いていた。
高木守道監督時代(2012年 - )
- 球団初の日本一を達成した1954年当時のユニフォームを基本デザインとして、色は球団旗に採用されている青・赤・白を使っている。しかし、青に関しては当時を基本としているため、濃紺に変更している。ホーム用に使用される胸のロゴマークは2003年以前まで使用された筆記体の「Dragons」が8季ぶりに復活。帽子は濃紺をベースにCDマークは丸文字(1962年~1968年にかけて使用されたマークに近い)になり、文字の色は赤。胸番号・背番号・背ネームの書体には明朝体が採用され、背ネームは同姓の選手は名前の頭文字(堂上兄弟は剛裕が「T.DONOUE」、直倫が「N.DONOUE」、高橋周平は「S.TAKAHASHI」、高橋聡文は「A.TAKAHASHI」など)が入るようになった。今シーズンより新たにアシックス社と提携し、ローリングスブランドを展開している。また、2012年からセントラル・リーグが前年度優勝チームに対して『チャンピオン・エンブレム』を授与した為、2012年度のユニフォームの右袖にはチャンピオン・エンブレムが縫い付けられている(公式戦のみ装着し、キャンプやオープン戦では装着せず)。
- 帽子: 濃紺に赤の「CD」マーク(白縁取り)。
- ヘルメット: 濃紺(つや消し)に赤の「CD」マーク(白縁取り)。
- ベルト: 濃紺
- スパイク: 濃紺地に赤ライン
- ホーム用: シャツ・パンツ…白。アンダーシャツ…濃紺。ライン(肩・パンツサイド)…濃紺。胸番号…赤。胸マーク…濃紺(筆記体で「Dragons」)。背ネーム・背番号…濃紺。左袖マーク…セ・リーグの『チャンピオン・エンブレム』。右袖マーク…「中日新聞」(濃紺・ゴシック体)。
- ビジター用: シャツ…濃紺。パンツ…白。アンダーシャツ…濃紺。ライン…白(肩・袖)、濃紺(パンツサイド)。胸番号…赤に白縁取り。胸マーク…白(ブロック体で「CHUNICHI」)。背ネーム・背番号…白。左袖マーク…セ・リーグの『チャンピオン・エンブレム』。右袖マーク…「Dragons」(白・筆記体)。
- 復刻ユニフォーム 2012年8月~9月にセ・リーグ主催で行なわれる「レジェンド・ユニフォーム・シリーズ」において1974年にV9巨人の10連覇を阻止し優勝した当時のユニフォーム(ホーム用)を復刻[5]。ただし、復刻版には、袖に「中日新聞」の広告とセリーグのチャンピオンマークが入る。
歴代監督
- 1936年 : 池田豊
- 1937年 : 桝嘉一 (第1次)
- 1938年 - 1939年 : 根本行都
- 1939年 - 1941年 : 小西得郎
- 1941年 - 1942年 : 本田親喜
- 1942年 - 1943年 : 桝嘉一 (第2次)
- 1944年 : 三宅大輔 ※1
- 1946年 : 竹内愛一 ※2
- 1946年 - 1948年 : 杉浦清 (第1次) ※3 ※4
- 1949年 - 1951年 : 天知俊一 (第1次) ※5
- 1952年 - 1953年 : 坪内道典
- 1954年 : 天知俊一 (第2次) ※6
- 1955年 - 1956年 : 野口明
- 1957年 - 1958年 : 天知俊一 (第3次)
- 1959年 - 1960年 : 杉下茂 (第1次)
- 1961年 - 1962年 : 濃人渉 ※7
- 1963年 - 1964年 : 杉浦清 (第2次)
- 1964年 - 1967年 : 西沢道夫 ※8
- 1968年 : 杉下茂 (第2次) ※9
- 1969年 - 1971年 : 水原茂
- 1972年 - 1977年 : 与那嶺要
- 1978年 - 1980年 : 中利夫
- 1981年 - 1983年 : 近藤貞雄
- 1984年 - 1986年 : 山内一弘 ※10
- 1987年 - 1991年 : 星野仙一 (第1次)
- 1992年 - 1995年 : 高木守道 (第1次) ※11
- 1996年 - 2001年 : 星野仙一 (第2次) ※12
- 2002年 - 2003年 : 山田久志 ※13佐々木恭介途中
- 2004年 - 2011年 : 落合博満
- 2012年 - : 高木守道 (第2次)
※太字は優勝達成監督
- ※1 ここから産業
- ※2 ここから中部日本
- ※3 ここから中部日本ドラゴンズ
- ※4 ここから中日ドラゴンズ(第1次)
- ※5 ここから名古屋ドラゴンズ
- ※6 ここから中日ドラゴンズ(第2次)
- ※7 1961年から1962年の登録名は濃人貴実
- ※8 1967年は5月18日まで指揮、5月30日に復帰するまでは近藤貞雄が代行
- ※9 1968年は6月24日まで指揮、残り試合は本多逸郎が代行
- ※10 1986年は7月5日まで指揮、残り試合は高木守道が代行
- ※11 1995年は6月2日まで指揮、残り試合は徳武定祐と島野育夫が代行
- ※12 2000年は5月6日まで指揮、5月12日に復帰するまでは島野育夫が代行
- ※13 2003年は9月9日まで指揮、残り試合は佐々木恭介が代行
永久欠番
※中日出身者で名球会に加入している選手が現役時代につけていた背番号(41・1=高木守道、14・41=谷沢健一)はすべて永久欠番にはならず、やはり名球会メンバーで2009年まで在籍した立浪和義の背番号「3」も一部有志が永久欠番にしようと署名活動を行ったものの、認められなかった。これは中日での永久欠番の条件が日本一に貢献した選手に限られるためと言われていた。
※ただし、1954年に日本一になった時の最大の功労者である杉下茂の背番号(20)が永久欠番になっていないのは、一旦引退しながら1961年に大毎オリオンズで現役復帰したからだと推測されているが、それは正確ではなく、杉下の背番号(20)も永久欠番にする話があったが、すでにチームを退団した服部や西沢と違い杉下は当時監督としてチームに残る予定だったので、「保留」にしてもらったと後のテレビ番組で本人が語っている。なお、杉下本人は背番号(20)が代々受け継がれていくことを望んでいると語っている。
マスコット
球団マスコット
球団マスコットは以下の3体。詳しいことはそれぞれの記事を参照。1996年までは、竜の顔をモチーフにしたヘルメットをかぶり、Dのマークが入ったバットを持った少年(通称:ドラ坊や)をペットマークに使用。
関連マスコット
- ガブリ - 2006年に球団創設70周年を記念して設立された球団公式ファンクラブのマスコット。1991年、スタジオジブリの宮崎駿が同僚で中日ファンの鈴木敏夫のために、当時の四番打者・落合博満と竜をモチーフにデザインした。後にファンクラブのマスコットとして提供され、鈴木には名誉会員1号の称号が贈られた。名前は公募でつけられた。
チア・ドラゴンズ
中日ドラゴンズのオフィシャル・チアリーディングチームの名称。球団の本拠地がナゴヤ球場からナゴヤドームに移転した1997年にシャオロンのデビューとともに結成された。詳しくはチア・ドラゴンズを参照。
歴代の球団歌
- 『ドラゴンズの歌』
- 1950年に発表された中日ドラゴンズの初代公式球団歌。小島情作詞 サトウハチロー補作詞 古関裕而作編曲 伊藤久男歌唱。1949年に中部日本新聞社が曲詞を一般公募。小島情の詞を第一等入選とし、中日ファンだったサトウの助力を受けて、巨人や東急、阪神の球団歌を手がけた古関により仕上げられた。1950年3月21日、セントラルリーグ発足式で発表会が行なわれ、レコードが発売された。B面は、やはり名古屋の「名古屋タイムス社」一般公募による当選詞に藤浦洸の補作詞、古関作曲、「宝石の声をもつ」と讃えられた安西愛子の歌唱による「私のドラゴンズ」が収められていたが、中日、名古屋タイムス、両紙の関係が良好ではなかったため2曲とも歴史の闇に眠ったままだった。(アナログLP盤「懐かしのSP盤黄金時代」(日本コロムビア) 曲目解説文・改)しかし、『ドラゴンズの歌』は2006年発売のアルバム『昇竜魂~ドラゴンズ70thメモリアルソングス~』に収録された。
- 『燃えよドラゴンズ!』
- 『夢は1001、ドラゴンズ』
- 『ドラゴンズに乾杯!』
- 『勝利の叫び』
- 『嵐の英雄(ヒーロー)』
キャンプ地
現在のキャンプ地
- 沖縄県北谷町・北谷公園野球場 (1軍)(1996年~)※1
- 沖縄県読谷村・読谷平和の森球場 (2軍)(1997年~)※2
- 中日球場(ナゴヤ球場)(1949年~1951年、1964年、1972年~1975年、1997年、2006年~)※3※4
- ※1 1997年のみ2次キャンプ地。
- ※2 1997年のみ2次キャンプ地。
- ※3 1997年は1次キャンプ地。
- ※4 2006年から秋季キャンプ地。
過去のキャンプ地
- 鹿児島県鴨池球場(1946年)
- 鳴海球場(1947年~1948年)
- 神戸市芦屋神戸銀行グランド(1952年)
- 静岡県伊豆静岡県立大仁高等学校(伊豆)グランド(1953年、1956年)
- 奈良県営球場(1954年~1955年、1957年)
- 鹿児島県湯之元町湯之元町営球場(1958年~1959年)
- 大分県別府市別府市営球場(1960年~1963年)
- 大分県営球場(1960年)
- 明石市営球場(1963年、1969年~1971年)
- 和歌山県勝浦(巴川・妙法)(1964年)
- 松山市営球場(1965年~1968年)
- 浜松市営球場(1972年~1977年)
- 米国・フロリダ・ブラデントン球場(1975年)
- 掛川市営球場(1978年)
- 宮崎県串間市営球場(1979年~1995年)※5、※6、※7
- 沖縄県具志川球場(1985年~1992年)※8、※9
- 沖縄県石川球場(1987年~1996年)※10、※11、※12、※13、※14、※15
- 米・フロリダ・ドジャータウン(1988年)※16
- 豪洲・ゴールドコースト(1989年~1992年)※17
- 米アリゾナ・ピオリア(1995年)※18
- ※5 1983年は1軍2次キャンプ地および2軍キャンプ地。
- ※6 1984年は1・2軍キャンプ地。
- ※7 1985年以降は、1軍の2次キャンプ地および2軍キャンプ地。
- ※8 1988年は1軍1次キャンプ地。
- ※9 1989年以降は1軍2次キャンプ地。
- ※10 1987年は1軍キャンプ地。
- ※11 1988年は1軍1次キャンプ地。
- ※12 1989年~1992年までは1軍2次キャンプ地。
- ※13 1993年~1994年は1軍キャンプ地。
- ※14 1995年は1軍2次キャンプ地。
- ※15 1996年は2軍キャンプ地。
- ※16 1軍2次キャンプ地。
- ※17 1軍1次キャンプ地。
- ※18 1軍1次キャンプ地。
参考文献
- 『中日ドラゴンズ70年史』(中日新聞社刊)147頁~149頁
中日ドラゴンズが主催する地方遠征について
中日ドラゴンズはナゴヤドームでの主催試合のほかに、下記のように毎年6試合ほどの地方遠征を行う。下記地域はいずれも中日新聞とその支社や支局が発行する北陸中日新聞と日刊県民福井の販売エリアである。なお、豊橋・浜松、岐阜・福井、富山・金沢と球場の場所が比較的近いのを考慮して日程が編成されている。特に富山・金沢の試合は北陸シリーズとよく呼ばれる(以前は北陸3県での3連戦があったが、現在は前述のパターンでの2連戦が多い)。また、バックネット裏の広告もナゴヤドームの場合のトヨタ自動車ではなく、球場ごとに異なる広告が掲示される(例:長良川-大垣共立銀行、豊橋-SaLa など)。
- 豊橋 - 豊橋市民球場(ここの球場で開催されている試合は東海ラジオの主催のため、テレビ中継は関連する東海テレビや三重テレビで放送されている)
- 浜松 - 浜松市営球場
- 岐阜 - 岐阜県営長良川球場
- 富山 - 富山市民球場
- 金沢 - 石川県立野球場
- 福井 - 福井県営球場(2008年からこの球場での中日主催試合は組まれなくなった。近年は、巨人主催で中日以外の他チームとの試合が組まれている)
なお、富山・石川の試合は2007年から2010年までの4年間は日本生命セ・パ交流戦が組まれており、2011年は5年ぶりにセ・リーグ公式戦(対東京ヤクルトスワローズ戦)が組まれることとなっていた(5月10日・石川、5月11日・富山)が、いずれも中止(富山にいたっては2年連続中止。北陸での代替なし)となった。北陸シリーズが全部中止になったのは近年では異例だった。
- 2007年 対オリックス・バファローズ戦(6月19日・富山、6月20日・石川)
- 2008年 対埼玉西武ライオンズ戦(6月17日・石川、6月18日・富山)
- 2009年 対福岡ソフトバンクホークス戦(6月16日・石川、6月17日・富山)
- 2010年 対北海道日本ハムファイターズ戦(5月26日・富山→雨天中止[6]、5月27日・石川)
ファームの場合も毎年地方遠征を行うほか、ナゴヤドームで試合を行うことがあるが(ただし開始時刻が通常より早まるほか、内野エリアのみの開放のため売店も一部のみの営業、バックスクリーンの映像演出がないなど、1軍と比べると様式が違う部分が多い)、通常のナゴヤ球場の場合のようなスタイル(ドラゴンズ公式ファンクラブ会員なら、チケットを買わずに会員証を見せるだけで入場できるシステム。ただし人数制限あり)ではなく、1軍公式戦の時より安価に設定されているものの、チケットを買う必要がある。
なお、東海地方でも収容人員の小さい球場しか無い三重県では1軍公式戦を行っていない(オープン戦や2軍の試合では四日市市営霞ヶ浦第一野球場、津球場を使うことはある)。また、中日新聞の販売エリアの長野県、滋賀県[7]、和歌山県でも現在のところ1・2軍とも試合は行われていない。(但し長野県に関しては中日のビジターゲームではあるが2010年、7月27日に読売ジャイアンツと長野オリンピックスタジアムで行われ。そして2012年、8月12日に横浜DeNAベイスターズと松本市野球場で行われることとなっている。)
オープン戦では、上記球場以外に東海4県では小牧市民球場、岡崎市民球場、一宮球場、蒲郡球場、豊田市運動公園野球場、大垣市営球場(北公園球場)、その他キャンプ地の串間市営球場、石川市営球場(現・うるま市石川球場)、具志川市営球場(現・うるま市具志川球場)でも過去に試合が行われたことがある。北陸は積雪や気候の問題上オープン戦はほとんど行わない。これらも毎年多くの観客が来場したりしているほか、東海テレビ・CBCテレビ(試合により三重テレビ、テレビ愛知も)で中継されている。
メディア
関連番組
在名民放テレビ局に関しては基本的に月刊ドラゴンズ内『ドラ応援番組裏話』を基準とするほか、初回放送分のみ記載する。掲載順はテレビ・ラジオともに放送日(月曜日始点)。
- テレビ
- スターキャット - 燃えドラ!スタジアム(木曜日 12:00-12:54)
- テレビ愛知 - レギュラー番組は放送されていない。なお、上記の「ドラ応援番組裏話」では中継カード予告が応援番組タイトルの部分に記載、本文にはTVA担当者の取材裏話が書かれている。主催試合の内、テレビ愛知が放映権を獲得した試合については、放送終了後に「GO!GO!ドラゴンズ」というミニ番組が編成される。(主に21:54-)
- 東海テレビ - pluspo(土曜日17:00-17:26)
- メ~テレ - スポケン!(土曜日深夜24:30-25:00)
- CBCテレビ - サンデードラゴンズ(日曜日12:54-13:24)
- 中京テレビ - SPORTS STADIUM(日曜日17:00-17:30)
- ラジオ
- CBCラジオ - 2000年10月2日~2009年4月2日まではドラゴンズワールドがシーズンオフ・シーズン中関係なく放送されていた。現在は土曜天国 ぴかラジ(土曜日12:30-17:57)・若狭敬一のスポ音(日曜日17:00~17:57)などでドラゴンズ情報を扱う。2010年からシーズンオフは、宮部和裕のドラゴンズEXPRESS(火~金、18:00-20:00)を放送。
- 東海ラジオ - ガッツナイター最前線(火~金 17:45-17:57/月・土・日 17:45-18:00)/ガッツだ!ドラゴンズ(シーズンオフ。平日17:45-18:15)
応援放送以外でもドラゴンズの話題を取り上げるコーナーやスポット番組があり、シーズン中の場合、NHK名古屋放送局では『ほっとイブニング』と『ニュース845東海』で、東海テレビでは『東海テレニュース』後に試合経過や結果を放送している(ドラゴンズtoday)。NHKの場合はスコアボードや継投(試合終了時は勝利・セーブ・敗戦投手)、ホームランを放った選手といった情報(いつでもドラゴンズ速報)が画面上に表示される(NHKのスポーツニュースで表示されているものと同じ)。東海テレビの場合はスタジオのセット(ブルーバック)以外は手作りのスコアボードがあるのみ。
放映権
中日ドラゴンズ主催試合の放送権があるのはNHKと中京広域圏内で中日新聞社系列である民間放送のAMラジオ2局・テレビ4局のみで、特にテレビ中継による放映権取得分の約8割はCBCと東海テレビに集中している(両局とも中継の数は半々に振り分けているが、概ね月・火・木・土は東海テレビ、水・金・日はCBCに当てられる場合が多い)。
一方で非中日新聞社系列のメ〜テレと中京テレビ放送、岐阜放送(岐阜テレビ・岐阜ラジオ)に放送権はなく、中日ドラゴンズ主催試合を中継できない(但し、系列がある阪神戦・広島戦のビジターゲームは放送することもあり、かつては、巨人戦以外の主要ビジターゲームを三重テレビ放送と岐阜放送が生中継したのち、メ~テレでそれを編集・再構成して自社スタジオでカラ出張放送した『ビデオナイター・ゴーゴードラゴンズ』として放送した事例もある)。
同じ中日資本の三重テレビ放送とテレビ愛知も開局当初はホームゲームの中継が出来なかった。しかし三重テレビでは東海テレビが放送できない試合を三重テレビで放送することにより中継開始、また、テレビ愛知でもナゴヤドーム主催試合を2001年よりスタートし(対ヤクルト戦)現在は年数試合が放送されており、2007年には53年ぶりの日本一を達成した日本シリーズ第5戦(制作はナゴヤドームの巨人戦を含めてキー局のテレビ東京)を民放初の完全中継を行った(日本シリーズでTXN系列各局が放映権を得るパターンは、パシフィック・リーグのうち比較的多くの試合を放送する千葉ロッテマリーンズ(テレビ東京)、北海道日本ハムファイターズ(テレビ北海道)、福岡ソフトバンクホークス(TVQ九州)が進出した場合に推薦される機会が多く、セ・リーグ側で推薦された実績があるのは現段階で中日のみである)。
また、岐阜テレビでは過去にCBCと提携し、CBCで中継できなかったホームゲームを中継したことがあったが、現在はしていない。但し、2007年の日本シリーズ第5戦は日本シリーズの主催が中日では無く日本野球機構(NPB)のため、またテレビ東京制作であるため独立UHF局にも中継協力要請があり、岐阜テレビでも中継が行われた。
浜松、福井といった中京広域圏外での主催ゲームは、地元民放の中継がない。ただし浜松市近郊では、中京広域圏内の中日新聞社系列民放の豊橋局を受信することでゲーム視聴可。また、浜松市内でも2010年以降にはアナログ豊橋局が視聴できなくなる恐れもあるため、『J sports2』で視聴可。
また、岐阜ラジオではスポーツニュースで中日ドラゴンズの結果を伝える際は「中日」とは言わず「ドラゴンズ」としてコメントするといわれている。
- ラジオ
- NHK名古屋放送局(NHKプロ野球)(全国放送は、テレビ・ラジオを含め、近年は勝率が悪い)
- 中部日本放送(CBCドラゴンズナイター。デーゲーム中継等は『CBCドラゴンズスペシャル』として。ただしデーゲームの多い土日は競馬中継のため中断することがある)
- 東海ラジオ放送(東海ラジオ ガッツナイター。デーゲーム・月曜ナイターは『東海ラジオ ガッツナイタースペシャル』として。なお、東京ヤクルトスワローズの主催試合の中継は東海地方の民放ラジオ局で唯一の独占生中継で放送する(放送権の関係)が、一方で読売ジャイアンツの主催試合を、CBCとの兼ね合いからか自社制作できていない。2009年度は巨人主催試合のほかに、ヤクルトを除く関東地方で行われるデーゲームの試合中継ができなかった。CBCラジオと同じく、重賞レースを中心に競馬中継で中断する場合があるが、ほとんど稀である。
- テレビ
- NHK名古屋放送局(NHKプロ野球)
- 東海テレビ放送(BASEBALL LIVE〜野球道〜・ローカル中継のタイトルは、ナイター時『プロ野球ナイター中継2012』デーゲーム時『プロ野球中継2012』。巨人戦ではフジテレビONE(ヤクルトのホームゲームと重なる場合はフジテレビTWO)でも放送)
- 三重テレビ放送(三重テレビナイター。東海テレビが年間を通じて諸事情の関係で中継できないホームゲームを、東海テレビの製作協力により放送されている(東海テレビがBS放送担当日の場合、同時生中継されることもある)。なおビジターゲームも他のUHFテレビ放送局が放送している試合をネットする形で放送している)
- 中部日本放送(侍プロ野球、ローカル中継のタイトルは『侍プロ野球 燃えよドラゴンズ!』。なおビジターゲームもデーゲームを中心に不定期で中継する。巨人戦ではBS-TBS、TBSニュースバード、(横浜DeNAのホームゲームと重なる場合はTBSチャンネル)でも放送)
- J SPORTS〔J SPORTS STADIUMとして放送されている。ホーム戦は、東海テレビ・CBCテレビが地上波で放送される場合、BS放送の中継制作も担当。テロップは2009年までオリジナルで、地上波と比べるとかなり簡略化されたデザインを使っていた。2010年からは J SPORTS共通のテロップを使用。ただし細部のデザインや一部フォント、テロップの出し方などの演出が異なる。例えば、JSPORTS制作ではバッターのテロップが動いて出るのに対し、THK・CBC制作ではテロップが動かない。NHKやテレビ愛知(2007年まではテロップも提供)の担当日も映像提供のみ行っている。また優勝決定後に行われるビールかけの模様も生中継される〕
- テレビ愛知(テレビ愛知 ドラゴンズ戦中継)(読売ジャイアンツ戦の放映は2006年まではなかったが、2007年から1試合の中継を行う。ホーム戦も放送するが、東海地方のテレビ局の中では、ビジター戦でも現地に自社スタッフを派遣することが多い)
- 東海地方の各ケーブルテレビ(2007年よりウエスタン・リーグ、2009年からは「燃えドラ!スタジアム(西暦年)ウエスタンリーグ/オープン戦」とタイトルが新しくなったほか、ナゴヤドームでのオープン戦も中継。球団公式HPなどにはスターキャットのみの掲載だが、実際は「東海ケーブルチャンネル」でも同時中継される。制作:スターキャット・ケーブルネットワーク)
スポンサー
- セ・リーグでは各球団の申し合わせにより、まずは2002年からホーム用ユニフォームに限定して、スポンサー広告を掲載できるようになった。後にヘルメットにもスポンサーが掲載できるようになった。
- ユニフォーム袖
- 中日新聞(2006年~)
- ヘルメット
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延長28回
1942年5月24日に行われた大洋対名古屋5回戦(後楽園球場)は、大洋の先発投手・野口二郎、名古屋の先発は西沢道夫で始まった。9回を終えて4対4の同点で延長へ。当時は戦時下による突貫主義が野球にも影響を与えており、引き分けの条件は日没のみ。9回、名古屋軍が追いついて以降は両軍とも0点が続き、延長28回を終わった時点で日没コールドが宣言されて試合は終了した。先発両投手が最後まで投げきり、野口が投球数344球、西沢は311球で完投した。試合時間は3時間47分。プロ野球の延長記録では世界最長となった。
当時の後楽園球場は延長15回までスコアが記入できていたが、当然それでも間に合わなかったため、前2試合分のスコア(10回まで)が記載できる下段のボードをも使わざるを得ない状態となった。
但し3Aも入れて見ると世界最長は1981年4月18日にポータケットで記録された、延長33回、8時間25分である。この時は日付変わって午前4時7分、延長32回サスペンデッドゲームが宣告され、同年6月23日に再開(サヨナラヒットにより1イニングで決着)されている(史上2位はアメリカメジャーリーグの延長26回=1920年5月1日のブルックリン・ドジャースvsアトランタ・ブレーブス)。
- 当時のスコアテーブル
変則ダブルヘッダー
戦前・並びに戦後初期は変則ダブルヘッダー(異なる組み合わせの試合を同じ会場で施行する)のケースが頻繁に行われたが、1952年にプロ野球地域保護権(フランチャイズ=ホームタウン)が制定されてからも、1960年代半ば以降変則ダブルは皆無に等しくなるが、1971年10月11日に川崎球場で行われたダブルヘッダーは中日がビジター(アウェー)で、ホームチームが入れ替わるというものだった。というのも日本シリーズ・巨人対阪急の開催が10月12日から行われるのに併せて、それまでにペナントレースを全て終わらせたい意向があったためで、この日の第1試合はヤクルトと、第2試合は本来のホームタウンが川崎の大洋と対戦した。ヤクルトは当時明治神宮野球場が大学野球(東京六大学選手権・東都大学選手権1部リーグ)とデーゲーム日程が重なる場合は大学野球を優先したため、やむをえない事情として川崎球場や横浜公園平和野球場等を借りて試合をしていたため、こういう変則日程が生じた。
ドミニカ共和国とのつながり
近年、ドミニカ共和国で行われているウィンターリーグに育成を目的として若手選手を派遣し、同行したコーチやスタッフが外国人選手の調査を行っている。2004年以降獲得した外国人選手のほとんどがドミニカ共和国出身である(2011年に獲得したエンジェルベルト・ソトはベネズエラ出身である)。
ドミニカ出身選手が増えている背景には、かつて所属していた選手に対する契約違反があったとされ、アメリカの市場からは締め出されてしまったからとされる。しかし、ドミニカから選手を獲得することにより、安く優秀な選手が中日に入団することが増え、独自のルートが開拓されたといえる。現在は西武や巨人でプレーしたドミンゴ・マルティネスがドミニカ担当スカウトを務めている。また、2011年まではヘッドコーチだった森繁和がウインターリーグに派遣される選手とともにドミニカに出向き、リーグで活躍する選手の視察やスカウトを行っていた。
選手全員の出場選手登録の抹消
2010年10月4日、落合監督は選手全員の出場選手登録を抹消した。この措置は次の理由によるものとしている。
- 2010年度の中日の公式戦の全日程が10月2日に終了したこと。クライマックスシリーズでの中日の出場が、ファイナルステージが開催される10月20日からであり、それまでに2週間以上空くこと。その間に怪我をしてから登録を抹消した場合、再登録できるまで10日かかり、最悪の場合、ファイナルステージに間に合わなくなってしまうこと。また、その間に戦力の再検討を一から行っていくこと。
なおこの件がきっかけとなり2011年に両リーグのルールが改正され、シーズン終了からクライマックスシリーズ(CS)開始時までに10日以上の間がある場合は、当該球団の出場登録を強制的に抹消するようになった。CS開催時に登録された際には、その間に抹消された期間も一軍登録期間としてカウントされることとなった。また、改正された前年の2010年の中日のCS出場登録選手も遡って登録期間にカウントされた。
関連項目
- 中日ドラゴンズの選手一覧
- 中日ドラゴンズの主催試合球場一覧
- 中日ドラゴンズ_(ファーム)
- ミスター・ベースボール (中日ドラゴンズを題材にしたアメリカの映画作品。)
- 全国中日ドラゴンズ私設応援団連合
脚注
- ↑ この年の後楽園でのは対巨人戦成績は0勝12敗1分、翌年も開幕から7連敗で9月13日の試合で6-5で勝利し、ようやく連敗を19で止めた(この当時のセ・リーグの同一球場における連敗記録は20)
- ↑ パシフィックと同率。
- ↑ 現在では応援歌の途中で「それ行け井端!」と合いの手が入る
- ↑ 西沢道夫の実使用ユニフォームが野球体育博物館に保管されている。
- ↑ 同スタイルのユニホームには、背番号の上にアルファベット(ローマ字)の選手名入りのバージョンもあるが、1974年当時のものは選手名が入っていないため、背ネームは入れていない。
- ↑ 6月16日にナゴヤドームで振り替え開催。なお、この振り替え試合でナゴヤドーム開場以来最低の観客数(6,947人)を記録した。シーズン券が使えなかったことと開催日などの周知が徹底されてなかったことが主な理由。
- ↑ 但しフランチャイズ制度以前に中日球場全焼事故のための代替で彦根球場を使用したことはあった。
外部リンク
- 中日ドラゴンズ 公式サイト
- Dragons 中日ドラゴンズ-公式ブログ
- 中日ドラゴンズ公式アカウント(@DragonsOfficial)- Twitter
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