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米内 光政 (よない みつまさ)
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在任期間 | 1940年(昭和15年)1月16日 - 1940年(昭和15年)7月22日 |
生没年月日 | 明治13年(1880年)3月2日 |
出生地 | 岩手県盛岡市 |
出身校 | 海軍大学校 |
学位・資格 | 海軍大将 従二位 勲一等 功一級金鵄勲章 |
前職 | 軍事参議官 |
世襲の有無 | |
選挙区 | 非議員 |
当選回数 | |
党派 | 中間内閣 |
花押 | |
米内 光政(よない みつまさ、1880年(明治13年)3月2日 - 1948年(昭和23年)4月20日)は日本の海軍軍人、政治家。身長180cm。体重97kg。
連合艦隊司令長官、海軍大臣、第37代内閣総理大臣などを歴任。海軍内の条約派・親英米派として山本五十六、井上成美らと三国同盟・日米開戦に反対。その後最後の海軍大臣として日本を太平洋戦争の終戦へと導くことに貢献した。海軍大将・従二位・勲一等・功一級。
目次
生涯[編集]
生い立ち[編集]
1880年(明治13年)旧盛岡藩士米内受政の長男として現在の岩手県盛岡市に生まれる。父が選挙に落選したり事業に失敗したりしたため、一家は困窮の中にあった。その中で、米内は幼少の頃から新聞配達、牛乳配達などをして家計を助け、苦学の末、盛岡高等小学校、岩手県尋常中学校を経て、1901年(明治34年)に海軍兵学校を卒業。ハンモックナンバーは中の下であった。
1903年(明治36年)任海軍少尉。1905年(明治38年)日露戦争に従軍。1914年(大正3年)海軍大学校を卒業。第一次世界大戦後のロシアとポーランドに大使館付駐在武官として駐在し、ロシア革命の混乱のなかで冷静に国際情勢を分析していた。ロシア革命に関する論文もある。大戦後のドイツの首府ベルリンでも情報収集の任に当たっている。将官昇進後は中国勤務も多かった。
海軍内部の良識派[編集]
1930年(昭和5年)には中将になり、朝鮮の鎮海要港部司令官に任じられるが、この地位は「クビ5分前」「島流し」と言われ米内が赴任した頃は一週間に半日仕事があれば良い方だと言われた閑職であり、本人も「いつでも辞める覚悟はできてるよ」と同期に語っているが、この時に読書三昧の日々を過ごし、その読書の範囲は漢書からロシア文学や社会科学、果ては中学の後輩である野村胡堂の小説まで、軍人の範疇を超えたもので「本は三度読むべし。1回目は始めから終わりまで大急ぎで、2度目は少しゆっくり、3度目は咀嚼して味わうように読む」という米内独特の読書法もこの頃に確立したものと思われる。この読書で培った知識・教養は後に海軍大臣や総理大臣になった際に大いに役立てている[1]。
大臣秘書官だった実松譲中佐が米内のあまりの博識に驚き、どこでそんな知識を身につけたのか質問したところ、「鎮海に二年、佐世保に一年、横須賀に一年というように、官舎でやもめ暮らしをしている間に読書の癖がついた。特に鎮海の閑職時代には書物を読むのが何より楽しみであった。そして、いま海軍大臣という大事な仕事をするのに、それが非常に役に立っているように思われる。人間と言うものは、いついかなる場合でも、自分の巡り合った境遇を、もっとも意義たらしめることが大切だ」と答え、「練習艦の米内艦長から教えられているような少尉候補生時代の気分に戻った」と回顧している。
1932年(昭和7年)以後、艦隊司令長官を歴任する。佐世保鎮守府長官のとき友鶴事件が発生する。米内は事件をあらゆる角度から検証して根本的な原因を見つけ出し、事件を解決に導いている。この時査問委員会の一人である森田貫一機関中将が佐世保を訪れて米内を訪ねた際、米内は「これは(日本海軍の)根幹に関わることだ。僕はどうなってもいいから本当のことをしっかりやってくれ」と言っている。森田は「偉い人だ。米内さんが職を賭して徹底解決を推進されたことが成功の原因だった。役人根性むき出しで責任回避をはかりうやむやにしていたら、日本海軍は大変なことになっていただろう」と感激したという[2]。
二・二六事件の起こった1936年(昭和11年)年2月26日、米内は横須賀鎮守府司令長官だったが、新橋の待合茶屋に泊まっていた。事件のことは何も知らず、朝の始発電車で横須賀に帰ったらしい[3]。その直後に横須賀線はストップしたというから危ないところだった。鎮守府に着いた米内は参謀長の井上成美とともにクーデター部隊を「反乱軍」と断定、制圧の方向で大いに働いた。
その後の人事異動で連合艦隊に転出、連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官に任ぜられた。
1937年(昭和12年)林銑十郎内閣で海軍大臣[4]、任海軍大将。その後第一次近衛文麿内閣、平沼騏一郎内閣でも海相を務めた。
極端に口数が少なく、演説の類が大嫌いだった。平沼内閣の閣僚中、演説回数が一番少なく、1回の演説字数が461字と、他の大臣の半分という記録が残る。終生抜けなかった南部弁を気にしたという説もあるが、面倒くさがり屋で、くどくど説明するのを嫌った[5]。
近衛内閣時代、ナチス・ドイツを仲介とした対中和平交渉であるトラウトマン工作の打ち切りを主張。平沼内閣時代には山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長とともに、ドイツ・イタリアとの提携に反対し続ける。
1938年11月25日の5相会議で米内は海南島攻略を提案し合意事項とした。当時の海軍中央部では「海南島作戦が将来の対英米戦に備えるものである」という認識は常識だったので、米内・山本両首脳も「対英米戦と海南島作戦の関係性」は承知の沙汰であったと思われる。
首相就任[編集]
米内内閣 も参照 1940年(昭和15年)1月16日、予備役編入とともに内閣総理大臣に就任する。米内を総理に強く推したのは昭和天皇自身だったようだ。この頃、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーはヨーロッパで破竹の猛進撃を続け、軍部はもとより、世論にも日独伊三国軍事同盟締結を待望する空気が強まった。天皇はそれを憂慮し、良識派の米内を任命したと『昭和天皇独白録』の中で述べている。天皇に呼ばれた時、当初米内は組閣を断るつもりだった。しかし、「朕、卿に組閣を命ず」という天皇の甲高い声を聞き、「電気に打たれたようになって」断りを言い出せなくなったという。
そんな米内は陸軍とうまく行かず、倒閣の動きは就任当日から始まったといわれる。半年も経った頃、陸軍は日独伊三国同盟の締結を要求する。米内が「我国はドイツのために火中の栗を拾うべきではない」として、これを拒否すると、陸軍は畑俊六陸軍大臣を辞任させて後継陸相を出さず、米内内閣を総辞職に追い込んだ。当時は軍部大臣現役武官制があり、陸軍または海軍が大臣を引き上げると内閣が倒れた[6][7]。米内はその経過を公表して、総辞職の原因が陸軍の横槍にあった事を明らかにした。昭和天皇も「米内内閣だけは続けさせたかった。あの内閣がもう少し続けば戦争になることはなかったかもしれない」と、宮内大臣を務めたことがある石渡荘太郎(平沼騏一郎内閣時の大蔵大臣、米内内閣時の内閣書記官長)に語っている。
総理大臣を辞任した直後に、日光を訪れた際には「見るもよし 聞くもまたよし 世の中は 言わぬが花と 猿はいうなり」という短歌と、「寝たふりを しても動くや 猫の耳」という句を詠んでいる。
帝国海軍の幕引き役[編集]
1943年(昭和18年)、ブーゲンビル島で戦死した盟友、連合艦隊司令長官・山本五十六の国葬委員長をつとめる。だが軍人が神格化されることを毛嫌いしていた山本をよく知る米内は、後に山本神社建立の話などが出るたびに井上成美とともに「山本が迷惑する」と言ってこれに強く反対したため、神社は建立されなかった[8][9]。山本五十六の戦死の直前、米内の夢の中に山本が現れたという。山本の戦死が公表されると、米内は朝日新聞に追悼文を寄稿、その中で「不思議だと思ふのは四月に實にはつきりした夢を見た、何をいつたか忘れたが、今でも顔がはつきりする夢を見た、をかしいなと思つてゐたが、まさかかうなるとは思はなかつた」とその夜のことを振り返っている[10]。
1944年(昭和19年)、東条内閣が倒れると、予備役から現役に復帰して小磯内閣で再び海軍大臣となる。陸軍出身の小磯國昭と共に組閣の大命を受けた経緯から副総理格とされ、「小磯米内連立内閣」とも呼ばれた。米内は次官の岡敬純を「岡は一夜にして放逐する」と更迭、横須賀鎮守府でコンビを組んだ井上成美(当時海軍兵学校校長)を「首に縄をかけて引きずってでも中央に戻す」と直接説得、「次官なんて柄ではない」「江田島の村長で軍人生活を終わらせたい」と言い張る井上を中央に呼び寄せた[11]。1945年(昭和20年)鈴木貫太郎内閣にも海相として留任。米内本人は「連立内閣」の片方小磯だけが辞めてもう片方米内が残るというのは道義上問題があると考えていた。だが今度は次官であった井上成美が米内の知らないところで「米内海相の留任は絶対に譲れない」という「海軍の総意(実は井上の独断)」を、大命の下った鈴木や木戸幸一内大臣に申し入れていたのだった[12]。
米内は海相として太平洋戦争終結の道を探った。天皇の真意は和平にあると感じていたからで、1945年5月末の会議では阿南惟幾陸軍大臣と論争し、「一日も早く講和を結ぶべきだ」、「この大事のために、私の一命がお役に立つなら喜んで投げ出すよ」と言い切った[13]。
終戦直前の1945年8月12日、主戦派の大西瀧治郎海軍中将(軍令部次長)が豊田副武海軍軍令部総長を通じ終戦反対の意を勝手に昭和天皇に帷幄上奏し、激怒した米内は大臣室に大西・豊田の両名を呼びつけ叱責した。大西と豊田は抗弁したが、普段寡黙な米内は、このときばかりは大声で両名を叱りつけ、その声はドアごしに筒抜けになるほどであった[14]。
鈴木内閣の陸軍大臣だった阿南惟幾は終戦の日当日に「米内を斬れ」と言い残して[15]8月14日、自害したが、米内本人は軍人として法廷で裁かれる道を選んだ。戦犯として拘束されることを予期し、巣鴨プリズンへ収監される場合に備えていたものの、結局米内は容疑者には指定されなかった[16]。しかも米軍側は米内の以前の言動を詳細に調査しており、GHQの某軍人が元秘書官である麻生孝雄のもとを訪ねた際、いきなり米内のことを切り出し「米内提督については生い立ちからすべて調査してある。命を張って日独伊三国同盟と対米戦争に反対した事実、終戦時の動静などすべてお見通しだ。米内提督が戦犯に指名されることは絶対にない。我々は米内提督をリスペクトしている」と断言し、麻生に米内の伝記を書くことさえ勧めている。また保科善四郎や吉田英三、豊田隈雄などが「米内さんだけは戦犯にしてはいけない」と奔走したという話もある。戦後処理の段階に入っても米内の存在は高く評価され、東久邇宮稔彦王内閣、幣原喜重郎内閣でも海相に留任して帝国海軍の幕引き役を務めた。幣原内閣の組閣時には健康不安から[17]辞意を固めていたにもかかわらずGHQの意向で留任している。
東京裁判[編集]
戦後の東京裁判では証人として1946年3月・5月の2度に亘って出廷し、「当初から、この戦争は成算のなきものと感じて、反対であった」「天皇は、開戦に個人的には強く反対していたが、開戦が内閣の一致した結論であった為、やむなく開戦決定を承認した」と、天皇の立場を擁護する発言に終始した。
その上で、満州事変、日中戦争、日米開戦を推進した責任者として、土肥原賢二、板垣征四郎、武藤章、文官では松岡洋右の名前も挙げて、陸軍の戦争責任を追及している。しかし、何故か東條英機の責任については言明する事がなかった[18]。
一方で、陸軍大臣単独辞任で米内内閣を瓦解させた事でA級戦犯として裁かれる事になった畑俊六に対しては、これをかばって徹底的にとぼけ通し、ウィリアム・ウェブ裁判長から「You are the most stupid prime minister I have ever seen.(こんな阿呆な総理大臣を見たことがない)」と罵られた。一方で、ジョセフ・キーナン首席検事はむしろ「あれは畑を庇っていたのだ。米内は素晴らしい」と敬意を表し、日本を離れる際自筆の晩餐会招待状を送り、健康上の理由で米内が断っても「是非お会いしたい」と何度も招待している[19]。
1946年(昭和22年)元大臣秘書官の麻生孝雄に誘われて、北海道釧路町で牧場経営に参加する。北海道牧場株式会社(通称 霞ヶ関牧場) 1948年(昭和23年)肺炎により死去。68歳と1ヵ月だった。軽い脳溢血に肺炎を併発したのが直接の死因だが、長年の高血圧症に慢性腎臓病の既往症があり、さらに帯状疱疹にも苦しめられるなど、実際は体中にガタがきていた[8]。実際、戦後になって少し体調は落ち着きを見せていただけあって、帯状疱疹が彼の寿命を縮めたと言える。
米内の死後12年を経た1960年(昭和35年)、盛岡八幡宮境内に背広姿の米内の銅像[20]が立てられ、10月12日に除幕式が行われた。その直前に、巣鴨プリズンから仮釈放された81歳の畑俊六が黙々と会場の草むしりをしていたという。[8]。
人物[編集]
- 海軍兵学校での成績は良い方ではなく、卒業時の席次は125人中68番であった。卒業時席次が退役に至るまで出世に影響した日本海軍にあって、この成績で海軍大将まで昇進し、海軍大臣や連合艦隊司令長官に就任したのは極めて異例のことであった。後の研究で、当時の米内のノートを見ると記述の質・量が圧倒的であり、ひとつの問題に対して自分が納得が行くまであらゆる角度からアプローチをかけ問題を解決していた。これは詰め込み式教育が当たり前だった海軍教育においては異彩を放つ勉強法であり、海軍兵学校の試験の点数が上がらなかったのもそのためであったのだろうと推測される。米内の勉強法を知っていた当時の教官は「彼は上手くいけば化ける。いや、それ以上の逸材になるかも知れない」と目を掛け、多少の成績の不振でも米内をかばい続け、何とか米内を海軍兵学校から卒業させた。後に同期の藤田尚徳は人事局長時代、当時の谷口尚真呉鎮守府司令長官から「君のクラスでは誰が一番有望かね?」という質問に即座に「それは米内です」と答えたという[21]。
- 藤田尚徳が海軍次官の時、第三艦隊司令長官に就いていた米内がインフルエンザをこじらせて胸膜炎になり療養を必要としたが米内は拒絶した。藤田は高橋三吉軍令部次長と相談し、「米内君の気持ちはよくわかる。しかし第三艦隊司令長官は米内君でなくとも勤まる。だが帝国海軍の将来を考える時必ずこの人に大任を託す時期が来ると思う。今米内君を再起不能の状態に陥れてはならぬ。たとえ今はその気持ちを蹂躙しても、また後で怒られても良い」と結論に達し海軍次官と軍令部次長の権限で米内を療養させた。米内を知る2人の同期の計らいで療養生活に入り、早期治療の効果か1ヵ月後には米内は職務に復帰することが出来た。
- 米内は当時の軍人としては珍しい国際的視野を持っていた。ロシア語が堪能なことで知られ[22]、大使館付駐在武官としてロシア・ポーランド・ドイツ・中国に赴任した経験があり、将官昇進後は中国勤務も多かった。日本の国力や国際情勢を見極め、英米と協調する現実的な政治姿勢を終始貫いた。
- 米内が内閣総理大臣を辞した後、陸軍を除く秘書官達で米内の親睦会が作られた[23]。米内内閣が成立した日も総辞職した日も16日だったことから「一六会」と名付けられ、戦後も長く行われ年号が平成に変わっても存続した。また昭和天皇も「一六会」の存在は知っており、「一六会」の日になると「今日は『一六会』の日だね」と侍従に述べたという。
- 米内の下で軍務局長・海軍次官を務めた井上成美は戦後、「海軍大将にも一等大将、二等大将、三等大将とある」と述べており、文句なしの一等大将と認めたのは山本権兵衛、加藤友三郎、米内の三人だけであったという[24]。井上成美自身は、「海軍の中で誰が一番でしたか?」の質問に「海軍を預かる人としては米内さんが抜群に一番でした」と語っている。また「包容力の極めて大きい人だ。米内さんに仕えた者は、誰でも自分が一番信頼されているように思いこむ。これが、まさに将たるものの人徳というべきであろう。山本さん(山本五十六)はよほど米内さんを信頼していたようで、『誰でも長所、短所はあるよ。しかし、あれだけ欠点がない人はいない』と言っていた」と述懐している。米内と親交のあった小泉信三は「国に大事が無ければ、人目に立たないで終わった人」と米内を評している。「米内さんは、海軍という入れ物をはみ出していた大物だった」(大西新蔵)、「私心がない人だ。欲というものが全くない。国の立場に立った欲があるだけだ」(保科善四郎)と、米内に接した数多くの人々が彼の人柄を絶賛している。しかし、大井篤は米内の功績を評価しつつも『孫子』の「将は智・信・仁・勇・厳なり」という言葉を挙げ、「信・仁・勇・厳は文句なしだが智に関しては問題がなかったとは言えない」としている[25]。
- 保科善四郎が第三艦隊の参謀だった頃、旗艦二見が揚子江を航行中に暗岩に乗り上げてしまい、司令長官である米内が責任を取り進退伺の電報を打つよう保科に命じた。保科は「米内さんのような、命をかけて国に尽くしている人材をここで失くしてはならない。温存する必要がある」と電報を預かり、打ったフリをして独断で握り潰した。もしそのまま進退伺を出していれば確実に受理されて依願予備役になっていたものと思われ、「我ながら傑作だった。あれでクビになっていたら日本は本土決戦でメチャクチャになっていたよ」と語っている。また広田弘毅内閣崩壊後、後任の海軍大臣を誰にするかについて話し合われた時真っ先に米内を挙げ、次官の山本五十六の同意を得て留任希望の永野修身を説得して米内の大臣就任の了承を取ったのも当時軍務局第一課長だった保科である。
- 海軍解体前、米内はその当時軍務局長だった保科に、「戦犯に指名されるかもしれないし、私の健康もすぐれないから」と前置きした上で、「連合国も永久に日本に軍備を撤廃させることはない。日露戦争の前のトン数を基準に海軍再建を模索すべし」「海軍には優秀な人材が数多く集まり、その伝統を引き継いできた。先輩たちがどうやってその伝統を築き上げてきたか、後世に伝えるべし」「海軍が持っていた技術を日本復興に役立てること」を委託している。保科はY委員会を通して現在の海上自衛隊創設に間接的に影響を与えており、保科自身も米内の遺志を一つでも達成すべく政界入りを目指したと述べている。
- 二期上の末次信正との関係は宴席で口論となる、会っても口を聞かないなど最悪であった。戦争終盤、米内の現役復帰を画策した岡田啓介は、米内を円満に海軍へ復帰させるには海軍内の米内の系統と共に末次の系統の顔も立てておく必要があるとの声を受けた為、岡田は藤山愛一郎の邸宅にて二人を引き合わせ、関係の修復に勤め、共に個人の感情より国のために力を尽くすことを誓わせた。米内の現役復帰は成ったが、予定されていた末次の軍令部総長への復帰話は天皇の反対等と末次の急病と悪化の為それっきりとなってしまった。軍令部なら召集官でもなれるのだから、末次を召集の形で連れてきてはどうかと米内に勧めるものもいたが、米内は応じなかったという[26]。
- 酒が非常に強く、「酒が米内か、米内が酒か」とまで言われていた。かなりのハイペースで飲みいくら飲んでも顔色一つ変えず、淡々と飲んでいたという。総理大臣の時に満州国の皇帝愛新覚羅溥儀が日本を訪れた際に米内の酒の量が話題になり、「満州語に『海量(ハイリャン)』という言葉がある。米内の酒の量は『海量』か」と尋ねたところ、高松宮宣仁親王が「いえ、米内は『洋量(ヤンリャン)』です」と返したエピソードがある。また、銀座の芸者衆の間で「米内さんを酔っ払わせたら懸賞金を与える」という話が広まり、酒に自信がある芸者が何人も挑戦したが米内を酔わせることができず、ある芸者は米内の前で号泣して悔しがったという。酔っ払うことはほとんどなかったそうだが、ほろ酔い加減になると長唄の調子が棒読みになったという証言があり、ロシア駐在時代に酔ってロシア水兵に演説をしたことがある自身のエピソードを語り、「私が演説するくらいなので、相当酔っていたのでしょう」と言っている。保科善四郎も「米内さんにとって酒は食べ物だった」と回想している。
- 酒のつまみにはおからをよく食べていたらしい。又、海軍料亭等で飲む際には二升・三升は当たり前のように飲むと料亭の女将達からも言われていた。しかし、「米内さんはお金はありませんでした」とも言われており、海軍随一の重鎮にしては清廉な生活をしていた事を伺わせている[27]。
- 若い頃のエピソードとして、自ら「俺は時には二升・三升あるいはそれ以上を平気で飲む事があった。しかし家に帰っておふくろの蒲団を敷くまでは乱れないでいる。ところが敷き終わって自分の部屋に帰ったら最後、酔いが廻って前後不覚になってしまうんだ。それまではいくら飲んでも気持ちはしゃんとしているんだけれどね」と話す事があった。周りの者はまさか冗談だろうと誰も信じていなかったらしい。
- 海軍大臣を務めていた頃、年末になると海軍からはボーナスが、内閣からは手当が支給されていたが、米内は「国家から二重に手当を受ける理由はない。海軍の分は頂戴しておくが、内閣の分は適当に処理しておいてくれ」と言って、内閣からの手当を秘書官の実松譲に手渡していた。実松は考えた末、大臣スタッフ一同で分配する事にして、その内の一部を米内の所に持っていき、「これは大臣の分です」と言うと、米内はニコニコして受け取ったという。
- 坊主頭が当然とされた日本の軍隊で、米内は髪をポマードで整えて七三に分け、若い頃から鼻眼鏡を愛用した。練習艦「磐手」艦長時代に当時の横須賀鎮守府長官野間口兼雄大将から「強いてとは言わぬが、頭髪もなるべく短く切った方がいい」と訓示され、先輩に「長官かなり機嫌が悪いぞ。クルクル坊主に剃れ」と冷やかされても「ウフフ」と笑うだけ、切ろうとしなかった。米内は坊主頭が海外では囚人の髪型であることを知っており、海外と直接接する海軍軍人の髪型としてふさわしくない、という理念からであったという。また戦争末期に上官に髪を切るよう言われ「私が尊敬する米内大将は髪を伸ばしております。何故海軍が陸軍と同じことをしないといけないのでしょうか。それが教育と言うのならその教育は間違っております」と拒否した士官もいたという[28]。米内自身は長男の剛政に、「髪の毛を伸ばすのは良いが常にきちんと整えて清潔感を大事にすべし」と述べている。
- 長身で日本人離れした風貌でもあったため女性によくもてたようで、特に花柳界では山本五十六とともに圧倒的な人気があった。長男の剛政は父の死後、愛人だったと称する女性にあちこちで会ったり、戦争中主計士官として赴任中上官が年老いた芸者を連れてきたかと思ったら、「こいつは貴様の父上のインチ(馴染み芸者)だ」と言われたりして困ったという。佐世保鎮守府長官退任の際、佐世保駅周辺には見送りに訪れた芸者で黒山の人だかりができたといわれている。また横須賀鎮守府長官時代に上海から米内を慕ってある芸者が横須賀までやって来て、現在のストーカーのようにつきまとった。周囲は米内の今後のこともありその対応に苦慮するが米内は彼女に対しても分け隔てなく接し、参謀長だった井上成美も「これは男と女の問題ですからね」と投げ出している[29]。
- 海相時代、中国・華南でハンセン氏病に罹った兵が、戦いではなく病気で軍を離れたことに対する苦悩を手記にして人事局長だった清水光美に送った。人事局長を経てその手記を見た米内は、「これを送って慰めてやってくれ」と漢詩を書いた書と絵画を送ったという。
- 同じく海相時代、下士官・兵の家族の福利厚生、特に病気になった時の対策が資金面の都合で滞っておりこれは歴代海相の共通の悩みだった。米内は大蔵大臣に相談してすぐに許諾をもらい、要港の大規模病院の建設は支出を大蔵省に渋られたため、民間からの寄付で補おうと海相官邸に財界の有力者を呼び集め寄付を呼びかけたところ、予定額をはるかに超える寄付金が集まった。これにより歴代海軍大臣の懸案であった医療問題が解決したのだが、これは米内の人柄によるものであろうと誰もが絶賛した。
- 米内と陸軍大将の板垣征四郎は政治的立場も思想も異なったが、同郷(岩手県)出身の先輩後輩ということで公務の外ではなにかとウマが合い、お互いを「光っつぁん」「征っつぁん」と呼んでいた。東京の料亭で開かれた尋常中学時代の恩師・冨田小一郎への謝恩会も両大臣の呼びかけで行われたもので、他にも作家の野村胡堂、言語学者の金田一京助など、冨田の教え子たちが多く集った。
- 1939年(昭和14年)に豊後水道で潜水艦が沈没し呉鎮守府が引き揚げ作業に当たったが、沈没場所が水深数百メートルである上に、潮の流れが速いため作業は難航、外部からも経費の無駄遣いと批判を浴びて現場も「こっちも好きでやっているのではない。非難があるならやめてしまえ」と意欲が低下していた。それを察した鎮守府参謀長が海軍省に報告に行ったところ、当時海軍次官であった山本五十六は「経費はいくらかかってもいいからしっかりやれ。しかし無理して人を殺さぬように」と激励した。米内も「次官から聞いた。御苦労」とただそれだけ述べた。参謀長は現場に戻り、伝えたところ非常にモチベーションが上がり作業も無事終了した。参謀長は戦後に「あの短い大臣の言葉と次官の人を殺すなという一言は、千万言にも勝る温かい激励でした」と回想している。
- 戦後に昭和天皇も招かれた学士院会員の会食の際、天皇が小泉信三に、「雑誌(『心』昭和24年1月号)に米内のことを書いたね」と尋ねて小泉も「拙文がお目に触れてしまいましたか」と恐縮すると、「あれを読んで米内が懐かしくなった」と語った。それで他の参加者が米内の思い出話を紹介していたが、天皇が「惜しい人であった」と黙り始めたので、皆も天皇と同じくしたという逸話がある。
- 長男の剛政が人の上に立つ時に部下をどう扱うべきか尋ねたところ、「器の中で自由に泳がせておけばいい。器からはみ出しそうな者がいれば頭をポカリとやる。それ以外は手も口も出さない。しかし部下を泳がせる器は自分が作るものだよ。自分の心がけ次第で広くも狭くもなる」と剛政は述懐している[30]。
- 総理大臣を辞任後、病院通いに東京市電を利用していたが、長身で目立ったせいか元総理ということがすぐわかり、至る所で国民にサインを求められたり話しかけられたりして「困ったな」と言いながらも嫌な顔もせず談笑やサインに応じていた。元とは言え総理経験者となると自家用車やハイヤーなどを使って通院するのが普通で[31]、公共交通機関を使って通院した戦前の総理は米内くらいだという。
- 空襲で海軍省と大臣官邸が焼けてしまい、麻生孝雄秘書官が堤康次郎所有の建物を官邸として借り受けようと交渉に向かったところ、堤は最初は不機嫌だったが米内の名前が出てきた途端に顔色が変わり、「よろしゅうございます。お貸ししましょう。私は米内さんが好きなので」と建物の提供を無条件で承知してくれた。「米内さんの人徳で借りれたようなものだ」と麻生は後に述べている。
- 第一期大臣時代、休日返上で勤務している「海軍さん」を芸者衆が慰問に訪れ、米内の秘書官が同じく休日勤務をしていた軍務局長の井上成美、軍令部次長の古賀峯一などを呼び空室だった海軍省の次官室(当時の次官は山本五十六)を使って芸者手製の弁当を食べていたことが露見して米内と山本が激怒、秘書官をすべてクビにしようとした。芸者衆が懇願して山本は「酒は飲んでいないので罪一等を減じる。1年間の進級停止」と妥協したものの、今度は米内の態度が硬化し「ダメ、全員クビだ」の一点張り。困った芸者衆が海軍の長老に直訴しようとしたところ、慌てた米内と山本がこれは悪戯ということを明かし、その日は芸者衆に追いかけまわされたというエピソードがある[32]。
- 戦前の閣僚の中では、鈴木貫太郎と並んで昭和天皇からの信任が最も厚かったといわれている。海軍省廃止の翌日の1945年12月1日に宮中に召された米内は、お別れの言上をした際、昭和天皇から「米内には随分と苦労を掛けたね。これからは会う機会も少なくなるだろう。健康にくれぐれも注意するように。これは私が今さっきまで使っていた品だが、今日の記念に持ち帰ってもらいたい」として、筆も墨も濡れた状態の硯箱に、二羽の丹頂鶴に菊の小枝をあしらった金蒔絵が描かれた蓋を天皇自ら閉じたうえで、直接手渡された。硯箱を持って廊下へ退出するなり、米内は声を殺して泣き出したという[33]。
- 戦後高血圧で悩まされた際、幣原内閣の外務大臣だった吉田茂から、当時銀座で開業していた武見太郎を紹介され、武見は米内とはほとんど面識がなかったが義理の祖父である牧野伸顕より「あの人のものの見方は偏った所が全くない。軍人であれだけ醒めた見方をする人は珍しい」と常日頃から聞かされていた。そして吉田から「命を削ってお国に尽くし日本を救った方だ。あの方は金がないからどんなことがあっても絶対に診察料は取るな」と指示されていたという[34]。米内は武見の診察を受け、「いい医者だよ。薬をくれずに僕に酒を飲んでもいいと言ったからね」とすこぶる上機嫌だったという。
評価[編集]
林銑十郎内閣で海軍大臣であった際、1938年1月15日の大本営政府連絡会議において、蒋介石政権との和平交渉継続を強く主張する陸軍の多田駿参謀次長に反対して、米内は交渉打切りを主張し、近衛総理をして「爾後国民政府を対手とせず」という発言にいたらしめたことが、中国における最も有力な交渉相手をみすみす捨て去って泥沼の長期戦に道を拓いた上、アメリカ政府の対日感情を著しく悪化させたとして批判の対象となることがある[35]。
ただし当時のアメリカのメディアはというと、意外なほど米内に対して親英米派の提督として好意的な好奇心を抱いていた。ニュース雑誌の草分けとして1923年の創刊以来内外のさまざまな出来事を取材してきたタイム誌は、海軍大臣のとき[36]と総理のとき[37]の二度にわたって米内の特集記事を組んでおり、いずれも表紙を飾るカバーパーソンとして扱っている。タイム誌の表紙を日本人が飾ったのは現在に至るまで30回あるが、そのうち一人で複数回登場しているのは他には昭和天皇の6回と近衛文麿の2回を見るのみとなっており、米内に対する破格の関心が窺える。
米内にはその他にも、「言葉は不適当と思うが原爆やソ連の参戦は天佑だった」という発言をしたこと[38]、戦争への危機感が高まる中、海軍左派を自認しながら海軍部内への意思浸透を怠ったこと[39]、同じ海軍左派である山本五十六を右翼勢力や過激な青年将校から護るためとして連合艦隊司令長官に転出させたこと、終戦間際に井上成美海軍次官を大将に昇格させた上で次官を辞任させ、後任次官に多田武雄、軍務局長に周囲から本土決戦派と見なされていた保科善四郎を置き、軍令部次長に徹底抗戦派の大西瀧治郎を就任させた人事などに対する批判や非難、また軍政家・政治家としての力量に疑問を投げかける意見もある[40]。
その一方で、当時の状況下で、他には誰も何もしようとする者がいない中、公人として「アメリカと戦争をしても負ける。海軍は専守防衛の軍隊である」「統制経済のやりすぎは国を滅ぼす」「軍人は政治に深入りするな」と公の場で発言した唯一の人であり、やれるだけの事はやったという見方もある。重臣の一人として、また海軍の大御所として、小磯・鈴木の両内閣では重石のような役割を果たし、落ちるべきものを落ちるべきところへ落とさせたその手腕は並大抵のものではないという意見も根強く、山本五十六と同様、人によって「名将」か「愚将」で評価が二分されている。
中国文学者の守屋洋は『老子』を解説した著書の中で大山巌と米内の名前を挙げ、「暗愚に見えて実は智を内に秘めている。しかし智を表面に見せずあくまで暗愚に装う」「熟慮や智謀を超越し、その果てに達した無為自然の境地を持った人物」と東洋的リーダーの典型として評価をしている[41]。
年譜[編集]
- 1880年(明治13年) - 岩手県盛岡市下小路に生まれる。
- 1986年(明治19年) - 鍛冶町尋常小学校に入学。
- 1891年(明治24年) - 下橋高等小学校に入学。
- 1894年(明治27年) - 岩手尋常中学校(現岩手県立盛岡第一高等学校)に入学。
- 1898年(明治31年) - 海軍兵学校に入学。
- 1901年(明治34年) - 海軍兵学校卒業(第29期)。海軍少尉候補生。練習艦「金剛」乗り組み。
- 1903年(明治36年) - 任海軍少尉。
- 1904年(明治37年) - 日露戦争に第三艦隊第十六水雷艇隊、第一艦隊駆逐艦「電」に所属し従軍。任海軍中尉。
- 1906年(明治39年) - 功五級金鵄勲章。大隈コマと結婚。任海軍大尉。
- 1912年(大正元年) - 任海軍少佐、海大甲種学生。
- 1914年(大正3年) - 海軍大学校卒業(第12期)。
- 1915年(大正4年) - ロシア駐在(サンクトペテルブルグ;駐在武官補佐官;1915年2月-1917年4月)。
- 1916年(大正5年) - 任海軍中佐。
- 1918年(大正7年) - ソ連駐在(ウラジオストック;1918年8月-1919年9月)。
- 1920年(大正9年) - 任海軍大佐。ベルリンに駐在(1920年6月-)。
- 1921年(大正10年) - ポーランド駐在員監督。
- 1922年(大正11年) - 装甲巡洋艦『春日』艦長。
- 1923年(大正12年) - 装甲巡洋艦『磐手』艦長。
- 1924年(大正13年) - 戦艦『扶桑』、『陸奥』艦長。
- 1925年(大正14年) - 任海軍少将、第二艦隊参謀長。
- 1928年(昭和3年) - 第一遣外艦隊司令官。
- 1930年(昭和5年) - 任海軍中将、鎮海要港部司令官。
- 1932年(昭和7年) - 第三艦隊司令長官。
- 1933年(昭和8年) - 佐世保鎮守府司令長官。
- 1934年(昭和9年) - 第二艦隊司令長官。
- 1935年(昭和10年) - 横須賀鎮守府司令長官。
- 1936年(昭和11年) - 連合艦隊兼第一艦隊司令長官。
- 1937年(昭和12年) - 海軍大臣、任海軍大将。
- 1939年(昭和14年) - 軍事参議官。
- 1940年(昭和15年) - 予備役に編入され内閣総理大臣となる。
- 1943年(昭和18年) - 戦死した連合艦隊司令長官山本五十六の国葬委員長をつとめる。
- 1944年(昭和19年) - 現役に復帰して海軍大臣となる。
- 1945年(昭和20年) - 鈴木貫太郎内閣に海軍大臣として留任。
- 1948年(昭和23年) - 肺炎により死去。68歳と1ヵ月だった。
米内を演じた俳優[編集]
- 山村聡 「日本のいちばん長い日」(1967年 東宝)
- 松本白鸚 「連合艦隊司令長官 山本五十六」(1968年 東宝)
- 渡辺文雄 「海にかける虹〜山本五十六と日本海軍」(1983年 テレビ東京新春ワイド時代劇)
- 村上幹夫 「山河燃ゆ」(1984年 NHK大河ドラマ)
- 村井国夫 「海の夕映え 最後の海軍大将井上成美」(1992年 日本テレビ)
- 神山繁 「ヒロシマ 原爆投下までの4か月」(1996年 NHK)
- 原田大二郎 「聖断」(2005年 テレビ東京)
- 西沢利明 「太陽」(2005年 ロシア映画)
系譜[編集]
米内家は摂津国大坂から盛岡に移住し、南部信直に仕えた宮崎庄兵衛勝良を祖とし、三代目傳左衛門秀政の時に祖母で勝良の妻方の姓「米内」を名乗るようになった。この「米内」は祖母の出身地が出雲国米内郷から来るもので、本来の陸奥国の米内氏の一族ではない。しかし、陸奥在住の縁で次第に陸奥米内氏の一族であるかのように自覚し、また周囲からもそのように評価されて幕末に至った。
陸奥米内氏は一方井氏の分家筋にあたり、一方井氏は俘囚長安倍頼良・貞任父子の末裔であることから、米内光政も自身を安倍貞任の末裔だと称していた。
┏竹中藤右衛門━━┳寿美 ┃ ┃ ┃ ┣竹中宏平 ┃ ┃ ┣━━竹中祐二 ┗竹中藤五郎 ┃ りゅう子 ┃ ┃ ┃ ┃竹下登━━━━公子 ┃(首相) ┃ ┃(15代) ┗竹中錬一 ┣━━━竹中統一 米内光政━━━┳和子 (首相) ┃ ┗米内剛政
伝記[編集]
- 『米内光政』(阿川弘之 著、新潮社のち同文庫)ISBN 4-10-300413-2 C0093
- 『一軍人の生涯』(緒方竹虎 著、文芸春秋新社、のち光和堂)
- 『静かなる楯 ― 米内光政』(高田万亀子 著、原書房上下)
- 『米内光政の手紙』(高田万亀子 著、原書房)
- 『米内光政のすべて』編著 (新人物往来社 1994年)
- 『海軍大将米内光政覚書』(実松譲、高木惣吉編、光人社)ISBN 4-7698-0021-5 C0095
- 『米内光政 山本五十六が最も尊敬した一軍人の生涯』(実松譲 著・光人社NF文庫)ISBN 4-7698-2020-8 C0195
- 新版『海軍大将 米内光政正伝 肝脳を国の未来に捧げ尽くした一軍人政治家の生涯』(実松譲 著・光人社、2009年)
- 『米内光政秘書官の回想』(実松譲 著・光人社)
- 『激流の小舟 提督・米内光政の生涯』(豊田穣 著、講談社文庫上下のち光人社)
- 『海軍 一軍人の生涯 最後の海軍大臣 米内光政』(松田十刻 著、光人社NF文庫、2006年) ISBN 4-7698-2512-9
- 『米内光政追想録』(米内光政銅像建設会、1961年)
- 『米内光政』(神川武利著 PHP文庫 2001年)
- 『米内光政と山本五十六は愚将だった 「海軍善玉論」の虚妄を糺す』(三村文男 著、テーミス) ISBN 978-4901331067
参考文献[編集]
- 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』立風書房、2001年、213-216頁
脚注[編集]
- ↑ 荒城二郎に送った手紙によると、毎日二時間は必ず読書の時間を設け、司令官と言ってもほとんどやることがない執務中にも読書をしていたという。
- ↑ 吉田俊雄著『日本海軍のこころ』
- ↑ 待合の女中の妹の結婚式に参加し、二次会で早朝まで東京に滞在していたことを待合の関係者が証言しており、それが事実なら当時女房役だった参謀長井上成美が知らないわけがなく、井上が戦後に語った「思い出の記」では、意図的に米内を庇っていると思われる。
- ↑ 軍政が嫌いだった米内は、連合艦隊司令長官を就任僅か2ヶ月で退任させられて、海相に任ぜられた事を非常に渋り、周囲には「一属吏になるなんて、全くありがたくない話だ」とぼやいていたという。
- ↑ 他にも、1923年に練習艦「磐手」の艦長として訪問したニュージーランドの小学校で挨拶をした際は、「I'm glad to see you,thank you.」としか話さなかったり、海軍省最後の日となった1945年11月30日に、最後の海軍大臣として挨拶をした際にも、朝日新聞の海軍担当記者が作った原稿を読んだ後「では皆さん、さようなら」とだけ喋って終わったなどといった逸話がある。しかしプライベートでは饒舌だったという話もあり、「米内さんは口数が少ないと言われているが、そんなことはない。うちではよくしゃべっていたし、冗談もよく言っていた」と佐世保時代に親交があった知人や長官官邸の女中の証言や、戦後は人が変わったかのように口数が多くなった、という証言もある。
- ↑ 倒閣は陸軍だけが考えた訳ではない。6月7日に立憲政友会正統派総裁久原房之助が同様の要求を行って拒絶されると、内閣参議を辞職して松野鶴平鉄道大臣ら閣僚・政務官の引揚を通告した。だが、政党派内部では久原のように新体制運動を支持する意見と鳩山一郎のように立憲民政党と合同してでも政党政治を守るべきとの意見が対立しており、鳩山側の松野が辞任に同調しなかった事と、新体制運動を進めていた近衛の側近達からも久原の行動を時期尚早として相手にされなかったため、最終的に久原1人が辞任する羽目となった。
- ↑ 畑は当時の陸軍参謀総長だった閑院宮載仁親王から陸相を辞任するように迫られ、皇族への忠誠心が厚かった畑はその命令を断ることができなかった。閑院宮の顔を立てたいと考えていた一方で、どうしても内閣総辞職を回避したかった畑は、米内に対して辞表を提出しても受理しないよう内密に話をつけていたが、なぜか米内は辞表を受理した。
- ↑ 8.0 8.1 8.2 阿川弘之『米内光政』
- ↑ 阿川弘之『山本五十六』
- ↑ 朝日新聞昭和18年5月22日号
- ↑ 井上は後に「貫禄負けでした」と述べている。東條内閣末期から米内邸に日参していた中山定義によると、大臣就任前から「井上は今どこにいる」「井上はいいな」とつぶやいたことがあり、米内が大臣に復帰したら次官は必ず井上だという感触をつかみ嬉しくなったと著書で述べている。
- ↑ この経緯を後年井上は「ワンマン次官、いけなかったかしら」と述懐している(井上成美『思い出の記』)。海軍省が作成した大臣候補は井上であり、人事局が作成した案に「大臣 井上」と書かれた書類を見た井上は「自分が大臣に不適格であることは自分がいちばんよくわかっている。何としてでも米内さんにやっていただく」とハンコを押さず却下した。
- ↑ のちに米内と共に内閣で終戦を主張する外務大臣・東郷茂徳は当初どっちつかずの態度で、日記に「外務省は今の状況をわかっているのか」と苛立ちを書き記しているが、米内の地道な説得で和平へと傾いたと言われている。東郷が和平を主張し出した後は「東郷君がすべて(私が言いたいことを)主張してくれているから私からは何も言うことはない」と言って表だって発言することはなくなった。ただし、東郷の方もメモの中で5月11日の戦争最高指導会議構成員会合においで米内がソ連を仲介として軍事物資を獲得できないかとする提案を行ったことに「そのような余地は無い」と主張して米内の現状のソ連に対する認識の甘さを批判した上で和平の仲介以外望むべきではないと説いたことが記されており、米内・東郷ともに相手の和平に対する考えを探っていた段階にあったとも捉えられる。
- ↑ 米内が豊田総長・大西次長をトップに置いたことは、昭和天皇が「司令官として成績不良の者を総長に持ってくるのはどうか」と米内の人事に苦言を呈したことがあり、米内は「豊田は若い者に支持がある。彼の力によって若い者を抑えて終戦に持っていきたい」と返答したが、豊田は結局「若い者」に押し切られた形になり、「これは米内の(人事の)失敗である。米内のために惜しまれる」と天皇自身が述べている。
- ↑ 元々、米内と阿南は気質的な部分で反りが合わず、竹下正彦陸軍中佐は戦後「率直に言って、阿南は米内が嫌いだった鈴木貫太郎首相に対しては、愛敬の念非常に深いものがあったが、米内をほめた言葉を聞いたことがない」と述懐しており、米内も小島秀雄海軍少将に対して「阿南について人は色々言うが、自分には阿南という人物はとうとう分からずじまいだった」と語っている(阿川弘之『米内光政』)。また、終戦の玉音放送の原稿についても、「これでは戦争に負けているように聞こえる」という阿南に対して、「現に負けているではないか」と言い返す米内で言い争いになったこともあるという。
- ↑ ある知人が米内宅を訪ねた時、寝具などの荷物をすべてまとめており「(収監される)準備は完了だよ」と笑顔で答えたという。
- ↑ 血圧は最高260、収縮時でも230ほどで心臓が肥大し背骨に接触していた程で、戦前の豊頬が見る影もなく痩せ細っていた。
- ↑ 1941年(昭和16年)10月に近衞文麿が内閣を投げ出すと、後継首班を決める重臣会議では及川古志郎海相も総理候補として名も上ったが、これに猛反対して潰したのが米内と岡田啓介で、もう一人の候補だった東條はこの海軍の「消極的賛成」のおかげで次期首班に選ばれたという経緯があった。
- ↑ 山田風太郎は、米内はこのような腹芸をするタイプではなく、通訳がいい加減だった為に頓珍漢なやり取りになったのではないかと記している(『人間臨終図巻II』徳間文庫 ISBN 4-19-891491-5)。また、そもそも米内内閣倒閣を推進した一派が参謀総長の閑院宮載仁親王を御輿に担いでいたため、米内は皇室に累を及ぼす事を恐れて実状を口にする事を避けたともいわれている。しかし他の検事団も概ね米内を評価しており、ある若い検事が米内の後姿を見て「ナイス・アドミラル」と言っていたのを、『一軍人の生涯 提督・米内光政』を書いた緒方竹虎は聞いている。しかし、畑自身は米内の韜晦に「何だあんな馬鹿な態度は」と怒り心頭で、それを聞いた豊田隈雄は「何故米内さんの身を呈した苦心がわからないのか」と心外に思ったという。しかし畑はその後米内の真意を知り、「米内内閣は陸相たる私の辞職により総辞職の止む無きに至った。(中略)誠に申し訳ないことだったと自責の念に駆られている。(中略)その後大将はこんなことを根にも持たれないで私に対する友情も少しも変わらなかったことは、私が常々敬服するところである。(中略)(東京裁判にて)毅然として私の弁護のために法廷に立たれ、裁判長の追及批判も物ともせず、徹頭徹尾私が米内内閣倒閣の張本人ではなかったことを弁護されたことは、私の感銘するところである。(中略)この一事は故大将の高潔なる人格を象徴して余りあるものと信ずる」と米内の銅像が盛岡に建てられた際に編纂された『米内光政追想録』に手記として残している。
- ↑ 背広姿の米内の銅像
- ↑ 谷口はそれに「そうか。僕も同意見だ。ただ米内君は面倒くさがり屋で、その面倒くさがりの度が少し過ぎてやせんかと思うがね」と答えたという(阿川弘之『米内光政』)。
- ↑ ロシア駐在時代の駐在員監督官が海軍省に送った報告書によると、「語学の上達が非常に早く、ロシア人教師も驚く程である。異国の風土にも違和感なく溶け込み、(米内のロシア駐在という)人選は適格である」と絶賛している。ある同期は「ロシア語で電話が出来る海軍省内唯一の人」と回想し、佐世保鎮守府参謀時代は「暇つぶし」と称して『ラスプーチン秘録』というロシア語で書かれたルポを翻訳したりしている。
- ↑ 陸軍の秘書官も「あなたたちは(米内内閣崩壊と)関係ないから」と誘われたのだが、「我々は米内さんに迷惑をかけた存在なので参加する資格などありません」と丁重に断りを入れている。
- ↑ 井上の手にかかると、東郷平八郎でも「三等大将」であった。山本五十六に関しては、連合艦隊司令長官の時に近衛文麿に語った「(アメリカとの戦争に関して)半年や1年は暴れてみせます。しかしそれ以後はわかりません」という発言を取りあげ、「あれはいけない。軍事に素人で悪い意味で楽観的な近衛さんには何故はっきり『戦争は出来ません。この発言が不穏当であれば司令長官を辞します』と言わなかったのか。山本さんのために惜しまれる」と「(前述の発言さえなければ一等大将という)条件付き一等大将」としている。また、自身も大将であった井上自身の論評は「私なんか大将の器でもないのに大将になったので論外」と言ったという。
- ↑ 大井は終戦間際の井上成美の大将昇進、軍令部次長に大西瀧治郎を就任させた例を挙げているが、それを井上に言ったところ、「大西を推薦したのはボクだからね」と答えたという。これを大井は「(井上さんは)意図的に米内さんを庇っている」としている。また、山本五十六が海軍次官として米内の部下だった頃に「うちの大臣は頭はそれほどでもない。しかし肝っ玉が備わっているから安心だ」というコメントをしている。
- ↑ これに関して岡田は「(米内は)末次のような性格の男がいては、自分の考えている戦局の収集がうまくいかんと思ったのではないかね」とし、『昭和天皇独白録』によれば「私は末次の総長に反対した。米内が後で末次の事を調べたら、海軍部内の八割は末次をよく知つてゐないと云ふことが判つた相だ」とされている。
- ↑ 米内は晩年まで父親が残した借金を返済していたということがあり、海外駐在が多かったのも借金で生活が苦しいのを見かねた同期が「海外に出れば手当が支給され、それだけで現地の生活が出来る」というはからいによるものであった。功四級金鵄勲章の年金も借金のかたに取られてしまっている。また、佐世保鎮守府長官時代にも海軍の福利団体に三千円の借款を申し込んでいる。中将で借金を申し込んだのは前代未聞で、申し込みを受けた理事(大臣副官が兼務)もどう処理していいのか戸惑ったという。米内が借金を返済するのは海軍大臣になってからであり、佐世保鎮守府長官時代に宛てた親友の荒城二郎向けの手紙にも、「(米内が現職留任かもという人事異動の噂が立ち)陸上勤務は金がかかるがかといって辞職するわけにもいかない。金がないからまた借金でもするか、ハハハ」と書いている。
- ↑ もっとも、その士官はその上官によって考査表に「上官ノ命ニ従ワズ素行ハ極メテ不良ナリ」と「丙」をつけられたという。
- ↑ これを聞いた横須賀の芸者衆は、「あの堅物の井上さんがそんなこと言うなんて」と目を丸くしたという。なおその芸者は一時期横須賀で芸者をしていたものの、知らぬ間に横須賀から消えそれ以後の消息は不明だという。
- ↑ 『米内光政のすべて』より。
- ↑ 海軍から公用車が派遣されたが、「予備役なので」と断っている。逆に陸軍は次官の子弟の通学の送り迎えにも公用車を使い、国民の顰蹙を買っている。
- ↑ もっとも、その悪戯のいちばんの「被害者」である秘書官の実松穣は「悪戯にも程があるのではないか」と複雑な気持ちを自伝で述べている。また実松の自伝によるとこれは山本の発案で、米内は「やりすぎではないか」と消極的だったと記しており、阿川弘之が書いた、米内・山本の「共謀」とは少し展開が違っている。
- ↑ 侍従など天皇のお側に仕えた人以外ではほとんど例がなく、極めて異例のことであった。現在その硯は、盛岡市にある先人記念館に展示されているが、他の展示品が寄贈なのに対して硯のみ「米内家からの貸与」となっている。
- ↑ 吉田から「この人からは金を取るな」と言われていたのは、他にも岡田啓介(元海軍大将)がいる。
- ↑ 豊田穣などは「米内があまりに陸軍に不勉強、あるいは予想以上に陸軍が海千山千だった結果で、この反省は日独伊三国同盟締結の際の抵抗に活かしている」としている。
- ↑ タイム 1937年8月30日号
- ↑ タイム 1940年3月4日号
- ↑ 読売新聞、2006年8月15日、第46850号 12版。米内はこの言葉の後に「国内情勢で戦いをやめるということを出さなくて済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし、原子爆弾やソ連の参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態(食糧事情などによる国内秩序の崩壊から日本が内部から崩壊すること)が主である。(中略)軍令部あたりも国内がわかっておらなくて困るよ」と続いている。また、同じ発言を近衛文麿も細川護貞に語っている。
- ↑ 豊田隈雄が主に主張していた。
- ↑ 海軍軍人の政治音痴・政治嫌いは米内に限ったわけではなく、海軍全体の最大のネックとまで言われていた。
- ↑ 部下として数回米内に接した前田稔は、「米内さんは老荘の風があって、これはいけないと思ったら反論する人には誰であろうと容赦せず、また自分の意見には絶対に妥協しない、あくまで流れに逆らうカミソリみたいな切れ味の井上さん(井上成美)を参謀長として、また次官として上手に包み込んで使っておられた。一回り大きな軍政家でした」と同じような述懐をしている(阿川弘之『米内光政』)
関連項目・人物[編集]
外部リンク[編集]
官職 | ||
---|---|---|
先代: | 内閣総理大臣 第37代:1940年
|
次代: |
先代: | 海軍大臣 第21代:1937年 - 1939年
第26代:1944年 - 1945年 |
次代: |
先代: | 連合艦隊司令長官 第23代 : 1936年 - 1937年
|
次代: |
歴代内閣総理大臣 | |||||
第36代 阿部信行 |
第37代 1940年 |
第38・39代 近衛文麿 | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
伊藤博文 黑田清隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 |
高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 |
廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 |
幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 |
三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曾根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護熙 羽田孜 |
村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 |