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2021年6月11日 (金) 19:22時点における最新版

鶴見 俊輔(つるみ しゅんすけ、1922年6月25日 - 2015年7月20日)は、日本哲学者大衆文化研究者、雑誌編集者伝記作家社会運動家後藤新平を母方の祖父、鶴見祐輔を父とする政治家一家に生まれる。1930年の明政会事件の後、非行に走り、転校・退学を繰返す。1937年に渡米し、ハーバード大学に進学。哲学を専攻し、記号論理学を学んだ。日米開戦後、1942年3月に戦争抑留者となるが、抑留中に卒論をまとめ、特例により大学を卒業。同年6月、日本に帰国し、海軍軍属としてジャカルタ在勤海軍武官府に約2年間勤務、帰国して海軍軍令部勤務中に終戦を迎えた。

1946年、姉・和子らとともに雑誌『思想の科学』を創刊。1949年、京都大学人文科学研究所助教授となり、ルソーフランス百科全書の共同研究に参画。1950年『アメリカ哲学』を刊行。1951年、スタンフォード大学フーバー研究所の客員研究員に招請されるが、同年5月、京大で原爆展の開催に賛同したことが問題視され、米国大使館からビザ発給を拒否される。1954年、東京工業大学助教授に転じ、「転向研究会」を主宰。1959年から1962年にかけて『共同研究 転向』上中下巻を刊行した。

1960年5月、日米新安保条約可決に抗議して東工大を辞職。同年6月のゼネラル・ストライキ声なき声の会のデモ隊に参加。1961年、同志社大学文学部社会学科新聞学専攻担当教授。同年、第4次『思想の科学』の天皇特集号が発行元の中央公論社により裁断処分された事件を受けて、新会社を設立し、1962年から第5次『思想の科学』を刊行。同年京都で「家の会」を立ち上げた。1965年、アメリカの北爆に抗議して、高畠通敏小田実らと「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」を立ち上げ、デモ行進や米国大使館前での座り込みに参加。米軍基地の兵士に脱走を呼びかけ、1967年から1970年代初にかけて、基地から脱走した兵士を自宅などに匿い、亡命の世話をしながら、ベトナム戦争終結まで抗議活動を続けた。

1970-1980年代にかけて、『高野長英』『柳宗悦』『デューイ』『夢野久作 - 迷宮の住人』『アメノウズメ伝』などの伝記を執筆。1972年にメキシコエル・コレヒオ・デ・メヒコ、1979年にカナダモントリオールマッギル大学で戦時中・戦後の日本の思想・文化等についての講義を行った。また韓国での文化人弾圧への抗議活動、日本国内の韓国・朝鮮人の拘束・送還施設となっていた大村収容所の廃止運動を続けた。

晩年は、入退院を繰返しながら、1994年に『竹内好』、2005年に論集『埴谷雄高』を刊行、2008年に京都で竹内好に関するシンポジウムを開催した。1996年に雑誌『思想の科学』を終刊とした後、総索引・主要論文のサマリー集等を編纂・刊行。1995年にアジア女性基金、2004年に九条の会の呼びかけ人に加わった。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

1922年6月25日東京市麻布区[1]で、父・祐輔と母・愛子(後藤新平の娘)の間に、4人きょうだいの2番目(長男)として生まれる[2]

  • 石塚 (2010 87)によると、命名者は鶴見俊輔・長田弘『旅の話』によれば父、鶴見俊輔『私の地平線の上に』によれば母とされている。新藤 (1994 12)は、命名者は父で、伊藤博文の幼名による、としている。

1928年2月、5歳のとき、麻布永坂町64へ転居し、その後麹町区元園町へ、更に目白へ転居[3]

鶴見が幼少の頃、父・祐輔は新自由主義を標榜して新政党・明政会を結成し、自宅には父の政友が集まり会合を開いていた[4]。また父・祐輔は雑誌「雄弁」の創刊に関わり、旅行記や小説、評論を執筆するなど講談社と関係が深く[5]、鶴見は姉・和子と自宅に寄贈される講談社の本を競うようにして読み[6]、「満州事変以前の講談社文化にひたりきって育った」[7]

1929年、東京高等師範学校附属小学校入学。同級生には永井道雄嶋中鵬二、同学年に中井英夫がいた[8][9]。父・祐輔は海外での講演旅行などで自宅を空けていることが多く、特に1930年の明政会事件の後、約2年半を海外で過ごし[10]、その間、鶴見は一緒に暮らしていた母・愛子から「しかられつづけのくらし」をしていた[11][12]

小学3年生ないし11歳の頃、不良化し、近所の子供たちと万引き集団をつくって本や小物の万引きを繰り返し、家の金を持ち出し、小学校をサボって映画館に入り浸り、歓楽街に出入りして女給やダンサーと交際、肉体関係を持つなどした[13][14]

12歳の頃にはうつ病になり、睡眠薬を飲んで道路に倒れる自殺未遂を繰り返し、精神病院に3度入院[15][16]

1935年に府立高校尋常科に入学するも2年生の夏に退学になり[8][17]、1936年に府立五中に編入したが、1937年5月に中退した[18][19]

  • 将来を心配した父から、「もういい。土地を買ってやるから女性と一緒にそこに住んで、蜜蜂を飼って暮らせ。14歳の結婚は法律に違反するけど、自分は目をつぶる」と言われた[18]
  • 母・愛子は、大正時代には天理教を信じていたが、俊輔の不良化が原因で1936年にキリスト教に入信した[20]
  • この頃、両親に内緒で、杉並区久我山に物置小屋を借り、家に帰らずに寝泊まりしていたことがあった[21]

米国留学[編集]

1937年7月、父・祐輔の計らいで井口(いのくち)一郎とオーストラリアを旅行[22][23]。同年末に父に伴われて米国へ渡り、翌1938年3月までワシントン斎藤博の公邸に預けられる[24][25]。米国滞在中に、父と面識のあったハーバード大学の歴史学者・アーサー・シュレジンガー・シニアEnglish版教授を介して、同大学大学院に在籍していた都留重人と面識を得る[26][27]。都留は生涯の師となった[28]。同年9月に単身渡米し、マサチューセッツ州コンコードミドルセックス校English版(予備校)に入学[29][30]。留学中、下宿で隣の部屋同士だった本城(のち東郷)文彦と親しくなった[31][32]

  • 父・祐輔は、シュレジンガー・シニア教授に身元引受人になってもらい、鶴見をハーバード大学に入学させることを委嘱していた[33][34]

1939年9月、16歳のとき、大学共通入学試験に合格してハーバード大学に進学、哲学を専攻[35][36]記号論理学者のホワイトヘッドラッセルの講演を聴講し、カルナップクワインに師事した[37]

1941年7月、日本軍の南部仏印進駐に対抗して在米日本資産が凍結され、日本からの送金が止まったため、夏休みにニューヨーク日本文化会館の日本図書館で本の運搬をして働く[38]

  • 18歳のとき、図書館のアルバイト仲間とヘレン・ケラーを囲んで話を聴いたことがあった[39]

先行きへの不安から、生活費を切り詰め、成績優秀だったため[40]、卒業を急いで4年制の大学を3年で卒業できる飛び級コースを選択[41]。この頃、結核のため喀血[42]

1942年3月下旬、大学の第3学年前期が終わったとき、FBIに逮捕され[43]、東ボストン移民局の留置場を経て、同年5月に戦争抑留者としてメリーランド州ミード要塞English版内の収容所に送られる[44][45]

抑留中に卒業論文を完成させ[46]、第3学年後期は大学の授業に出席できず、留置場で受けた後期の試験は不合格だったが、それまで成績優秀だった[47]、卒業論文を参考資料とすることで教授会の投票により特例的に卒業が認められた[48][49]

1942年6月、日米交換船グリップスホルム号に乗船、経由地のロレンソマルケスで交換船・浅間丸に乗り換え、同年8月に日本に帰国[50][51]

  • ミード要塞に抑留中に、交換船に乗船するか尋ねられて、鶴見自身が帰国を決めた[52]。帰国を選んだ理由について鶴見は、日本は必ず負けるという確信を持っていたが、負けるときに負ける側にいたいというぼんやりとした考えからだった、としている[53]
  • 収容所にとどまれば食事の心配はないのに敢えて帰国を選んだ理由について、「(収容所にとどまれば)敗戦後の日本に帰るときには大変に後ろめたい思いをしなきゃいけない」「アメリカに残っていたら、収容所といえども飯は結構困ることないんだよ。イタリア人のコックだし。私にとって(収容所の)飯は旨かったんだよ。だけどそれを戦争の終りまで─負けることは判ってる─終りまで、これを食い続けるのは悪いなという気がしたんだよ」と説明している[54]
  • 船中で乗り合わせた角谷静夫と親しくなった[55]

海軍軍属[編集]

1942年8月、米国から帰国の翌日、自主的に麻布区役所に出頭し、4日後の徴兵検査で第2乙種合格[56]。陸軍に召集されるのを避けるため、海軍軍属にドイツ語通訳として志願し、1943年2月にドイツの封鎖突破船ジャワ島に赴任[57][58]

ジャカルタ在勤海軍武官府に2年間勤務し[59][60]、「渉外課」に属した[61]。主に連合国のラジオ放送を聴いて情報をまとめ、部外秘の新聞を作成する業務に従事した[62]。また役所の紙くずを集めて焼却する、高級将校のために朝食を給仕する、避妊具を持っていく、売春婦を勧誘するなどの雑用にも従事し、「士官クラブ」と呼ばれる士官用の慰安所の設営にあたったこともあった[63][64]

1944年3月のビハール号事件のとき、鶴見たちの官舎の馬小屋を改造した監獄にジャカルタ港から陸に上げられた白人女性たちとインド人らしい男性20人ほどが収監されたことがあり、うち1人の中立国人の男性が感染症を患ったときに、鶴見の隣室の軍属が捕虜の殺害を命じられ、実行したことがあった。鶴見は、戦後、「戦争のくれた字引き」[65]の中でこの件に触れている。[66]

その後、カリエスが悪化し、ジャワ島・チキニBahasa Indonesia版の海軍病院で2度手術を受けた後、シンガポールの輸送船団、通信隊での勤務を経て[67][68][69]、1944年12月初に練習巡洋艦「香椎」で日本に帰還[70][68][71]

帰国後、軽井沢の離山南麓の父の別荘で静養[72]。体調が回復したため、1945年4月から慶応大学日吉校舎に置かれていた海軍軍令部に勤務し、翻訳業務に従事[73][74][75]。同年7月に結核性腹膜炎のため辞職し[74][76][77]鶴見家の疎開先となっていた熱海温泉通りの借家で療養中に敗戦を迎えた[74][78]

『思想の科学』[編集]

戦後、父・祐輔が所有する軽井沢の別荘で結核の療養生活を続ける[79][80]

戦時中、父・祐輔が主宰していた太平洋協会は敗戦に伴い解散したが、銀座昭和通りの山叶ビル3階にあった同会出版部には人員と戦時中に配給を受けた用紙等の物資が残っており、戦後は太平洋出版社と改称し、日比谷市政会館に移転して出版事業を継続していた[81]。1946年1月に父・祐輔は公職追放の対象に指定され、これと前後して姉・和子と鶴見は、太平洋出版社の助力を得、版元を「先駆社」と称して雑誌を創刊することになった[82]

1946年2月に日比谷の市政会館で、鶴見姉弟のほか、武谷三男丸山眞男(と武田清子)が出席して雑誌の創刊について初めて会合を開き、これに都留重人、渡辺慧も加わった。鶴見は自ら執筆者を探して原稿執筆を依頼して回り、同年5月に雑誌『思想の科学』創刊号を刊行した。[83][79][80]

1947年頃から、『思想の科学』の執筆・編集者は市政会館にある編集部で講師を招いて研究会を催すようになった[84]。同年10-11月に毎日新聞社講堂で全10回の「コミュニケイション講座」を開催[85]。「文学」の講義を依頼するため、三鷹太宰治の家を数回訪問したこともあった[86]。鶴見はこの頃、テレビラジオ映画などによるマス・コミュニケイションが人間の思想を均質化することに着目していた[87]

この頃、しばしば占領軍の米軍関係者の訪問を受け、中でも民間情報教育局(CIE)のロバート・ホールやその後任となったエイブラハム・ハルパーンなど、言語関係の政策担当者から相談を受けた[88]

1948年11月、桑原武夫の推薦により京都大学嘱託講師となり、1949年4月に京都大学人文科学研究所助教授となる[89][90]。同研究所では、ルソーの共同研究に参画した[91]

  • 1948年秋にアメリカの人文科学顧問団が来日し、関西地方合同の会議出席のため京大を訪問した際に、桑原の推薦で大学側の英語通訳を務めたことで、鶴見の就任に難色を示していた鳥養利三郎総長が任用に転じた[92][93]

この頃、鶴見は、京都では京都市中京区夷川柳馬場の商家に下宿[94]。毎週金曜午後に京大人文研で開かれる研究会に出席しながら、他日は東京で『思想の科学』の編集の実務に携わり、東京-京都間を汽車で往来し、東京では世田谷区成城の実家に寝泊りする生活をしていた[95]

1949年7月に社団法人・思想の科学研究会が発足[84]。この頃、『思想の科学』の経営状況は悪化し、雑誌の刊行回数は減り、1950年には4月号のみの刊行となっていた[95]。学術団体となった思想の科学研究会は、日本学術振興会から補助金の提供を受けられることになったが、法人格化を主導した会長で東京大学法学部教授の川島武宜らと公職についていない鶴見和子らの間に補助金の使途の決定方法を巡って意見の対立があり、補助金を返上することになった[96]。同年、鶴見は熱海・伊豆山岩波書店の宿泊施設に滞在していた丸山眞男を訪問して会の運営について相談した際に、全国に支部を作ることを提案され、同年秋、京都で「記号の会」を立ち上げ、月例で会合を持つようになり、関係者によって大阪や徳島でも支部団体が組織された[97]

1950年1月、『アメリカ哲学』を刊行[98]。第1次の『思想の科学』は、1950年4月の第22号を以て終刊となった[99]

転向研究[編集]

1950年10月に、父・祐輔が公職追放解除となり、翌1951年2月から内幸町の幸ビル6階にあった太平洋出版社・先駆社の事務所を自身の事務所として使用するようになった[100]。1951年4月にガリ版刷りの『思想の科学』第23号が、版元をそれまでの「先駆社」から「思想の科学研究会」、発行人を清水美枝子に変更して刊行された[99]

この頃、ロックフェラー財団の文化部長をしていたチャールズ・B・ファーズは、1949年に日本に着任して以降『思想の科学』に便宜をはかり、1951年4月に財団から東大を通して思想の科学研究会に研究費が支給された[101]。同年、鶴見は、スタンフォード大学フーバー研究所の客員研究員に招聘されたが、同年5月の京大の文化祭のとき、学生による原爆展の開催に賛同する署名に参加したことが神戸市の米国領事館に問題視され、ビザ発給を拒否された[102]。ロックフェラー財団は、なおも『思想の科学』に助成金を提供する意向を持っていたが、会員のうち、朝鮮戦争下にあって共産党系を支持していた歴史家の井上清奈良本辰也林屋辰三郎らが助成金の返上を提唱し、都留もこれに加わり、鶴見も同調した[103]

1951年5月、うつ病を再発し、京大を1年間休職。精神病院に入院し、翌1952年1月に退院した。「親父のもとに出入りしていたら、自分がだめになると思って」家を出、東京では葛飾区金町掛川尚雄宅に寄寓した。[104][105]

1952年春までに京大人文研の研究室に復帰[106]フランス百科全書に関する共同研究に参画した[107]。京都大学の学生だった西村和義の帰郷運動に加わって鳥取県島根県の各地で講演会・座談会を開催し、また多田道太郞永井道雄梅棹忠夫富士正晴、大阪の大淵和夫、徳島の佃實夫米子から判沢弘らが参加して京都で「庶民列伝の会」の活動を始めた[108]

1953年1月、建民社加藤子明から誘いを受けて、第2次『思想の科学』にあたる雑誌『芽』を創刊[109]

1954年5月、『芽』の終刊号刊行。同月、講談社から第3次『思想の科学』創刊[110]。創刊号では二色刷りによる別紙の折り込みと、加藤芳郎漫画による思想の図解に力を入れたが、読者には評判が悪かった[111]。同年11月に「転向研究会」の初回会合を開催[112]。同年12月、東京工業大学宮城音弥の誘いを受けて、京大人文研から、東工大助教授に転任し、東工大の研究室で定期的に会合を開いた[113]

1955年2月に『思想の科学』は講談社から刊行打ち切りを通告され、同年3月、『サンデー毎日』同月13日号に、『思想の科学』で鶴見による編集費の不明朗な管理、流用の疑いがあったため講談社が契約打ち切りを申し入れた等の記事が掲載された[114]。思想の科学研究会は『サンデー毎日』に抗議を申し入れ、訂正記事が出されたが、続いて『東京日日新聞』にも同趣旨の記事が掲載された[114]。内部調査で報道は事実無根と結論づけられ、会の総会で報道に責任のある人物を除名しようと動議が提出され、これは不採択となったが、三浦つとむら20人ほどが自主的に退会することになった[115]。第3次『思想の科学』の刊行は同年4月で打ち切られた[116]

  • 黒川 (2018 274-278)は、『思想の科学』が講談社という大手出版社を版元としたことから他誌の批判を受けやすくなったこと、思想の科学研究会の会員数が多くなるにつれ会員間に軋轢や疑心を生じたことを問題が生じた原因と指摘している。

1956年1月に久野収と共著で刊行した岩波新書の『現代日本の思想』の売れ行きが好調だったため、印税により葛飾区金町に清水三枝子の家を新築し、自身はその一部屋をあてがわれて下宿する形で生活していた[117]。このとき隣地に賃貸アパートを建て増そうとして借金を抱えることになった[118]

1959年、中央公論社から第4次『思想の科学』創刊[116]。同年、筑摩書房から『日本の百年』の企画の相談を受け、共同で編集・執筆を担当した[119]。また同年『共同研究 転向 上巻』が平凡社から刊行され、これを受けて総理府から公職追放処分を受けた人たちからの追放解除申請書(弁明書)の提供を受け、『共同研究 転向 下巻』の改訂増補版の略伝作成のために利用した[120]

安保闘争[編集]

1960年5月19日深夜に衆議院本会議で日米新安保条約が可決されると、同月21日に安保批判の会の代表の1人だった竹内好都立大学に辞表を提出したことを受けて、同月30日に東京工業大学助教授を辞職[121][122]

翌6月4日のゼネラル・ストライキ(ゼネスト)のとき、虎ノ門から開始された小林トミらの「声なき声の会」のデモ隊に参加。『思想の科学』の事務局を同会の連絡先にすることになった[123]。同月9日に戦前の米国留学経験者12人の「声明」を取りまとめて、米国大使館の前でビラを配った[124]。同月15日のゼネストのときは、日比谷公会堂前から国会前を通り、新橋を経由して東京駅の八重洲口までデモ行進し、翌日以降のデモにも参加した[125]

同年秋、横山貞子と結婚[126][127]。うつ病を再発していたこともあり、結婚後もしばらく金町の清水方で暮らし、横山とは別居が続いた[128][127]。同年12月、横山と瀬戸内海ハンセン病療養施設・長島愛生園を訪問、また年末から年明けまで、伊豆・湯ヶ島沼津名古屋を旅行し、東京に帰ってから同年9月末まで日暮里駅近くの谷中初音町で別々にアパートを借りて暮らした[129]

1961年9月から、和田洋一の招請を受けて、同志社大学文学部社会学科新聞学専攻の担当教授となる[130][131]。同年12月、同2月に起きた嶋中事件の後、中央公論社右翼による攻撃を警戒して同月25日に発売予定だった『思想の科学』天皇制特集号(1962年1月号)の販売中止を決めて断裁処分する事件があり、鶴見らは都留重人の差配により井村寿二に借金をして『思想の科学』を自主刊行するための新会社を立ち上げ、翌1962年3月に裁断処分された内容を復刻・補足して第5次『思想の科学』復刊1号を発行した[132]。資金が続かないとみられていたが、復刊1号の売れ行きが好調で、雑誌刊行はその後も続いた[133]

この頃、京都で、家族の問題について考える「家の会」を立ち上げた[134]。また同年8月15日から、山田宗睦安田武と敗戦の日3人が交代で坊主頭になる「坊主の会」をはじめ、以後15年間、3年に1度、銀座の床屋で坊主頭にしてもらい、また毎年8月15日に断食を行っていた[135][136]

1962年に『共同研究 転向 下巻』を平凡社から刊行[137][138]

同年9月、脳軟化症で自宅療養生活を続けていた父・祐輔の介護をしていた姉・和子が留学することになったため、妹の内山章子と交代で、東京都練馬区関町にあった父の自宅で父の介護をするようになり、1964年夏に金町の貸間を引き払い、関町の家に転居した[139][137]

ベ平連[編集]

1965年3月、高畠通敏から、日本と沖縄の米軍基地が、同年2月から開始されていた米軍の北ベトナム爆撃の拠点となっていることに抗議する市民運動を起そうと相談を受け、「声なき声の会」を拠点に、他のサークルと連絡をとって北爆反対の相談の会を開くことにした[140]。同年4月初旬に本郷の学士会分館で相談会を開き、この頃、市民運動は下火になっていたため、若い世代に指導者を求めることで意見が一致し、小田実に呼びかけ人への参加を依頼[141]。同月、新橋で高畠・小田と打合せをして運動の名称を「ベトナムに平和を!市民・文化団体連合」のち「ベトナムに平和を!市民連合」略称「ベ平連」に決め、同月24日に約1,500人で清水谷公園から米国大使館前を経由して新橋駅近くの土橋までデモ行進をした[142][143]。同年5月に京都で山田慶児らによって「京都べ平連」が発足、6月以降もデモを続け、11月以降は月に1回定例デモを行うことになり、デモは1973年のベトナム戦争終結まで続けられた[144]。その後、東京のデモが定例化すると、鶴見は主として自身が呼びかけ人となっていた東京のデモに参加した[145]

1965年7月、関町で長男・太郞が誕生[146]

1965年8月14日夜から15日朝にかけて、ベ平連は「徹夜ティーチ・イン 戦争と平和を考える」というイベントを企画し、自民党社会党ほか各党の国会議員や元軍人、学者、作家らが出席して討論会を行い、鶴見は桑原武夫・久野収とともに司会をつとめた。討論会はテレビの東京12チャンネルで途中まで生中継された。[147]

1966年春、姉・和子が帰国し、関町の自宅から近い成蹊大学の助教授となり、父の介護に復帰したことに伴い、鶴見一家は京都市北区衣笠大祓町に転居[146]

1966年6月2-14日に、ベ平連はアメリカの平和・人権運動活動家・ハワード・ジンラルフ・フェザーストーンを日本に招いて日本列島を縦断する講演キャラバンを開催[148]。鶴見は通訳として帯同したが、日本人のべ平連関係者には沖縄への渡航許可は下りなかった[149]

同月29日に米軍機がハノイへ爆撃を拡大したため、翌30日-7月1日にかけて、抗議のため米国大使館前で市井三郎いいだももらと「非暴力反戦行動委員会」と名乗って数十人で座り込みを行い、警官隊に排除された[150][143]

  • 同年7月に米国に一時帰国し、辞任した駐日米国大使・ライシャワーは、1986年に刊行した自伝の中で、鶴見が米国留学中に自身の講読に出席していたことに触れ、「強い反米偏見を持ち続けている人」と評していた[151]

べ平連は横須賀岩国の米軍基地の前などで、米軍兵士に脱走を呼びかけるビラやリーフレットを配布していたところ、1967年10月以降、実際に脱走した兵士がべ平連を訪れるようになった[151]。同月、横須賀に寄港した空母イントレピッドから脱走した4人の水兵は、当初、池袋にあった鶴見のいとこ・良行のマンションに匿われ、鶴見は4人のうち2人を引き取って東京・練馬の父の家に匿い、同年11月に京都の自宅に移し、のちに4人が合流して、同月11日に横浜港からナホトカに向かうバイカル号に乗船して、モスクワ経由でスウェーデンへ送った[152][153]

1968年1月には韓国系米国人の脱走兵・金鎮洙を自宅で匿い、同年4月に姉の鶴見和子は関町の自宅で黒人の脱走兵・テリー・ホイットモアを匿った[154]

次第に脱走兵が増えてきたため、べ平連ではその世話をし切れなくなり、鶴見は京都の大徳寺近くに住んでいた米国の詩人・ゲーリー・スナイダーに相談して、トカラ列島諏訪之瀬島にあったそのヒッピー仲間のコミューンで匿ってもらうことにした[155]。このときスナイダーに勧められてLSDを試し、幻覚を見た[156]

1968年10月には、脱走兵を装ったスパイがべ平連に潜入し、北海道・根室港からの国外脱出直前に弟子屈町で逃亡したため、他の脱走兵が米軍に拘束され、更に浪人生をしながらべ平連で活動していた山口文憲がモデルガンを所持していたところ、警察に踏み込まれて銃刀法違反で逮捕される事件が起きた[157]

1970年春、1960年代末から大学紛争で構内の占拠を続けていた学生たちに対し、教授会が警察機動隊の出動を要請し、警察による排除が実施されたことに抗議して、同志社大学教授を辞職[158][159]

同年12月、岩国から脱走し、べ平連に保護された後、自主的に基地に戻り、不許可離隊と治安攪乱の罪に問われたノーム・ユーイング2等兵の軍事裁判に証人として出廷。同月、ユーイングは懲役9ヵ月と不名誉除隊の判決を受けた。[160]

1971年5月、子どもの日に、岩国基地近くの今津川の堤防沿いで、米軍機を妨害するために凧揚げをするイベントに参加[161]

1972年9月から、メキシコエル・コレヒオ・デ・メヒコで10ヵ月間、日本の近代文学と、戦後政治思想の講義をした[162]。この間、1973年1月にパリ和平協定が締結され、ベトナム戦争は終結へ向かった[162]。1973年6月、エル・コレヒオ・デ・メヒコでの講義を終え、欧州各国を経由して日本へ帰国した[163]。同年11月に父・祐輔が死去[164]

朝鮮人社[編集]

1972年6-7月、韓国の詩人・金芝河の投獄に反対する署名を集めて韓国へ渡り、馬山結核療養所に軟禁されていた金に面会した後、ソウル中央庁に署名簿の写しを提出した[165]

1975年、京都市左京区岩倉長谷町に転居[166]

1983年に、京都ベ平連の飯沼二郎が、韓国・朝鮮人の拘束・送還のための収容施設となっていた大村収容所の人種差別的な性格を告発し、廃止を求めて刊行していた雑誌『朝鮮人』の発行を引き継ぎ、自宅を「朝鮮人社」として第21号を刊行。1989年に大村収容所の機能変容実現をみて、1991年の終刊(第27号)まで刊行を続けた。[167]

伝記の執筆[編集]

1973年夏に帰国した後、伝記「柳宗悦おぼえがき」の雑誌連載を開始。1974年1月から1975年12月にかけて『朝日新聞』紙上で「論壇時評」を担当。また同じ朝日新聞社から伝記シリーズの執筆依頼を受け、『高野長英』を著した(1975年刊)。翌1976年には雑誌連載を増補した『柳宗悦』が刊行された。[168]

1976年9月に京都の法然院で発足した現代風俗研究会に初期メンバーとして参加[169]

1979年9月から1980年4月まで、カナダケベック州モントリオールにあるマッギル大学で戦時日本の思想、戦後日本の大衆文化について講義した[170]

1982年から『朝日新聞』の書評委員を務めた[171]

1984年12月『デューイ』刊行[172]。1989年『夢野久作 - 迷宮の住人』刊行[173]。1991年5月『アメノウズメ伝』刊行[174]

晩年[編集]

1992年からノートに『もうろく帖』をつけはじめる[175]。この頃、竹内好の伝記執筆に着手[176]。執筆中の1993年8月に脳梗塞京都南病院に入院し、以後、入退院を繰返し、1994年4月2日に退院[177]。『竹内好』の残りの部分は口述筆記により作成した[177]。この間も東京で開かれていた『思想の科学』の編集会議には出席し続けた[178]。1994年7-8月に『竹内好』のあとがきを書き終えた[179]。同年9月に検査で大腸癌が見つかり、同月国立京都病院で手術を受ける[179]。同年10月に退院[179]

1995年夏、女性のためのアジア平和国民基金の呼びかけ人に参加[180]

1996年5月、雑誌『思想の科学』終刊[181]。終刊後、雑誌の総索引、関係者による討議集、主要論文のサマリー集の刊行を企画し、それぞれ1999年、2005年、2009年に刊行された[182]

1998年から埴谷雄高の『死霊』について評論の執筆をはじめ、2005年に論集『埴谷雄高』を刊行[183]。1999年春、京都での「家の会」の活動終了[184]

2004年6月、九条の会の呼びかけ人に加わり、東京で加藤周一奥平康弘、小田実、大江健三郎らと記者会見を開く[185]。鶴見は早くから国民投票による改憲に理解を示していたが、憲法9条の改定には反対していた[186]

2008年、竹内好に関するシンポジウムの開催を企画し、同年12月、京大会館でシンポジウム「竹内好の残したもの」開催[187]

2009年2月、心房細動のための入院。同年4-5月、再発のため再入院。[188]

2011年6月、日比谷公会堂で開催された「九条の会」7周年の集いで「受身の力」と題して講演[189]。同年10月、脳梗塞で倒れ、入院[190]。リハビリ病院への転院を経て、2012年4月に退院、帰宅したが、発語や筆記は困難になっていた[191]

2015年7月20日、誤嚥性肺炎のため、京都市左京区の民医連第二中央病院で死去[192]。享年93[193]。同月22日に京都市の斎場で、家族および親しい関係者による密葬が行われ、同月24日に京都で死去の記者発表があった[194]。墓は、東京の多磨霊園にある鶴見家の墓所[195]

家族[編集]

妻は英文学者翻訳家横山貞子[196]

人物・評価[編集]

  • 渡米前から自身は無政府主義者だったと言明しており、「クロポトキンを一生懸命読んで」おり、クロポトキンにはマルクスに対する偏見があったため、それが、マルクス主義者にならない、「一種の予防注射になった」としている[202]反戦運動を行う中で、戦時中に海軍軍属に志願した事に関して「なぜ戦争中に抗議の声を上げて牢屋に入らなかったっていう思いは、ものすごく辛いんだよね。だから、英語がしゃべれるのも嫌になっちゃって。戦争中から、道を歩いていても嫌だって感じだった。鬱病の状態ですよ」と本人は後に釈明している[203]
  • 父である鶴見祐輔一高英法科の首席クラスの優等生であったにもかかわらず、倫理的によくない日中戦争や、負けるとわかっていた太平洋戦争の旗振り役となったことを「一番病」と呼び、一番病を攻撃することが自身の戦略であり、著作活動の動機の源泉になっていた、としている[204]。他方で、2年半の米国留学時代には鶴見自身も一番病にかかっていたとし、この時代のことを書くことを無意識に避けていた、としている[205]
  • 吉本隆明は、鶴見が1962年以来、山田宗睦、安田武と「坊主の会」を結成して剃髪や断食を続け、また山田が1965年に刊行した『危険な思想家 - 戦後民主主義を否定する人びと』[206]に推薦文を寄せたことについて、「わたしたちが山田宗睦の著書や、この著書におおげさな推薦の辞をよせている市民民主主義者や進歩主義者の心情から理解できるのは、じぶんたちがゆるく結んでいる連帯の人的なつながりや党派的なつながりが崩壊するのではないか、孤立しつつあるのではないかという深い危機感をかれらが抱きはじめているということだけである。そして、かれらの党派を崩壊させるような言葉をマスコミのなかでふりまいているようにみえる文学者政治学者経済学者を告発しよういうわけだ」と批評している[207]
  • 筑摩書房の編集者・松田哲夫によると、鶴見は専門の哲学はもとより、「マンガやジャーナリズム、近代史について、とてつもない知識」を持っていたという。『ちくま日本文学全集』の編集作業の際、鶴見が5歳の時からの膨大な既読書の内容をすべて覚えており、「古典的名作だけにとどまらない、例えば赤川次郎作品すべて」にまで及んでいることが判明した。これには名だたる読書人揃いの他の編者たち(安野光雅森毅井上ひさし池内紀)も唖然としたという[208]
  • 敬虔なキリスト教徒であった母親への反撥、戦争推進を主張していた一部の僧侶や牧師への不信感から、宗教に反感を持っていたが、仏教徒の文化人との交流の中で仏教に理解を示すようになり、「かくれキリシタン」ならぬ「かくれ佛教徒」と自称するようになった。1975年に行われた松本清張との対談では「社会党の言うように、安保の全面廃棄、軍備の全面禁止というのは観念的か」という問いに「柳宗悦から習った言葉を使うと、一種の陀羅尼というか念仏で考えていくという方法をとっている」と答えている[209]
  • 漫画の中では山上たつひこの『がきデカ』を高く評価し、著書の中で「あの『がきデカ』というのがみんなに読まれているうちは、ああ、日本人にはこういう人がいるんだな、日本ってこんなんだなという自画像をもっているうちは、まだまだ安全だと思っているんですよ。「正義のために戦え」とか、「聖戦」とかいうふうにして戦争の態勢をつくるところまでにはまだ一歩あるなという感じがするのです」[210]「こういうふうに金とセックスだけを追い求める人間が活躍するわけでしょう。ああ、日本人はこうなんだな、こういう人間がたくさんいるんだなと思って大人になることがいいんです。日本人は神の子で、万邦無比の国体なんだと思って海外に出ていったら困るんですよ。『がきデカ』を読んでいれば、ちがった人間になるんじゃないかという希望をもっています」[211]と述べている。
  • テレビ番組『ハケンの品格』がお気に入りで、軍属時代に翻訳と新聞発行を一手に引き受けていた自分と、同番組で描かれていた派遣社員とが重なって見えると記している[212]

著作物等[編集]

著書[編集]

1940年代[編集]

  • 1946 鶴見俊輔『哲学の反省』先駆社、NDLJP 1037936 (閉)

1950年代[編集]

  • 1950 鶴見俊輔『アメリカ哲学』世界評論社、NDLJP 2974055 (閉)
    • 抄録・再版:1955 『プラグマティズム』〈河出文庫〉河出書房、NDLJP 2969374 (閉)
    • 再版:1959 『プラグマティズム入門』〈現代教養文庫〉社会思想研究会出版部、NDLJP 2969375 (閉)
    • 再版:1976 『アメリカ哲学』〈講談社学術文庫〉講談社、JPNO 75077654
    • 再版:2008 『アメリカ哲学 - 戦後日本思想の原点』〈こぶし文庫 49〉こぶし書房、JPNO 978-4875592259
  • 1953 ――『哲学論』〈フォルミカ選書 7〉創文社、NDLJP 2966545 (閉)
  • 1954 ――『大衆芸術』〈河出新書〉河出書房、NDLJP 2466359 (閉)
  • 1956 久野収・――『現代日本の思想 その五つの渦』〈岩波新書〉岩波書店、NDLJP 2969592 (閉)
  • 1958 ――『アメリカ思想から何を学ぶか』〈中央公論文庫〉中央公論社、NDLJP 2974039 (閉)
  • 1959 ――『誤解する権利 日本映画を見る』筑摩書房、NDLJP 2490146 (閉)
  • 1959 久野収・――・藤田省三『戦後日本の思想』中央公論社、NDLJP 2966709 (閉)
    • 再版:1966 勁草書房
    • 再版:1976 〈講談社文庫〉講談社
    • 再版:1995 〈同時代ライブラリー〉岩波書店
    • 再版:2010〈岩波現代文庫〉岩波書店
  • 1959 - 1962 思想の科学研究会(編)『共同研究 転向』平凡社
    • 1959 『―― 上巻』NDLJP 3049049 (閉)
    • 1960 『―― 中巻』NDLJP 3027518 (閉)
    • 1962 『―― 下巻』NDLJP 3027519 (閉)

1960年代[編集]

  • 1961 鶴見俊輔『折衷主義の立場』筑摩書房、NDLJP 2975890 (閉)
  • 1961 - 1964 ――ほか(著)『日本の百年』全10巻
    • 改訂版:1977 - 1978
  • 1963 ――ほか『折伏 創価学会の思想と行動』〈産報ノンフィクション〉産報、NDLJP 2978780 (閉)
  • 1964 久野収・――(編)『20世紀を動かした人々 第1 世界の知識人』講談社、NDLJP 2997930 (閉)
  • 1965 ――ほか『現代日本思想大系 12 ジャーナリズムの思想』筑摩書房、NDLJP 2940612 (閉)
  • 1966 ――・星野芳郎『日本人の生き方』〈講談社現代新書〉講談社、NDLJP 2977360 (閉)
  • 1967 ――『日常的思想の可能性』筑摩書房、NDLJP 2977361 (閉)
  • 1967 ――『限界芸術論』勁草書房、NDLJP 2512455 (閉)
  • 1967 ――・小田実・開高健(編)『反戦の論理 - 全国縦断日米反戦講演記録』河出書房新社、NDLJP 2990067 (閉)
  • 1967 ――・開高健・小田実『平和を呼ぶ声 ベトナム反戦・日本人の願い』番町書房、NDLJP 2990068 (閉)
  • 1967 しまねきよしほか『二十世紀の思想』青木書店、NDLJP 3024135 (閉)
  • 1968 ――『不定形の思想』文藝春秋、NDLJP 2977371 (閉)
  • 1968 ――ほか『戦後日本思想大系 第4 平和の思想』筑摩書房、NDLJP 2971894 (閉)
  • 1968 ――・生松敬三(編)『岩波講座哲学 13 文化』岩波書店、NDLJP 2967824 (閉)
  • 1969 久野収・――(編)『思想の科学事典』勁草書房、JPNO 74002068
  • 1969 ――(編著)『大衆の時代』平凡社
    • 新装版:2000 〈現代人の思想セレクション〉平凡社、ISBN 4582703232
  • 1969 小田実・――(編)『反戦と変革』学芸書房、JPNO 72001601
  • 1969 小田実・鈴木道彦・――(編)『脱走兵の思想 国家と軍隊への反逆』太平出版、JPNO 72003885
  • 1969 ――(編著)『語りつぐ戦後史 第1』思想の科学社、JPNO 73001539
  • 1969 ――(編著)『―― 第2』――、JPNO 73001540
  • 1969 ――(編著)『現代人の思想 7 大衆の時代』平凡社、NDLJP 2936310 (閉)
  • 1969 - 1971 ――・佐藤忠男北杜夫(編)『現代漫画』全27巻、筑摩書房

1970年代[編集]

  • 1970 鶴見俊輔(編著)『語りつぐ戦後史 第3』思想の科学社、JPNO 73001541
  • 1970 ――(編)『現代日本記録全集 14 生活の記録』筑摩書房、NDLJP 2987673 (閉)
  • 1971 ――『同時代 鶴見俊輔対話集』合同出版社、JPNO 71001711
  • 1971 ――『北米体験再考』〈岩波新書〉岩波書店、JPNO 73001894
  • 1971 ――(編)『現代に生きる 1 国際活動』東洋経済新報社、JPNO 71008315
  • 1972 ――『ひとが生まれる 五人の日本人の肖像』〈ちくま少年図書館 19 歴史の本〉筑摩書房、JPNO 77101936
    • 再版:1994 〈ちくま文庫〉筑摩書房
  • 1973 ――『漫画の戦後思想』文藝春秋、JPNO 75050431
  • 1973 小田実・――・吉川勇一『市民の暦』朝日新聞社、JPNO 73008811
  • 1975 ――『私の地平線の上に』潮出版社、JPNO 71009190
  • 1975 ――『高野長英』〈朝日評伝選〉朝日新聞社、NCID BN00906091
  • 1975 ――(編著)『近代日本思想大系 24 柳宗悦集』筑摩書房、JPNO 74012999
  • 1976 ――『転向研究』筑摩叢書、JPNO 71000020
  • 1976 ――『いくつもの鏡 論壇時評1974-1975』朝日新聞社、JPNO 71005535
  • 1976 ――『グアダルーペの聖母』筑摩書房、JPNO 73015264
  • 1976 ――『柳宗悦』〈平凡社選書〉平凡社、JPNO 73019287
    • 再版:1994 〈平凡社ライブラリー〉平凡社
  • 1976 足立巻一ほか『まげもののぞき眼鏡 大衆文学の世界』河出書房新社、JPNO 75011400
    • 再版:1981 ――ほか 旺文社文庫
  • 1978 長田弘ほか『日本人の世界地図』潮出版社、JPNO 78026504
    • 再版:1986 〈潮文庫〉潮出版社
    • 再版:1997 〈同時代ライブラリー〉岩波書店
  • 1979 ――『読書のすすめ』潮出版社、JPNO 79019857
  • 1979 ――『太夫才蔵伝 漫才をつらぬくもの』〈平凡社選書〉平凡社、JPNO 80003996
    • 再版:2000 〈平凡社ライブラリー〉平凡社
  • 1979 ――『本と人と』西田書店、JPNO 80008768
  • 1979 ――(編)『叢書児童文学 5 児童文学の周辺』世界思想社、JPNO 79018948
  • 1979 ――・山本明(編)『抵抗と持続』〈Sekaishiso seminar〉世界思想社、JPNO 79016518

1980年代[編集]

  • 1980 鶴見俊輔『文章心得帖』潮出版社、JPNO 80023322
  • 1980 ――『戦争体験 戦後の意味するもの 鶴見俊輔対話集』〈叢書・同時代に生きる 2〉ミネルヴァ書房、JPNO 80032266
  • 1980 長田弘ほか『歳時記考』潮出版社、JPNO 81001453
    • 再版:1997 〈同時代ライブラリー〉岩波書店
  • 1980 ――・亀井俊介『アメリカ』文藝春秋、JPNO 81003346
  • 1981 ――『戦後を生きる意味』筑摩書房、JPNO 81027262
  • 1981 ――『戦後思想三話』〈叢書・同時代に生きる 5〉ミネルヴァ書房、JPNO 81039094
  • 1982 ――『戦時期日本の精神史 1931~1945年』岩波書店、JPNO 82037918
  • 1982 ――『家の中の広場』編集工房ノア、JPNO 82051991
  • 1983 ――・安田武(述)『忠臣蔵と四谷怪談 - 日本人のコミュニケーション』〈朝日選書〉朝日新聞社、JPNO 84012437
  • 1984 ――『戦後日本の大衆文化史 1945~1980年』岩波書店、JPNO 84030919
  • 1984 ――『絵葉書の余白に 文化のすきまを旅する』〈東書選書 91〉東京書籍、JPNO 84043261
  • 1984 ――『ことばを求めて』太郎次郎社、JPNO 85063775
  • 1984 ――『人類の知的遺産 60 デューイ』講談社、ISBN 4061453602
  • 1985 ――『読書日録』潮出版社、JPNO 85036110
  • 1985 ――『大衆文学論』六興出版、JPNO 85056517
  • 1985 ――『テレビのある風景』マドラ出版、JPNO 20676756
  • 1985 ――・粉川哲夫『思想の舞台 - メディアへのダイアローグ』田畑書店、JPNO 86010244
  • 1986 多田道太郎・――(述)『変貌する日本人』三省堂、JPNO 86057945
  • 1986 - 1987 伊東光晴河合隼雄副田義也・――・日野原重明(編)『老いの発見』全5巻、岩波書店
  • 1987 ――・野村雅一『ふれあう回路』〈ポリフォニー・ブックス〉平凡社、ISBN 4582745075
  • 1987 ――(編著)『現代風俗通信 1977~1986』学陽書房、ISBN 4313810080
  • 1988 ――『老いの生きかた こころの本』筑摩書房、ISBN 4480841911
  • 1988 ――・小林和夫『祭りとイベントのつくり方』晶文社、ISBN 4794957904
  • 1988 ――・小林和夫(編)『祭りとイベントのつくり方』晶文社、ISBN 4794957904
  • 1988 ――・粉川哲夫(編)『コミュニケーション事典』平凡社、ISBN 4582126103
  • 1989 ――『思想の落し穴』岩波書店、ISBN 400002664X
  • 1989 ――『夢野久作 - 迷宮の住人』〈シリーズ民間日本学者 20〉リブロポート、ISBN 4845704072
  • 1989 ――・森毅『ことばを豊かにする教育』明治図書出版、ISBN 4180984083
  • 1989 ――・中川六平(編)『天皇百話』〈ちくま文庫〉筑摩書房、ISBN 4480022880
  • 1989 - 1990 ――ほか(編)『ちくま哲学の森』全9巻、筑摩書房
    • 再版:2011 - 2012 ――・安野光雅・森毅・井上ひさし・池内紀(編)

1990年代[編集]

  • 1990 久野収・――『思想の折り返し点で』朝日新聞社、ISBN 4022562218
    • 再版:1998 〈朝日選書〉朝日新聞社
  • 1991 鶴見俊輔『らんだむ・りぃだぁ』潮出版社、ISBN 4267012210
  • 1991 ――『アメノウズメ伝 - 神話からのびてくる道』平凡社、ISBN 4582739075
  • 1994 ――ほか(編)『帰ってきた脱走兵 ベトナムの戦場から25年』第三書館、ISBN 4807494198
  • 1994 - 1996 ――ほか(編)『新ちくま文学の森』全16巻、筑摩書房
  • 1995 ――『竹内好 - ある方法の伝記』〈シリーズ民間日本学者 40〉リブロポート、ISBN 4845709775
  • 1995 ――ほか『神話的時間』熊本子どもの本の研究会、JPNO 99065278
  • 1997 ――『期待と回想』晶文社、上巻 ISBN 4794963130、下巻 ISBN 4794963149
    • 改訂版:2008 『期待と回想 語り下ろし伝』〈朝日文庫〉朝日新聞社、ISBN 978-4022615596
  • 1997 木村聖哉・――『「むすびの家」物語 ワークキャンプに賭けた青春群像』岩波書店、JPNO 4000261770
  • 1997 ――・西成彦神沢利子(著)熊本子どもの本の研究会出版部(編)『神話とのつながり』熊本子どもの本の研究会、ISBN 4990058526
  • 1997 鹿野政直・――・中山茂(編)『民間学事典 事項編』三省堂、ISBN 438515841X
  • 1997 ――・――・――(編)『民間学事典 人名編』三省堂、ISBN 4385158401
  • 1997 ――(編)佐藤忠男ほか(述)『日本人のこころ 原風景をたずねて』岩波書店、ISBN 4000017411
  • 1997 河合隼雄・――(編)『現代日本文化論 9 倫理と道徳』岩波書店、ISBN 4000261290
  • 1998 ――『隣人記』晶文社、ISBN 4794963661
  • 1998 梅棹忠夫・――・河合隼雄(述)朝日新聞大阪本社(編)『丁丁発止 梅棹忠夫・鶴見俊輔・河合隼雄』かもがわ出版、ISBN 4876994161
  • 1999 ――『教育再定義への試み』〈シリーズ教育の挑戦〉岩波書店、ISBN 4000264427
  • 1999 ――・福島美枝子(編)『本音を聴く力 中学生は何を考えているのか』同朋舎、ISBN 4810425533
  • 1999 ――(編)『日本の名随筆 別巻97 昭和1』作品社、ISBN 4878936770
  • 1999 鶴見良行(著)――(編著)『鶴見良行著作集 1 出発』みすず書房、ISBN 4622038110

2000年代[編集]

  • 2000 鶴見良行(著)鶴見俊輔(編)『鶴見良行著作集 5 マラッカ』みすず書房、ISBN 4622038153
  • 2000 林達夫(著)――(監修)『林達夫セレクション』全3巻、〈平凡社ライブラリー〉平凡社
  • 2000 宇野千代、遠藤周作ほか(著)――(監修)『人生のエッセイ』全10巻、日本図書センター
  • 2001 ――『夢野久作と埴谷雄高』深夜叢書社、ISBN 488032244X
  • 2001 加藤周一・――『二〇世紀から』潮出版社、ISBN 4267016119
  • 2001 ――・鈴木正いいだもも『転向再論』平凡社、ISBN 4582702317
  • 2001 ――(編)『日本人のこころ 2 新しく芽ばえるものを期待して』岩波書店、ISBN 4000017667
  • 2002 ――『未来におきたいものは 鶴見俊輔対談集』晶文社、ISBN 4794948719
  • 2002 ――『鶴見俊輔と中学生たち』全3巻、晶文社
    • 南伸坊(絵)『大切にしたいものは何? ――』ISBN 4794926510
    • 佐々木マキ(絵)『きまりって何? ――』ISBN 4794926529
    • 長新太(絵)『大人になるって何? ――』ISBN 4794926537
  • 2005 瀬戸内寂聴・――『千年の京から「憲法九条」 - 私たちの生きてきた時代』かもがわ出版、ISBN 4876998728
  • 2005 ――(編)『源流から未来へ 「思想の科学」五十年』思想の科学社、ISBN 4783600996
  • 2005 ――・池澤夏樹ほか(著)埼玉大学共生社会研究センター(編)『歩く学問ナマコの思想』コモンズ、ISBN 486187016X
  • 2005 佐々木毅ほか(編)『戦後史大事典 1945 - 2004』三省堂、ISBN 4385154309
  • 2006 ――『詩と自由 恋と革命』〈詩の森文庫 C11〉思潮社、ISBN 4783717117
  • ―― 加藤 黒川 (2006) 2006 ――・加藤典洋・黒川創『日米交換船』新潮社、ISBN 4103018518
  • 2006 ――・斎藤慎爾(編)『サザエさんの〈昭和〉』柏書房、ISBN 4760129634
  • 2007 ――『たまたま、この世界に生まれて 半世紀後の「アメリカ哲学」講義』編集グループSURE、JPNO 22242555
  • 2007 吉岡忍・――『脱走の話 ベトナム戦争といま』編集グループSURE、JPNO 21462432
  • 2007 ――・加々美光行(編)『無根のナショナリズムを超えて 竹内好を再考する』日本評論社、ISBN 978-4535585065
  • 2009 ――『言い残しておくこと』作品社、ISBN 978-4861822704
  • 2009 中島岳志大澤真幸・山田慶児・――・山田稔・井波律子ほか(述)――(編)『アジアが生みだす世界像 - 竹内好の残したもの』編集グループSURE、JPNO 22247325
  • 2009 ――・上坂冬子『対論・異色昭和史』〈PHP新書 591〉PHP研究所、ISBN 978-4569705736
  • 2009 ――(述)黒川創(編)『不逞老人』河出書房新社、ISBN 978-4309244853
  • 2009 森毅・――『人生に退屈しない知恵』〈シリーズこの人に会いたかった 1〉編集グループSURE、JPNO 22226740

2010年代[編集]

  • 2010 鶴見俊輔『ちいさな理想』編集グループSURE、JPNO 22229067
  • 2010 ――『思い出袋』〈岩波新書〉岩波書店、ISBN 978-4004312345
  • 2010 ――『もうろく帖』編集グループSURE、JPNO 22241717
  • 2010 ――『かくれ佛教』ダイヤモンド社、978-4478014639
  • 2010 ――・重松清『ぼくはこう生きている 君はどうか』潮出版社、ISBN 978-4267018404
    • 再版:2016 〈潮文庫〉潮出版社
  • 2011 ――『象の消えた動物園 同時代批評』編集工房ノア、ISBN 978-4892711909
  • 2011 ――・関川夏央『日本人は何を捨ててきたのか 思想家・鶴見俊輔の肉声』筑摩書房、ISBN 978-4480857972
    • 再版:2015 〈ちくま学芸文庫〉筑摩書房
  • 2011 ――・小田実『オリジンから考える』岩波書店、ISBN 978-4000224161
  • 2012 ――『日本人は状況から何をまなぶか』編集グループSURE、JPNO 22241818
  • 2013 ――『流れに抗して』編集グループSURE、JPNO 22422016
  • 2015 ――『まなざし』藤原書店、ISBN 978-4865780505
  • 2017 ――『もうろく帖 後編』編集グループSure、JPNO 23113455

著作集[編集]

  • 1975 - 1976 鶴見俊輔『鶴見俊輔著作集』全5巻 筑摩書房
    • 1975 『―― 1 哲学』JPNO 74007641
    • 1975 『―― 2 思想1』JPNO 71008960
    • 1975 『―― 3 思想2』JPNO 74007642
    • 1975 『―― 4 芸術』JPNO 74007643
    • 1976 『―― 5 時論・エッセイ』JPNO 74007644
  • 2011 ――(著)冨板敦(編)『鶴見俊輔語録』皓星社
  • 2018 ――(著)松田哲夫(編)『鶴見俊輔全漫画論』〈ちくま学芸文庫〉筑摩書房

翻訳[編集]

映像[編集]

付録[編集]

関連文献[編集]

  • 伊藤隆『歴史と私 - 史料と歩んだ歴史家の回想』〈中公新書 2317〉中央公論社、2015年、ISBN 978-4121023179、p.86
  • ――『抵抗人名録 - 私が選んだ77人』金曜日、2008年、ISBN 978-4906605439
  • 絓(すが)秀実『1968』〈知の攻略 思想読本〉作品社、2005年、ISBN 486182009X
  • 『しんぶん赤旗』2004年7月2日、第1面
  • 佐高信『いま、この人を見よ! - 佐高信が褒める』光文社、2001年、ISBN 4334973019
  • 阿奈井文彦『ベ平連と脱走米兵』〈文春新書 126〉文藝春秋、2000年、ISBN 4166601261、p.12
  • 別冊宝島編集部(編)『「カルト」の正体。』〈宝島社文庫〉宝島社、2000年、ISBN 4796616853、pp.390-391
    • 改版:『「救い」の正体。』〈宝島社SUGOI文庫〉宝島社、2008年、ISBN 978-4796665025、pp.390-391

脚注[編集]

  1. 麻布桜田町の後藤新平邸の敷地内の「南荘」と呼ばれていた建屋で(石塚 2010 78,85,89)、地番は三軒家町53番地(石塚 2010 78,123)。
  2. 石塚 2010 87,89
  3. 石塚 2010 123,133
  4. 石塚 2010 123
  5. 石塚 2010 132-133,138-139
  6. 石塚 2010 128
  7. 石塚 2010 148
  8. 8.0 8.1 鶴見 加藤 黒川 2006 26
  9. 黒川 2018 54
  10. 石塚 2010 177
  11. 石塚 2010 176
  12. 母から「あなたは悪い子だ」と言われ続けた(宮川匡司、鶴見俊輔氏死去‐権威に寄らず立ち続け(評伝)日本経済新聞、2015年7月24日、夕刊、15面)
  13. 石塚 2010 181-182。鶴見『日常生活の思想』p.4からの引用として。同書p.241からの引用として、大塚駅の売店からカルミンを盗んで村八分にされた、としている。
  14. 新藤 1994 44,52。鶴見『恩人』からの引用として、厳格な母親に反撥し、近所の中学生と組んで万引集団を結成、本屋から万引した本を別の本屋へ売りに行く、駅の売店から小物を盗むといった悪事を繰り返し、このためクラスでは除け者にされていた、という(同)
  15. 石塚 2010 185,195
  16. 新藤 1994 58
  17. 新藤 1994 75。武蔵小山の古本屋で集めた莫大な数の性に関する文献を学校のロッカーに置いていたことが発覚したため入学後1年1学期で府立高校を退学になった(同)。府立高校尋常科で同期だった遠山一行は、鶴見と思しき同級生について「ある日突然―と私には見えた―中学の同級生が学校をやめてしまったことがあった。その男は頭がよく勉強もできたが、かなり変ったところがあって、たとえば試験の答案を、わざわざ40点とか50点とかに仕立て上げるために、正しい答えを消しゴムで消したりしておもしろがっていた。そして日ごろ反りの合わなかった教師をなぐって、学校をやめたのである。(中略)その男は戦後社会評論家として登場し、名をなした」(『遠山一行著作集』第4巻所収「集団の行為」p.196、新潮社、1987年)と回想している。
  18. 18.0 18.1 石塚 2010 195-196
  19. 鶴見 加藤 黒川 2006 26-27
  20. 石塚 2010 78,195
  21. 黒川 2018 74
  22. 石塚 2010 198,199-200
  23. 鶴見 加藤 黒川 2006 194-195
  24. 石塚 2010 199,200
  25. 鶴見 加藤 黒川 2006 195-196
  26. 石塚 2010 212,214
  27. 鶴見 加藤 黒川 2006 27,195-199,415
  28. 鶴見 加藤 黒川 2006 415
  29. 石塚 2010 199,201-202
  30. 鶴見 加藤 黒川 2006 196
  31. 石塚 2010 205
  32. 鶴見 加藤 黒川 2006 81
  33. 石塚 2010 205,206,209
  34. 鶴見 加藤 黒川 2006 47,290
  35. 鶴見 加藤 黒川 2006 27,41,196-200,289-290,469
  36. 石塚 2010 208
  37. 鶴見 加藤 黒川 2006 27-28
  38. 鶴見 加藤 黒川 2006 32-33,290-291。父の友人だった前田多門が館長をしていた(同)。
  39. 黒川 2018 113
  40. 1,000人いる同級生の中の上位10%に入っていた(鶴見 加藤 黒川 2006 27-28)
  41. 鶴見 加藤 黒川 2006 27-28,289-290
  42. 鶴見 加藤 黒川 2006 290
  43. 太平洋戦争の開戦後に移民局で取調べを受けた際に、「自分は無政府主義者だから日本も米国も支持しない」と回答したため(鶴見 加藤 黒川 2006 22,43-44,291-292)。開戦直後に在米の日本の外交官や政府関係者、報道関係者は米当局により軟禁されたが、米国東部にいた日本人留学生には逮捕者はほとんどいなかった(鶴見 加藤 黒川 2006 22,43-44,269-270,291)。
  44. 黒川 2018 122-123
  45. 鶴見 加藤 黒川 2006 22,42,292-296。送致の前に審問(hearing)が行なわれ、シュレジンガー・シニア教授が弁護人となって陪審員3人の票決を受けたが、2対1で抑留が決まった(鶴見 加藤 黒川 2006 46,269,294-295)。
  46. 指導教官のラルフ・バートン・ペリーEnglish版教授に依頼して書きかけの卒業論文を届けてもらって続きを執筆し、ニューヨークにいた姉・和子に送付してタイプしてもらい論文を仕上げた(鶴見 加藤 黒川 2006 28,47-48,293-294)。学士論文のテーマは、ウィリアム・ジェイムズのプラグマティズムについて(鶴見 加藤 黒川 2006 293)。
  47. 3年の前期の成績は、学年全体約1,000人の上位5%に入っており、そのまま卒業すればスマ・クム・ラウディ(Summa Cum Laude)と呼ばれる成績だったため(鶴見 加藤 黒川 2006 48)
  48. 鶴見 加藤 黒川 2006 28,47-48,102,122,293-294,298,314-135
  49. 石塚 2010 213は、1941年の出来事として、FBIに抑留され裁判にかけられた、収容所で卒論を仕上げ、4年制大学を3年で卒業した、としている。
  50. 鶴見 加藤 黒川 2006 14-15,22,298-301,374
  51. 石塚 2010 216
  52. 鶴見 加藤 黒川 2006 24,298-299
  53. 鶴見 加藤 黒川 2006 24-25
  54. ETV特集『鶴見俊輔 戦後日本 人民の記憶』(NHK教育テレビ、2009年4月12日)での発言。
  55. 鶴見 加藤 黒川 2006 123-125,326-327
  56. 鶴見 加藤 黒川 2006 181-182,374,472。当時、胸に結核性カリエスの異常突起ができており、結核であることは医学的にはっきりしていたが、徴兵官の「親の金で敵国に行っていたやつなんて、叩き直して、日本国民にしなきゃいけないという情熱」によって合格になった、としている(同)。
  57. 石塚 2010 217
  58. 鶴見 加藤 黒川 2006 141,374,473
  59. 石塚 2010 219
  60. 鶴見 加藤 黒川 2006 244-245,473
  61. 黒川 2018 147
  62. 鶴見 加藤 黒川 2006 376
  63. 黒川 2018 146-147。鶴見 上野 小熊 2004 による。
  64. 福間良明『「戦争体験」の戦後史 ‐ 世代・教養・イデオロギー』〈中公新書〉中央公論社、1990年、ISBN 978-4121019905、p.173
  65. 河出書房『文藝』v.13 n.12、1956年8月号、pp.13-28
  66. 黒川 2018 150-156
  67. 黒川 2018 156-159
  68. 68.0 68.1 石塚 2010 217,222
  69. 鶴見 加藤 黒川 2006 166-167,237-238,376-377
  70. 黒川 2018 162
  71. 鶴見 加藤 黒川 2006 376-377,473
  72. 黒川 2018 162-163
  73. 黒川 2018 165-166
  74. 74.0 74.1 74.2 石塚 2010 225,226
  75. 鶴見 加藤 黒川 2006 237-239,473
  76. 黒川 2018 170は、同年6月に休職、としている。
  77. 鶴見 加藤 黒川 2006 473は、同年5月まで勤務、としている。
  78. 鶴見 加藤 黒川 2006 473
  79. 79.0 79.1 石塚 2010 228-229
  80. 80.0 80.1 鶴見 加藤 黒川 2006 10,437-438
  81. 黒川 2018 176,179-180
  82. 黒川 2018 179-181
  83. 黒川 2018 182-190
  84. 84.0 84.1 黒川 2018 208-209
  85. 黒川 2018 209-210
  86. 黒川 2018 210
  87. 黒川 2018 210-211
  88. 黒川 2018 211-215
  89. 黒川 2018 215-218,221-222
  90. 石塚 2010 231,235
  91. 黒川 2018 225-228
  92. 黒川 2018 222-223
  93. 松尾尊兌『滝川事件』〈岩波現代文庫 G136〉岩波書店、2005年、ISBN 4006001363、p.371
  94. 黒川 2018 221-222
  95. 95.0 95.1 黒川 2018 229
  96. 黒川 2018 234-235,240
  97. 黒川 2018 230-231
  98. 黒川 2018 218
  99. 99.0 99.1 黒川 2018 231-232
  100. 黒川 2018 230,232-234
  101. 黒川 2018 235-236
  102. 黒川 2018 234-239
  103. 黒川 2018 240-241
  104. 石塚 2010 238
  105. 黒川 2018 248
  106. 黒川 2018 252
  107. 黒川 2018 253-254
  108. 黒川 2018 253
  109. 黒川 2018 254-257
  110. 黒川 2018 263
  111. 黒川 2018 266
  112. 黒川 2018 267
  113. 黒川 2018 267-268
  114. 114.0 114.1 黒川 2018 272-274
  115. 黒川 2018 274-279
  116. 116.0 116.1 黒川 2018 290
  117. 黒川 2018 282-283,316
  118. 黒川 2018 318-319
  119. 黒川 2018 292
  120. 黒川 2018 293-294
  121. 黒川 2018 296-298
  122. 石塚 2010 263
  123. 黒川 2018 298-301
  124. 黒川 2018 301-302
  125. 黒川 2018 302-312
  126. 黒川 2018 312-321
  127. 127.0 127.1 石塚 2010 243,264-265
  128. 黒川 2018 316-317
  129. 黒川 2018 318-320
  130. 黒川 2018 325
  131. 石塚 2010 264
  132. 黒川 2018 326-332
  133. 黒川 2018 330-332
  134. 黒川 2018 338-342
  135. 黒川 2018 342-343
  136. 佐藤卓己『八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学』〈ちくま新書 544〉筑摩書房、ISBN 4480062440、p.131。佐藤卓己『増補 八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学』〈ちくま学芸文庫〉筑摩書房、ISBN 978-4480096548、p.141
  137. 137.0 137.1 石塚 2010 265
  138. 鶴見 加藤 黒川 2006 377
  139. 黒川 2018 345
  140. 黒川 2018 348
  141. 黒川 2018 348-349
  142. 黒川 2018 349
  143. 143.0 143.1 石塚 2010 267
  144. 黒川 2018 349-352
  145. 黒川 2018 351
  146. 146.0 146.1 黒川 2018 346
  147. 黒川 2018 356-357
  148. 黒川 2018 357
  149. 黒川 2018 359
  150. 黒川 2018 359-360
  151. 151.0 151.1 黒川 2018 361
  152. 黒川 2018 362-365
  153. 石塚 2010 268
  154. 黒川 2018 365
  155. 黒川 2018 364-370
  156. 黒川 2018 368-370
  157. 黒川 2018 371-372
  158. 黒川 2018 372-374
  159. 石塚 2010 269
  160. 黒川 2018 374-376
  161. 黒川 2018 375-376
  162. 162.0 162.1 黒川 2018 387
  163. 黒川 2018 389
  164. 黒川 2018 390
  165. 黒川 2018 397-398
  166. 黒川 2018 386
  167. 黒川 2018 385-386
  168. 黒川 2018 407-411
  169. 黒川 2018 417
  170. 黒川 2018 422-429
  171. 黒川 2018 436-437
  172. 黒川 2018 437-439
  173. 黒川 2018 439-441
  174. 黒川 2018 444-446
  175. 黒川 2018 449-451
  176. 黒川 2018 451
  177. 177.0 177.1 黒川 2018 456-457
  178. 黒川 2018 457
  179. 179.0 179.1 179.2 黒川 2018 458
  180. 黒川 2018 464-467
  181. 黒川 2018 459-460,463-464
  182. 黒川 2018 477-478
  183. 黒川 2018 467-468
  184. 黒川 2018 473
  185. 黒川 2018 475
  186. 黒川 2018 475-476
  187. 黒川 2018 479,483-485
  188. 黒川 2018 485
  189. 黒川 2018 486
  190. 黒川 2018 488,492
  191. 黒川 2018 492
  192. 黒川 2018 489
  193. 黒川 2018 493
  194. 黒川 2018 490,493-496
  195. 黒川 2018 496
  196. 196.0 196.1 小谷野 2007 178-179
  197. 197.0 197.1 197.2 小谷野 2007 177,179
  198. 198.0 198.1 小谷野 2007 179
  199. 石塚 2010 17
  200. 小谷野 2007 177-179
  201. 201.0 201.1 黒川 2018 9
  202. 鶴見 加藤 黒川 2006 24
  203. 鶴見 上野 小熊 2004 42-135
  204. 鶴見 加藤 黒川 2006 19-20,50-52
  205. 鶴見 加藤 黒川 2006 19-20
  206. 〈カッパブックス〉光文社、NDLJP 2974380 (閉)
  207. 竹内洋『革新幻想の戦後史』中央公論新社、2011年、ISBN 978-4120043000、p.326
  208. 松田哲夫『編集狂時代』本の雑誌社、1994年、ISBN 493846344X、(要ページ番号)
  209. 松本清張『対談 昭和史発掘』〈文春新書 677〉文藝春秋、ISBN 978-4166606771、p.112
  210. 鶴見 2018 「マンガの歴史から」
  211. 鶴見 2018 「日本のマンガの指さすもの」
  212. 鶴見俊輔「Interview 大転向 時代の日本人に言っておきたいこと (特集 グッとくる左翼)」朝日新聞社『論座』No.143、2007年4月号、pp.98-105
  213. 黒川 2018 470

参考文献[編集]

  • 鶴見の著書については著作物等を参照。
  • 黒川 (2018) 黒川創『鶴見俊輔伝』新潮社、ISBN 978-4104444090
  • 石塚 (2010) 石塚義夫『鶴見祐輔資料』講談社出版サービスセンター、ISBN 9784876019120
  • 著者不明『鶴見俊輔 いつも新しい思想家』〈Kawade道の手帖〉河出書房新社、2008年、ISBN 978-4309740201
  • 小谷野 (2007) 小谷野敦『日本の有名一族 - 近代エスタブリッシュメントの系図集』〈幻冬舎新書〉幻冬舎、ISBN 978-4344980556
  • 原田達『鶴見俊輔と希望の社会学』世界思想社、2001年、ISBN 4790709078
  • ローレンス・オルソン(著)黒川創・北沢恒彦・中尾ハジメ(訳)『アンビヴァレント・モダーンズ - 江藤淳・竹内好・吉本隆明・鶴見俊輔』新宿書房、1997年、ISBN 4880082422
  • 新藤 (1994) 新藤謙『ぼくは悪人 少年鶴見俊輔』東方出版、ISBN 4885913977
  • 上原隆『「普通の人」の哲学 - 鶴見俊輔・態度の思想からの冒険』毎日新聞社、1990年、ISBN 4620307130