中国人強制連行を考える会
中国人強制連行を考える会(ちゅうごくじんきょうせいれんこうをかんがえるかい)は、中国人強制連行事件や花岡事件の「受難者」を支援する民間団体。1989年11月の結成後、花岡事件に関して花岡受難者聯誼会を支援し、同会の代理人として鹿島建設に謝罪や損害賠償金の支払いなどを求める補償交渉を行い、1995年に提訴された花岡事件の対鹿島訴訟に参加、2000年の和解を成立させた。和解成立後、花岡平和友好基金の運営や、花岡平和記念館の開設にも関与している。
結成の経緯
花岡事件 (対鹿島訴訟) も参照 1984年以降、劉智渠ら日本に残留していた花岡事件の被害者とフリーライターの石飛仁は、鹿島建設に対して戦時中の鹿島組花岡出張所の華人労務者に対する未払賃金の支払交渉を行っていたが、鹿島側の社内調査により戦後、劉らに未払だった賃金が支払われたことを裏付ける資料が見つかり、交渉が行き詰まったことから、1986年に弁護士の新美隆と内田雅敏を招請して鹿島との交渉を依頼した。
1985年11年には、中国に帰国していた事件当時の鹿島組花岡出張所の華人労務者の大隊長・耿諄の消息が明らかになり、日本国内で、中国在住の事件被害者本人・遺族との連携が模索されるようになった。
1989年11月に、新美と内田、愛知県立大学の田中宏らは、在日中国人の林伯耀、猪八戒らと連携して中国人強制連行を考える会を結成し、耿諄ら中国本土の被害者本人・遺族との連携、支援をはかった[1]。
活動の沿革
1990年11月に、野添憲治ら会の代表7人が訪中し、河北省で事件の生存者・遺族の消息を確認していた河北大学の劉宝辰講師を訪問、同月9日に北京で花岡事件の生存者や遺族ら40数人により「花岡事件殉難者追悼大会」が開かれて花岡受難者聯誼会が発足し、同月10日に代表団は、中日友好協会の黄世明副会長と会談した[2]。
1993年6月に北京市郊外の盧溝橋にある中国人民抗日戦争紀念館で花岡事件に関する展示会を開いた[3]。
考える会の会員が渡米して米国国立公文書館のGHQ関連文書の中に中国人強制連行に関する報告書(いわゆる『外務省報告書』)を探した[4]。報告書そのものは見つからなかったが、報告書の作成を決めた外務省の内部文書などの事務文書が見つかったことが、報告書の再発見につながった[5]。
囲む人たち
- 石飛(2010,pp.310-311)は、1995年7月1日に、花岡の信正寺で、石飛らが主催するシンポジウムで、劉智渠が終戦後に鹿島から5万円を受領していたことを告白する予定になっていたところ、当日、劉は欠席し、「新美弁護士がリードする側の人たち」が「扇動に乗せられて」信正寺にやって来て、劉の居場所を尋ね、石飛を取り囲んで「汚い罵声を浴びせ」、石飛に暴行を加え、ネクタイを引きちぎって、石飛はムチウチ症になった、としている。
- 野田(2008,pp.294-295)は、2000年12月に、花岡事件の対鹿島訴訟での和解成立を受けて、東京で、「考える会」主催で開かれた「花岡勝利緊急報告集会」に出席して和解の経過について質問した劉彩品に、「考える会」の男たちが詰めより、拳をふりあげ威嚇しており、そのとき田中宏は傍で黙って見ていた、とし、まるで手下たちと親分に見える、としている。また、同書は、2007年6月20日にも、大館で、「考える会」の男たちが、旻子の著書『尊厳』を日本語訳した山辺悠喜子ら4人を見つけて囲んで威嚇し、田中はそれを横で黙って見ていた、としている。
付録
外部リンク
- 中国人強制連行を考える会 花岡事件 2018年1月6日閲覧。
関連文献
- 中国人強制連行を考える会(編)『花岡 鉱泥の底から』全8集、中国人強制連行を考える会、1990-2001年
脚注
参考文献
- 金子(2010) 金子博文「解説」石飛仁『花岡事件「鹿島交渉」の軌跡』彩流社、2010年、9784779115042、pp.389-422
- 李(2010) 李恩民「日中間の歴史和解は可能か-中国人強制連行の歴史和解を事例に」北海道大学スラブ研究センター内 グローバルCOEプログラム「境界研究の拠点形成:スラブ・ユーラシアと世界」『境界研究』No.1、2010年10月、pp.99-112
- 野田(2008) 野田正彰「田中宏氏に反論する」『世界』2008年6月号、岩波書店、pp.291-297
- 新美(2006) 新美隆『国家の責任と人権』結書房、4-342-62590-3
- NHK(1994) NHK取材班『幻の外務省報告書-中国人強制連行の記録』日本放送出版協会、1994年、4140801670
- 野添(1993) 野添憲治『花岡事件を見た20人の証言』御茶の水書房、1993年、4-275-01510-X