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佐藤 榮作(さとう えいさく)
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在任期間 | 1964年11月9日 - 1972年7月7日 |
生没年月日 | 1901年(明治34年)3月27日 |
出生地 | 山口県熊毛郡田布施町 |
出身校 | 東京帝国大学 |
学位・資格 | 従一位大勲位 法学士 ノーベル平和賞 |
前職 | 衆議院議員 |
世襲の有無 | 家族・親族関係参照 |
選挙区 | 旧山口2区(現在はない) |
当選回数 | 衆10回 |
党派 | 自由民主党 |
花押 | |
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佐藤 榮作(さとう えいさく、新字体:栄作、1901年(明治34年)3月27日 - 1975年(昭和50年)6月3日)は、日本の鉄道官僚、政治家。第61、62、63代内閣総理大臣。海軍中将佐藤市郎と第56、57代内閣総理大臣岸信介の実弟。
ノーベル平和賞受賞。従一位大勲位。衆議院議員永年在職表彰受彰。自由民主党史上唯一4選された総裁。総理大臣在任期間は歴代総理中第二位で、連続在任期間は歴代総理中最長の7年8ヶ月。20世紀生まれ初の総理である。
目次
生涯
生い立ち
現在の山口県熊毛郡田布施町に酒造業・佐藤秀助、茂世(もよ)の三男として生まれた。父・秀助は山口県庁に奉職したが、明治31年(1898年)頃、勤めを辞め、酒造業を始めた。佐藤家には酒造の権利が昔からあった。その権利は他家に貸していたものだったが母茂世(もよ)が分家するに当たって酒造の権利をとりもどして茂世(もよ)にあたえられていた。秀助、茂世(もよ)夫妻は、本家のある田縫のすぐそばの岸田で酒造りに従事した。[1]
学生時代
明治40年(1907年)小学校に入学した。小学校のころのあだ名は色が黒かったため「ごぼう」。佐藤家の坊ちゃんとして一目おかれる存在で「栄だんさま」(旦那の意)とよばれた。小鳥を追ったり、鰻とりをしたりと、自然児だった。夏は家のそばの小川で、真っ黒になって泳いだ。[2]
又、村人が佐藤家の者と道で会うと「お許しなさいませ」と挨拶し、佐藤家の子が川で水遊びをしていると無礼のないように避けて通ったという話もある。[3]
高等学校受験の際、名古屋の下宿で偶然に池田勇人(後に首相)と同じ宿に泊まり合わせた[4]。池田は広島の忠海中学の同級生ふたりと、佐藤は山口中学の同級生と、計5人で試験場に行った。入試が終わった日5人は酒を飲み大騒ぎして別れた。試験には合格したが、失敗したら南米へ行こうと思っていたという[5]。
大正10年(1921年)4月東京帝国大学法学部法律学科(独法)入学。大学時代の佐藤は真面目によく勉強するおとなしい学生だった。
大正12年(1923年)12月高等文官試験(行政)合格[6]。大正13年(1924年)4月東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業。
官僚時代
大正13年(1924年)5月鉄道省に入省[7]。以後鉄道畑を歩いて、敗戦の昭和20年(1945年)には大阪鉄道局長を務めていた。左遷されていたことが幸いして岸が遭った公職追放からは免れることができた[8]。1947年に社会党首班政権の片山内閣が誕生した際、当時運輸次官だった佐藤は西尾末広に内閣官房次長に起用される案があったが、辞退している。1948年退官し、民主自由党に入党した。
政歴
遠縁に当たる吉田茂首相とは早くから親交があり、その勧めで総選挙に出馬を予定していたが、第2次吉田内閣で非議員ながら入閣[8]。池田勇人と共に「吉田学校」の代表格。自由党幹事長時代に造船疑獄が発覚し、逮捕状を出されると、犬養健法相に検察指揮権の発動をさせようとしたが、犬養は動かず、吉田首相に犬養を罷免させ、新法相に指揮権を発動させようとした。結局、犬養が指揮権発動したことにより逮捕を免れた[9]。その後、起訴されるも国連恩赦で免訴となる。
保守合同による自由民主党結成では自民党参加を拒否した吉田に橋本登美三郎とともに従った[10]。鳩山引退後に自民党へ入党。兄の岸信介の片腕として党総務会長に就任、三木武夫政務調査会長と共に岸政権を支えた。続く池田内閣でも要職を務めたが、池田の高度成長路線に批判的な立場を取り、その歪みを是正すべく、「社会開発」、「安定成長」、「人間尊重」といったスローガンのもと、ブレーンらとともに自らの政権構想を練り上げていった[11]。
内閣総理大臣
就任
1964年(昭和39年)7月、佐藤は池田勇人の三選阻止を掲げ自民党総裁選挙に出馬した。現金が飛び交い、「サントリー」、「オールドパー」などという隠語が流行するほど激しい抗争だったが、党人派の支持を固めた池田が過半数をわずかに超え辛勝した。佐藤は「暫しの冷や飯食い」を覚悟したというが、同年11月、池田の病気退陣に伴い、実力者会談を経て自民党の後継総裁に指名され、内閣総理大臣に就任した[12]。
総裁公選のすぐ後に当選者が病気退陣することとなり、惜敗していた次点の候補者がその後継者に選ばれるという過程は、奇しくも実兄・岸の総理総裁の就任の仕方と同じである。その天命ぶりを彷彿(ほうふつ)とさせるドラマを両方とも間近で見ることになった田中角栄が「たいていの代議士は、努力さえすれば大臣にはなることができる。だが、総理・総裁は、努力してもなれるものではない。やはり運命だ」と語るほどだった。
在任中の主たる施策
首相在任中は、ILO第八十七号条約批准、日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)の批准、国民祝日法改正による敬老の日、体育の日、建国記念の日の制定、公害対策基本法の制定、小笠原諸島・沖縄の返還実現、日米安全保障条約自動延長、日米繊維摩擦の解決等を行なった。
また、1967年(昭和42年)12月11日、衆議院予算委員会の答弁に際し、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のいわゆる非核三原則を表明し、日本の平和国家としてのあり方や平和外交に大きな礎石を築いた。
その一方で、1964年(昭和39年)10月16日に中国が初の核実験を成功させたことに危機感を覚え、直後の1965年(昭和40年)1月12日よりアメリカのホワイトハウスで行われた日米首脳会談において、当時のリンドン・ジョンソン大統領に対し、日本の核武装を否定した上で、日本が核攻撃を受けた場合には日米安全保障条約に基づいて核兵器で報復する、いわゆる「核の傘」の確約を求め、ジョンソンも「保障する」と応じたことが公開された外交文書から明らかとなっている。また、翌13日のロバート・マクナマラ国防長官との会談では、「戦争になれば、アメリカが直ちに核による報復を行うことを期待している」と要請し、その場合は核兵器を搭載した洋上の米艦船を使用できないかと打診し、マクナマラも「何ら技術的な問題はない」と答えている[13]。
長期政権とその背景
政権は「黒い霧事件」に見られるような数々のスキャンダルに見舞われ、「待ちの政治」と呼ばれた政治スタイルも国民受けする華やかなものではなく、在任中の支持率は決して高くなかったが、国政選挙を常に無難に乗り越え続け、ついに本格的な窮地に陥(おちい)ることなく日本政治史にも稀な長期連続政権を達成して、後進に政権を譲った。
この背景には、何といっても好調な経済が第一に挙げられる。佐藤政権期、世は高度経済成長に邁進(まいしん)し続け、「昭和元禄」(福田赳夫が命名)を謳歌(おうか)していた。かつて池田の経済優先の姿勢を批判し続けた佐藤だが、皮肉にも佐藤政権の下で日本経済は池田時代以上の成長を続けた。
さらに自民党内での佐藤の政敵が相次いで世を去ったという事情がある。同じ吉田門下の池田勇人が病に倒れたことによって佐藤は政権の座についたが、その池田は間もなく病没(1965年8月)、大野伴睦(1964年5月没)、河野一郎(1965年7月没)といった党人派のライバルも、佐藤の首相就任前後に相次いで他界した[14]。特に世論から期待の声が高かった実力者・河野の死は極めて大きかった。
このように佐藤にとって政敵不在の中、派閥横断的に将来の総理総裁候補、特に田中角栄、福田赳夫、三木武夫、大平正芳、中曽根康弘、鈴木善幸、宮沢喜一、竹下登たちを政府・党の要職に就けて競わせ育成し、「人事の佐藤」と呼ばれる人心掌握術[15]で政権の求心力を維持し続けた。また、当選回数による年功序列や政治家の世襲といったその後の自民党を特徴づけるシステムが確立したのも佐藤政権である。議会運営においても、国対政治と批判された、金銭や「足して二で割る」妥協案等による野党懐柔がこの頃に定着したとされ、それまで政権交代に意欲を見せていた日本社会党の党勢を削ぐ上でも大きな役割を果たした。他方で田中角栄幹事長や園田直国対委員長等に強行採決を自ら指示する事もあり、日韓基本条約、大学措置法、沖縄返還協定等与野党の対立が激しい懸案を、牛歩戦術や議事妨害で抵抗する野党に対し徹夜や抜き打ち等で強引に採決し、時にはこれに抵抗する衆院議長を更迭する等、硬軟織り交ぜた国会運営を行った。
こうして、好調な経済と安定した党内基盤、そして野党の脆弱さを背景に、国政選挙で安定多数を維持し続け、自民党の黄金時代を体現した。他方で、当初、佐藤が意図していたような経済成長の副作用の是正や、社会資本整備といった課題は先送りされた面は否めず、沖縄問題にエネルギーを集中せざるを得なかった任期後半にかけては、公害問題や対中外交などで後手に回って批判を浴び、苦慮することが多かった。こうした佐藤長期政権への不満は、たとえば自民党の得票率が漸減の傾向にあったことや、全国各地で革新首長が誕生したことなどからも読み取れるが、保守政治の動揺が国政の場で顕在化するのは、ポスト佐藤の保革伯仲時代になってからである。
退陣
1970年(昭和45年)の自民党総裁四選については、自民党内部に政権の長期化を懸念し、勇退による福田赳夫への禅譲論の声もあった。しかし、次期総裁を狙いつつ佐藤派内の掌握のため時間を稼ぎたい田中と、旧岸派分裂時に“福田嫌い”から袂を分かった自民党副総裁・川島正次郎の思惑などが合致し、川島・橋本登美三郎らは、総理引退を考えていた佐藤に四選すべきだと持ちかけ、強力に佐藤四選運動を展開した。そして、佐藤は「沖縄返還の筋道をつける」事を大義名分に、三木武夫を破り現在まで唯一・最多の自民党総裁四選を果たした。四選直後の党大会において浜田幸一が「昨日まで我々は佐藤政権を支持してきた、しかし今日からは違う」と発言したことが語り草になっている。 また外交ではベトナム戦争における北爆を支持し左翼団体から猛反発を浴び、官邸前での焼身自殺事件までもを引き起こした。反共産主義で一貫して親台派アンチ中共の立場を取り続け、中華人民共和国の国際連合加盟に総理在任中は反対し続け野党だけでなく自民党内の親中派からも反発を招き、1971年には福田赳夫外務大臣の不信任決議案に、河野洋平、田川誠一等親中派若手議員の一部が欠席している。
しかし、四選以降は、佐藤自身が次は立候補しないことを米国からの帰途、早々と言明してしまったため、「ポスト佐藤」を巡っての後継争いが早くから激化した。沖縄密約事件(1972年3月27日)やニクソン・ショック(1971年7月14日)が重なったことや通訳を務めた外交官の誤訳が起因とされている日米繊維交渉の拗れや統一地方選挙における革新陣営の台頭等で佐藤政権の求心力は弱まっていった。佐藤が当初意図していた福田へのスムーズな政権移譲は不可能な状況となり、逆に、佐藤派の大番頭だった田中が派の大部分を掌握して分派、田中派を結成し(1972年5月)、総裁公選も田中が宿敵福田を破って勝利した(1972年7月5日)。佐藤政権は、田中を首班とする内閣に政権を引き渡すべく、同年(昭和47年)7月6日に内閣総辞職し、予定通り沖縄返還を花道として7年8ヶ月に渡る長期政権を終えた。
総理退任後
1974年(昭和49年)晩秋、田中首相の日米にまたがる金脈問題が騒がれ始める中、佐藤は非核三原則やアジアの平和への貢献を理由としてノーベル平和賞を日本人で初めて受賞した。その賞金は「国際連合の下に設立された国連大学の発展に協力する等世界の平和と福祉の向上に資すること」を目的として佐藤栄作記念国連大学協賛財団に寄附され、国連大学の行う世界的課題の研究のうち、業績顕著なる者への褒賞として佐藤栄作賞が制定されている。
1975年(昭和50年)5月19日、築地の料亭「新喜楽」において自身が主催する長栄会の席で自民党幹部・財界首脳と会食中に脳溢血で倒れる。4日間「新喜楽」で容態を見たのち慈恵医大に移送されたが一度も覚醒することなく昏睡を続けた後、6月3日に死去。74歳だった。
6月16日、日本武道館で大隈重信以来の「国民葬」が行なわれた。葬儀委員長は田中角栄、遺族代表は岸信介だった。
浄土真宗本願寺派第23世勝如門主より法名「作願院釋和栄」を受け、また山口県の佐藤家菩提寺より「周山院殿作徳繁栄大居士」の戒名も受けている。墓所は東京都杉並区永福の本願寺築地本願寺和田堀廟所と山口県田布施町にある。
倒れる前日まで記していた『佐藤栄作日記』全7巻が朝日新聞社で1996年から97年に刊行された。生前、日記の刊行を持ちかけられると「僕は120歳まで生きるから」とかわしたが、死後に遺族と交渉して実現した。
年譜
- 1901年3月 - 山口県熊毛郡田布施村田縫(現・田布施町)に酒造業を営む佐藤秀助、茂世(もよ)夫婦の七番目の子(三男)として生まれる
- 1907年4月 - 国木尋常小学校入学
- 1913年4月 - 山口県立山口中学校(現・山口県立山口高等学校)入学
- 1918年9月 - 第五高等学校(一部乙類)入学 受験時、池田勇人(元首相)と知り合う
- 1921年4月 - 東京帝国大学法学部法律学科(独法)入学
- 1923年12月 - 高等文官試験(行政)合格
- 1924年4月 - 東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業
- 1926年2月 - 従妹・寛子(元外相松岡洋右の姪)と結婚
- 11月 - 二日市駅長
- 1928年4月 - 長男・龍太郎が生まれる
- 1929年5月 - 門司鉄道局庶務課文書掛長
- 1931年4月 - 門司鉄道局鳥栖運輸事務所長
- 1932年2月 - 次男・信二が生まれる
- 1933年8月 - 門司鉄道局運輸庶務掛長
- 1934年6月 - 米国の鉄道研究を目的とした在外研究員となり、8月に出発する
- 1936年4月 - 帰国 7月 - 鉄道省事務官・監督局業務課勤務
- 1937年6月 - 鉄道省陸運監理官
- 1938年5月 - 中華民国へ出張 6月 - 帰国 8月 - 鉄道書記官・監督局鉄道課長 9月 - 中華民国へ再び出張
- 1939年6月 - 中華民国より帰国
- 1940年6月 - 鉄道省監督局総務課長
- 1941年12月 - 鉄道省監督局長
- 1942年11月 - 監理局長
- 1943年11月 - 運輸通信省自動車局長
- 1944年4月 - 大阪鉄道局長[16]、[17]
- 1946年2月 - 運輸省鉄道総局長官
- 1947年2月 - 運輸次官
- 1948年3月 - 運輸次官を依願免官 4月 - 民主自由党山口県連合会支部長 10月 - 第2次吉田内閣で官房長官に就任(~1949年2月)
- 1949年1月 - 衆議院議員に初当選(~1975年6月)
- 1950年4月 - 自由党幹事長
- 1951年7月 - 第3次吉田内閣第2次改造内閣で郵政大臣兼電気通信大臣に就任する 12月 - 第3次吉田内閣第3次改造内閣では留任(~1952年7月)
- 1952年10月 - 第4次吉田内閣で建設大臣兼国務大臣北海道開発庁長官に就任する(~1953年2月)
- 1954年4月 - 造船疑獄で逮捕請求に犬養健法務大臣が指揮権発動 7月 - 幹事長辞任、党総務
- 1955年11月 - 自由民主党結成に不参加、無所属となる
- 1956年12月 - 政治資金規正法違反で訴追されたが、国際連合加盟の恩赦で免訴
- 1957年2月 - 吉田の政敵・鳩山一郎の引退後、自由民主党入党
- 1958年6月 - 第2次岸内閣で大蔵大臣に就任(~1960年7月)
- 1961年7月 - 第2次池田内閣第1次改造内閣で通商産業大臣に就任(~1962年7月)
- 1963年7月 - 第2次池田内閣第3次改造内閣で北海道開発庁長官、科学技術庁長官に就任する
- 1964年11月 - 第1次佐藤内閣成立、内閣総理大臣に就任(~1972年7月) 12月 - 自由民主党総裁
- 1967年2月 - 第2次佐藤内閣成立する 12月 - 衆院予算委において非核三原則言明
- 1970年1月 - 第3次佐藤内閣成立する
- 1972年6月 - 自由民主党両院議員総会で退陣を表明。この時の記者会見で内閣記者団と衝突[18] 7月 - 内閣総辞職
- 1974年12月 - ノーベル平和賞受賞
- 1975年5月 - 築地の料亭で倒れ昏睡状態となる 6月 - 意識不明のまま死去 享年74 従一位・大勲位菊花章頸飾追贈の後、国民葬
- 1977年5月 - 遺骨は山口県田布施町国木の佐藤家墓地に埋葬
栄典
家族・親族
実家
- 曽祖父 信寛(長州藩士、島根県令) - 佐藤家第10代当主[19]
- 祖父 信彦(漢学者、県会議員)
- 祖母 みね(徳山藩士・国広治左衛門の娘)
- 父 秀助(山口県庁官吏、酒造業:田布施・岸要蔵三男)
- 母 茂世(田布施・佐藤信彦長女)
- 長兄 市郎(軍人・海軍中将)
- 次兄 信介(官僚、政治家・元首相 士族岸信政へ養子)
- 姉 タケ子、こま、音世、千代子
- 妹 操、敏子、保子
自家
他家
系譜
- 佐藤家(武家家伝 信夫佐藤)
- 佐藤家の祖先について、確証はないが、遠祖は源義経の家臣佐藤忠信だという口伝がある。確認できる佐藤家の初代は市郎右衛門信久といい、寛文二年(1662年)頃から萩藩の士となり、扶持方二人・米二石四斗を受けた。下級武士で、この待遇はその後もあまり変わらない。役によって四石五斗あるいは六石に加増されたこともある。代々、市郎右衛門あるいは源右衛門を名乗った。歴代佐藤家の当主の中で世に出たのは、まず四代目の源右衛門信早である。その功を認められて禄高を六石に加増されている。熊毛郡下田布施村の「宝暦検地絵図」などの文書も残した。七代目の佐藤嘉津馬は安永八年(1779年)12歳で病死する。佐藤家はこの七代まで現在の山口市南部にあたる大内町御堀の周辺に住んだ。七代目の嘉津馬夭折の後、佐藤家は萩に住む一族吉田八兵衛の三男菊三郎に別の親戚福田某の娘を嫁に迎え、夫婦養子とする。八代目市郎右衛門信孝で、この信孝の時代から、佐藤家は田布施に移った。
- 曽祖父・寛作信寛は長州藩士として御蔵元本締役、大検使役等を歴任、長沼流兵学を修め、幕末期の思想家吉田松陰に兵要録を授けた。明治になると、島根県県令、浜田県権知事等の要職に就いた。
- 祖父・信彦は山口県議会議員を2期務め、優れた漢学者でもあった。父・秀助は山口県庁に奉職し、勤めを辞めてからは酒造業を始めた[20]。佐藤家の家紋は「源氏車」である[21]。なお、父の実家岸家もまた田布施の士族だがその先祖は「ガン」と称する帰化人だったとする説がある[22]、[23]
┏昭和天皇━━━━━━━━━今上天皇 明治天皇━━大正天皇━━━━┫ ┗三笠宮崇仁親王━━━━━━寬仁親王 ┃ ┏彬子女王 ┣━━━━━┫ 麻生太賀吉 ┃ ┗瑶子女王 ┃ ┏信子 ┣━━┫ ┃ ┗麻生太郎 ┏和子 吉田茂━━━━┫ ┗桜子 吉田祥朔 ┃ ┣━━━━━吉田寛 ┏さわ ┃ ┏寛子(栄作夫人) ┣佐藤松介━━┫ ┃ ┗正子 佐藤信孝━━佐藤信立━━佐藤信寛━━佐藤信彦━╋佐藤寛造 ┃ ┃(池上) ┣佐藤作造 ┃ ┗茂世 安倍晋太郎 ┃ ┃ ┣━┳佐藤市郎 ┣━━━━━━安倍晋三 ┃ ┃ ┃ (佐藤)┃ ┃(岸) ┃ ┏岸秀助 ┣佐藤信介━━洋子 ┃ ┃ ┃ ┃ 岸要蔵━━┫ ┗佐藤栄作━┳佐藤龍太郎━━佐藤栄治 ┃ ┃ ┃ ┗佐藤信二 ┗岸信政━━良子 (信介夫人)
人物像
地元の人たちは佐藤家の市郎・信介・栄作の兄弟について「頭は上から、度胸は下から」と評している[24]。兄の岸も同じようなこと(「頭は上から、政治力は下から」)と述べている。
佐藤は日本人には珍しい堀の深い顔立ちで、くりくりとした大きな目が特徴的だった。普段は無愛想な佐藤でも、その見開いた目で睨みつけられると誰もが戦慄を禁じ得なかったという。「ギョロ目の睨み」といえば歌舞伎の世界では「市川團十郎」の代名詞だが、特に59年ぶりに十一代目市川團十郎の襲名となった昭和37年 (1962) は團十郎ブームに湧いていた。佐藤もその恩恵をうけて、ついたあだ名が「政界の團十郎」。評論家の佐々淳行も著書のなかで「團十郎ばりの巨眼で(佐藤に)睨みつけられたという秘書官がいた」と記している。
佐藤は本来、癇癪もちでじっと我慢は苦手だったという。発話がドモリぎみということもあり、腹をたてると口より先に手が出ることが多かった。手が早いといっても殴ることは少なく、テーブルをたたいて怒りの言葉を発したという。寛子夫人が週刊誌の対談で「私は若い頃主人に殴られたことがある」と洩らしたことから、訪米の際、米誌に「ワイフ・ビーター(妻を殴る男)」として紹介されたことがある。
自分より目下の者にはそれなりの礼節を求めた。東宮の侍従が予算の陳情で首相に面会を求め、皇太子の御用をかさに高圧的な態度で発言した時は、「無礼じゃないか! おれは総理大臣だぞ」と怒鳴りつけた。[25]。
短気な一面については、長男の龍太郎が父・栄作について『「待ちの政治家」と言われましたが本来は短気なんです。我慢強くなったのは政治家になってからのことで、僕らの知っている父は短気なところが恐ろしかった。カーッとなるとお膳をひっくり返す。おふくろの鏡台を叩き割る。買ったばかりの火鉢を庭に放り投げて壊してしまう。幼いころからそんな光景をよくみました...』と述べている[26]。
首相に昇りつめてからも短気な性格が時として頭をもたげた。1972年に久野忠治が北朝鮮を訪問する際、佐藤と口論になり「除名する」と告げられ、久野が理路整然と総裁の恣意で党を除名させることはできないことを指摘すると、テーブルを引っくり返しながら「馬鹿野郎」と怒鳴りつけ、ドアを蹴飛ばして出て行ったという。
三木武吉は岸信介に対し「佐藤とキミは兄弟だと言うけれどちがうなぁ。キミの弟ではあるが、なかなかたいした奴だ。気に食わんとなると寝転びやがって口をきかないんだ。キミは、とにかく反対なら反対のようにちゃんと言うてくれるからいい。けれどもあいつは、いざとなるとゴロッと寝ちゃって何も口をきかない」と呆れたように言ったという[27]。田中義一元首相の長男田中龍夫は「岸さんと佐藤さんはえらく違うよ。佐藤さんは情報をよくとるし、八方心くばりをしていて、コワい感じがした。話していても秋霜烈日として、ひとこと間違うとビンタがとんでくるのではないかと思うほどだ。ところが岸さんとなると話していても実になごやかで楽しくなるね」と述べている[28]。
無愛想な反面、面倒見のよいところもあり、竹下登の述懐によれば、鉄道官僚時代には敵対していた国鉄労組OBの引退後の生活を心配し、折に触れては何くれとなく世話を焼いていたという。人並み以上の義侠心や涙もろさ、あるいは義理人情の厚さといった日本的美徳の持ち主だが公式の政治の舞台でこれらが表にでることはなかった。
佐藤栄作日記では総理在任中も政治家や官僚に対する好悪の情をはっきり書いており、好き嫌いの激しい人間だったことが伺い知れる。好まれたひとりに宮澤喜一がおり、宮澤の知性を佐藤が評価したためといわれる。
マスコミ嫌いで知られ官房長官時代から社説に酷評されていた。 特に朝日新聞を毛嫌いしており日記において名指しで「征伐にかからねばならない」と書かれたことがある他、秘書官を務めていた楠田実に新聞記事や 週刊誌の記事に対する抗議を命じ時には楠田自身も板ばさみで悩んでいた様子が 楠田の著書や日記に記されている。特に自らの意図と違う報道をされた際には激怒 したという。
その他
昭和天皇が香淳皇后との金婚式の際に昭和天皇が事前に断っていたにも関らず、黒松の盆栽を持ってきたため昭和天皇を困惑させたことがある(皇室経済法によって、皇室財産の譲渡及び取得は国会の議決が必要なため、昭和天皇は外国元首からの儀礼的なプレゼント以外は受け取らない方針をとっていた)。結局宇佐美毅宮内庁長官(当時)との協議の結果、この盆栽は佐藤に返すことになった。この他にも、佐藤は「皇后さま(香淳皇后)に反物を献上したい」と反物を献上しようとしたが、昭和天皇から断られている。昭和天皇は「佐藤は何を考えているんだろうね」と困惑していたという。これらのこともあってか昭和天皇は、次の田中内閣に対し、高価な贈り物は持ってこないよう異例の申し入れを行っている。
1971年10月19日の夜半、総理公邸内に一人の刺客が侵入したが、難を逃れた。
政敵河野一郎の葬儀の帰途、車内で夫人や側近に「これで悪いやつは全部死んだ」と発言したといい、冷酷な一面を覗かせた。
大野伴睦を偲ぶ会に出席し「“伴ちゃん”、“伴ちゃん”とみんなから愛された故人にならい私も“栄ちゃん”と呼ばれたい」と述べた。但しこれは本心からの発言ではない。佐藤と大野は犬猿の仲で知られ、佐藤は大野には庶民性しか褒めるところがないからそう言ったのだと回想している(これを受けてか横山ノックが佐藤に“栄ちゃん”と呼びかけたことがあるが、これに対して佐藤は非常に不快そうな表情を浮かべたとされる。青島幸男も"栄ちゃん"と呼んだとされるが横山の方が周知されている)。
仮面を被り続けた佐藤は、『栄ちゃんのバラード』という反戦フォークソングから四代目柳家つばめの『佐藤栄作の正体』に至るまで格好の標的であり続けたが、これに対して寛容な態度をとれない不器用な人物でもあった。
1974年に、ノーベル平和賞受賞。非核三原則の制定が評価されてのものであった。この受賞には国連大使だった加瀬俊一のロビー活動が寄与したといわれており、佐藤も日記の中で加瀬への謝意を表している。しかし、平和賞を選考するノルウェーのノーベル賞委員会は、2001年に刊行した『ノーベル賞 平和への100年』の中で、「佐藤氏はベトナム戦争で米政策を全面的に支持し、日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たした。後に公開された米公文書によると、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスだと言っていた」「佐藤氏を選んだことはノーベル賞委員会が犯した最大の誤りのひとつ」だ記しているという[29]。
1995年、アフリカのガンビア共和国からノーベル平和賞の受賞者として切手が発行されたが、誤ってBisaku Satoと表記されていた。[30]
台湾の國立故宮博物院には、佐藤栄作と夫人が寄贈した唐三彩の「三彩天王増長天像」が展示され、「元日本國首相佐藤榮作氏及令夫人寄贈」と記されている。
劇団東京ヴォードヴィルショーの主宰者で俳優の佐藤B作は、自らの芸名を佐藤栄作にちなんで決めた。両者間に血縁・縁戚関係はもちろんない。
沖縄返還に力を尽くしたことで有名で、昭和40年8月19日に那覇空港で「沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国の戦後は終わらない」との声明を発したことで知られる。他方、昭和40年1月にニクソン会談に向けて沖縄の勉強を始めたときには「沖縄の人は日本語を話すのか、それとも英語なのか」と側近に尋ねて呆れられたとの逸話も残る。
語録
- 「内閣改造をするほど総理の権力は下がり、解散をするほど上がる」
- 「参議院を制する者は政界を制する」
展示施設
- 岸信介・佐藤栄作兄弟宰相の遺品展示室
- 岸信介、佐藤栄作兄弟の出身地、山口県の田布施町郷土館内に設置。国連平和賞、ノーベル平和賞などの、遺品や関連文書を展示し、両元首相を顕彰している。
出典・補注
- ↑ 『正伝 佐藤栄作(上)』 23頁。
- ↑ 『正伝 佐藤栄作(上)』 27頁。
- ↑ 『忍魁・佐藤栄作研究』 18-19頁。
- ↑ 友人として急速に接近するのは、お互いに政界入りしてからである。池田が死亡した際、佐藤が葬儀委員長を務めている(『正伝 佐藤栄作(下)』 42頁)。
- ↑ 『正伝 佐藤栄作(上)』 44-45頁。
- ↑ 口述試験はあっさりしたものだった。試験官が「あなたは一通りは本を読みましたか?」と聞く。「はい、受験のため一通り読みました」、「よろしい、それで結構です」という。佐藤は思わず試験官の顔を見たが試験官は「もう何も聞くことはありません、お帰りください」というだけである。こんな簡単な口述試験で終わるのは、筆記試験の方が余程悪くて、初めから見込みがなかったのだと、涙が出る思いで焼野原を歩いて帰ったと、後日佐藤は語っている(『正伝 佐藤栄作(上)』、65-66頁)。
- ↑ 当時満鉄の理事をしていた親戚の松岡洋右が日本郵船への就職を勧め、松岡は社長の伊東米治郎に頼んでいたので採用される予定だったが、会社の都合で採用取り消しになった。鉄道省へは松岡が鉄道大臣の小松謙次郎に頼んでいたので順調に採用された(『正伝 佐藤栄作(上)』、67-68頁)。
- ↑ 8.0 8.1 『大平正芳』 123頁。
- ↑ 『大平正芳』 67頁。
- ↑ 『大平正芳』 68-69頁。
- ↑ 『大平正芳』 125-126頁。
- ↑ 『大平正芳』 123-124頁。
- ↑ 「日中戦争なら核報復を」佐藤首相、65年訪米時に2008年12月22日朝日新聞。
- ↑ 『大平正芳』 124頁。
- ↑ 『大平正芳』 126頁。
- ↑ 大阪鉄道局長は地方局としては最高のポストでも本省の局長の転任先ではなく、いわば左遷だった。業務上の立場から陸軍と対立したためとする説がある(『正伝 佐藤栄作(上)』、96-102頁)。 。
- ↑ 長男・龍太郎は「親父が左遷されたのは省内の派閥抗争もさることながら鉄道大臣だった五島慶太にニラまれたのだと思う。親父はああいう性格なので、官僚的に事務処理をする。五島慶太からみれば“石アタマのあのバカ、消してしまえ”ということではなかったか…」と述べている(『忍魁・佐藤栄作研究』 65頁)。
- ↑ 1972年6月の退陣表明記者会見の冒頭、「テレビカメラはどこかね? テレビカメラ…。どこにNHKがいるとか、どこに何々いるとか、これをやっぱり言ってくれないかな。今日はそういう話だった。新聞記者の諸君とは話さないことにしてるんだ。違うんですよ、僕は国民に直接話したい。新聞になると文字になると(真意が)違うからね。残念ながら…、そこで新聞を、さっきもいったように偏向的な新聞は嫌いなんだ。大嫌いなんだ。直接国民に話したい。やり直そうよ。(記者は)帰って下さい」と発言。最初は冗談かと思った記者たちより笑い声もあったが、佐藤はそのまま総理室に引き上げてしまった。官房長官として同席していた竹下登の説得で再び会見室にもどり、何事も無かったよう佐藤は記者会見を始める。反発した新聞記者が「内閣記者会としてはさっきの発言、テレビと新聞を分ける考えは絶対許せない」抗議したが、「それならば出てってください。構わないですよ。やりましょう」と応え、新聞記者達は「じゃあ出ましょうか! 出よう出よう!」と全員が退席してがらんとした会見場で、一人テレビカメラに向かって演説した。「出よう出よう」とけしかけた記者の中に毎日新聞の岸井成格がいた。
- ↑ 吉本重義著『岸信介傳』21頁に「この曽祖父は、佐藤家の歴史においては最も傑出した人であった。もっとも、その叔父の九右衛門は坪井家に養われて長井雅楽の一味として当時、藩政の要路にあり、非常な傑物だったといわれる。佐藤家に伝わる政治家的な性格は、この坪井九右衛門や、曾祖父の信寛によって最も顕著にあらわれた。」とある。
- ↑ 栄作は父について「父は非常に勉強好きな人で、寡黙な人だった。私があまり口をきかないのも、性質が父親に似たせいだろう」と述べている(『忍魁・佐藤栄作研究』 19頁)。
- ↑ 『正伝 佐藤栄作(上)』 15-26頁。
- ↑ 『忍魁・佐藤栄作研究』 58-59頁。
- ↑ 山田栄三著『正伝 佐藤栄作(上)15-26頁』。
- ↑ 『忍魁・佐藤栄作研究』 19頁。
- ↑ 『正伝 佐藤栄作(上)』123頁。
- ↑ 『忍魁・佐藤栄作研究』 58頁。
- ↑ 『忍魁・佐藤栄作研究』 94-95頁。
- ↑ 『忍魁・佐藤栄作研究』 187頁。
- ↑ 朝日新聞2001年9月5日付。
- ↑ 内藤陽介2003『外国切手に描かれた日本』光文社。
関連項目
- 保守合同
- 佐藤派五奉行
- 吉田13人衆
- 吉田学校
- 沖縄返還
- 派閥
- 保守本流
- 自由民主党総裁
- 第1次佐藤内閣
- 第1次佐藤内閣第1次改造内閣
- 第1次佐藤内閣第2次改造内閣
- 第1次佐藤内閣第3次改造内閣
- 第2次佐藤内閣
- 第2次佐藤内閣第1次改造内閣
- 第2次佐藤内閣第2次改造内閣
- 第3次佐藤内閣
- 第3次佐藤内閣改造内閣
- 田布施町
- 田布施駅
- 大阪大空襲
- 二日市駅
- 士族
- 佐藤氏
- 浄土真宗 岸家は浄土宗
政治家
参考文献
- 山田栄三 - 『正伝 佐藤栄作』上・下 新潮社 1988年、佐藤日記も参照した公的な伝記
- 千田恒 - 『佐藤内閣回想』 中公新書 1987年
- 岩川隆 - 『忍魁 佐藤栄作研究』 徳間文庫 1984年
- 衛藤瀋吉『佐藤栄作 衛藤瀋吉著作集10』 東方書店 2003年
- 佐藤寛子 - 『佐藤寛子の宰相夫人秘録』 朝日新聞社 のち朝日文庫
- 『楠田實日記 佐藤栄作総理首席秘書官の二〇〇〇日』
- 楠田實 『首席秘書官 佐藤総理との10年間』 文藝春秋 1975年
- 渡辺昭夫編 『戦後日本の宰相たち』(中央公論社、1995年、中公文庫 2001年)
- 御厨貴編 『歴代首相物語』(新書館、2003年)
- 神一行 - 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 角川書店 2002年 61-75頁
- 秦郁彦 - 『日本近現代人物履歴事典』 東京大学出版会 2002年 247頁
- Eddy Dufourmont, "Satô Eisaku, Yasuoka Masahiro and the Re-Establishment of February 11th as National Day: the Political Use of National Memory in Postwar Japan", in Wolfgang Schwentker and Sven Saaler ed., The Power of Memory in Modern Japan, Global Oriental, 2008, p.204-222.
外部リンク
官職 | ||
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先代: | 内閣総理大臣 第61・62・63代:1964年 - 1972年
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次代: |
先代: | 北海道開発庁長官 第4代:1951年 - 1952年
第21・22代:1962年 - 1964年 |
次代: |
先代: | 科学技術庁長官 第12・13代:1963年 - 1964年
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次代: |
先代: | 通商産業大臣 第22代:1961年 - 1962年
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次代: |
先代: | 大蔵大臣 第1965代:1958年 - 1960年
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次代: |
先代: | 建設大臣 第7代:1952年 - 1953年
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次代: |
先代: | 郵政大臣 第3代:1951年 - 1952年
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次代: |
先代: | 電気通信大臣 第3代:1951年 - 1952年
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次代: 廃止
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先代: | 内閣官房長官 第4代:1948年 - 1949年
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次代: |
党職 | ||
先代: | 自由民主党総裁 第5代 : 1964年 - 1972年
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次代: |
先代: | 自由民主党総務会長 第3代 : 1957年 - 1958年
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次代: |
歴代内閣総理大臣 | |||||
第60代 池田勇人 |
第61・62・63代 1964年 - 1972年 |
第64代 田中角栄 | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
伊藤博文 黑田清隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 |
高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 |
廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 |
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