浪機関
浪機関(なみきかん)は、1944年の初めに日本軍占領下のシンガポールに設置され、海上防諜を任務としながら密貿易を統制していた日本陸軍の特務機関(機関長・吉永弘之大尉)。日本軍占領下の南方各地の港湾に支部を置き、民間のジャンクによる米などの密貿易を統制しながら、密輸船に搭乗させた機関員による情報収集を行い、支部間で海上防諜網を構築していた。
シンガポールでは、防諜組織としてよりも米の密売組織として認知されており、機関の関係者や日本軍に協力して昭福運輸会社を組織し、連合軍による攻撃の危険に晒されながら海上輸送に携わり、シンガポールの闇市で米を売った現地の華人有力者は、密貿易によって巨利を得たといわれているが、戦後のその財産の帰趨は明らかでない。
目次
設置の経緯
港湾・船舶の防諜
1943年3月に、吉永正弘大尉、佐々木二郎中尉、小豆沢孟中尉ら陸軍中野学校出身の将校は、参謀本部船舶課から宇品の船舶司令部付を命じられた。着任後、吉永らは、港湾・輸送船の安全のための積極的な防諜施策の必要性を具申し、内地の主要港湾を視察して防諜計画書を提出した。報告を受けた船舶司令部・鈴木宗作司令官は、内地よりも外地の防備が優先事項だとして、吉永をシンガポール、田中満軍曹(中野丙2[1])をラングーン、小豆沢と岸山勇軍曹(中野丙2[2])をマニラ、佐々木と辻村軍曹(中野3戊)を北方軍にそれぞれ派遣して、所管各港湾の調査報告を命じた。[3]
外地の港湾調査の報告が完了した直後の1943年9月に、シンガポールで日本艦船が連合軍の謀略作戦により爆破される事件(昭南港爆破事件)が発生した。南方占領地域の治安悪化への懸念から、吉永大尉以下8名は、急遽シンガポール船舶司令部付を命じられ、暁機関(仮称)を設置して、管下諸部隊の港湾・船舶防諜の指導にあたるとともに、「特殊施策」の調査研究と準備に着手した。[4]
- 編注:この経緯説明はやや不可解。外地の港湾に派遣された時点で既に「暁機関」として活動していた(爆破事件とは必ずしも関係がなかった)ようでもある。
米の輸送統制と密輸構想
同月頃、南方占領地域では食糧事情が逼迫していた。もともと南方地域の近海輸送は、主に現地の華僑住民が所有する木造ジャンク船によって行われていたが、日本軍の進出以来、海軍によって航行禁止となり、それが食糧危機の原因にもなっていた。[5]
南方軍の最高軍政顧問である砂田重政の子分格で、右翼の大陸浪人から[6]第16軍参謀部別班の嘱託となっていた[5]船曳某は、華北で中国人に密輸をさせた経験を応用して[6]、昭南(シンガポール)に集められた砂糖[7]、煙草、医療品、薬品などの物資をビルマ、タイ、仏印などへ運び、米と交換してくることを構想した[8]。
船曳は、中野学校出身で南方軍総司令部参謀部別班の太郎良定夫大尉をボルネオ西岸華僑の代表という某中国人と引き合わせた。この某中国人は太郎良に、手持ちのジャンクによりタイからボルネオへ米を輸送したいとの希望を伝えた。[5]
南方軍総司令部では、当時既に連合軍の潜水艦が南シナ海やマレー海峡に出没していたため、許可すれば連合軍に通牒する危険性もあるとして反対する者も多かったが、軍政総監部、ボルネオ守備軍、海軍武官室などとの協議の結果、試験的に実施を許可することになった[5]。
試験の結果は大成功で、米の輸送はボルネオ住民の食料危機克服に役立っただけでなく、民心も安定し、シンガポール周辺のジャンクの船主たちが協力を申し出てきた。そこで、ジャンク隊を組織して相互に責任を持たせ、敵潜水艦の情報収集などにも協力させる軍の組織として専門機関を設置することとなった。[4]
「浪機関」の設置
1944年の初めごろ[9]、シンガポール船舶司令部・吉永大尉らと、南方軍総司令部・太郎良大尉ら[10]が協議した結果、港湾・船舶の防諜と、南方地域でのジャンク船による食糧輸送を統制する組織として、南方軍総司令部の下に浪機関が設置されることとなった[4]。
太郎良は、黄堆金が活動拠点としていたシンガポールの南声クラブで、日本軍に協力的な華人たちに、食料不足を解消するため、華人による米の密輸を支援すると言明し、吉永を責任者として紹介した[11]。
組織
浪機関では、工作の基盤作りとしてまず船舶・港湾の防諜要領を作成して南方軍総司令部隷下の各軍に通達し、主要港湾に機関支部の設置を進めた[3]。
機関本部はシンガポールに置かれ、南方軍総司令部の時期に、サイゴン、バタビヤ、メダン、ピナン等に支部を設置、また小豆沢中尉をマレーの第29軍司令部に配属して、港湾防諜業務の指導にあたらせた[3]。
シンガポールの本部はビーチ路 にあり[11]、各支部の指導のほか、直接シンガポール港の防諜を担当した[12]。
機関の要員は、機関長・吉永大尉[13]をはじめとする8名の中野学校出身者に下士官を補充して構成され、工作の進展に伴って組織は拡大・強化された[3]。
また密輸への協力を申し出た華僑の協力を得て兵補を募集し、密輸を担う華僑のジャンク隊は「広東班」、「潮州班」、「海南班」、「福建班」などの機構として組織された[11]。
船曳嘱託を中心に、ジャワからの砂糖のほか、石油、布地、アヘンなどを見返りに、ビルマ、タイなど各地から米などの食料・物資を調達し、シンガポールへ輸送して市民に配給した[14]。
浪機関は、海軍の潮機関(機関長・日高大佐)や海軍武官室・原中佐とも連携して、海上・船舶に関する情報を収集していた[12]。
活動実態
浪機関の活動は、華僑のジャンクを利用し、シンガポールにおいて不足している米などの物資の密貿易をさせながら、ジャンクに現地出身の機関員(通信要員)を搭乗させて、連合軍の出没地点やスパイの連絡網を探らせる、というものだった[11][12]。
浪機関は、各地の名士に協力させて、密貿易を実行させた。密貿易で巨利が得られたので、浪機関は一時、大いに羽振りをきかせた[11]。
米の輸送は敗戦に至るまで続けられ、市民の間では浪機関は、防諜機関としてよりも米の密売組織として認知されていた[11]。
- 中野校友会 (1978 554)(太郎良の著作)は、機関の活動が市民に歓迎されて民心安定のため奏効し、また防諜の企図を隠匿するためにも好都合だった、と自己評価している。
密貿易に携わった民間の船舶は、連合軍の飛行機や潜水艦の標的となり、しばしば被害を蒙った[11]。
昭福運輸会社
昭福運輸会社は、当時、日本軍に協力した華人の林某らが一族郎党を巻き込んで設立した会社で、「昭福」は「昭南の福建人」を意味し、「昭福運輸会社」の中堅幹部は七君子と呼ばれた[11]。
昭福運輸会社設立のきっかけは、台湾人の日本軍嘱託・黄堆金が、匯兌信局に所属する「准」の字を名前に含む人を利用して中国の内地の情報を収集する秘密機関を作るため、為替や情報通信、旅行や通商の自由に関して便宜をはかる特権を付与し、その代わりに日本人などのスパイ要員を受け入れさせようとしたことにあった。しかし1944年1月以降、日本海軍は制海権を失っており、構想は立ち消えになっていた。[11]
しかしそれを代替する形で、企業勢力が結集し、1944年2月に軍政監部の支持のもとで、商業組合を代表する会社が食糧や物産を供給するトラストを結成した。日本軍から公定価格で配給された物品は、その大部分が海外に運ばれ、物資や現地産品と交換され、入手品の多くは闇市で売られて、莫大な利益を得ていた。[11]
浪機関も黄堆金に命じて、アモイ街 の富士洋行と南声クラブにおいて、その一派を小坡の福建班の事務所に集めさせ、協議の上、利益独占と秘密保持のために、請負方式を採用した[11]。また郷間機関とも連絡をとっていた[15]。これに対応して、1944年3月に大坡に昭福運輸会社が設立された。その後、浪機関と緊密な連絡をとっていた福建班は、月末には吉永、辻村らを某氏公会内に迎え、その代表とした[11]。
利権を求めた商人は、浪機関直属の商人に取り入ろうとした。浪機関の「情報収集を行う」という任務はないがしろにされた。過渡期には、砂糖、ガソリン、布地、アヘン等の物資がありさえすれば、闇市に流して、勝手に密貿易もできた。[11]
そこでこの利権を独占するべく、浪機関の要求に応じて黄堆金とその部下が「昭福運輸会社」を組織し、部外者を利権から排除して、浪機関の組織を補完した[11]。
もし他の輸出商や別地の商人が米の輸入を希望したら、必ず浪機関の護符を用意しなければならなかった。また浪機関の某班または某人からの連絡証明書を入手していれば、自由に通行ができ、貨物を没収されて難癖をつけられることも免れた。昭福運輸会社の代理権のため、各商店は1件につき上納金5ドルを納めねばならなかった。上納金は浪機関や軍部の造船費に充てるといわれていた[11]。
昭福運輸会社は密貿易で莫大な利益を挙げ、連合軍情報の収集にも努め、日本軍用の食糧の調達や連合軍戦略の破壊を秘密裏に積極的に推進し、食糧等の闇値を操作し、船員を情報収集に使った。米粉を安く仕入れて、米と同じくらいの価格で売った[11]。
小坡のビーチ路の支店には、配給米を求める人々が殺到していた。同支店を視察していた黄堆金は、群衆に押されて脚を脱臼し、10数日間、外出できなくなったことがあった。そのため、この店では配給を停止し、残りの米は闇に流した。その結果、配給価格は闇値になり、卸売商は屋台のお米の通帳まで独り占めにして稼いだ。米の配給には民衆が殺到したが、日本軍と協力した商人は、米の密貿易で巨利を得ていた。[11]
昭南造船協会
日本軍の船舶が連合軍の爆撃を受けて沈没することが多くなり、船舶が欠乏したため、昭福運輸会社では帆船やモーターボートを製造してそれを補った[11]。
1944年6月中に数隻が完成し、運送業務についた(その後の建造数は不明)[11]。
防諜機能の強化
1944年3月に南方総軍がマニラに移駐したときに、浪機関は第7方面軍に移管された[3]。同年春ないし設置から3,4ヵ月経った頃に、広東で活動していた特務機関経験者と(城戸、吉開氏等のほか)台湾人を含む嘱託・軍属多数が採用された[11][3]。
- 南洋商報 (1947a )によると、広東の特務機関にいたことのある「飯島機関」の「飯島少佐」(編注:茨木機関の石島少佐のことと思われる)が日本人のスパイ約30人と台湾人の嘱託・通訳約30人を連れて来て、浪機関の組織を強化した。
- また、中野学校出身者2名(斉藤房芳少尉、内山忠利軍曹)が着任した[3]。
大戦末期の活動
設置から4,5ヶ月後の1944年6月中に、浪機関は「重要な関係者」によって強硬な手段を用いて改組され、スパイ訓練の機能が拡充された。船曳・山本の両嘱託に任せていても防諜網の強化がはどらなかったためと見られ、再び台湾から百余名の台湾人が補充されて、組織の中間層を担い、海軍の潮機関と連携して、陸・海・空の各方面におけるスパイの養成と防諜網の強化をはかった。[11]
マラッカ海方面での連合軍の上陸作戦の可能性が懸念されるようになると、敵方の輸送船団に対する海上ゲリラ的な破壊工作が計画され、マラッカおよびポート・ディクソン にその拠点が設置された[14]。
その要員には、兵補として現地採用した中国人および台湾出身者約60名を主力とする教育隊を充てることとし、佐々木大尉、斉藤少尉、辻村軍曹らが指揮にあたることになった[14]。
- 南洋商報 (1947a )に、「佐々木兵補部」がマラッカに移され、前進根拠地となった、とある。
この他に、飯島機関(茨木機関)と協力してリバー・バレー路 に無線通信の養成所を設置し、100余名の通信員を、各部署および各船舶に派遣して、各地で活動させた[11]。
昭福運輸会社は、積極的に情報収集を進め、スパイ訓練要員を提供するため(従来の馬泰会社と混同しやすいよう)に「馬泰運輸会社」に改組され、貨物要員をスパイ訓練要員として提供した。漁業情報班は、利益を独占し、沿岸部の基本的偵察機関としての秘密保持を厳重にするため、東原公司に請け負わせることになった。[11]
約4,50名の知識青年が訓練を受けた。彼らはまずビーチ路でスパイとしての基礎教育を受け、その後、マラッカに送られて正式訓練を受けた。不適当な人員は逮捕・追放され、別のスパイ要員に替えられた。密かに暗殺班が設けられており、浪機関から離脱しようとする者は処刑されると脅されていた。[11]
また戦争末期には(内藤、黒田、布目など)多数の在留日本人も入隊した[3]。
シンガポールが連合軍に占領された場合、その後方撹乱に当たることを命令され、逐次周辺の離島に分散してその準備を進めていたが、その発動をみることなく終戦を迎えた[14]。
終戦
1945年8月の終戦に際して、機関本部は2個班に分かれ、1個班は吉永大尉を長として永吉中尉、内藤正経、黒田清邦、布目夫妻、高野嘱託、衛生兵および兵数名がシンガポール南方のバタン島 に、他の1個班は松下勇雄主計少尉、小川曹長、内山忠利軍曹等がスマトラへ脱出した[14]。
マラッカ拠点の佐々木大尉、斉藤少尉以下は、マラッカ海を南下中に濠軍と抗戦し、辻村軍曹ほか数名の戦死者を出した[14]。
この間、本部では、高野嘱託が死亡し、松下・小川の両軍属、衛生兵1名が行方不明となった。翌1946年春に機関全員がシンガポールに帰着し、抑留された[14]。
日本軍が投降したときに、現地人の機関員を毒殺ないし虐殺せよとの秘密指令が出ていたが、通訳が指令の内容を暴露したため、指令は実行されなかったという[11]。
財産の行方
南洋商報 (1947a )は、浪機関や昭福運輸会社が所持していた財産が、どのように清算されたのかはよくわかっておらず、結局は「七君子」の懐に入ったのではないかと思われるが、知る由もない、としている。
付録
脚注
- ↑ 中野校友会 (1978 553)は「2戊」としているが、同書 pp.850-851により訂した。
- ↑ 中野校友会 (1978 553)は「岸山軍曹(2戊)」としているが、同書 pp.850-851により補訂した。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 3.7 中野校友会 1978 553
- ↑ 4.0 4.1 4.2 中野校友会 1978 552-553
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 中野校友会 1978 552
- ↑ 6.0 6.1 本田 1988 42
- ↑ 中野校友会 1978 554は、ジャワから仕入れるものとしている。
- ↑ 本田 1988 43
- ↑ 本田 1988 38。他書にはない。
- ↑ 南洋商報 1947a には、太郎良のほかに参謀官・芋緒(芋生喜久真)少佐の名がある。本田 (1988 44)によると、芋生中佐は、南方軍総司令部参謀部2課に所属しており、特務機関を擁護していた人物という。
- ↑ 11.00 11.01 11.02 11.03 11.04 11.05 11.06 11.07 11.08 11.09 11.10 11.11 11.12 11.13 11.14 11.15 11.16 11.17 11.18 11.19 11.20 11.21 11.22 11.23 11.24 南洋商報 1947a
- ↑ 12.0 12.1 12.2 中野校友会 1978 553-554
- ↑ 本田 1988 38は、吉永は少佐に進級した、としているが、他書にない。
- ↑ 14.0 14.1 14.2 14.3 14.4 14.5 14.6 中野校友会 1978 554
- ↑ 南洋商報 1947a 。郷間も陸軍の嘱託で、かつて広東で活動し、以前シンガポールでスパイをしていたといわれる人物(同)。
- ↑ 本田 1988 172
参考文献
- 本田 (1988) 本田忠尚『茨木機関潜行記』図書出版社、JPNO 88020883
- 中野校友会 (1978) 中野校友会(編)『陸軍中野学校』中野校友会、JPNO 78015730
- 篠崎 (1976) 篠崎護『シンガポール占領秘録 - 戦争とその人間像』原書房、JPNO 73016313
- 南洋商報 (1947b) 浪機關組織後文 倭寇投降時之最後措置『南洋商報』1947年7月18日13面
- 南洋商報 (1947a) 昭南時代 組織之秘密 浪機關『南洋商報』1947年7月12日12面
- 日本語訳:「5 浪機関の秘密」許雲樵・蔡史君(原編)田中宏・福永平和(編訳)『日本軍占領下のシンガポール』青木書店、1986年、ISBN 4250860280、134-143頁