忘れられる権利
忘れられる権利(わすれられるけんり、the rights to be forgotten)とは、インターネットにおけるプライバシーの保護のあり方として登場した新しい権利である。この権利が語られる際は、「知る権利」や「報道の自由」といった既存の権利との両立が議論となる。
目次
概要
2012年1月、欧州連合は個人情報保護に関する従来の方針に代わる「一般データ保護規則案」を提案した。この中の第17条に「忘れられる権利」が明文化され、個人データ管理者はデータ元の個人の請求があった場合に当該データの削除が義務づけられることとなった。
この新法案が整備された背景には、EUの個人情報保護に対する強い危機意識がある。2011年11月にはフランスの女性がGoogleに対し「過去の写真の消去」を請求して勝訴するという、忘れられる権利が社会的に認められる判例も出てきている。
一方でこの権利に対し、Googleは「報道の自由に対する検閲である」と主張するなど、異なる権利との両立が課題となっている。法案を整備したEUのレディング副議長も「忘れられる権利」に関する条文の運用には慎重さが求められるとしており、議論は始まったばかりといえる。
なお、日本ではまずプライバシー保護法制に主導的な対応を行う組織も曖昧な状況であることから、国際水準に合致したプライバシー保護法制や強力な政府組織体制の整備が喫緊の課題であるとの声が上がっている。
ネットにあふれる個人情報「忘れられる権利」はなぜ必要か?
インターネットに情報が集約されてきた現在、個人のプライバシーにかかわるような情報が、ちょっと検索するだけでずらずらと出てくる。なかには、必ずしも本人が公開してほしくない情報も含まれているだろう。そういったプライバシー情報がネットで公開されていたとき、掲載サイトの管理者に削除を要求できる権利、それが「忘れられる権利」である。
今はまだ「人権」として広く認められているとまでは言えないが、インターネット上のアンケート投票サイト「ゼゼヒヒ」では、実に83%もの人が「忘れられる権利が必要」と回答している(6月20日現在)。ヨーロッパなどでも同種の議論は活発化している。誰しも「忘れてほしい話」の一つや二つはあるということだろう。
だが「ネットは広大」である。サイト管理者の責任や、権利の及ぶ範囲などを定め、権利の実効性を確保するためには、まだ様々なハードルがあるように思われる。「インターネットに強い弁護士」に聞いてみた。
現状では、「誰に連絡すれば消してもらえるのか」さえ、なかなかわからない
「『忘れられる権利』は、インターネット時代の新しい権利のアイデアであり、EUで提案されました。プライバシー権に近いとも捉えられますが、人の名誉権や、刑事手続の対象となった者が『更生する利益』なども含んでおり、憲法上は『幸福追求権』『人格権』の1つと考えられます」
なぜいま、それが問題なのか。
「インターネットは『決して忘れてくれない』。つまり、ずっと情報が残ってしまうからです。個人の名前で検索すれば、その人に関するいろいろな情報が表示されます。たしかに、中には重要な話(公益性の高い話)もあるでしょうが、井戸端会議や単なる噂話レベルのものも、個人名検索でどんどん出てきます。
『忘れてほしいのに、忘れてもらえない』のは、つらいことだと、みなさん異口同音に話します。ネットの情報が気になって眠れない人や、心の病気・体調不良を訴える人が『どうすれば削除してもらえるのか』と、相談にやってきます」
忘れられる権利を使うためには、誰に対して、どういう要求をすればいいのか。
「要求の内容は、個人の情報をネットから削してもらうことです。そのための方法は、裁判所の『削除仮処分』や、テレコムサービス協会(テレサ協)の『送信防止措置依頼書』を使った削除請求です。ただ、誰に対して、というところが問題です。インターネットの情報発信者の多くは匿名だからです」
その場合、どうする?
「情報発信者が分からない場合は、ブログや掲示板の管理会社、サーバー管理会社に削除依頼を送ることになりますが、場合によってはそれらの会社さえ不明というケースもあります。また、外国企業の管理しているサイトであれば、ハードルはさらに高くなるため、問題は深刻です。現行法では、サイトに連絡先を表示する義務はありません。いったい誰にどうやって削除請求を送ればよいのか。これが分かるだけでもずいぶん見通しが違います。このあたりの法整備が急務と感じます」
インターネット時代に合った判断が求められている
どんな場合なら「消してくれ」と要求できるのか。
「これは、一方で表現の自由があり、他方で忘れられる(表現されたくない)権利があるとき、どちらを優位させるかという問題です。はたして削除してよいのか、削除請求された人が迷うケースもあるはずです。一般的な『プライバシー侵害』の裁判では、いまでも『宴のあと』事件判決が示した以下の3要件が使われている印象です。
(1)私生活上の事実、または、それらしく受け取められるおそれのある事実
(2)その人の立場なら公開されたくないだろう、と一般人が思うような事実
(3)まだ、一般に知られていない事実
これらの全てに当てはまれば『プライバシー侵害』となりますが、インターネットの情報では、この(3)が大きな争点となります」
その理由は?
「インターネットに書いてある情報は、すでに『一般に知られていない事実』とは言えないのではないか、ということです。『インターネットに出ていた情報のコピペであり、(3)には当てはまらず、プライバシー侵害にならない』と、そういう主張をされることも珍しくありません。
しかし、ネットのどこかにその情報があったというだけでは、実際にどのくらいの人がその情報に接していたかはわかりませんし、『みんなが知っている』とまで断言するのは疑問です。高裁レベルの判決では、(3)に当てはまるという判断も、当てはまらないという判断も両方でています」
インターネット時代にふさわしい新基準はある?
「“ここに行き着くだろう”と考えているのは、和歌山カレー事件の被疑者・被告人の法廷内での様子を隠し撮りなどした事件の民事裁判で、最高裁が示した基準です。それは、(不法行為法上)違法かどうかは、さまざまな事情を総合考慮し、『人格的利益の侵害が社会生活上受忍の限度を超える』かどうかで判断するという基準です。要するに、諸事情から考えて、我慢すべき限度を超えているかどうかがポイントです。これを『忘れられる権利』に当てはめると、一方で心身の不調を訴え平穏な生活を脅かされている人がいること、他方で情報の持つ公益性・社会的重要性があることなど、諸事情を考慮したうえで、それが我慢すべき限度を超えていれば、情報を削除してよいということになります」
「結局のところこの分野では、判例も法整備も、インターネット時代に追いついていないというのが実情です」と指摘。「この夏からのネット選挙運動解禁は、ネット時代の表現問題を検討する良い機会ですので、ぜひ立法、行政、司法で取り組んでほしいと思います」と、期待を込めていた。
ネット上での「忘れられる権利」の法制化が急がれている
2013年1月、欧州委員会がインターネット上における個人情報保護のために、「忘れられる権利」という新しい概念を盛り込んだ法案をまとめたことが話題になった。
これは簡単に言えば、ユーザーがネット事業者に対して、自分のプライバシーに関する情報の削除を要求できる権利のことだ。
たとえば、酔った勢いでアップした自分の「ハメを外しすぎた写真」を別の人物がダウンロードし、別のサーバーに再アップロードした場合、本人には削除する術がない。そこで「忘れられる権利」 を行使することで、そのサーバーを管理しているネット事業者に直接削除を要求できるようにしようというわけだ。
「人間は失敗をする生き物である以上、誰だって今更知られたくない過去のひとつやふたつはあるものです。友人は昔話を忘れてくれますが、コンピュータは絶対に忘れません。現実的な問題として、過去のプライバシーがネット上に残り続けていることで苦しんでいる人、社会的にネガティブな影響を受けている人は多数存在しています。現在の法律はこうした状況に対応しきれておらず、出るべくして出た法案だと言えますね」
と語るのは、名誉毀損やプライバシー侵害などの問題に詳しい弁護士の落合洋司氏だ。
「とはいえ、実際に運用するにあたっては削除の正当性が求められるはず。どんなケースでも個人のプライバシーが最優先されるわけではなく、たとえば何らかの事件性があったり、報道目的で掲載されている情報など、削除しない方が公共の利益にかなうと判断されるような事例もありえます。その線引きをどうするかが問われるでしょうね」
ヤフー検索したら逮捕歴…1100万円求め提訴
大手検索サイト「ヤフー」(東京都)で自分の氏名を検索すると、逮捕歴が表示されて名誉を傷付けられたとして、京都府の40歳代の無職男性が同社を相手取り、表示の差し止めや慰謝料など1100万円の損害賠償を求める訴えを京都地裁に起こした。
提訴は2013年9月2日付。
訴状によると、男性は2012年、京都府条例違反容疑で逮捕され、執行猶予付き判決が確定している。ところが、同社の検索サイトで男性の氏名を入力すると、逮捕を報じる記事を転載した別のサイトのアドレスや、記事の一部が表示される状態にあるという。
男性側は「(原告は)無名の私人で軽微な犯罪。記事が事実でも公益目的にはあたらない」とし、「罪を反省して社会復帰を考えたが、通常の社会生活を送ることができない状態」と訴えている。
ヤフー広報室は「検索結果を恣意的に操作すると、検索サービスの社会的期待や信頼を失うため通常は削除していない。主張は裁判で行う」としている。
「忘れられる権利」はどこまで認められるのか?ヤフー検索「逮捕歴」表示差し止め訴訟、京都地裁が判示した「公共性」
インターネットで自分の名前を検索すると逮捕歴が表示され、名誉を傷つけられるとして、盗撮の猶予刑が確定した京都市の40代の男性が、検索サイト「ヤフージャパン」を運営するヤフーに検索結果の表示差し止めなどを求めた訴訟の判決が、京都地裁であった。
地裁は「特殊な犯罪事実で社会的な関心が高く、逮捕から1年半程度しか経過していない現時点では、公共の利害に関する事実」として男性側の主張を全面的に退け、請求を棄却した。
ネットの普及で、報道だけでなく、個人的な投稿でも内容次第では瞬く間に拡散・炎上する現代。ネット上に拡散した個人情報の削除を本人が請求できる「忘れられる権利」が欧州で提唱されるなど、こうした問題をめぐる訴訟は増加傾向にある。
検索すれば「逮捕事実」
判決や訴状によると、男性は2012年、女性のスカート内を盗撮したとして、京都府迷惑行為防止条例違反の疑いで逮捕され、翌年4月、同地裁で執行猶予付きの有罪判決が確定した。
男性の逮捕時に、報道機関が自社サイトで記事を掲載。その後、このサイトからは記事は削除されたが、第三者がすでに別のサイトに転載していた。
このため、男性の名前をネット検索すると、本名や逮捕の事実が記載されたサイトへのリンクやアドレスが表示される。また、業界で「スニペット」と呼ばれ、当該サイトの記載内容の数行を機械的に抜粋した検索結果が同時に表示され、その中でも逮捕事実を示すものが複数ある。
男性は2013年9月、「当該記事を複製し、その一部を検索結果として表示したのは、被告の主体的行為であるから、不法行為責任を免れない」として、ヤフーを相手取って提訴した。
再就職も叶わない
訴状では、逮捕後に勤務先から懲戒解雇され、判決確定後に再就職活動をしようとしが、履歴書を送付するなどしたとしても、採用担当者がネット検索すると逮捕歴が知られ、採用は叶わないと将来に絶望。自分の逮捕歴や犯罪事実を知っているのではないかとの不安から、人との接触を極力避けるようになり、通常の社会生活を送ることができなくなったと主張した。
その上で、犯罪が軽微であることや、私人であることから、判決確定後も逮捕歴が検索結果に出るのは名誉毀損にあたるとして、表示の差し止めと慰謝料など1100万円を求めた。
これに対し、ヤフー側は「検索結果は逮捕の事実の記載があるサイトの存在や所在を示したのみ」とし、「ヤフーの意思内容は反映されておらず、名誉毀損は成立しない」と反論。「削除要請は元記事の発信者にすべき」などとして請求の棄却を求めていた。
「不法行為は成立しない」
今回のケースについて、京都地裁の栂村明剛(つがむら・あきよし)裁判長の判断は明解だった。
まず、検索結果について「男性の名前が載っているサイトの存在など一部を自動的に示しているだけで、ヤフー側が逮捕の事実を自ら示したわけではない」と指摘。
さらに、「仮に、被告による本件検索結果の表示により、原告の名誉が毀損され、プライバシーが侵害されると解する余地があるとしても、特殊な犯罪事実で社会的な関心が高く、逮捕から1年半程度しか経過していない現時点では、公共の利害に関する事実であり、違法性は阻却され、不法行為は成立しない」と判断した。
判決を受け、ヤフー側も「今回は当社の主張が認められたと理解している」と評価するコメントを発表した。
代理人弁護士「残念な判決」
一方、男性の代理人弁護士は判決後、「ネットの特異性を考慮していない。残念な判決」とし、「隣の人が自分の名前を検索しただけで、逮捕歴が知られてしまうという公共性は必要あるのか」と反発する。
男性について執行猶予付き判決が確定していることから、「判決が確定すれば制裁は打ち止められ、国家としては、社会内で健全な生活を送って更生することを期待することになるはずだ。にもかかわらず、企業がその機会を奪っており、地裁の判決はそれを追認した」と批判した。
男性も判決を不服として2014年8月14日、控訴した。さらに9月には、グーグルの日本法人を相手取った同様の訴訟の判決が言い渡される予定だ。
相次ぐ削除要請
今回の裁判では、全面勝訴したヤフー側だが、実は、今回の判決後には「どんな場合でも削除をしないことが正しいとは考えていない」ともコメントしている。
報道されるニュースだけでなく、ブログやツイッターといった手段を通じ、個人的な投稿であっても内容によっては大きな注目を集め、拡散することがすでに定着している。ネット検索も従来の検索だけでなく、利用者が知りたい情報を先回りして表示するなど進化している。
そうした中、元交際相手などの裸の写真を復讐目的でネット投稿する「リベンジポルノ」や、注目を集めるため違法行為などを安易に投稿する「バカッター」なども相次いでいる。
また、報道機関が原則として報じてこなかった少年事件の容疑者名や写真についても、ネット上に掲載される事例も珍しくなくなっている。
個人のプライバシーや名誉をめぐる問題は世界でも深刻化しており、欧州連合(EU)の欧州委員会は2012年、ネット上に拡散した個人情報の削除を本人が請求できる「忘れられる権利」を提唱した。
また、2014年5月にはEU司法裁判所が、米グーグルに対し、個人の情報へのリンクを検索結果から削除するよう求めた男性の請求を認める判決を言い渡した。これを受け同社は、欧州の利用者から検索結果に含まれる自分の情報へのリンクの削除要請を受け付けるサービスを開始している。
「サジェスト機能」でも訴訟
東京地裁は2013年、ネット検索で単語を入力すると、別の語句を予測して並べて表示する米グーグルの「サジェスト機能」で名誉を傷つけられたとして、日本人の男性が表示差し止めなどを求めた訴訟で、「名誉毀損にあたる違法な投稿記事を閲覧しやすい状況を作り出している」とし、差し止めを命じた。国内の訴訟で初めてサジェスト機能による権利の侵害を認める判決となった。
ただ、この裁判をめぐっては、2審東京高裁は「表示による男性の不利益が、表示を削除することでグーグルや利用者が受ける不利益を上回るとはいえない」として1審判決を取り消し、男性側の逆転敗訴を言い渡している。
グーグルに「検索結果の削除」命令。国内初か、東京地裁(2014年10月)
インターネット検索最大手「グーグル」で自分の名前を検索すると、犯罪に関わっているかのような検索結果が出てくるのはプライバシー侵害だとして、日本人男性がグーグルの米国本社に検索結果の削除を求めていた仮処分申請で、東京地裁は9日、検索結果の一部の削除を命じる決定を出した。専門家からは「検索サイトに、検索結果の削除を求める司法判断は国内で初めてではないか」との指摘が出ている。
関述之裁判官は9日、男性の訴えを認め、男性が求めた237件のうち、著しい損害を与えるおそれがある約半数の122件について、検索結果それぞれの「表題」とその下に表示される「内容の抜粋」の削除を命じる決定を出した。
新潟大の鈴木正朝教授(情報法)は「これまで、検索サイトに対して、検索の補助機能(サジェスト機能)の表示差し止めを命じる判決はあったが、検索結果の削除を求めた国内の判断はこれまで聞いたことがない」と話している。
男性は今年6月、犯罪を連想させる検索結果が出ることで、「現在の生活が脅かされる」として、削除を求める仮処分を申し立てた。9日の決定で、東京地裁は、男性の人格権が侵害される内容が表示されていることが認められるとして、「(検索)サイトを管理するグーグル側に削除義務が発生するのは当然だ」と指摘。
グーグル側の「検索サービスの提供者には検索結果の削除義務は原則として認められない」とする主張を退けた。男性の代理人の神田知宏弁護士は「ネット上で、プライバシー侵害を受け、心身ともに傷ついている多くの人にとって今回の決定は大きな朗報だ」と話した。
関連項目
参考文献
- 「グーグルの個人情報指針を考える(上)」日本経済新聞、2012-04-11 朝刊、p. 27。
外部リンク
- 2012/01/25 Proposal for a REGULATION OF THE EUROPEAN PARLIAMENT AND OF THE COUNCIL p.9。(英語)
- 一般社団法人電子情報技術産業協会 情報政策委員会(2012)「EUデータ保護指令改定に関する調査・分析報告書」p.7。(日本語)
- 「“忘れられる権利”はネット社会を変えるか?」クローズアップ現代、NHK(2012-06-26 放送)。