ウラジーミル・プーチン
ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン Владимир Владимирович Путин
Vladimir Vladimirovich Putin | |
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ロシア連邦 第2代大統領
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任期: | 2000年5月7日 – 2008年5月7日 |
副大統領: | |
元首: | |
ロシア連邦 第5代首相
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任期: | 1999年8月16日 – 2000年5月7日 |
副大統領: | |
元首: | ボリス・エリツィン大統領 |
ロシア連邦 第9代首相
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任期: | 2008年5月8日 – |
副大統領: | |
元首: | ドミトリー・メドヴェージェフ大統領 |
テンプレート:URB 初代閣僚評議会議長
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任期: | 2008年5月27日 – |
副大統領: | |
元首: | アレクサンドル・ルカシェンコ議長 |
代大統領
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任期: | – |
副大統領: | |
元首: | |
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出生: | 1952年10月7日((2024-1952)+((11-10)*100+(10-7)>=0)-1歳) |
死去: | |
政党: | ソビエト連邦共産党( - 1991年[1]) 無所属[2](1991年 - ) 統一ロシア党首 |
配偶者: | リュドミラ・プーチナ |
サイン: | サイン |
ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチン(ロシア語:Владимир Владимирович Путин、ラテン文字表記の例:Vladimir Vladimirovich Putin、1952年10月7日 - )は、ロシア連邦の政治家。第2代ロシア連邦大統領(在任2000年 - 2008年)。第5代および第9代政府議長(首相)、統一ロシア党首(2008年より)。ベラルーシ・ロシア連合国家(正式名称は「連合国家」)の閣僚評議会議長(首相)。サンクトペテルブルクの副市長を務めたこともある。
目次
概説
最終学歴はレニングラード大学法学部卒業。学位は法学士(サンクトペテルブルク大学)、経済学博士候補(1997年、ただし、ロシアにおける「博士候補」は欧米諸国の「博士(Ph.D.)」に相当する)。階級は予備役大佐。
柔道家でもあり、段位は柔道五段(来日時に柔道六段を講道館柔道において贈られるも辞退。詳細は後述)。称号は、サンボと柔道のロシア連邦スポーツマスター。2005年12月よりヨーロッパ柔道連盟名誉会長を務める。
1999年12月31日のボリス・エリツィンの大統領辞任により大統領代行を務めたのち、2000年ロシア大統領選挙に勝利して正式に大統領に就任する。2004年の大統領選挙では再選を果たし、2008年5月7日まで大統領を務める。そして後任の大統領であるドミトリー・メドヴェージェフの指名により同月8日に首相に就任した。
8年間のプーチン政権でロシア経済は危機を脱して大きく成長し、ロシア社会から高い支持と評価を受けている。実際、国内総生産(GDP)は6倍に増大(購買力平価説では72%)し、貧困は半分以下に減り、平均月給が80ドルから640ドルに増加し、実質GDPが150%になった。
その一方で、第二次チェチェン紛争での人権侵害などにより、ロシア国外の政府や人権団体からロシアの人権と自由について追及されている。またロシア経済についても、ウラジーミル・ヤクーニンのようなプーチンと親密な関係にある人物たちによる統制がマスメディアの取材で明らかになっている。こうした統制は、ボリス・ネムツォフらプーチン政権の反対派によって厳しく批判されている。
出自
1952年10月7日、レニングラードにて、父ウラジーミル・スピリドノヴィチ・プーチン(1911年 - 1999年)と母マリア・イワーノヴナ・シェロモーワ(1911年 - 1998年)とのあいだに生まれる。母は工場などで働いていた。父はソ連海軍に徴兵され、1930年代には潜水艦隊に配属となり、第二次世界大戦では内務人民委員部(NKVD)の破壊工作部隊に所属し、独ソ戦(大祖国戦争)で傷痍軍人となった。戦後は機械技師としてレニングラードの鉄道車両工場で働いた。2人の兄は、いずれもプーチンが生まれる前の1930年代に死亡(1人目は幼くして、2人目はレニングラード包囲戦のあいだにジフテリアで死亡)していたため、プーチンは一人っ子として育つ。プーチンの父方の祖父であるスピリドン・イワノヴィチ・プーチン(1879年 – 1965年)はプロの料理人であり、ヨシフ・スターリンのダーチャ(別荘)の1つにて給仕しており、それ以前はウラジーミル・レーニンに仕えていた。
プーチンは自伝で少年時代を振り返り、家庭環境はあまり裕福でなく、少年時代はレニングラードの共同アパートで過ごしたと語っている。1960年9月1日に共同アパートと同じ通りにある第193小学校に通い始める。小学生だったプーチンにドイツ語を教えていた教師によると、プーチンは母親似であるが、頑固で勤勉な性格は父親から受け継いでいたという。また、記憶力は抜群で頭の回転も速かったが、問題児で悪ふざけを繰り返していたと証言している。プーチン自身も後に幼少時代は相当な悪童であったと告白している。しかし6年生になると変化し、成績も上がり、ピオネール入団も許可された。この頃にはサンボと柔道も始めている。小学校卒業後、プーチンは化学の中等専門学校に入学した。
KGB時代
やがてプーチンは映画や小説からスパイに憧れを抱き、ソ連国家保安委員会(KGB)への就職を考えるようになる。14才の9年生(日本でいう中学3年生)の時に彼はKGB支部を訪問し、応対した職員にどうすればKGBに就職できるのか質問した。職員は少年の質問にきわめて真率に対応し、KGBは自ら志願してきた者を絶対に採用しないため、今後は自分からKGBにコンタクトしてはならないこと、大学の専攻は法学部が有利であること、言動や思想的な問題点があってはならないこと、スポーツの実績は対象者の選考で有利に働くことなどの現実的な助言を与えた。プーチン少年は以後そのアドバイスを忠実に守り、柔道に打ち込み、レニングラード大学では法学部を選択し、在学中も自分からはKGBに接触しなかった。そして大学4年生のときにKGBからのリクルートを受け、プーチンは1975年に同大学を卒業後、KGBへ就職する。KGBでの任務は、諜報・防諜・国内治安対策・思想統制のほか、国境警備隊による国境警備と通関業務、旅券発行および外国人の旅券紛失証明に関する事務手続きといった、一般にイメージされる諜報機関よりも業務は幅広い。法学部の需要があるとはいえ、必ずしも法学部優先とは限らない。また、情報工作員に関してはリクルートの段階から秘密裏に行っており、細部は不明であるということを付け加える。。
KGBでは、最初にレニングラード支部事務局、その後訓練を経て対諜報活動局に配属される。それからさらなる研修を受けた後、第1総局(対外諜報部)レニングラード支部に勤務する。そして外国で諜報活動を行うためにKGB赤旗大学で学び、1985年に東ドイツのドレスデンへと派遣される。東ドイツには1990年まで滞在し、政治関係の情報を集める諜報活動に従事したとプーチン自身は語っている。しかし東西ドイツ統一によりレニングラードに戻り、母校のレニングラード大学に学長補佐官として勤務することになった。このころに、大学生の頃に教わっていたアナトリー・サプチャークと懇意になる。
政界へ
1990年、プーチンはKGBに辞表を提出し、レニングラード市ソビエト議長だったサプチャークの国際関係担当顧問となった。1991年6月にサプチャークがレニングラード(同年11月にサンクトペテルブルクに名称を変更)市長に当選すると、対外関係委員会議長に就任する。その後、1992年にサプチャークによりサンクトペテルブルク市副市長、1994年3月にサンクトペテルブルク市第一副市長に任命された。サンクトペテルブルク市の職員としてプーチンは外国企業誘致を行い外国からの投資の促進に努めた。またサプチャークの下で陰の実力者として活躍したため、「灰色の枢機卿」と呼ばれた(ロシアでは、ゲンナジー・ブルブリスなど陰の実力者に対し、このようなあだ名が付けられることがある)。
1996年にサプチャークがサンクトペテルブルク市長選挙でウラジーミル・ヤコブレフに敗れて退陣すると、プーチンはそれに伴い第一副市長を辞職する。ヤコブレフによる慰留もあったが、結局はそれを拒否した。その後、ロシア大統領府総務局長のパーヴェル・ボロジンによる抜擢で(アナトリー・チュバイス説もある)ロシア大統領府総務局次長としてモスクワに異動した。プーチンはこの職に就任して法務とロシアの保有する海外資産の管理を担当した。1997年3月にはロシア大統領府副長官兼監督総局長に就任した。
1997年6月、プーチンはサンクトペテルブルク国立鉱山大学に「市場経済移行期における地域資源の戦略的計画」という論文を提出し、経済科学準博士の学位を得る。この論文の内容は、「豊富な資源を国家管理下におき、ロシアの内外政策に利用する」というものだった(この論文に関しては、2007年にアメリカの学者が盗作説を主張するも、その後立ち消えとなる)。
1998年5月にプーチンはロシア大統領府第一副長官に就任した。ここでは地方行政を担当し、地方の知事との連絡役を務めたが、後にプーチンはこの職務を「一番面白い仕事だった」と振り返っている。同年7月にはKGBの後身であるロシア連邦保安庁(FSB)の長官に就任。この時、ボリス・エリツィン大統領(当時)のマネーロンダリング疑惑を捜査していたユーリ・スクラトフ検事総長を女性スキャンダルで失脚させ、首相だったエフゲニー・プリマコフのエリツィン追い落としクーデターを未然に防いだ。この功績によりプーチンはエリツィンの信頼を得るようになる。
首相職(1999年)
プーチンはエリツィンによって1999年8月9日に第一副首相に任命された(同日セルゲイ・ステパーシンが首相を解任されたためそのまま首相代行に任命)。この時、エリツィンはプーチンを自身の後継者とすることを表明していた。さらに1週間後の8月16日には正式に首相に任命される。首相に就任するとロシア高層アパート連続爆破事件をきっかけにして勃発した第二次チェチェン紛争の制圧に辣腕をふるい、「強いリーダー」というイメージを高め国民の支持を獲得した。当時、次期大統領選のプーチンの有力な対抗馬として元首相のプリマコフがいたが、同年12月19日に行われたロシア下院選挙で、プーチンを支持する与党・「統一」の獲得議席数がプリマコフらによって結党された「祖国・全ロシア」の議席数を超えてロシア連邦共産党に次ぐ第二党となったことにより、プーチンは次期大統領の座にさらに近づいた(後にプリマコフは次期大統領選への出馬を断念した)。そして同年12月31日に健康上の理由で引退を宣言したエリツィンによって大統領代行に指名される。
大統領職
1期目(2000年~2004年)
大統領代行となったプーチンが最初に行ったのは、大統領経験者とその一族の生活を保障するという大統領令に署名することだった。これは、エリツィンに不逮捕・不起訴特権を与え、エリツィン一族による汚職やマネーロンダリングの追及をさせず、引退後のエリツィンの安全を確保するものである。
プーチンは2000年の大統領選挙で過半数の得票を受け決選投票なしで当選した。正式に大統領となったプーチンは「強いロシア」の再建を目標とした。まず、地方政府に中央政府の法体系と矛盾した法律を乱発されるなど、地方政府への制御が利かなくなっていたため、プーチンは中央政府の権限を強化する政策を打ち出す。2000年5月、ロシア全土85の地域を7つに分けた連邦管区を設置し、各地域の知事を大統領全権代表に監督させた。ほかに知事の上院議員兼務禁止、大統領への知事解任権付与などの政策を実行した。プーチンはこれらの政策により中央集権化を推進し、「垂直統治機構」と呼ばれるシステムを確立した。さらに、同年12月にソビエト連邦の国歌の歌詞を変えて新国歌に制定した。これはロシア国民に「強かった時代のロシア(ソ連)」を呼び起こすためだとする意見がある。このような強い指導力は反対派からは「強硬である」と批判されたが、ロシア国民の支持を受けた。
1998年のロシア金融危機で打撃を受けた経済が回復し成長を続けたことも、多くのロシア国民がプーチンを支持する一因となった。経済成長は原油価格の上昇によるところが大きいが、プーチン政権下でさまざまな経済改革が行われたことも理由として挙げられる。所得税率を3段階による課税から一律13%のフラット・タックス制に改革したり、法人税や付加価値税(消費税)を引き下げたりするなどの税制改革は、税負担の軽減により、横行していた脱税を減少させ、国家財政再建に寄与した。また、これらの税制改革や土地売買の自由化など法制度の整備によって外国からの投資を呼び込み、ロシア経済が活性化した。
財閥との対決
エリツィン時代はエリツィンと側近および支持基盤の新興財閥「オリガルヒ」の時代であった。エゴール・ガイダル、アナトリー・チュバイスの急進的資本主義化は、急激な価格自由化がハイパーインフレを招き、年金生活者を中心に民衆が大打撃を受けたり、金融危機を招くなどロシア経済の混乱と国民の経済格差拡大を招いた。このような状況の中で台頭したのは国有財産であった企業を資本主義化の過程において廉価で手に入れたオリガルヒである。オリガルヒは莫大な資産を所有した上、国有財産を私物化するようになり、エリツィン政権との癒着によって政治的影響力を強めていった。こうした癒着は腐敗を生み、オリガルヒの納税回避により国家財政は危機に陥り軍の弱体化や金融危機の原因となった国債乱発を引き起こした。
しかしエリツィンに首相として引立てられたKGB出身のプーチンが大統領になると、プーチンは警察・軍出身者のシロヴィキを登用しオリガルヒと対決した。オリガルヒは所有するメディアでプーチンを攻撃したが、プーチンは脱税・横領などの捜査でウラジーミル・グシンスキーやミハイル・ホドルコフスキーといったオリガルヒを逮捕して制圧。恭順を誓った企業と和解し、恭順企業にメディアを支配させた。プーチンは企業の政治介入を排除し、恭順を誓ったオリガルヒに納税させ国家財政と崩壊寸前だったロシア軍を再建した。そして右派連合等オリガルヒ系政党を少数派に追いやり、与党・統一ロシア(前述の「統一」と「祖国・全ロシア」が合併して結成)に支持され権力を確立した。プーチン政権当初に首相を務めたミハイル・カシヤノフなど、プーチン政権内のオリガルヒと密接な関係にあるとされた政治家も遠ざけ、代わってシロヴィキやプーチンと同郷のサンクトペテルブルク出身者(サンクト派)を重用した。
2期目(2004年~2008年)
プーチンは2期目となる2004年の大統領選挙に70%以上の圧倒的な得票率で再選した。再選後、同年9月にベスラン学校占拠事件が発生したことから、ロシアの国家統一の必要性を理由として、地方の知事を直接選挙から大統領による任命制に改め、より一層の中央集権化を進め、大統領権限を強化した。
ロシア経済は原油価格の高騰に伴い2期目も実質GDP成長率で年6~8%台の成長(2004年 – 2007年)を続けた。ただしその多くがエネルギー資源に依存していたため、その経済構造を是正し、より一層の経済発展を達成することを目的として、プーチンは2005年7月に製造業とハイテク産業の拠点とするための経済特区を設置する連邦法に署名した。それによって同年12月に6箇所の経済特区が設けられた。
また、ロシア政府は2005年に国際通貨基金(IMF)からの債務、2006年にパリクラブからの債務を完済し、ロシア経済は安定して国際的な信用を取り戻した。この対外債務返済に大きく貢献したのが2004年に創設した政府系ファンドの「安定化基金」である。この基金は原油価格下落のリスクに備えるのを目的とし、原油の輸出関税と採掘税の税収を原油価格の高いときに基金に繰り入れ、資金を積み立てる構造になっていたが、この基金を利用することにより対外債務が返済された。その後2008年に安定化基金は原資となる税収に天然ガスと石油製品の輸出関税と天然ガスの採掘税を追加した上で「準備基金」と「国民福祉基金」に分割された。前者は従来のように原油価格下落時の対応を目的とし、後者は年金支払いの補充など国民福祉向上のために使われることを目的としている。
それでも依然として多くのロシア国民(2009年の時点で6人にひとりとも)が最低生活水準を下回る生活をしていることや、死亡率の高さにより人口が減少傾向にあることを憂慮し、2005年10月に「優先的国家プロジェクト」を大統領令によって立ち上げた。これは保健・教育・住宅建設・農業の4分野で改革を行って社会基盤を整備し、生活水準向上を目指す計画である。具体的には、このプロジェクトに沿って、保健分野では子育て支援や医師と看護師の給料増額など、教育分野では新大学の設立や奨学金制度の確立など、住宅分野では住宅ローンの規模拡大や住宅建設への融資など、農業分野では若い農業専門家に対する住宅の保障などが計画された。このプロジェクトを推進するため、大統領府長官のドミトリー・メドヴェージェフを同年11月に第一副首相に任命した。
しかしプーチン政権の2期目は、経済成長の達成の裏で、その政治手法が強権的・独裁的だとして欧米諸国から強い非難を浴びることになる。オリガルヒが逮捕・投獄された後にオリガルヒが所有していた天然資源会社を政府の強い影響下に置いたことは大きな波紋を呼んだ。前述のように、2003年にユコス社の社長ミハイル・ホドルコフスキーが逮捕された後、ユコス社は脱税による追徴課税が祟って2006年8月1日に破産に追い込まれ、2007年5月3日に資産が競売により国営企業のロスネフチに落札された。だがこのような手法は、オリガルヒに膨大な富が集中したことに対して不満を持っていたロシア国民から支持を受けている。
また、プーチン政権を批判していた人物が次々と不審な死を遂げ、ロシア政府による暗殺説が浮上したことも、欧米諸国にマイナスイメージを持たれる一因になった。2006年10月、反プーチンのロシア人女性ジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤが、自宅アパート内にてルスタム・マフムドフによって射殺された。この事件にはロシア政府による何らかの関与があったとする見方がある。一方、プーチンはこの事件を「恐ろしく残酷な犯罪」としたうえで、「犯人が罰せられないことがあってはならない」と述べた。なお、この事件は2008年6月に容疑者4人が起訴され、捜査の終了が発表された。この事件のほか、プーチンを批判してイギリスに亡命し写真が公開されたKGB・FSBの元職員アレクサンドル・リトビネンコが2006年11月に死亡している。死亡原因として、「多量の放射能物質ポロニウムを食事などに混合されて摂取したため」とイギリス警察が発表し、トニー・ブレア首相(当時)がロシア政府に対し協議したいと要望した。FSBによる暗殺だとする説も浮上した。イギリス政府内では、ロシア政府による暗殺との見方が強い。イギリス警察当局は、この事件で主犯とされる旧KGB元職員アンドレイ・ルゴボイ容疑者と実業家のドミトリー・コフトゥン容疑者の身柄引き渡しをロシア政府に求めた。ロシア側はこれに対し身柄引き渡しを拒否した。さらに、2007年6月21日にはイギリスに亡命したオリガルヒであるボリス・ベレゾフスキーへの暗殺計画が発覚し、その容疑者がロシアに強制送還される事件が起こっている。
ロシアの大統領は連続3選が憲法により禁止されているため、大統領退任後の去就が注目されていたが、2007年10月に開かれた与党・統一ロシアの第8回党大会で、大統領退任後は首相に就任して政界にとどまることに意欲を示した。 同年12月2日に行われたロシア下院選挙では統一ロシアの比例代表名簿第1位に記載され、同党の選挙大勝につながった。12月10日には後継として第一副首相のメドヴェージェフを指名し、2008年の大統領選挙で支持することを表明。2008年2月8日には「2020年までの発展戦略」を発表し、大統領退任後も政界にとどまる姿勢を見せた。この中でプーチンはエネルギー資源依存型経済からイノベーション主導型経済への移行と、そのための人的資本蓄積を教育改革と福祉の充実によって達成する必要性を説いている。同年3月、大統領選挙でプーチンが支持したメドヴェージェフが70%以上の得票を集め大勝した。同年4月15日の第9回統一ロシア党大会でプーチンは同党の党首に就任することを受諾した。
首相職(2008年~現在)
2008年5月7日に大統領を退任したが、新しく大統領となったメドヴェージェフによって首相に指名され、翌日連邦議会下院で承認された。承認の前に下院で行った演説では、年金・最低賃金の引き上げや免税、インフレ率の抑制に努め、ロシアが世界有数の国際金融センターになることを目標にすると発言し、近い将来にロシアがイギリスを凌ぐ経済大国になると予測した。
首相就任によりメドヴェージェフとのタンデム体制となったが、プーチンは大統領を退いた後も事実上最高権力者として影響力を行使していると見られる。5月15日には、首相が議長となる「政府幹部会」を設置した。この会には副首相だけでなく大統領が管轄する外相や国防相も参加し、事実上の最高意思決定機関となる。また2000年に制定していた連邦管区大統領全権代表は代表権を失って首相のコンサルタント的な地位になり、さらに大統領による任命制に改められていた地方の知事を国家公務員にして首相の管轄下に置いた。
2008年11月5日に大統領のメドヴェージェフが年次報告演説を行い、その中で大統領の任期を4年から6年に延長することを提案したため、プーチンの大統領復帰説が流れ始めた。同年11月20日の第10回統一ロシア党大会では世界金融危機の対応に積極的な姿勢を見せ、外貨準備や前述の「準備基金」と「国民福祉基金」を利用して景気対策を行うことを提言した。また、「準備基金」からIMFに10億ドル(約950億円)を拠出する意向を示した。このような積極的な姿勢も、プーチンの大統領復帰説を強くする一因となった。プーチンは自身の大統領復帰説に対し、同年12月4日に行われた市民とのタウンミーティングにおいて、「2012年になれば分かる」として明言はしなかった。翌2009年には2012年の次期大統領選挙について出馬する最も強く示唆する発言を行い、経済危機にも関わらず、有権者の間ではプーチン首相の人気は絶大で政界に君臨し続けている。次期大統領の任期は6年となったため、2012年に就任すれば2024年まで就任が可能となる。
2010年1月30日、カリーニングラードにて、10,000人の市民が抗議集会を行った。 彼らは、「プーチンと彼の政府は違法行為と虚偽で出来ている」と主張した。この抗議には様々な団体が参加しており(多くの団体の旗が掲げられた)、「連帯」、「ヤブロコ」、「ロシア連邦共産党」、「ロシア自由民主党」などが抗議に参加した。
2010年12月17日、プーチンは2015年までにロシア政府が使用するコンピュータのソフトウェア(OSを含む)を、フリーソフトウェアに置換するよう命じた。コンピュータのソフトウェアをアメリカの企業であるマイクロソフトに依存している現状からの脱却を目指すものであるとされている。
2011年9月24日、モスクワで開催された統一ロシアの党大会で2012年大統領選挙に立候補を表明した。
政治姿勢
内政
プーチンはソビエト連邦時代の「強いロシア」の再建を標榜しており、ロシアの伝統的政治手法として、国民の愛国心に訴え、政府に対する求心力を強化しようとする政治家として知られる。そのため、ロシア各地でネオナチと呼ばれる極右勢力の増大を招き、モスクワの市場ではアジア系商人を襲撃する事件が頻発するなど、極右勢力を増長させる原因を作ったとの批判もある。
他方、宗教を徹底的に弾圧したソ連時代とは一線を画し、ロシア正教会を保護してもいる。2007年のロシア正教会と在外ロシア正教会の和解を斡旋し、和解の聖体礼儀に出席もしてスピーチを行った。イスラームに対してはロシア正教会ほどに結び付きはなく、チェチェンではイスラム原理主義武装勢力との対決姿勢を鮮明にしてもいるが、タタールスタンのカザン・クレムリンにおいて巨大なモスクも再建したシャイミーエフのような穏健的な存在とは協力関係を築くなど、硬軟織り交ぜた対応がみられる。
プーチン政権は独裁色が強いとロシア国外のメディアで報じられることがある。ロシア情報公開擁護財団によると、ロシアでは1999年から2006年までに128人のジャーナリストが死亡・もしくは行方不明となっており、プーチン政権がこれらの事件に関わっているのではないかとの疑惑が浮上している(この点に関してゴルバチョフは、ロシアではジャーナリストが不審な死を遂げる事件がエリツィン政権時代から頻発しており、いずれも真相が明らかにされていないため、政権の関与が疑われてしまうと発言している)。この件に関しては、国際社会でもチェチェン勢力への人権侵害と相まって非難されている。また、その圧倒的な支持を背景に自身の強いリーダーシップをもって中央集権化を推進するプーチンの姿勢は権威主義的であると言われ、「ツァーリ」と呼ばれることもある。しかし、TIME誌に「自由より先に秩序を選択した」とあるように、エリツィン政権で治安が悪化し経済も崩壊したロシア社会に強力な指導力で秩序と安定をもたらしたという見方もできる。プーチン自身は「法の独裁」という言葉を用いて、自らの立場をよく説明する。
外交
アメリカ合衆国・ヨーロッパ
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以来、プーチンはテロとの戦いにおいてアメリカとの協調姿勢を見せた。同時多発テロ後にアメリカ軍がアフガニスタンに侵攻を行う際には、ロシア国内の保守派からの反発があったにもかかわらず、かつてソビエト連邦を構成していた中央アジア諸国にアメリカ軍を駐留させることを認めるなど、アメリカ軍への支援を行った。アメリカとの協調路線を選んだのは、ロシアもチェチェン勢力によるテロに悩ませられていたため、アメリカと協調して国際的なテロ包囲網を構築することでチェチェン勢力のテロ攻撃を封じ込もうとしたからであった。
しかし次第にプーチンはアメリカの一極支配に抵抗する構えを見せるようになる。2003年に勃発したイラク戦争においてロシアは戦争に反対してアメリカと距離をおき、同じく戦争慎重派のフランス・ドイツとの連携を強化した。2007年2月にドイツのミュンヘンで行われた「ミュンヘン国防政策国際会議」では、アメリカの一極支配体制は受け入れられないだけでなく、その行動は紛争の解決手段にならず、むしろ人道的な悲劇や新たな緊張が生じる原因となっているとして、アメリカの一極支配体制を批判した。
アメリカが東ヨーロッパ諸国と接近して影響力を高めようとする行動には警戒感を示し、「アメリカにとっても東ヨーロッパ諸国にとっても良いことではない」と発言している。特に、アメリカが「イランと北朝鮮への対抗」としてチェコとポーランドにミサイル防衛(MD)システム配備を計画していることに対しては、このシステムが対ロシア用だという疑念を持ち、強い反発を示した。プーチンはこの代替案としてアゼルバイジャンにあるロシアのレーダー施設の共同使用や、トルコやイラクへの配備を促したが、結局アメリカはチェコと2008年7月に、ポーランドと同年8月にMDシステム配備協定に調印した。
北大西洋条約機構(NATO)の東方拡大(東欧諸国と旧ソ連諸国に加盟国を拡大)については強く反発している。そのためプーチンは2007年4月の年次教書演説で、ヨーロッパ各国による通常兵器の配備の上限を定めたヨーロッパ通常戦力条約をNATO諸国が批准していないことを理由に、同条約の履行を停止することを表明した。そしてプーチンは同年7月に履行停止の大統領令に署名し、上下院で採択された履行停止法案に同年11月署名した。2008年4月のNATO首脳との会談では欧米諸国が妥協した場合は再び同条約を履行する意思を示したが、NATOの東方拡大に対しては「ロシアにとっての直接的な脅威」だとして反対の姿勢を崩さなかった。
ロシアにとって欧州連合(EU)諸国は最大の貿易相手である。その中でプーチンはドイツ首相だったゲアハルト・シュレーダーとの個人的な友好関係からドイツと緊密な関係を築いた。ドイツ首相がアンゲラ・メルケルと交代しても、ドイツとは「戦略的パートナーシップ」を維持している。しかしEU諸国とはコソボの地位問題等で意見の相違も見られる。アメリカとともにEU諸国が支持したコソボ独立には、セルビアに同調して独立に反対し、「コソボはセルビアの一部」だという立場を取っている。プーチンは、EU諸国やアメリカによるコソボ独立の承認について、長期間にわたって構築されてきた国際関係を崩壊に追い込む「恐ろしい前例」になると発言した。
旧ソ連諸国
旧ソビエト連邦の構成国だったグルジアで2003年にバラ革命、同じく構成国だったウクライナで2004年にオレンジ革命が発生し、以降両国がロシアよりもアメリカとの関係を重視するようになると、両国に対してプーチンは強硬な手段で臨むこともあった。ウクライナには、2006年1月に天然ガス価格を引上げを表明し、これを拒否したウクライナへの流量を減らすなどの強硬手段をとってロシア・ウクライナガス紛争を引き起こした。グルジアには、2008年8月7日にグルジアが同国自治州の南オセチアに侵攻したことに対し、南オセチアの独立を支持する立場から「報復」を宣言し、翌8月8日、ロシア軍を派遣して南オセチアに軍事介入を行った。グルジアの侵攻の原因については同年8月28日に米テレビ局CNNとのインタビューで「2008年の大統領選で共和党候補者のジョン・マケインを優位にするためにブッシュ政権がわざと起こしたものだ」として、アメリカのブッシュ政権を厳しく非難している。
アジア太平洋
日本の北方領土返還要求に対しては、北方領土問題を解決して日露平和条約を締結することに意欲的な姿勢を示しているが、基本的に日ソ共同宣言を根拠に二島返還の立場を取っている。2001年には日本の首相(当時)の森喜朗とともに「イルクーツク声明」を出し、同宣言が北方領土返還交渉の出発点であることを確認した。しかし2005年の来日時前のロシア国内向けテレビ番組に出演した際には「北方領土の主権が現在ロシアにあることは国際法で確立され、第二次世界大戦の結果であるので、この点については交渉するつもりはない」と発言し、強硬な態度を示している。なお、来日時には日ソ共同宣言に基づき、二島を返還することで日本側を説得しようとした。その後も北方領土問題の解決と平和条約締結に意欲を見せるものの、問題が解決に至らないのは日ソ共同宣言を履行しない日本側の責任であるとしている。
戦略的には投資誘致や天然資源の輸出先として日本市場を重視し、2005年の来日時には100人以上の財界人を引き連れて日本側に投資の促進を訴えた。また自衛隊とロシア連邦軍の救難訓練も毎年行われるようになった。しかしアメリカへの対抗上中華人民共和国との提携をより重視した。2005年には上海協力機構に加盟し、中国人民解放軍と合同で軍事演習を行うなど関係強化も図っている。中露国境問題も中華人民共和国に譲歩する形で解決した。またシベリアのガスパイプライン建設でも日本ルートと中華人民共和国ルートの駆け引きが続いていたが、この問題も結局、日本向けのパイプラインの着工の目処が立たないまま、「中国支線」と呼ばれるスコボロジノ・大慶間のパイプラインが先に建設されることが決定された。一方で、こうした親中的な外交政策にも関わらず、中国共産党の認識である「一つの中国」に反するような、台湾を国家として認める発言が報じられもした。
安全保障
就任直後からチェチェン人の武装集団によってロシアの主要都市へテロが頻発すると、これを口実にチェチェンへの武力侵攻を強化した。ロシア軍はチェチェン各地で殺戮・強姦などの人権侵害を行い、これが更なるテロを誘発する原因となった。2002年のモスクワ劇場占拠事件では、立て籠もるテロリストを鎮圧するために有毒ガスの使用を許可した。その結果テロは鎮圧されたが、人質の市民も巻き添えとなり、100名を超える市民が死亡する惨事となってしまった。2006年に首謀者であるシャミル・バサエフをロシア特務機関が殺害してからチェチェン情勢は一応の安定を見せているものの、今でもチェチェン独立派の犯行と見られる小規模なテロが頻発している。
このように独立派に対しては武力を以って制する一方、第二次チェチェン紛争時にはイスラム原理主義の浸透に反感を抱くアフマド・カディロフ等の帰順に成功し、彼らの不正規部隊をロシア連邦軍や内務省の指揮下にあるロシア国内軍などの正規軍に編入している[3]。2007年1月まで投降者には刑事訴追の免除等の恩赦が約束されていた。また有力者には行政府の地位やロスネフチの子会社であるグロズネフチを通して利権が振舞われており、「アメとムチ」を使い分けていると言える。
2007年8月に、1992年以来中断してきた長距離戦略爆撃機によるロシア国外への常時警戒飛行をロシアが再開していたことを初めてプーチン自身が公式に上海協力機構の軍事演習会場チェリャビンスク(Chelyabinsk)で発言することにより明らかになった。 これは、同年8月17日イギリス空軍所属のユーロファイター タイフーンがロシアの長距離爆撃機を北大西洋上で捕捉したことと符合する。
人物
その経歴から、「冷酷な性格」や「粗野」という批評を受けることが多いが、ロシア国内ではメディアを通じて非常に紳士的な姿勢をアピールしており、ロシア国民からの人気もきわめて高い。しかし日本では「冷酷な紳士」で、尚且つ「有能な元工作員」と言う、スパイ映画などにおける定番のKGB職員のイメージで見られることが多い。
人物像
サンクトペテルブルク市の職員時代にともに働いていたサプチャークやドミトリー・コザクによれば、プーチンは礼儀正しく、遠慮深く、落ち着いた人物であったという。また、権力欲がなく、地位よりも仕事を重視し、仕事一筋に生きるタイプであると見られていた。
カメラの前では無表情を振舞っているが、実は取り留めないほどの冗談好きである。諜報員時代の上司から「お前は冷静すぎる」と言われたことがあるのだが、この逸話もプーチン自身にかかると「本当は『お前のようなおしゃべりはシュピオン(スパイ)には向かない』と言われたんです」になってしまう。
KGB時代、東ドイツに派遣されたためドイツ語に堪能であることはよく知られているが、大統領任期期間中に英語の勉強を本格的に始めており、現在では各国首脳とも英語で会話している光景が見られる。2007年の国際オリンピック委員会の総会でも、ソチオリンピック誘致のために英語でスピーチを披露した。
エリツィンに抜擢されたのでエリツィン派だったと思われているが、むしろ政治家としてはゴルバチョフに敬意を表している。しかし、ゴルバチョフに師事したことはなく、サプチャークからの間接的な影響だと思われる。サンクトペテルブルク時代に仕えた市長(当時)のサプチャークは、プーチンが学生時代に指導をうけた恩師でもあり、生涯の尊敬と忠誠を捧げている。
歴史上の人物で尊敬するのはピョートル1世とエカテリーナ2世。また、外国の政治家で興味があるのはナポレオン・ボナパルト、シャルル・ド・ゴール、ルートヴィヒ・エアハルトであるという。
家族
家族は妻と2人の娘がいる。妻のリュドミラ・プーチナは元客室乗務員で、その後レニングラード大学で文献学を専攻する学生となり、1983年7月28日にプーチンと結婚。1985年に長女マリーヤ、1986年にはドレスデンで次女カテリーナが生まれている。ロシア大衆紙『モスコフスキー・コムソモーレツ』(電子版2005年8月4日)によると、2人は姉妹そろって父と母の母校であるサンクトペテルブルク大学(旧レニングラード大学)に合格し、マリーヤは生物土壌学、カテリーナは日本史を専攻することになると報じた。また、マリーヤは2005年3月ギリシャで結婚式を挙げた。結婚相手は明らかにされていない。
私生活
釣りを趣味とし、競馬のファンでもある。煙草は吸わず、酒もほとんど飲まない。また、犬好きで、自身もラブラドール・レトリーバーを飼っている。その愛犬は「コニー」という名前であり、徹夜でお産の世話をしたこともある。愛犬家だということもあってか、2003年5月の日露首脳会談では、当時の首相であった小泉純一郎から犬語翻訳機「バウリンガル」を贈られている。2008年10月には副首相のセルゲイ・イワノフからコニー用にロシアの衛星測位システムであるGLONASS(グロナス)の受信機がついた首輪を贈られ、コニーにその首輪が装着された。
格闘技
11歳の頃より柔道とサンボをたしなみ、大学在学中にサンボの全ロシア大学選手権に優勝、1976年には柔道のレニングラード市大会でも優勝した。政治家には珍しい逞しい肉体や戦闘技術を保有していることから、インターネット上では一部でカルト的な人気を博しており、自国ロシアのメディアも2008年8月31日に「研究者らによる野生のトラの監視方法を視察するため国立公園を訪問していた際、カメラマンに向かって走ってきたトラにプーチンが麻酔銃を撃ってカメラマンを救出した」などと報じるほど、ことさら超人的なイメージが前面に打ち出されている。なお、プーチンの身長は168cmとの事。
柔道について「柔道は単なるスポーツではない。柔道は哲学だ」と語っている。また、少年時代は喧嘩ばかりしている不良少年だったが、柔道と出会ってその生活態度が改まったと述懐している。大統領になってからも、大統領以前に書いた『Учимся дзюдо с Владимиром Путиным (プーチンと学ぶ柔道)』という本を出版しており、その中で嘉納治五郎、山下泰裕、姿三四郎を柔道家として尊敬していると記している。得意技は払腰。
2000年7月の九州・沖縄サミットでは沖縄県具志川市(現・うるま市)を訪問し、柔道の練習に飛び入り参加。掛かり稽古(お互いが交互に投げる練習形式)を行い、相手の中学生を投げたあとに、今度は同じ相手に投げられるというパフォーマンスを披露した。中学生は大統領相手にためらったが、プーチンに促されて投げたという。投げられるプーチンの姿は印象的で、その写真や映像は世界中に報道された。警備員やSPは稽古とはいえ大統領が投げさせるとは考えられなかったようで、非常に驚いたという。
2000年9月の来日時には、講道館で技の型を首相の森喜朗(当時)に演武した。またこの際に講道館より柔道六段の名誉段位贈呈を提示されたが「私は柔道家ですから、六段の帯がもつ重みをよく知っています。ロシアに帰って研鑽を積み、一日も早くこの帯が締められるよう励みたいと思います」と述べて丁重に辞退した。
名前
プーチンは元KGB情報部員であり、その過去についても不明な点が多く、首相就任時には影の薄かった彼が大統領に就任した時は、その謎に包まれた経歴から帝政ロシア末期の怪僧「ラスプーチン」に引っかけられ、「ラス・プーチン」と揶揄されたことがある。ただし、プーチンという姓はロシア語で道を意味するプーチ (Путь, Put') を思わせ、ラスプーチンのラス (Рас, Ras) は(さまざまな意味があるがその1つとして)「逆」という意味があるため、ロシア人のあいだでは、プーチンは「道」、ラスプーチンは「道がない」という逆の意味だと、好意的に捉える者もいる。また、天然ガスなどの資源外交を行うことから、同じくラスプーチンと引っ掛けて「ガスプーチン」と揶揄されたこともある。
暗殺未遂
プーチンに対しては、明らかになっているだけで過去4度暗殺が試みられたが、いずれも未然に阻止されている。
- 2000年2月24日 - サンクトペテルブルクでのアナトリー・サプチャークの葬式時。ロシア連邦警護庁(FSO)によれば、チェチェン独立派が背後に立つ某組織が計画した。「標準より際立った保安措置」により計画は阻止された。
- 2000年8月18日~19日 - ヤルタでの非公式のCISサミット時。国外より情報がもたらされ、チェチェン人4人とアラブ人数人が拘束された。
- 2002年1月9日~10日 - アゼルバイジャン、バクーの公式訪問時。アゼルバイジャン国家保安省により阻止。アフガニスタンで訓練を受け、チェチェン独立派と関係を有するイラク人、キャナン・ロスタムが逮捕され、懲役10年を言い渡された。
- 2008年3月2日 - モスクワでのロシア大統領選当日。ロシア連邦保安庁(FSB)が察知し、直前に阻止した。現場からはライフル銃やカラシニコフ銃などが発見され、タジク人1名が逮捕された。
発言一覧
- 「テロリストは便所に追い詰めて肥溜めにぶち込んでやる」(1999年、チェチェン武装勢力に関して)
- 「たとえ便所に隠れていても息の根を止めてやる」(さらに別の場面で)
- 「ソ連が恋しくない者には心(心臓)がない。ソ連に戻りたい者には脳がない」(2000年)
- 「日本は、不倫や近親相姦を題材とした小説を紙幣に印刷して流通させるほど社会が堕落したのか」(2000年7月、九州・沖縄サミットで日本の首相の森喜朗が二千円紙幣を各国首脳に配布した時に)
- 「あれは沈んだ」(2000年9月、ロシアの原子力潜水艦クルスクが沈み、乗員118人が死亡した事件について)
- 「我々の敵はテロリストでなく、ジャーナリストだ」(2001年5月)
- 「もしあなたがイスラム過激派になりたくて割礼が必要ならモスクワに招待する」 (2002年11月、「チェチェン住民を抹殺しようというのか」というフランス記者の質問に対して)
- 「(地球温暖化のおかげで)毛皮のコートを買う金も節約できる」(2003年9月、気候変動会議の開幕式で)
- 「国歌演奏中は行儀良くするように。歌詞を知らないなら、せめてガムを噛むなと選手に伝えて欲しい」(2004年6月、サッカー欧州選手権・ロシア対スペイン戦開始前の国歌斉唱で)
- 「謝罪は1回すれば十分だ」(2005年5月、第二次世界大戦の際にソ連とドイツが密約を交わしソ連のバルト三国併合を取り決めたことに対して)
- 「バルト三国はロシアの小銭」(2005年5月、ソ連によるバルト三国支配への批判に対して)
- 「(金正日は)国をよい方向に変化させたいと望んでいる」(2005年5月)
- 「我々が戦っている相手は残酷な連中、人間に化けた獣だ」 (2005年11月、チェチェン武装勢力に関して)
- 「かわいくてついやってしまった」(2006年7月、クレムリン宮殿の中庭で少年のシャツをめくって腹にキスするというスキャンダルを起こす。後にこう釈明)
- 「10人をレイプした強い男性でうらやましい」(2006年10月、イスラエルの大統領モシェ・カツァブに関して。記者会見後、冗談のつもりで大統領府職員に語ったところ、偶然マイクの電源が切られておらず、声を拾われてしまう。後に報道官が釈明)
- 「引き渡しを憲法で禁じているのなら改正しろと英国は言う。これは植民地主義的な考え方だ。英国の連中は脳を入れ替える必要がある」(2007年7月、リトビネンコ毒殺事件の容疑者引き渡し要求に反論して)
- 「EUは恥を知れ!国際社会のルールに反する勝手は許されない」(2008年2月、コソボ独立に強く反対して)
- 「中世のように、汚職する公務員は手を切り落としてしまえばいい」(2008年3月、ロシア国内の汚職の横行に関して)
- 「医者を送り込んで始末しなければならない」(2008年7月、ロシアの石炭大手企業であるメチェル社によるダンピングと脱税疑惑に関して)
- 「睾丸を縛ってつるし上げてやる」(2008年8月、南オセチア紛争の際、グルジアの大統領ミヘイル・サアカシュヴィリへ向けて)
- 「フセインより重罪だ」(2008年12月、南オセチア紛争におけるサアカシュヴィリについて、グルジアによるロシア軍への先制攻撃や一般のオセット人の虐殺を理由に)
- 「どんな難しい問題でも友人同士の間では解決できると確信する」。
- 「君たちは自らの野心や未熟さ、強欲で数千人の住民を人質に取った。私が来る前にゴキブリのように走り回りながら、なぜだれも問題を解決できないのだ」(2009年6月4日、労働争議が起きていた工場を訪れた際、工場所有者である新興財閥のオレグ・デリパスカらに対して)
- 「まだ地上でやるべきことが多くある」(2009年8月1日、バイカル湖の水深約1400メートルの湖底を、有人潜水艇の中から視察した後、報道陣に「次は宇宙旅行ですか」と聞かれた際に返した言葉)
- 「テロリストは抹殺される」 (2010年 3月29日、モスクワでの連続テロに対してビデオ会議にて)
- 「裏切り者はろくな死に方をしない。たいていは酒かクスリにおぼれてのたれ死にする」(2010年7月24日、米露のスパイ交換で諜報員達と面会した際)
年譜
- 1952年 - レニングラード(サンクトペテルブルク)に生まれる。
- 1975年 - レニングラード大学法学部を卒業し、ソ連国家保安委員会(KGB)に勤務。KGBレニングラード局第1課(人事課)に配属。
- 1984年 - KGB赤旗大学に入校。
- 1985年 - 東ドイツに派遣。ドレスデンのソ独友好会館館長をカバーとして、ソ連人学生を監督。
- 1990年 - 故郷レニングラードに戻り、国際問題担当レニングラード大学学長補佐官。
- 1991年12月 - サンクトペテルブルク市対外関係委員会議長。
- 1992年 - 中佐の階級で予備役編入。サンクトペテルブルク市副市長。
- 1994年3月 - サンクトペテルブルク市第一副市長。
- 1996年6月 - ロシア大統領府総務局次長に就任し、中央政界に転じる。
- 1997年3月 - ロシア大統領府監督総局長。
- 1998年5月 - ロシア大統領府第一副長官。
- 1998年7月 - ロシア連邦保安庁(FSB)長官。
- 1999年3月 - FSB長官とロシア連邦安全保障会議書記を兼任。
- 1999年8月9日 - エリツィン大統領により第一副首相に指名される(同日、ステパーシン首相が退陣したため、そのまま首相代行)。8月16日、首相。
- 1999年12月31日 - 引退を宣言したエリツィンにより大統領代行に指名。
- 2000年3月26日 - 過半数の得票を受け大統領に当選。
- 2004年2月24日 - ミハイル・カシヤノフ内閣を総辞職させる。
- 2004年3月5日 - ミハイル・フラトコフを新首相に指名。
- 2004年3月14日 - 大統領に再選。
- 2005年12月 - ヨーロッパ柔道連盟名誉会長に就任。
- 2007年9月12日 - 内閣を総辞職させヴィクトル・ズブコフを新首相に指名。
- 2008年4月 - ルードヴィ・ノーベル賞を受賞。
- 5月7日 - 大統領を退任。同日統一ロシア党首、翌日首相に就任。
著書
- ウラジミール・プーチン、ワシーリー・シェスタコフ、アレクセイ・レヴィツキー(共著) 『Учимся дзюдо с Владимиром Путиным (プーチンと学ぶ柔道)』 ОЛМА-ПРЕСС(オルマ・プレス)、2002年1月 ISBN 522403325X (ロシア語の著書。ラテン文字転写の例;Uchimsia Dziudo S Vladimirom Putinym)[4]。
- ※1.英訳では『JUDO』というタイトルで出版されている(North Atlantic Books、2003年2月 ISBN 1556434456)。
- ※2.邦訳では原著を編集、抜粋して『プーチンと柔道の心』という題名で出版されている(朝日新聞出版、2009年5月 ISBN 4022505931)[5]。
関連文献
- 中澤孝之 『エリツィンからプーチンへ』 東洋書店、2000年7月 ISBN 4885952972
- 西村拓也 『過去を消した男プーチンの正体』 小学館、2000年7月 ISBN 4094046119
- ナタリア・ゲヴォルクヤン、アンドレイ・コレスニコフ、ナタリア・チマコワ(共著) 『プーチン、自らを語る』 扶桑社、2000年8月 ISBN 4594029604
- ロイ・メドヴェージェフ 『プーチンの謎』 現代思潮新社、2000年8月 ISBN 4329004135
- 梅津和郎 『プーチンのロシア その産業と貿易』 晃洋書房、2000年9月 ISBN 4771011982
- 袴田茂樹 『プーチンのロシア 法独裁への道』 NTT出版、2000年10月 ISBN 4757120516
- 木村汎 『プーチン主義とは何か』 角川書店、2000年12月 ISBN 404704010X
- 上野俊彦 『ポスト共産主義ロシアの政治 エリツィンからプーチンへ』 日本国際問題研究所、2001年7月 ISBN 4819303864
- 木村明生 『ロシア同時代史権力のドラマ ゴルバチョフからプーチンへ』 朝日新聞社、2002年2月 ISBN 402259795X
- 永綱憲悟 『大統領プーチンと現代ロシア政治』 東洋書店、2002年3月、ISBN 4885953804
- 徳永晴美 『ロシア・CIS南部の動乱 岐路に立つプーチン政権の試練』 清水弘文堂書房、2003年3月 ISBN 4879505617
- 木村汎、佐瀬昌盛(共編) 『プーチンの変貌? 9・11以後のロシア』 勉誠出版、2003年5月 ISBN 458505085X
- 山内聡彦 『ドキュメント・プーチンのロシア』 日本放送出版協会、2003年8月 ISBN 4140808098
- 池田元博 『プーチン』 新潮社<新潮新書>、2004年2月 ISBN 4106100541
- 小林和男 『白兎で知るロシア ゴルバチョフからプーチンまで』 かまくら春秋社、2004年3月 ISBN 4774002577
- 江頭寛 『プーチンの帝国 ロシアは何を狙っているのか』 草思社、2004年6月 ISBN 4794213166
- 中村逸郎 『帝政民主主義国家ロシア プーチンの時代』 岩波書店、2005年4月 ISBN 4000240137
- アンナ・ポリトコフスカヤ 『プーチニズム 報道されないロシアの現実』 日本放送出版協会、2005年6月 ISBN 4140810548
- エレーヌ・ブラン 『KGB帝国 ロシア・プーチン政権の闇』 創元社、2006年2月 ISBN 4422202634
- 加藤志津子 『市場経済移行期のロシア企業 ゴルバチョフ、エリツィン、プーチンの時代』 文眞堂、2006年8月 ISBN 4830945532
- ロデリック・ライン、渡邊幸治、ストローブ・タルボット(共著) 『プーチンのロシア 21世紀を左右する地政学リスク』 日本経済新聞社、2006年11月 ISBN 4532352290
- 寺谷ひろみ 『暗殺国家ロシア リトヴィネンコ毒殺とプーチンの野望』 学習研究社、2007年6月 ISBN 4054034586
- アレクサンドル・リトヴィネンコ、ユーリー・フェリシチンスキー(共著) 『ロシア闇の戦争 プーチンと秘密警察の恐るべきテロ工作を暴く』 光文社、2007年6月 ISBN 4334961983
- 林克明 『プーチン政権の闇 チェチェン 戦争/独裁/要人暗殺』 高文研、2007年9月 ISBN 4874983901
- 木村汎 『プーチンのエネルギー戦略』 北星堂書店、2008年1月 ISBN 4590012359
関連項目
脚注
- ↑ Владимир Путин. "От Первого Лица". Chapter 6
- ↑ 「やっと出来たプーチンの「統一ロシア」」 ノーボスチ通信、2008年4月16日。
- ↑ ロシア連邦軍の指揮下にあるヴォストーク大隊とザーパド大隊、ロシア国内軍の指揮下にあるセーヴェル大隊とユーク大隊がある。
- ↑ この著書をベースにしたDVD教材『Учимся дзюдо с Владимиром Путиным (プーチンと学ぶ柔道)』(ロシア最大のインターネットショッピングサイト(Ozon.ru)参照。ロシア語外部リンク: Internet-Shop Ozon.ru)が、プーチン首相の誕生日の前日である2008年10月6日に発表された(「プーチン首相が柔道DVD 背負い投げも披露」 MSN産経ニュース モスクワ(写真は共同通信社)、2008年10月7日。"Learn judo with Vladimir Putin" BBC, Octorber 8, 2008. ※ BBCでは柔道家としてのプーチンの映像が見られる)
- ↑ イーゴリ・アレクサンドロフによる原著の翻訳を、山下泰裕と小林和男が合同で編集、抜粋。原著の説明や大統領当時(2003年)のプーチンへのインタビュー、プーチンの柔道の師であるアナトーリー・ラフリンへのインタビューを合わせて収録。
外部リンク
- ロシア連邦政府 (ロシア語)
- ロシア連邦首相公式サイト (ロシア語)
- ロシア連邦首相公式サイト (英語)
官職 | ||
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先代: | ロシア連邦首相 第9代:2008 -
第5代:1999 - 2000 |
次代: (現職)
ミハイル・カシヤノフ |
先代: | ロシア連邦大統領 1999-2000年:代行 第2代:2000 - 2008
|
次代: |
先代: | ロシア連邦安全保障会議書記 第8代:1999
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次代: |
先代: | ロシア連邦保安庁長官 第4代:1998 - 1999
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次代: |
先代: | ロシア大統領府監督総局長 第5代:1998 - 1999
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次代: |
先代: (創設)
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22x20px サンクトペテルブルク市 対外関係委員会議長 初代:1991 - 1996
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次代: Gennadiy Tkachyov
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先代: (創設)
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テンプレート:URB 閣僚評議会議長 初代:2008 -
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次代: (現職)
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党職 | ||
先代: | 統一ロシア党首 2008 -
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次代: (現職)
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先代: イギリス
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主要国首脳会議議長 2006
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次代: ドイツ連邦
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