カール・マイヤー
カール・マイヤー(Karl Mayr、1883年1月5日–1945年2月9日)は、ドイツの軍人、政治家(1925年以降はドイツ社会民主党所属)。のちにナチス・ドイツの独裁者となるアドルフ・ヒトラーを政治の世界に引き入れた人物として知られるが、反ナチスに転じ、ナチスの強制収容所で最期を迎えた。
経歴
バイエルン王国のミンデルハイムに生まれる。アビトゥーア合格後、1901年7月に第1バイエルン歩兵連隊に士官候補生として入営。1903年に少尉、1911年に中尉に昇進。1914年8月に始まる第一次世界大戦に第1猟兵大隊の一員として従軍。ロートリンゲンやフランドルをめぐる戦いに従軍。1915年に所属部隊ごとアルプス軍団に転属となる。同年6月に大尉に昇進。同年7月より東部軍集団に転属となり、トルコで従軍。
停戦後の1918年12月にミュンヘンに駐留する第1バイエルン歩兵連隊で中隊長になる。1919年2月に長期休養を与えられるが、早くも5月には軍に復帰してミュンヘンの護衛連隊第6大隊長に就任、同月30日からはフォン・モール中将指揮下の第4集団司令部第四局(Ib部)および義勇軍「フォン・オーフェン」の諜報・プロパガンダ部長に就任した。
諜報・宣伝部長として1919年6月、復員兵であるアドルフ・ヒトラーをスカウトし、潜入諜報員および宣伝演説者とした。マイヤーはレヒフェルトのヴァイマル共和国軍施設でヒトラーに講習を受けさせ、戦争で士気が阻喪し「ボリシェヴィキ化」した部隊に民族主義(国民主義)を植え付けさせるための訓練を施した。講習の修了後、マイヤーはヒトラーに対し、ミュンヘンの兵舎に赴いて反ボリシェヴィキ宣伝演説をするよう命じた。さらにヒトラーは、この時期ミュンヘンに乱立していた政治組織の集会に参加・潜入して観察するよう命じられていた。ヒトラーは集会に参加してはその政治的主張・目的・手段についての報告をマイヤーに行った。
1919年9月12日、マイヤーの指示でヒトラーはアントン・ドレクスラーが設立したドイツ労働者党(ナチ党の前身)の集会に参加した。9月16日にはヒトラーが最初に反ユダヤ主義を示した記録であるゲムリッヒ書簡がマイヤーの指示で書かれた。10月3日の集会にも参加したヒトラーは入党を決意し、マイヤーに対して「この人々は前線の兵士の思想を主張しているため、入党を許可していただきたい」とする報告書を提出した。のちにヒトラーはドイツ労働者党をナチ党に変えて党勢を拡大し、ついにはナチス・ドイツの独裁者となったため、マイヤーは「ヒトラーの発見者」「ヒトラーを政治の舞台に導いた人物」としてときに過大評価されがちである。しかしマイヤーはヒトラーのみでなく指揮下にある全ての人物にヒトラーと同じことをするよう命じており、ヒトラーを特別扱いしていたわけではない。
1920年3月のカップ一揆の際、マイヤーはベルリンの情勢を探らせるため、ヒトラー、ディートリッヒ・エッカート、ローベルト・フォン・グライムを派遣した。同年7月、マイヤー少佐は第VII軍管区参謀部を最後に軍から退役させられた。おそらくはカップ一揆の参加者と接触したことを忌避されてのことであった。
1921年頃はマイヤーはまだヒトラーとそのナチ党に共感していたが、次第にその反対者・批判者になった。1925年にはドイツ社会民主党に入党し、そのため第1歩兵連隊の退役将校協会から除名された。その後は共和制支持派の準軍隊組織「帝国国旗、黒・赤・金」(国旗団)の指導者・機関紙編集者になった。ヒトラーが政権を獲得した1933年以降はフランスに移住した。しかし第二次世界大戦が勃発し1940年にフランスがドイツ軍に占領されると、マイヤーはパリでゲシュタポに逮捕された。ドイツに連行されたマイヤーはブーヘンヴァルト強制収容所に送られ、大戦末期の1945年2月に収容所内で死亡した。