花岡事件
花岡事件(はなおかじけん)は、1944年8月から1945年10月頃までに、中国の河北省・山東省などから日本に連行され、秋田県北秋田郡花岡町にあった鹿島組花岡出張所の土木工事現場で使役されていた華人労務者約1,000人のうち、400余人が死亡した事件。1945年6月30日または7月1日に華人労務者による暴動事件が発生し、鎮圧時・鎮圧後に数十人が殺害されたり死亡したりしたが、同出張所の華人労務者の死亡率が高い状況は暴動の前後も続いており、差別的な処遇による過酷な労働・生活環境や、出張所責任者の物資横流しによる食糧の不足、出張所の輔導員(監視員)による日常的な暴行などが、暴動事件や高い死亡率の原因になったとみられている。
1948年にアメリカ軍による戦犯裁判で同出張所の関係者や地元の大館警察署の関係者が虐待・虐待致死容疑で有罪判決を受けた。1949年頃から1960年代前半にかけて、花岡に残された事件犠牲者の遺骨を発掘し、中国に送還する運動が行なわれた。1995年に東京地裁に鹿島建設(旧鹿島組)に対する損害賠償請求訴訟が提起され、2000年に東京高裁で和解が成立。鹿島が5億円を中国紅十字会に信託し、2009年12月末までに花岡平和友好基金から「受難者」約1,000人のうち、和解に応じた約480人に補償金が支払われたが、10数人が和解を拒否した。2015年に事件の生存者・遺族により、日本政府に対して損害賠償と謝罪を求める訴訟が提起された。
目次
背景
華人労務者の内地移入
1944年に、戦争の長期化に伴う軍需物資・軍事施設への需要増や徴兵による労働力不足を背景として、「華人労務者の内地移入」政策が閣議決定され、日本全国の135事業所に約4万人の華人労務者が「移入」された。
戦時中の花岡鉱山
花岡鉱山は、秋田県北部に位置し、1915年以来、合名会社藤田組が経営していた鉱山で、太平洋戦争開始後の1942年に鉱山全体が軍需工場に指定され、月産3-5万トンの生産を義務付けられていたが、鉱山関係機械が不足し、また鉱山労働者が兵役にとられて労働力も不足していた[1]。このため、高齢者や女性、少年が動員され、坑内労働にあたっていたが、太平洋戦争末期になると機械の調達ができなくなり、労働力の不足は深刻だったため、日本に連行されてきた朝鮮人や、米国人の俘虜、華人労務者などが採掘作業に使役された[2]。
鹿島組花岡出張所
鹿島組は花岡鉱山の選鉱場(鉱滓堆積ダム)の付帯工事を請け負っており、また七ツ館事件の後、花岡川の水路変更・改修工事も請け負うことになった[3]。鹿島組は、これらの工事に充てるため華人労務者を使役することを考え[4]、日本政府の「華人労務者移入計画」に基づく割当を受けて、職員を中国に派遣して華北労工協会と「労工供出契約」を締結し、「労工教習所」にいた中国人700人の中から300人を選別して日本に連行した[5]。
1944年8月に、花岡町にあった鹿島組花岡出張所に第1次・300人弱の華人労務者が到着した[6]。華人労務者たちは、花岡出張所の「中山寮」に入れられ、鉱滓堆積ダムの建設工事や花岡川の改修工事などに使役された[7]。
なお、藤田組の花岡鉱山(花岡鉱業所)でも華人労務者が使役されていたが、鹿島組花岡出張所の「中山寮」の華人労務者とは別に「東亜寮」に収容されていて、待遇も異なっていた[8]。
事件
鹿島組花岡出張所の華人労務者は、警察や内務省の指導により、十分な食糧や日用品、休養を与えられずに重労働に従事し、現場で華人労務者の監督・監視にあたっていた輔導員から日常的に暴行を受けていた上に、同出張所の関係者や輔導員らによる食糧のピンハネ・横流しによって配給予定量の食糧を与えられず、病欠者が多くなると食糧の配給が減らされ、衣料品の支給も少なく中山寮の建物・設備が粗末で冬場の寒さがしのげないなど、劣悪な生活・労働環境に置かれていた[9]。
1945年5月下旬に第2次・600人弱、同年6月初に第3次・100人弱の華人労務者が花岡出張所に連行されてきたが、第1次-第3次の合計1,000人弱のうち、同月末までに約140人が死亡した[10]。
1944年8月に、食事の配給は、300人ほどいた全寮で1日あたり小麦粉12袋(0.04袋/人)でした。それから月ごとに小麦粉の配給が減っていき、1945年4月末には、生き残っていたおよそ200人に対して1日5袋(0.025袋/人)しかありませんでした。小麦粉の配給の一部として初めてドングリの粉が混ざったのも、その4月でした。小麦粉の配給は、1945年5月に新しい中国人グループ(600人弱)が連行されてきたときに1日約20袋(0.025袋/人)に増え、さらに6月に別のグループ(100人弱)がくると24袋(0.027袋/人)になりました。小麦粉にはリンゴカスをまぜ、それをふかして「マントウ」をつくりました。(…)
朝食と昼食には、マントウ1個(パン1斤の1/4から1/3ほどの大きさ)と、カブの葉やゴボウの入った湯が出ました。なかにはそれを汁と呼ぶ者もいました。夕食は月によって違いました。(1944年)8月から11月の半ばまで、夕食はマントウでした。11月半ばから(1945年)3月までは配給の小麦でつくった麺、4月から7月までは野菜の混じった粥でした。4月と5月には何日か、コメの粥だったこともありました。
1944年8月から1945年7月までのあいだ、1ヵ月か2ヵ月に一度くらい、馬肉が出ました。そのときは、全寮に馬1頭が与えられました。また全期間を通じて、月に1度か2度、魚が出ました。
病気で働けない者は、通常の食事の配給量を減らされました。
– 李克金の宣誓供述書から[11]
1945年6月30日または7月1日の深夜に、中山寮に宿泊していた輔導員ら5人が殺害され、鹿島組花岡出張所の華人労務者約800人が集団脱走する事件が起き、翌日以降、警察や地元住民を動員して「山狩り」が行なわれ、憲兵隊が出動して暴動は鎮圧された。逮捕時の銃撃・暴行や、逮捕後に共楽館で行われた警察による尋問時の暴行・虐待により、数十人が殺害されたり死亡したりした。暴動の首謀者とされた耿諄以下の華人労務者の幹部13人が起訴され、終戦後も手続きが継続されて、1945年9月11日に秋田地方裁判所で「戦時騒擾殺人罪」により無期懲役以下の判決が下されたが、受刑者は数日後に秋田に進駐してきた米軍によって保護された。(狭義の花岡事件)
暴動事件が起きた1945年7月の1ヵ月間に、鹿島組花岡出張所では、華人労務者100人が死亡し、同年8月には49人、9月に68人、10月に51人、11月に9人が死亡と、米軍が介入する10月まで死者数の多い状況が続いた[12]。
看護係として、私は中山寮で死亡した中国人の大半の遺体を運びました。1944年11月以降、医者が遺体を検視して死亡証明書を書くまで、われわれは通常、死亡した中国人の遺体を古い病棟の奥の部屋に安置していました。(…)1945年7月1日の事件以前、病棟に一度に安置されていた遺体は6人以下でした。遺体は3日以上、そこに置かれることはありませんでした。4月以降、遺体安置室のハエや悪臭がひどくなり、真ん中の2部屋に押し込まれていた病人は、同じ建物にいるのをいやがりました。
遺体は、1944年8月から11月までは木の箱に入れて、11月から1945年7月末までは藁で包んで、丘まで運ばれました。1945年7月末以降は、再び木の箱が使われました。遺体が小さな箱におさまらないことがあり、時々腕や脚がはみ出していました。そのため、多くの箱は蓋を閉められませんでした。
1945年7月1日の事件以前、遺体は山の斜面の穴で火葬されていました。遺体は通常、薪が不足していたため、すぐには火葬されませんでした。したがって4体か5体たまるまで待ってから、全部を同時に燃やすのが通例となっていました。事件以前、死亡してから火葬するまでに、長ければ5、6日はあったと思います。亡くなったときも火葬のときも、宗教的な儀式はありませんでした。初めて儀式が行われたのは、1945年7月末です。
1945年7月に、大勢の死者が出て遺体を燃やす薪が足りなくなりました。遺体は、死亡証明書が出るとすぐに山へ運ばれました。七月は非常に暑く、医者に電話してもこられないときは、必要な詳細を電話で伝えました。大内先生は、遺体を見ずに10件から20件の死亡証明書に署名したと思います。
7月に、多くの遺体が山に積まれていました。私はそれらの遺体を見ました。それは藁で包まれていただけで、なかには丈が短すぎて頭が突きだしている遺体もありました。遺体を識別するのは不可能でした。皮膚は茶褐色になり、頭は膨れあがつていたのです。7月は非常に暑かったのでひどい悪臭が漂い、遺体にはハエが群がって、眼や口や耳にうじ虫がはっていました。7月末に、およそ70体が2つの集団墓に放り込まれました。私自身はこの作業はせず、他の看護係がやりました。大きな墓穴がいっぱいになってからは、1945年10月ごろまで個人の墓に埋められました。
同年10月に米軍の調査隊が花岡に入った後、食糧が十分に支給されるようになり、病人が花岡鉱山病院に収容され治療を受けるようになると、華人労務者の栄養状況・健康状態は眼に見えて改善した[14]。
同年11月29日に、元華人労務者たちは、戦犯裁判の証人として残された11人や秋田刑務所に残っていた13人を除いて、江の島丸に乗船して中国に帰国した[15]。
戦後の動向
使役企業への国家補償金の支払
1945年12月30日に、日本建設工業会の働きかけにより、「終戦後の損害に対する補償」が閣議決定され、国が推薦した中国人を使役していたために終戦後に損失を被ったとして、政府から関係企業に国家補償が行われ、鹿島組は5事業所で使役していた中国人連行使用者1,888人に対して約346万円を受け取った[16]。また1946年3月30日付商工省指令「終戦前の損害に対する補償」により、戦時中の損失についても国家補償が行われ、鹿島組は約58万円を受給している[17]。
事件の調査と戦犯裁判
1945年10月初に米軍は鹿島組花岡出張所を調査し、「中山寮」に放置されていた華人労務者の遺体を確認、同出張所の河野正敏署長ら出張所関係者7人を逮捕した。翌年初には捜査が鹿島組の社長・鹿島守之助にも及び、鹿島組は弁護団を強化して、戦犯裁判の証人として日本に残っていた元華人労務者と個別に交渉して帰国を促し、大館警察署の管理上の問題を告発して元警察署長らをGHQに逮捕させるなどの弁護活動を展開した。中国大陸での国共内戦において国民党が劣勢に立たされ、日本や米国との連携強化を志向するにつれて、国民党の駐日代表部は往事の日本政府・企業の責任を問う戦犯裁判に消極的な姿勢を取るようになった。
1948年3月1日にアメリカ軍横浜裁判(BC級戦犯裁判)で、鹿島組花岡出張所の関係者4人と地元の大館警察署の関係者2人が、虐待・虐待致死により、絞首刑以下の有罪判決を受けたが、戦犯受刑者はのちに減刑されて全員が出所した。
遺骨の発掘・送還運動
1949年の中華人民共和国成立の頃から、地元・花岡の労働組合や在日華僑団体が中心となって、花岡や日本各地の華人労務者使役事業所で死没した華人労務者の遺骨を発掘し、中国へ送還する運動を展開した。遺骨発掘活動が団体の機関誌で報道されたことを契機に、花岡事件は日本全国で知られるようになった。発掘・収集された遺骨は、中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会によって、中国から日本への帰還者と入れ替わりに、1953年7月から1964年11月にかけて、当時日本と国交がなかった中国へ送還された。
鹿島建設に対する訴訟
1983年から、劉智渠ら日本に残留した被害者と石飛仁らは鹿島建設に対して労賃支払を求める交渉を行い、その過程で中国に帰国していた耿諄の消息が明らかになった。1989年に耿諄らは花岡受難者聯誼会を結成し、これを日本の中国人強制連行を考える会が支援する形で鹿島建設との補償交渉が行なわれ、1990年7月5日の共同発表で鹿島建設は事件の責任を認め生存者・遺族に謝罪した。しかしその後、聯誼会が要求した補償金支払や記念館建設を巡る交渉がまとまらず、1995年6月28日に、聯誼会の生存者・遺族11人は、東京地裁に、鹿島建設に対する損害賠償請求訴訟を提起した。
1997年に東京地裁が原告の訴えを却下した後、原告側が控訴し、東京高裁の和解勧告を受けて2000年11月29日に和解が成立。鹿島が5億円を中国紅十字会に信託し、花岡平和友好基金を通じて、戦時中、鹿島組花岡出張所に連行された元華人労務者約1,000人が和解条項を承認した場合に補償金が支払われることになった。2009年12月時点で約1,000人の「受難者」のうち約520人の身元が判明、このうち約480人が支払いを受け、10数人が和解を拒否している。
慰霊
慰霊式と代表団の派遣
1985年6月30日に、大館市で、畠山健治郎市長(社会党)の主導で、自治体主催での「中国人殉難者慰霊式」が開催され、以後2017年現在まで毎年慰霊式が続けられている[18]。
2000年の和解が成立した後、2001年から2010年までは、日本の支援者と花岡受難者聯誼会、花岡平和友好基金運営委員会が、被害者やその遺族らで構成される数十人規模の代表団をほぼ毎年日本へ派遣し、代表団は大館市主催の慰霊式に参加するなどしている[19]。
2001年の慰霊式には、花岡平和友好基金の運用により来日した12人の生存者と19人の遺族が出席し、約400人が献花、鹿島から初めて常務取締役が参席した[20]。
記念館の設立
2000年の和解では、原告団が補償交渉の当初から主張していた事件の記念館の建設は和解条項に盛り込まれず、被害者や関係者は記念館の建設を和解後の大きな課題と考えていた[21]。
和解成立後の2001年3月に、鹿島建設は信正寺の華人死没者追善供養塔の改修工事を申し出、同年6月ないし7月に開眼式が行われた[22]。
大館市では、2002年に設立されたNPO法人・花岡平和記念会によって記念館の建設資金の募金活動が行われ、2010年4月に同市花岡町前田に花岡平和記念館が開設された[23]。
中国では、花岡受難者聯誼会、花岡平和友好基金運営委員会および市民運動団体の働きかけにより、北京郊外・盧溝橋にある中国人民抗日戦争紀念館で、華人労務者に関する展示が行われるようになった[24]。
また、2006年8月に、日本から送還された華人労務者の遺骨を保管していた天津市政府は、同市郊外の烈士陵園に在日殉難烈士・労工記念館を建設した[25]。
日本政府に対する訴訟
2015年6月26日に、中国の山東省や河北省から日本に連行され、花岡や大阪港で使役された元華人労務者の生存者(2人)とその遺族ら13人が、大阪地裁に、日本政府に対して総額約7,150万円の損害賠償金の支払いと謝罪を求める訴訟を提起した。原告は、日本政府が強制連行・強制労働に関与し、戦後事実を隠蔽し、被害回復措置をとらなかったと主張している。[26]
評価
『外務省報告書』によると、鹿島組花岡出張所へ連行され使役された華人労務者986人のうち、1946年2月末までの死者は合計418人に達し、死亡率は約42.4%だった[27]。暴動事件発生前の1945年4月時点でも死亡率は約31%に達していた[28]。
『外務省報告書』により、鹿島組花岡出張所の就労(死亡)状況を他の華人労務者使役事業所と比較した結果は下記のとおり。
- 鹿島組花岡出張所の死亡率は、全135事業所中の第6位だった(表1)[29]。死亡数(418人)は全135事業所中の第1位。
表1:華人労務者使役135事業所のうち、死亡率上位10事業所 事業所 都道府県 「移入」数 うち死亡数 死亡率 戦線鉱業・仁科 静岡県 200 104 52.0% 川口組・芦別 北海道 600 273 45.5% 北海道炭鉱汽船・空知天塩 北海道 300 136 45.3% 日鉄鉱業・釜石 岩手県 288 123 42.7% 古川鉱業・足尾 栃木県 257 109 42.4% 鹿島組・花岡 秋田県 986 418 42.4% 日本鉱業・峰ノ沢 静岡県 ※197 81 41.1% 地崎組・大夕張 北海道 388 148 38.1% 三井鉱山・芦別 北海道 684 245 35.8% 宇部興産・沖ノ山 山口県 291 98 33.7%
- 資料:NHK(1994,pp.74-75)、石飛(2010,pp.27,28-35)により作成。 出所:外務省報告書。 ※日本鉱業・峰ノ沢の「移入」数は、石飛(2010,p.31)では177人とされているが、NHK(1994)pp.74の死亡率と整合するよう197人に修正した。
- 秋田県内の他の事業所との比較では、死亡率が最も高かった(表2)。
表2:秋田県内の事業所における華人労務者の死亡率 事業所 「移入」数 うち死亡数 死亡率 鹿島組・花岡 986 418 42.4% 同和鉱業・小坂 200 62 31.0% 三菱鉱業・尾去沢 498 83 16.7% 同和鉱業・花岡 298 11 3.7% 日本港運業会・船川 ※431 11 2.6%
- 資料:野添(1992,p.223)および石飛(2010,pp.30,32,34)により作成。 出所:外務省報告書 ※野添(1992,p.223)では「他事業所からの転入者400人」としているが、石飛(2010,p.34)に拠った。なお、移入人員を400人として計算した場合の死亡率は2.8%。
- 鹿島組の他の事業所との比較では、死亡率が最も高かった(表3)。
- 群馬県の薮塚事業所の17.9%がこれに次ぐ高率となっている。薮塚出張所の華人労務者280人は、1945年4月に鹿島組御岳作業所から配置転換されたが、到着時に自力で歩けない人が60-70人いて、到着後の健康診断で重病患者とされた人が181人にのぼり、ほぼ全数が眼病患者、うち70人が両眼を失明していたとされ、到着後の約半年間で、280人のうち50人が死亡した[30]。
表3:鹿島組の事業所における華人労務者の死亡率 事業所 都道府県 「移入」数 うち死亡数 死亡率 花岡 秋田県 986 418 42.4% 薮塚 群馬県 ※280 50 17.9% 発足 北海道 200 21 10.5% 御岳 長野県 705 50 7.1% 各務原 岐阜県 ※374 3 0.8%
- 資料:石飛(2010,pp.28-35)により作成。 出所:外務省報告書 ※他事業所からの転入
李(2010,p.99)は、鹿島組花岡出張所の死亡率(約42%)は、日本に連行された華人労務者の平均死亡率約17%、シベリアに抑留された日本人の死亡率約10%などと比べて、極めて高かった、と評価している。
西成田(2002,pp.395-396)は、鹿島組花岡出張所の死亡率は、暴動事件発生前の1945年4月時点でも高率だったことから、同出張所の苛酷な処遇が暴動事件の要因になったと推測し、また終戦後も同年10月まで死亡数が多い状態が続き、米軍の介入後急速に死者数が減っている点から、暴動事件後の対処で華人労務者の衰弱が進み、その後も「強制労働」が続けられたことが戦後も続く高い死亡率の原因になったと推測している。
付録
関連文献
- 野本崇行(稿)『華鮮労務対策委員会活動記録』日本建設工業会、1947年6月。
- 復刊:アジア問題研究所(編)、アジア問題研究所、1981年。
- 日中友好協会編『花岡ものがたり』日中友好協会文化部、1951年[31]
- 松田解子『地底の人々』世界文化社、1953年[31]
- 中国人殉難者名簿共同作成実行委員会(編)『中国人強制連行事件に関する報告書』第1-3編、同実行委員会、1960年[31]
- 第1編 NDLJP:1706941 (閉)
- 第2編 NDLJP:1706953 (閉)
- 第3編 NDLJP:1706969 (閉)
- 再刊 田中宏・内海愛子・石飛仁(解説)『資料 中国人強制連行』明石書店、1987年
- 再刊 田中宏・内海愛子・新美隆(編)『資料 中国人強制連行の記録』明石書店、1990年
- 中国人殉難者名簿共同作成実行委員会編『40,000人の中国人強制連行の真相』同実行委員会、1961年[31]
- 中国人殉難者全道慰霊祭事務局『戦時下における中国人強制連行の記録』中国人殉難者全道慰霊祭事務局、1992年に付されている。
- 中国人強制連行事件資料編集委員会編『草の墓標-中国人強制連行事件の記録』新日本出版社、1964年。NDLJP:2989493 (閉)[31]
- 野添憲治「中国人強制連行の記録-花岡事件」『ドキュメント日本人』第8巻、学芸書林、1969年。NDLJP:2974493 (閉)[31]
- 〈現代教養文庫1581〉として社会思想社から1995年に再版
- 〈教養ワイドコレクション〉として文元社から2004年に再版
- 秋田県警察史編纂委員会『秋田県警察史』下巻、秋田県警察本部、1971年、NDLJP:9768822 (閉)
- 赤津益造『花岡暴動-中国人強制連行の記録』〈三省堂新書〉三省堂、1973年、全国書誌番号:71002241
- 平岡正明『中国人は日本で何をされたか-中国人強制連行の記録』潮出版社、1973年全国書誌番号:71014295
- 水上勉「釈迦内柩歌」『テアトロ』昭和55年9月号、カモミール社、1980年
- 野添憲治「8月15日まで」山脈の会編『私たちの昭和史』思想の科学社、1989年[31]
- 中国人強制連行を考える会(編)『花岡 鉱泥の底から』全8集、中国人強制連行を考える会、1990-2001年
- 田中宏・松沢哲成『中国人強制連行資料:「外務省報告書」全5分冊ほか』現代書館、1995年、全国書誌番号:96000488
- 旻子(2005) 旻子(著)山辺悠喜子(訳)「私の戦後処理を問う」会(編)『尊厳 半世紀を歩いた「花岡事件」』日本僑報社、2005年、4-86185-016-9
- 花岡研究会編『花岡事件横浜法廷記録−BC級戦犯裁判の代表的事例』総和社、2006年、978-4901337939
- 野田正彰 「虜囚の記憶を贈る 第六回 受難者を絶望させた和解」 『世界』2008年2月号
- 田中宏 「花岡和解の事実と経過を贈る」 『世界』2008年5月号
- 金子博文(編)石飛仁(監修)『花岡事件 秋田裁判記録』彩流社、2010年、9784779115059
- 民間戦後補償--人民網日文版
脚注
- ↑ 野添(1993)pp.6-7、西成田(2002)pp.363-364
- ↑ 野添(1993)p.7
- ↑ 大館郷土博物館(2014)、西成田(2002)pp.363-364、石飛(1996)p.58、野添(1993)p.8
- ↑ 野添(1993)pp.8-9
- ↑ 新美(2006)p.184
- ↑ 野添(1992,pp.10-13)は、第1次は出発時300人だったが、乗船までに1人が逃亡して射殺され、1人は乗船時に海に飛び込み、1人が船中で病死して、下関に到着したのは297人、下関から貨物列車で大館を経由して花岡に到着するまでに2人が死亡し、花岡に到着したのは295人だったとしており、新美(2006,p.304)では出発時299人、到着時294人としている。西成田(2002,p.364)によると、鹿島組花岡出張所の『華人労務者就労顛末報告書』は8月8日付で297人を「移入」したとしている。野添(1993,p.21)では花岡到着の全数を297人としている。
- ↑ 大館郷土博物館(2014)、李(2010)p.98、野添(1993)pp.15-16、林(2005)p.10
- ↑ 西成田(2002)pp.365-366
- ↑ 野添(1993)pp.19-23
- ↑ 大館郷土博物館(2014)、新美(2006)p.304、西成田(2002)p.364、野添(1993)p.23
- ↑ シンプソン(1998)pp.196-197
- ↑ 大館郷土博物館(2014)、西成田(2002)pp.395-396、野添(1993)p.27、野添(1992)p.195。
- ↑ シンプソン(1998)pp.211-212
- ↑ 野添(1992)pp.210-211、野添(1975)pp.141-142-林樹森の証言による。
- ↑ 野添(1992)pp.218-220。野添(1993)p.28では、戦犯裁判の証人として12人が残された、としている。
- ↑ 野添(1993)p.29、野添(1992)p.233
- ↑ 野添(1993)p.29、野添(1992)p.233
- ↑ 野添(1993)p.37、杉原(2002)p.82、「秋田)花岡事件から72年 慰霊式に遺族ら220人」『朝日新聞デジタル』2017年7月1日3:00
- ↑ 李(2010)p.105、新美(2006)pp.308-309
- ↑ 杉原(2002)pp.83-84
- ↑ 李(2010)p.105、田中(2008)p.277、杉原(2002)pp.86-87
- ↑ 石飛(2010)pp.318-319,360
- ↑ 大館郷土博物館(2014)、李(2010)p.106、新美(2006)p.308
- ↑ 李(2010)p.105、新美(2006)p.168、田中(1995)p.184
- ↑ 李(2010)p.105
- ↑ 「花岡事件:強制労働の中国人ら賠償提訴 国を相手に初」『毎日新聞』2015年6月26日
- ↑ 李(2010)p.99、新美(2006)p.304、林(2005)p.10、西成田(2002)pp.395-396、野添(1993)p.28。西成田(2002)pp.395-396では、1944年7月以降の鹿島組花岡出張所の中国人の死亡者数の合計は428人としている。林(2005)p.10は、その後1946年3月に病院で1人が死亡しており、この1人を含めると419人としている。
- ↑ 西成田(2002)pp.395-396
- ↑ NHK(1994)pp.74-75
- ↑ NHK(1994)pp.168-169 - 鹿島組薮塚出張所の『事業所報告書』による。
- ↑ 31.0 31.1 31.2 31.3 31.4 31.5 31.6 野添(1993)p.35
参考文献
- 大館郷土博物館(2014) 大館郷土博物館 > バーチャル博物館 > 展示館2F > 花岡事件 2017年12月30日閲覧
- 石飛(2010) 石飛仁『花岡事件「鹿島交渉」の軌跡』彩流社、2010年、9784779115042
- 石飛仁『ドキュメント悪魔の証明-検証中国人強制連行事件の40年』経林書房、1987年、4767302773の増補改訂・改題版。
- 李(2010) 李恩民「日中間の歴史和解は可能か-中国人強制連行の歴史和解を事例に」北海道大学スラブ研究センター内 グローバルCOEプログラム「境界研究の拠点形成:スラブ・ユーラシアと世界」『境界研究』No.1、2010年10月、pp.99-112
- 新美(2006) 新美隆『国家の責任と人権』結書房、4-342-62590-3
- 林(2005) 林博史『BC級戦犯裁判』〈岩波新書〉岩波書店、2005年、4-00-430952-2
- 杉原(2002) 杉原達『中国人強制連行』〈岩波新書785〉岩波書店、2002年、4-00-430785-6
- 西成田(2002) 西成田豊『中国人強制連行』東京大学出版会、2002年、4-13-026603-9
- シンプソン(1998) ウィリアム・B・シンプソン(著)古賀林幸(訳)『特殊諜報員』現代書館、1998年、4768467369
- 石飛(1997) 石飛仁『中国人強制連行の記録-日本人は中国人に何をしたか』〈三一新書1164〉三一書房、1997年、4-380-97008-6
- 石飛(1996) 石飛仁『花岡事件』〈FOR BEGINNERSシリーズ74〉、現代書館、1996年、4768400744
- 劉(1995) 劉智渠(述)劉永鑫・陳蕚芳(記)「花岡事件-日本に俘虜となった中国人の手記」岩波書店、1995年、4002602257
- 初版「花岡事件-日本に俘虜となった一中国人の手記」中国人俘虜犠牲者善役委員会、1951年
- NHK(1994) NHK取材班『幻の外務省報告書-中国人強制連行の記録』日本放送出版協会、1994年、4140801670
- 野添(1993) 野添憲治『花岡事件を見た20人の証言』御茶の水書房、1993年、4-275-01510-X
- 野添(1992) 野添憲治『聞き書き花岡事件』増補版、御茶の水書房、1992年、4-275-01461-8
- 野添(1975) 野添憲治『花岡事件の人たち-中国人強制連行の記録』〈「人間の権利」叢書16〉評論社、1975年、全国書誌番号:71005486
- 石飛(1973) 石飛仁『中国人強制連行の記録-花岡暴動を中心とする報告』太平出版社、1973年、全国書誌番号:71002177