山田勇 (経済学者)
山田 勇(やまだ いさむ、1909年8月12日 - 1986年4月26日)は、日本の経済学者・統計学者。1961年一橋大学経済学博士、1973年同大学名誉教授。国民経済計算、産業連関分析など計量経済学分野の研究で知られる。著書に『経済通論』・『産業連関の理論と計測』など。論文多数。訳書にW.J.ボーモル『経済動学序説』(共訳)・J.E.ミード『経済成長の理論』(監訳)など。
目次
経歴
生い立ち
1909年8月12日生まれ[1]。実家は、大須観音から程近い名古屋市の前塚町にあり、「柏徳」という、住込の店員が10人ほどいる裁縫所を経営していた[2]。
中学校を受験し、名古屋商業に進学。成績優秀だったため、無試験で、口頭試問のみで名古屋高等商業学校(名古屋高商)に入学。当初は自宅から通学していたが、2年生時に半年間寄宿舎に入り、その後(理由不詳で)1年間休学。この間に名古屋から岐阜へ転居した。名古屋高商時代の同期生に北川一雄がいた。[3]
1928年3月、名古屋高商を卒業[4]。卒業後、同校の産業物理学実験室の助手として学校に残る[5]。
姫路商業・横浜専門学校時代
4年ほどしてから(1932年頃?)、推薦により姫路商業の教員となる[5]。
同校の久武雅夫教授の推薦により、(1938年頃?)横浜専門学校に就職[6]。はじめ助教授だったが、半年後(亜大紀要 1986 156によると、1939年4月)に教授に昇進した[7]。
同校では、商業通論、商業算術、経済学、簿記、高等文官試験準備のための英語などかなり多くのコマ数を受け持った。研究面では、名古屋高商の産業調査室からの委嘱を受けて鉄鋼業の計量分析を発表。同校に講師として来ていた東京商科大学の中山伊知郎の面識を得た。[7]
東亜経済研究所時代
1940年、東京商科大学に東亜経済研究所が開設されることになった際に、研究員になることを引き受け[8]、同年9月に横浜専門学校を辞任して、東亜経済研究所に転任した[9]。
- 1939年に名古屋高商から東京商科大学教授・東亜経済研究所研究部長となっていた赤松要や、杉本栄一の推薦を受け、陰に中山の同意もあって転任が決まった[8]。
- 転任前に、久武の著書『商業数学』の改稿を依頼され、久武と共著で『企業計算の理論と実際』を出版した[10]。
東亜経済研究所では、赤松から生産指数の作成を研究課題として与えられ、ペンローズ型の生産指数とは異なる、エッジワース 式の生産指数を考案。研究所統計部と協力して日本の内地の農産物についての生産指数を作成し、著書『東亜農業生産指数の研究』(山田 1942 )をまとめた。[11]
1941年2月、東京商科大学助手[4]。同年4月、杉本からの指示で、一時的に内閣統計局の嘱託となり、同局調査官の望月敬之と共に家計調査の立案を担当。山田は農家家計調査を担当し、望月は商工業家計調査を専任した。半年後(同年10月頃か)に成果物が統計局案として公表され、全国各地で説明会を開催したが、同年12月に太平洋戦争が始まったため、予算の関係で調査を1ヶ年行ったところで事業が中断し、施策に反映されることはなかった[13]。
家計調査終了後、東京商科大学へ戻る[14]。この頃までに、横浜から高円寺へ転居[14]。
戦争時代
1941年12月の太平洋戦争開戦後、東亜経済研究所は南方軍政への協力を自主的に具申[15][16]。
- 「そのあと赤松、杉本、山中三教授を始め研究所教官が一室に集まって今後の研究方針を議論した。結局今後は静かに研究室に閉じ篭もるよりは、進んで軍の組織のなかに入って軍政に協力するとともに研究を進めることにしようと衆議が一決した。そのときたまたま高瀬学長の弟が参謀本部の中佐であった関係から同氏を通じて軍へ申し出たのである。小生は下っ端であったから、これに異論を唱えることはしなかったが、また別にその決定に不服でもなかった。」[16]
その後、山田は前記の著書(山田 1942 )の出版を進め、その後で「東亜共栄圏交易理論」と題した、多数のサイド・イクエーション(辺方程式)の均衡理論の論文(編注:未詳)を執筆した[17]。
1941年(1942年か)9月に東亜経済研究所の教官は軍に編入されることが決定した[17]。
- 「小生は研究所に勤務していたので、この南方行の要員になることは一応決心していたが、しかし出来ることなら東京で研究したいという気持ちが強かった。そこで自分の気持ちを大学の帰りに電車のなかで杉本先生に告げたとき、『君が行かなくて誰が行く』といわれて万事が決まった。」[18]
南方調査団の編成にあたっての班分けでは農業班の班長となり、業務計画を作成[19]。出発前に市ヶ谷の陸軍士官学校で軍から正式に出発を申し渡され、旅費と軍服、軍刀の買入許可書を受け取って九段で刀を購入した[20]。1942年10月、東京商科大学助教授[4]。
(同月~同年12月頃)南方総軍調査部に配属され、同年12月18日、赤松要、板垣與一ら30余人と共に神戸から安芸丸に乗船し、同月28日にシンガポール(当時の昭南特別市)に到着[15][21]。着任当初の軍の方針では、民心把握を第一、軍作戦物資の確保を第二とし、作戦作業は第三とされていた[22]。
1943年になって農村調査が企画され、小田橋貞寿を団長として、山田秀雄、大野精三郎らとヌグリ・スンビラン州のクアラピラ で調査を行い、調査結果を「クアラピラ農村調査報告」として南方総軍に提出した[23][24]。
1944年になって南方全域での家計調査を企図したが、マラヤ・スマトラ全域での調査実施は困難とみられたため、マラヤでの調査を行った後、ジャワで調査を行う予定で調査案を作成した。家計調査は当初、軍政の目標の第一に挙げられていた民心把握のための施策だったが、1943年中には軍は民心把握よりも軍作戦の遂行や軍需物資の獲得を優先課題とするようになっており、調査の続行を主張した調査部は総軍と対立した。[25]
1944年4月、調査部はマライ軍政監部に転属[26]。マラヤでも全域を調査対象とすることはできず、マラッカ・シンガポール・ペナンに地域を限定して、マレー人、中国人、インド人の民族別の家計調査を実施した[27][28]。
赤松ら調査部の大部分は、タイピンからクアラルンプールへ移ったが、山田は統計係として現地の職員を多く雇用していた関係でシンガポールに残留[30]。1945年4月頃、統計係の職員とともにマライ軍政監部から昭南特別市の厚生課に異動になり、昭南疎開本部で疎開の事務を担当した[31][32][33]。
- 「シンガポールでは第7方面軍は小さくはなかったが司令官は土肥原大将から板垣征四郎大将へと代っていった。会食は小さな部屋で司令官を中心にして行われたので両大将をよく眺めた、ともに胴囲りの太い人物であった。時々われわれも訓練に狩り出され、戦車に布団爆雷を持ってそれに突っ込む練習をした。戦車といってもマラヤに殆んどなく大八車を代用した。これを現地人が遠巻きにして見ていた。敗戦の徴候はひしひしと眼にうつったのである。もはや戦局は好転する気配は全くない。第7方面軍の司令部へ行ったことがあったが、参謀は大きな声で『ハルマヘラが陥ちた』と叫んでいた。米軍はすでに飛石作戦に移り、パラオをおとし、サイパンも落とし、硫黄島から沖縄に迫っていた。」[30]
疎開本部では、英軍が1945年6-7月頃にウビン島 を占領してシンガポールに艦砲射撃を加えることを想定して、住民の中の希望者をマライ半島、スマトラ、ジャワに疎開させる仕事をした。軍から物資を調達して、若干の米と砂糖・塩、軍票を与え、全部で12-13千人の現地人を疎開させた。主な仕事は、住民からの申し出があったときに、マレー半島北部への輸送の手配をすることだった[34]。
- 「シンガポール滞在中、この時期が一番熱心に働いたときである。皆んなを送り出して水野君と家へ帰ったときは大いに疲れた。その間に小生の歯も抜け、頭髪が一層薄くなったものである。急に年を取った思いであった。」[35]
同年8月13日にジャワへ行く疎開者300人余を送り出した後で15日の終戦を迎え、疎開船が難破でもしたら戦犯になると気をもんだが、ジャカルタに無事到着した[36]。疎開本部は、終戦から半年ほど経ってから解散した[37]。
1945年9月6日に英軍がシンガポールに上陸した後、昭南特別市の職員は事務引き継ぎを行い、その後も英軍によって市庁舎への登庁を続けるよう求められていたが、集団で市内を逃れ、既にジュロン に集められていた一般の在留日本人に合流した[38]。ジュロンでは英軍に提出する書類の翻訳などをしたが、時間が余っており、ラッフルズ・カレッジの図書館から持ち出していたヒックスのValue and Capitalを読んで勉強した[39]。帰国後、赤松あてに戦時中ラッフルズ・カレッジから持ち出した本を返すようにと要求があったが、どうすることも出来なかった[40]。
半年ほど経ってから、帰国命令により鳳祥丸に乗船し、1945年(1946年か)4月13日に広島の大竹港に到着[40]。東京・国立へ戻った後、家族が姫路で暮らしていることを知り、姫路へ移動して家族と再会。神戸で復員の手続きをした[41]。
戦後
- 1945年より、日本統計学会理事、評議員[4]。
- 1950年より1968年まで、日本計量経済学会理事[42][43][44]。
- 1950年6月 一橋大学教授、同大学経済研究所勤務[4]。1951年2月から、ソーシャル・アカウンティング(国民経済計算)研究のため3ヵ月間米国へ出張[4]。
- 1961年9月初、ジュネーブで開催された「投入産出分析国際会議」に日本学術会議から代表として派遣される[45]。
- 1961年11月 「産業連関分析の理論および計測」[46]により一橋大学経済学博士[4]。
- 1967年 同大学経済研究所長、同大学評議員[4]。同年2月より同大学経済研究所日本経済統計文献センター長[4]。
- 1973年4月 南山大学経済学部教授[4]。
- 1974年4月 亜細亜大学経済学部教授[4][47]。
- 1975年1月 日本統計学会会長[4]。
- 1986年3月、亜細亜大学教授辞職、同年4月26日に死去[48]。
栄典
- 1973年4月 一橋大学名誉教授[4]。
著作物
著書・編著・共編著
- 山田 (1942) 山田勇『東亜農業生産指数の研究 ‐ 内地・朝鮮・台湾の部』〈東京商科大学東亜経済研究所叢書 1〉日本評論社、NDLJP 1716696 [49]
- 久武 ― (1943) 久武雅夫・―『企業計算の理論及方法』巌松堂書店、NDLJP 1067767
- ― 江見 (1951) ―・江見康一『経済通論』春秋社、NDLJP 3009249 [48][49]
- ― (1961) ―『産業連関の理論と計測』勁草書房、NDLJP 3010749 [50][49]
- ― ほか (1963) ―ほか『例解経済学』白桃書房、NDLJP 3009240 [49]
- ― (1987) ―「第I部 経済学と私」故山田勇先生追想文集編集世話人会(編)『理論と計量に徹して‐山田勇先生追想文集』論創社、1987年4月、NCID BN05592015、pp.9-139
訳書
- 山田 ほか (1955) 山田勇ほか(訳)、T. ホーヴェルモー(著)『計量経済学の確率的接近法』岩波書店、NDLJP 3007656 [49]
- ― 藤井 (1956) ―・藤井栄一(共訳)ウィリアム・J・ボーモル(著)『経済動学序説』東洋経済新報社、NDLJP 3008566 [49]
- ― (1964) ―(監訳)J.E.ミード(著)『経済成長の理論』ダイヤモンド社、NDLJP 3008098 [51][49]
- ― 家本 (1969) ―・家本秀太郎(共訳)W.W.レオンチェフ(著)『アメリカ経済の構造 ‐ 産業連関分析の理論と実際』東洋経済新報社、NDLJP 3024480 [49]
論文・雑稿
- 論文多数[49]。
- 山田 (1976) 山田勇「日本統計学会会長就任に際して」日本統計学会『日本統計学会誌』vol.6 no.2 pp.1-4、DOI 10.11329/jjss1970.6.2_1
付録
脚注
- ↑ 日外アソシエーツ株式会社(編)『「現代物故者事典」総索引 昭和元年~平成23年 2 (学術・文芸・芸術篇)』日外アソシエーツ、2012年、JPNO 22178634、p.1143
- ↑ 山田 1987 11-13
- ↑ 山田 1987 13-15
- ↑ 4.00 4.01 4.02 4.03 4.04 4.05 4.06 4.07 4.08 4.09 4.10 4.11 4.12 亜大紀要 1986 156
- ↑ 5.0 5.1 山田 1987 14-16
- ↑ 山田 1987 16
- ↑ 7.0 7.1 山田 1987 16-17
- ↑ 8.0 8.1 山田 1987 17
- ↑ 山田 1987 18。亜大紀要 (1986 156)によると、転任は1940年6月。
- ↑ 山田 1987 17。久武 (1943 )の異版本か。
- ↑ 山田 1987 18-19
- ↑ 山田 1987 19
- ↑ 山田 1987 21,22
- ↑ 14.0 14.1 山田 1987 21
- ↑ 15.0 15.1 板垣 山田 内田 1981 119-120
- ↑ 16.0 16.1 山田 1987 22-23
- ↑ 17.0 17.1 山田 1987 23
- ↑ 山田 1987 24
- ↑ 山田 1987 24-25
- ↑ 山田 1987 25-26
- ↑ 山田 1987 27-29
- ↑ 山田 1987 30
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 123-124
- ↑ 山田 1987 32-33
- ↑ 25.0 25.1 山田 1987 35
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 121
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 124-125
- ↑ 山田 1987 35。同書は、調査部が馬来軍政監部に移されたのは、1945年になってから、としている。
- ↑ 山田 1987 36
- ↑ 30.0 30.1 山田 1987 39
- ↑ フォーラム 1998 38
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 135-136
- ↑ 山田 1987 39-40
- ↑ 山田 1987 41
- ↑ 山田 1987 41-42
- ↑ 山田 1987 42
- ↑ 山田 1987 43
- ↑ 山田 1987 45-47
- ↑ 山田 1987 47-48
- ↑ 40.0 40.1 山田 1987 48
- ↑ 山田 1987 50
- ↑ 日本経済学会 (2014) 日本経済学会 日本経済学会小史 2014 [ arch. ] 2016-09-14
- ↑ 日本経済学会 (2014) 日本経済学会 日本経済学会小史 > 日本経済学会史編纂資料 > 歴代会長・常任理事・理事メンバー一覧 > 1969年度から2009年度 pdf 2014 [ arch. ] 2016-09-14
- ↑ 亜大紀要 (1986 156)では、理論・計量経済学会理事、としている。
- ↑ 追想文集 1987 2
- ↑ 山田 1961
- ↑ 板垣 山田 内田 1981 115
- ↑ 48.0 48.1 小川 1986 144
- ↑ 49.0 49.1 49.2 49.3 49.4 49.5 49.6 49.7 49.8 亜大紀要 1986 157
- ↑ 小川 1986 145
- ↑ 小川 1986 144-145
参考文献
- フォーラム (1998) 「日本の英領マラヤ・シンガポール占領期史料調査」フォーラム(編)『日本の英領マラヤ・シンガポール占領 1941~45年 インタビュー記録』〈南方軍政関係史料 33〉龍溪書舎、ISBN 4844794809
- 追想文集 (1987) 「第II部 追想の山田勇」故山田勇先生追想文集編集世話人会(編)『理論と計量に徹して‐山田勇先生追想文集』論創社、1987年4月、NCID BN05592015、pp.140-246
- 小川 (1986) 小川春男「山田勇先生の御退任を惜しんで、そして、御急逝を悼んで」亜細亜大学経済学会『亜細亜大学経済学紀要』vol.11 no.2、1986年9月、pp.144-146、NAID 110000183301
- 亜大紀要 (1986) 「山田勇先生略歴・主要著作目録」亜細亜大学経済学会『亜細亜大学経済学紀要』vol.11 no.2、1986年9月、pp.156-157、NAID 110000183301
- 板垣 山田 内田 (1981) 板垣与一・山田勇・内田直作(述)東京大学教養学部国際関係論研究室(編)「板垣与一氏・山田勇氏・内田直作氏 インタヴュー記録」『インタヴュー記録 D.日本の軍政 6.』東京大学教養学部国際関係論研究室、NCID BN1303760X、pp.115-168
- 家本 (1961) 家本秀太郎「書評 山田勇著『産業連関の理論と計測』」神戸大学経済経営学会『国民経済雑誌』vol.104, no.6、1961年12月、pp.85-91、NAID 110000441635