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ストリップは、舞台上で主として女性のダンサーが、音楽に合わせ服を脱いでいくさまを見せる出し物である。ストリップティーズともいう。古くから大衆の性的娯楽の一つとなっている。
目次
歴史[編集]
人類史上のストリップの歴史[編集]
パフォーマンスアートとしてのストリップの確かな起源は、わかっていない。古代バビロニアから現代までの間に、幾多の説がある。「ストリップ(ストリップティーズ)」という語の初出は1938年とされている。しかし、女性が徐々に服を脱ぐことで男性客を興奮させるという見世物は、少なくとも400年くらいは遡ることができる。たとえば劇作家トマス・オトウェイ(Thomas Otway 1652/03/03 - 1685/04/14)の1680年のコメディ作品The Soldier's Fortuneで、登場人物のひとりの台詞に「Be sure they be lewd, drunken, stripping whores」というのがあり、「stripping」という言葉が出てきていることを確認できる[1]テンプレート:要検証。
神話の中にも、ストリップとも受け取れる事象を見出すことができる。シュメールの神話の中に、女神イナンナが地獄に向かうシーンがある。7つの門それぞれで、彼女は衣類を脱ぎ、装身具をはずしていったという。
マタイ伝14:6やマルコ伝6:21-22には、サロメがヘロデ・アンティパスのためにダンスを踊る記述がある。サロメがヘロデ王に見せたダンスが「7つのヴェールの踊り」として有名になり、現代のストリップティーズの源流のひとつとみなされるようになったのは、オスカー・ワイルドの詩劇『サロメ』が出版されたのちの1893年になってからである[2]。1905年に初演されたオスカー・ワイルドの詩劇のリヒャルト・シュトラウスによるオペラヴァージョン以降、「7枚のヴェールの踊り」は、オペラ・ボードビル・映画・笑劇などにおけるスタンダードなものとなった。初期の有名な演者としては、モード・アレン(Maud Allen 1873/8/27? - 1956/10/7)をあげることができる。彼女は1907年にエドワード7世の前でこの出し物を行った。
6世紀の東ローマ帝国ユスティニアヌス1世の妻テオドラ皇后は、いくつかの考古学的資料によれば、もともとは娼婦を兼ねた女優としてキャリアをスタートさせており、その出し物の中には神話にもとづいて服を脱ぐ、ストリップのルーツとなる表現がが含まれていた。
近代ストリップの別の源流としては、北アフリカやエジプトに入植したフランス人によるガワジーダンスの再発見があげられる。ガワジーの出し物のひとつであるエロティックな「みつばちのダンス」は、クチュック・ハネム(Kuchuk Hanem)として知られているダンサーによって演じられ、フランス人作家のギュスターヴ・フローベールによって再発見され、描写された。このダンスの中で、ダンサーは服を脱ぐ。しかしこのダンスが伝統的なものであったかどうかはよくわかっておらず、商業的要請によってこのような出し物となった可能性も否定はできない。 この流れのもの、中近東由来のベリーダンス系統のものは、アメリカ合衆国では、1893年に開催されたシカゴ万国博覧会で紹介され、その後ポピュラーなものとなっていった要出典。
フランスにおけるストリップ史[編集]
1880年代から1890年代にかけて、ムーランルージュやフォリーベルジェールなどのショウでは、わずかな衣装のみをつけた女性のダンスと活人画[3]などの見世物が行なわれていた。このような状況の中で、1890年代に「這い回る虱を探すためにゆっくり服を脱いで行く女」という出し物が演じられた。アメリカ合衆国の民俗史書『The People's Almanac』は、これが「近代ストリップの源流である」としている。
1905年には、のちにフランスでスパイとして処刑され悲劇のヒロインとしても有名になるマレー系オランダ人の伝説的ダンサーマタ・ハリが、ギメ東洋美術館のステージでデビューして大成功した。彼女のショーでもっとも有名だったのは、宝石がいっぱいについたブラジャーや体を飾る宝飾品を見せるシーンだった。
もうひとつのランドマークとなった出し物は、1907年にムーランルージュで行なわれたものだった。ジェルメーヌ・アイモス(Germaine Aymos)と呼ばれた女優は、わずか3つの小さな貝殻だけを身に着けていた。
1930年代、歌手としても知られるジョセフィン・ベーカーは、フォリー劇場やその他タバリン通りの劇場で演じられた「danse sauvage」の中で、セミヌードでダンスを踊った。これらのショウは、洗練された振り付けや豪華な衣装が特徴だった。
1960年代にはいると、パリのクレイジーホースなどで全裸のショーが行われるようになった[4]。
アメリカ合衆国におけるストリップ史[編集]
アメリカ合衆国のストリップは、移動式カーニバルや初期のバーレスクの劇場ではじまった。初期の代表的なストリッパーにはジプシー・ローズ・リー(Gypsy Rose Lee 1911/01/08 - 1970/04/26)やサリー・ランド(Sally Rand 1904/04/03 - 1979/08/31)がいる。空中ブランコ芸人だったシャーミオン(Charmion 1875/07/18 - 1949/02/06)は、1896年という早い時期に、空中ブランコの上で服を脱いでいくという見世物を行なった。その映像は、1901年にトマス・エジソンによって撮影された『Trapeze Disrobing Act』という作品に残されている。
現代的なストリップを含むアメリカン・バーレスクのもうひとつの一里塚と言えるのは、1925年4月に演じられた、伝説的な「ミンスキーのバーレスク」である[5]。それはミンスキーブラザースによってニューヨーク42番街の劇場で上演された。このバーレスク劇場でのストリップの上演は、何度か警察沙汰になった後、当該劇場「グラインドハウス」の品位を低下させたとして、1937年に廃止された。
1960年代になって、ストリップは、トップレス・ゴーゴーダンスとして復活した。サンフランシスコ・ノースビーチにあったコンドルナイトクラブのダンサー、キャロル・ドーダ(Carol Doda 1937/08/29 -)が「最初にブラジャーを脱ぎ捨てたダンサー」として歴史に名を残している[6]。コンドルナイトクラブは1964年にオープンしたが、ドーダのトップレスダンスショーは同年6月19日の夕刻にはじまったとされている[7][7]。コンドルナイトクラブのショーは、1969年9月3日に、パンツも脱ぎ捨てた。そして、この「全裸スタイル」は、アメリカ合衆国におけるストリップの主流となっていった。
サンフランシスコには、その筋では有名な「Mitchell Brothers O'Farrell Theatre」も存在していた。この劇場は、ラップダンス をストリップに導入した先駆者であり、この流れは合衆国中に、さらには世界中に、広がっていった。
英国におけるストリップ史[編集]
イギリスでは、ローラ・ヘンダースン(Laura Henderson 1864 - 1944/11/29)がロンドンのウィンドミル劇場でヌードショーをはじめたが、英国の法律は1930年代に裸の女性が動くことを禁じるに至った。この禁令をかいくぐるために、モデルたちは活人画のように静止することになった。このウィンドミル劇場の女たちは、ロンドンや周辺の劇場にも遠征した。彼女たちは、時としてロープを使って回転し体中をぐるっと見せることもあったが、とりあえずは自らの意思で動いてはいないという形式を整えることで、禁令をかいくぐり続けた。
もうひとつの禁令突破法として考えられたのは、扇ダンスだった。扇ダンス型では、裸のダンサーは動いてポーズを変えるが、その間は扇が裸体を隠しており、静止した裸体を見せるという方法がとられた要出典。
1942年、フィリス・ディキシー(Phyllis Dixey 1914/2/10 - 1964/6/2)は、会社を設立し、ロンドンにホワイトホール劇場を開いて、「ホワイトホール・フォリーズ」と呼ばれるセクシーな時事風刺劇をはじめた。
1950年代まで、ストリップの巡回興行は、さびれたミュージックホールにとって、観客を集められる出し物として行われていた。ポール・レイモンドは、彼の巡回鉱業を1951年にはじめているが、その後ソーホーでドーリア式ダンスを学び、1958年にはプライベートな会員制倶楽部「レイモンド・レヴューバー」を開いた。これは、イギリス初のストリップクラブであった。1960年代に法律が改訂されたことから、ソーホーではストリップクラブのブームが巻き起こり、また全裸でのダンスも一般化した[8]。会場としてはパブがしばしば使われた。中でもパブが集中するショラディッチ地区のイーストエンドに多く見られた。このパブ・ストリップは、トップレス・ゴーゴーダンスの流れを汲んだものと考えられている。これらのパブはしばしば地域警察などからのいやがらせを受けたものの、それらのうちいくつかは現代も生き残っている。これらのパブ・ストリップに特徴的な習慣として、ストリッパー自身が演じる前にビールジョッキを持って客席を回り観客からチップを集めるというものを挙げることができる。この習慣は、1970年代に、トップレス・ゴーゴーダンサーが「全裸が見たければ金を出しな」という趣旨ではじめたものであると考えられている。また、更に猥褻でもろ出しの「プライベート・ダンス」と呼ばれるものをパブ内の個室で演じるということも多くのパブで行なわれている[9]。
日本におけるストリップ史[編集]
神話世界でのアメノウズメの天岩戸の前での踊りが、日本のストリップの元祖という話が決まって出るほど馴染みが深いものであり、日本人は元来そのようなものに一定の理解があった。前史として、浅草のレビュー「カジノ・フォーリー」で「金曜日に踊り子がズロースを落とす」(つまり中身が見えてしまう)という噂によって大入りを続けたことがある[10][11][12]。
一般的な形でのストリップは1947年1月15日、東京都新宿角筈(現在の新宿三丁目)の帝都座5階演芸場で、本邦初のヌードショー「ヴィーナスの誕生」という催物として始まった。この時のモデルは甲斐美晴。企画・演出は秦豊吉。乳房は露出していたが、陰部は扇で隠されていた[13]。モデルが動けば風俗擾乱として摘発する旨がGHQから寄せられていたため、実際の女性が西欧の裸体画に扮し、踊りはなくじっとしているものであったので「額縁ショー」と呼ばれていた。それでも大変なショックで、大きな反響を呼び、殺到した客が5階の階段を埋め尽くして、地上に長い列を為したという[14]。 その後、規制は緩和され、変化を付けるため、行水ショーなど様々に工夫された。1948年3月、台東区浅草の常盤座にて初めて踊りを取り入れた本格的なストリップショーが開催された[15] その後、全国的な広がりを見せ、大衆娯楽へとなった。特に松竹(東劇バーレスク・ルームや浅草公園劇場「パークバーレスク」。ジプシー・ローズ)、東宝(日劇ミュージックホール)といった日本の二大興行主や東京吉本も一時参入したのが特筆される。当時の映画に「カルメン故郷に帰る」があり、ストリップをめぐる世相も伺うことができる。また、ストリッパーは当時「ヌードさん」とよく呼称されていた。
1950年代、フランス座やロック座、カジノ座、東洋劇場など浅草公園六区、そしてムーランルージュ解散後の新宿セントラル劇場、新宿フランス座といったストリップ劇場では幕間に軽演劇の流れを汲むコントが行われ、佐山俊二、長門勇、谷幹一、関敬六、戸塚睦夫、海野かつを、渥美清や、東八郎、由利徹、八波むと志、財津一郎、三波伸介、伊東四朗、石井均、萩本欽一、坂上二郎やや間があって1970年代のビートたけしなど、昭和を代表する喜劇人や井上ひさしなどの脚本家を連綿と輩出する舞台にもなっていた(その後も1980年代のコント赤信号(渋谷道頓堀劇場)から浅草キッド[16](フランス座)の頃まで、その流れは徐々に衰退しながら続いていく)。 またこの頃、ストリップダンサーはバタフライといわれる一種の前張りを股間に付けていた(後に出る OS系に比し、いわゆるTS系と呼ばれる)。
1970年代頃から、関西地区を中心に全裸になって(全スト)女性器をあらわに見せる特出しショー[17]の一条さゆりらが人気を博した(いわゆるOS系)。一条は摘発されたが、次第に全ストが一般的になった。また、舞台で女性出演者同士の絡む様を見せる「レスビアンショー」(レズではなくレス、である)、出演者のカップルが本番行為を行う「白黒ショー」、同様に出演者のカップルがSMプレイを行う「残酷ショー」、お客が踊り子と舞台上で性交をする「マナ板ショー」(後出)が全盛になった。徐々にTS系をどぎついOS系が凌駕していく。その頃には「ヌード・インテリジェンス」といった専門雑誌までが登場した。ショーの内容は更にエスカレートし、ポニーと踊り子による「獣姦ショー」も登場したが、1985年の風営法の施行後は警察による取締り強化のためストリップ劇場が激減した。
また1970年代のストリップとコメディとの関わりとしては、人気テレビ番組『8時だョ!全員集合』で、ドリフターズ・加藤茶による、ストリップをモチーフにとったギャグ「チョットだけよ」(タブー _(ラテン音楽)も参照のこと)が一世を風靡したことが特筆される。が、意味も解らない低年齢の子供からも盛んにマネをされるほどの大流行をし、低俗番組として指弾の対象となる。
1980年代は、アイドルストリッパーとして人気を博した美加マドカ、本番は行わず「オナニーショー」で有名になった清水ひとみ、後に「伝説の踊り子」と呼ばれた影山莉菜など、若くて容姿のよいアイドルダンサーが活躍した。またこの頃は、社会的にまだ話題に取り上げることができた時期で、レコードとして笑福亭鶴光の鶯谷ミュージックホール(オールナイトニッポンにて深夜に登場)やラジオ大沢悠里ののんびりワイドで看板のお色気大賞コーナーがあり、ストリップの話題がお茶の間に流れた。
また、その頃から(1990年頃以降は特に)観客の人気を集めるためアダルトビデオに出演していた女優が舞台に上がることも多くなり、導入当初は会場前に長蛇の列が出来、入替制にするなどの人気が上がったが、集客は逓減し続け、2000年代に入る頃には全盛期と比べると見る影もない状況となった。
近年では他の性的娯楽の選択肢が増えたこともあり、入場者数が減少し、経営が成り立たず閉鎖を余儀なくされる劇場も多い。改正風俗営業法の規制下に入り、屋台のように一旦営業が取り止めになると新規の営業許可が出ない事となった。閉鎖されていく劇場がある一方で一定程度の客数を確保している劇場も都市部を中心として複数存在するが、こうした劇場もポラロイドショーによる収入が劇場経営を支えている側面が強くなっている。また、女性客にアピールする目的で女性・カップルの優先席を設けるなどの試みを行う劇場もある[18]。関西系のどぎつい出し物の台頭という変遷、単なる性風俗と化した様相のストリップに対し、その揺り戻しともいえるTS系の台頭が相対的に進むが、絶対的な劣勢を跳ね返す程にはなっていない。2010年代には、若林美保や牧瀬茜らのストリッパーが活躍した。
近年[編集]
NHK総合テレビでストリップがテーマの「ノーナレ」(裸で泣く)2018年10月2日が放送されるなど、(特に演じ手と同性である女性から)「感動的」と賞賛されるように受け取り方が変わってきており、伴って社会の受け止め方も変わりつつある[19]。地方まで追っかけをする女性ファンも存在する。
脚注[編集]
- ↑ Robert Hendrickson (1997) QPB Encyclopedia of Word and Phrase Origins.New York, Facts on File, Inc: 227
- ↑ Toni Bentley (2002) Sisters of Salome: 31
- ↑ 背景の前で生身の人間が静止し画中の人物のように見せる見世物
- ↑ Richard Wortley (1976) A Pictorial History of Striptease: 29-53
- ↑ これを題材として、1968年に『The Night They Raided Minsky's』(『警察がミンスキー劇場をガサ入れした夜』)というミュージカルコメディ映画が作られている。
- ↑ Nudity, Noise Pay Off in Bay Area Night Clubs, Los Angeles Times, February 14, 1965, Page G5.
- ↑ 7.0 7.1 California Solons May Bring End To Go-Go-Girl Shows In State, Panama City News, September 15, 1969, Page 12A.
- ↑ Murray Goldstein (2005) Naked Jungle - Soho Stripped Bare. Silverback Press
- ↑ Baby Oil and Ice: Striptease in East LondonLara Clifton (2002).
- ↑ 小林信彦『定本 日本の喜劇人』p.24
- ↑ 他に、お座敷ストリップが旅館等で特定の客相手に行われたという話もある。一例として、浮世亭信楽がお座敷で九州の一流芸者のストリップを見で仰天した話。出典:桂文楽『あばらかべっそん』 ISBN 9784480026125
- ↑ 浅草オペラ盛んなりし頃、パンタライ社という怪しげな団体が、観音裏の馬道でヌードショーを兼ねたお座敷ダンスの元祖という記述。菊池清麿『昭和演歌の歴史』p.56
- ↑ 広岡敬一 『戦後性風俗大系 わが女神たち』(文庫版) 新潮社 2007年 p.36
- ↑ 世相風俗観察会『現代風俗史年表 昭和20年(1945)~平成9年(1997)』河出書房新社、1999年1月増補
- ↑ 世相風俗観察会『現代風俗史年表 昭和20年(1945)~平成9年(1997)』
- ↑ 他にもモロ諸岡など
- ↑ 阿波(徳島県)で始まったと言われたようである
- ↑ ミリオン出版『俺の旅』2010年7/5増刊号 p148
- ↑ 松之丞、浅草ロック座で観たストリップショーに衝撃を受ける!講談師・神田松之丞(かんだ まつのじょう)のラジオ『神田松之丞 問わず語りの松之丞』(2018年6月3日放送分)後に神田松之丞は女性パーソナリティのジェーン・スーも連れ立って案内したことを互いにラジオで報告した。
参考文献[編集]
- 矢野誠一『昭和の演藝二〇講』
- 市川市文学プラザ『昭和の市川に暮らした作家』
- 『昭和の大衆娯楽 : 性の文化史と戦後日本人』イースト・プレス 2014年
- ストリップ史研究会/石橋ワタル監修『ストリップ芸大全』
- 松竹株式会社『松竹70年史』