君が代
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ファイル:Kimigayo.svg 君が代(きみがよ)は、日本の国歌。
1999年(平成11年)に国旗及び国歌に関する法律で公認される以前の明治時代から国歌として扱われてきた。この曲は、平安時代に詠まれた和歌を基にした歌詞に、明治時代に林廣守が作曲、詳細は後述する。
目次
歌詞
- 歌詞
- 君が代は
- 千代に八千代に
- さざれ石の
- いわおとなりて
- こけのむすまで
- 読み
- きみがよは ちよにやちよに さざれいしの いわおとなりて こけのむすまで
- 一般的な漢字かな交じり表記
- 君が代は 千代に八千代に 細石の 巌となりて 苔の生すまで
- 現代語訳
- 君が代は、千年も八千年も、細石が大きな岩になってそれにさらに苔が生えるほどまで、長く長くずっと続きますように。
- 註
-
- 歌詞・読みは、国旗国歌法の表記を採用(歴史的仮名遣いでは「いはほ」とする)。
- 「君が代」は平安時代の用法としては「わが君の御代が」とすることが多いが、時には「こちらさまの(あなたさまの)御寿命が」という意味の場合もある。歌詞についての公式の解釈がないので両方とも可能であることを注記しておく(次章「解説」を参照)。
歴史(制定までの経緯)
和歌としての君が代
テキストと作者
作者は未詳である。
歌詞の出典はしばしば『古今和歌集』(古今和歌集巻七賀歌巻頭歌、題しらず、読人しらず、国歌大観番号343番)とされるが、古今集のテクストにおいては初句を「わが君は」とし、現在採用されているかたちとの完全な一致は見られない。「君が代は」の型は『和漢朗詠集』の一本に記すものなどが最も古いといえる(巻下祝、国歌大観番号775番)。
解釈の上で問題となるのは「わが君は」「君が代」の「君」である。古語の「君」には(1)単純な二人称と(2)君主、王の二義があり、その先後については古くより議論があってどちらとも容易に定めがたい。王朝和歌の世界においても両様が用いられた。
解釈
「わが君は」とする場合、考えられうる解釈は(1)「わたしの恋しいあなたは……」と恋人の長生を祈る歌、(2)「こちらのだんなさまは……」と祝言を専門とする芸能者が門付けによってその家の主の繁栄と長生を祈る歌、またはそうした態度をまねてある人がある人の長寿を祝う歌、(3)「わが大君は……」と天子の千秋万歳を祈る歌、の三つがある。古今集にかぎって考えるならば、読人しらずの民謡的な歌であること、四首つづけての読人しらずの後に仁明天皇が僧正遍昭の長寿を祈る歌が掲げられていることなどから、(3)の解釈を取るにはやや無理がある。もともと古今集の賀歌には聖代を寿ぐ意識よりも、長寿を祝い、祈る意識のほうがつよく、特に天子の宝算を祝祷する意識はあまりつよくないことはその詞書を見ても瞭然としているからである。ただし(1)の説を特に強調することも、古今集の解釈としてはやや無理があり、当時の人々の賀歌に対する態度からしてもっとも穏当と思われるのは(2)の解釈ということになるのではないだろうか(ちなみに以上はあくまで古今集採録の歌としての考察であり、それ以前に、あるいはその発生時において「わが君は」の歌がどのように解釈されていたかについてはまったく見当がつかないというのが正確なところである)。
元来民謡的性格の歌であったために、そのテクストに異文があることは特に奇異とするに足りない。古今集採録のかたちが古形である可能性はかならずしも否定できないが、ある時期以降「わが君は」と「君が代は」の両様が行われ、一方が古今集に採られたと見るべきであろう。「君が代は」とした場合、解釈としてはやはり上掲(1)から(3)の三説がありうるが、妥当性としては(1)の線がうすくなる。「君が代」は祝、賀の歌によく用いられる語であるから、単に長生を祈るというだけではなく、公式の場で堂々と祝いを述べるという性格がつよくなるためである。ちなみに和漢朗詠集での配列を閲するかぎりは、「君が代」はあきらかに(3)の解釈を与えられている(祝の部の漢詩は、たとえば「嘉辰令月歓無極、万歳千秋楽未央」などといったものである)。
ただしここで誤ってならないのは、マスコミュニケーションの発達していないこの当時の民衆にとって、君主とは手の届かない、想像も付かない、雲の上の神や大昔の伝説、おとぎ話に近い概念であり、『君が代』における「君の長生」を祈る歌詞は、忠誠心や尊王とは切り離された「この治世の平安が続きますように」といった「祝福」に近い意味でとらえられていたことであろう。
なお、「千代に八千代に」の部分であるが、中世期の古今集解釈には二様があり、現行のように「千代に八千代に」とする説(冷泉家系統)と、「千代にや、千代に」と「千代に」の反復であるとする説(二条家系統)がともに行われたが、現在では前者で落ちついている。学問的な通説としても前者とする人が多い。
和歌・朗詠と引用
また、和歌、朗詠の常識として、本文は同じであってもそれが引用され、朗詠される場によってその解釈は折々に変る。折に合うということが重んぜられた王朝の風俗としてはこれは当然のことであって、その変動する解釈のなかに文学としての生命があったことを忘れてはならない。あくまでも場の芸術、場の芸能であった『君が代』に、一元的な解釈を付与すること自体が、当時の人々の意識とは大きな乖離をはらんでいるのである。すなわち上記(1)~(3)の解釈は、すべて可能であるし、それを決定するためには『君が代』自体の考察だけでは不十分であって、それがどんな場(あるいは撰集における配列)においてどのように行われたかを知る必要がある。そしてその「決定」も、あくまで相対的なものであって、絶対的なものではないことに注意を要するのである。
民謡・琵琶歌としての君が代
更に時代が下り江戸時代頃には、この歌は一般的な祝いの席で祝いの歌として庶民の間でも歌われるようになった。それに伴い「君」の解釈にも変化が生じ、例えば婚儀の席で歌われるときは「君」とは新郎のことを指し、すなわち新郎の長寿と所帯の安息を祝い祈願する歌として用いられた。この時代の薩摩琵琶歌には、現在知られるものと同じ歌詞のものが見られる。よって現在の「君が代」は、明治期に薩摩人がここから採ったものとする説が有力である。(「歴史」を参照)
因みに、文部省(現在の文部科学省)が編集した『小学唱歌集初編』(明治21年(1881年)発行)に掲載されている歌詞は、現在のものよりも長く、幻と言われる2番が存在する。曲はイギリスの古い賛美歌から採られた。
- 君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで うごきなく常盤かきはにかぎりもあらじ
- 君が代は千尋の底のさざれ石の鵜のゐる磯とあらはるゝまで かぎりなき御世の栄をほぎたてまつる
後半の「さざれ石の巌となりて」は、砂や石が固まって岩が生じるという考え方と、それを裏付けるかのような細石の存在が知られるようになった『古今和歌集』編纂当時の知識を反映している。(後の項で詳述する)
明治
明治2年(1869年)に当時薩摩藩兵の将校だった大山巌(後の日本陸軍元帥)により、国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと言うイギリス歩兵隊の軍楽長ジョン・ウィリアム・フェントンの進言をいれて、大山の愛唱歌の歌詞の中から採用された。当時日本の近代化のほとんどは当時世界一の大帝国だったイギリスを模範に行っていたため、歌詞もイギリスの国歌を手本に選んだとも言われている。
ただし、この話には異論がある。佐佐木信綱が記した『竹柏漫筆』によると明治天皇が関西へ行幸する際、フランス軍から天皇行幸に際して演奏すべき日本の国歌を教えてほしいという申し出が日本海軍へあった。そのため、当初、海軍兵学校へ出仕していた蘭学者である近藤真琴へ歌詞を書かせたが、海軍内で異論があり、海軍海補であった川村純義が郷里で祝言歌として馴染みのあった歌詞を採用したというものである。ただし、この説は明治当初に海軍が陸軍に対抗して自ら国歌の必要性を理解した上で発起したということを知らしめるために利用されていた節があり、現在の国歌研究においては「大山発案説」が事実であると見られている。
当初フェントンによって作曲がなされたが、あまりに洋風すぎる曲であったため普及せず、後により日本人の音感に馴染みやすい曲に置き換えようということで、明治13年(1880年)に宮内省雅樂課の奥好義のつけた旋律を雅楽奏者の林廣守が曲に起こし、それにドイツ人音楽家フランツ・エッケルトによって西洋風和声がつけられた。以来、『君が代』は国歌として慣例的に用いられてきたものである。
明治36年(1903年)にドイツで行われた「世界国歌コンクール」で、『君が代』は一等を受賞した。
国歌としての君が代
大山らが登場させて後は専ら国歌として知られるようになった『君が代』だが、それまでの賀歌としての位置付けや、天皇が「國ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬」していた(明治憲法による)という時代背景から、戦前にはごく自然な国家平安の歌として親しまれていた。
君が代をとりまく状況
戦後(特に1980年代以降)には各方面から君が代に対する批判が主張されるようになる。軍国主義の体制化に利用された象徴や思想・風潮、戦意高揚、選民主義、アジア太平洋地域における侵略と植民地支配に繋がったものであるとして君が代が批判された。天皇制自体に批判的な層らは、『君が代』から天皇讃美の意味を読みとり批判の対象とした。また国歌に対して肯定的な立場をとる層の間にも国歌の強制については、本質的な愛国心には繋がらず思想の弾圧だとする主張が相継いだ。
平成8年(1996年)頃から、教育現場において、当時の文部省の指導で、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に『君が代』の斉唱の通達が強化される。日本教職員組合などの反対派は憲法が保障する思想・良心の自由に反するとして、旗の掲揚並びに「君が代」斉唱は行わないと主張した。平成11年(1999年)には広島県立世羅高等学校で卒業式当日に校長が自殺し、君が代斉唱や日章旗掲揚の文部省通達とそれに反対する教職員との板挟みになっていたことが原因ではないかと言われた。これを一つのきっかけとして『国旗及び国歌に関する法律』が成立した。法律は国旗国歌の強制にはならないと政府はしたが、革新派は法を根拠とした強制が教育現場でされていると主張、斉唱・掲揚を推進する保守派との対立は続いている(君が代に対する意見対立について詳しくは、国旗及び国歌に関する法律を参照)。
平成16年(2004年)秋の園遊会に招待された東京都教育委員・米長邦雄が、(天皇)に声をかけられて「日本の学校において国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と発言し「やはり、強制になるということでないことが望ましいですね」と言われている。
なお、天皇が公式の場で君が代を歌ったことは一度もないと言われている。
主な対立する意見
肯定的立場からは、事実上の国歌として歌われてきた明治以来の伝統を重視するリベラル寄りの意見もあれば、政治的背景とは無関係に日本的な曲であって国歌に最もふさわしいとする意見、国民には愛国心を持つ義務があるから『君が代』を歌うことでその意識を高めなければならないとする主張や、天皇への忠誠心を涵養する目的をはっきり表明する国粋的な意見もある。
反対の立場からは、歌詞は天皇崇拝の意味合いが強く(君=天皇)、軍国主義を象徴しており、君主制ではない日本にはふさわしくないという意見がある。これに対して立憲君主制の国歌(たとえばイギリスの『女王陛下万歳』など。)と比較しても極端な天皇賛美の意味はなく、天皇象徴制の国歌ではごく普通の国歌だと考える意見もある。また、軍国主義的だという点から見ても、古い軍歌であるラ・マルセイエーズを国歌としているフランスを始めとして、過激な軍歌調或いは軍歌そのものの国歌を持っている国は多く、君が代が特別軍国主義を象徴するものではないとする意見もある。
また、小さな石が大きな岩になるという内容が非科学的であるという批判も一部にある。これに対して細石(さざれ石の項目を参照)についての詳細など、先に述べた歌詞の正確な内容がほとんど知られていない事による誤解が広まっている。小さな砂粒が大きな石になる例には、細石やストロマトライトなどが知られており、またチャート(SiO2)や石灰質岩により他の岩石破砕物を固結する例もよく見られることである。堆積岩、水成岩である砂岩や礫岩などは、砂の粒子が大きな岩体に固結する仕組みとも言える。しかし、それら「科学的反証」とは別に、そもそもこのような古典楽曲に科学的根拠を求める必要性があるのかという意見や、国歌とはいえ「詩」という文学的、比喩的表現の中に厳密な「科学性」を求めること自体に矛盾があるともいえる。
国際競技大会でスポーツ選手の応援として自発的に『君が代』が歌われる光景については、一方では、このように日本人が国際的に評価されることで自発的に歌われているのであってやはり強制するべきではないとする主張があり、また一方では、このような光景を根拠として教育現場での日の丸・君が代への否定的対応を不自然なものと批判する主張がある。また、より積極的に君が代を歌うことによって愛国心を根付かせることが望ましいと主張する向きもある。
他の反対意見には、メロディが稚拙で、盛り上がりがなく歌いづらい、歌詞が難解、雰囲気が陰鬱、などといった純粋に音楽的な点を取り上げたものがある。
放送局での君が代の演奏
1951年9月に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が成立し、正式に日本が独立国に復帰した際以来、NHKのラジオ放送で連日放送終了後にオーケストラによる『君が代』の演奏が始まった。テレビでは、NHKが開局した1953年2月の時点ではなかったが、1953年9月からやはり放送終了時に演奏されるようになった。
しかし近年になりNHKが24時間放送を積極的に行うようになったため、現在は毎日演奏しているのはラジオ第2放送の終了時(日・月曜、並びに集中メンテナンスの実施日は24時、火曜日は25時35分(水曜未明1:35)、他は25時40分(未明1:40))のみである。あとは総合テレビの減力放送・放送休止明け(主として月曜早朝 歌詞がテロップ表示される)と、教育テレビで放送休止前後(毎月第2・4・5週の日曜深夜の放送終了時とそれが明けた月曜5時前)で流れる程度となった。
また民放のニッポン放送でも以前は毎日演奏(ジャンクション)を放送していたが、1998年4月より毎週月曜日の放送開始時と土曜日の午前5時前に限って放送している。また、以前はAFNでも毎日午前0時のニュース明けに演奏されていた。
九州王朝の春の祭礼の歌説
- 「君が代」の元歌は、「わが君は千代に八千代にさざれ石の、いわおとなりてこけのむすまで・・・」と詠われる福岡県の志賀島の志賀海神社の春の祭礼の歌である。
- 「君が代」の真の誕生地は、糸島・博多湾岸であり、ここで『わがきみ』と呼ばれているのは、天皇家ではなく、筑紫の君(九州王朝の君主)である。
- この事実を知っていたからこそ、紀貫之は敢えてこれを 隠し、「題知らず」「読人知らず」の形での掲載した。
関連する楽曲
外部リンク
- *.rmの音楽ファイル(音楽のみ)
- 君が代について
- 紹介:国歌「君が代」の作詞者はなぜ知られていなかったか?
- もうひとつの「君が代」
- もうひとつ(二つ)の君が代
- 志賀海神社の神事で唱えられてきた君が代
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