「三菱銀行人質事件」の版間の差分
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三菱銀行人質事件(みつびしぎんこうひとじちじけん)は、1979年1月26日に大阪府大阪市住吉区万代二丁目の三菱銀行北畠支店(現三菱UFJ銀行北畠支店)に猟銃を持った男が押し入り、客と行員30人以上を人質に立てこもった事件。
目次
概要[編集]
事件発生から42時間後に立てこもっていた梅川昭美(うめかわ あきよし、1948年3月1日-1979年1月28日)が警察の特殊部隊に撃たれ死亡。梅川は警察官を2名、行員を2名(うち1名は支店長)、合計4名を射殺、女性行員を裸にして盾代わりに並ばせる事もした。
警察は梅川に投降するよう交渉を続けたが、最終的に犯人狙撃で解決するに至った。梅川を狙撃したのは、SAT の前身である大阪府警察本部第二機動隊零(ゼロ)中隊だった。戦後、日本の人質事件が犯人射殺という形で解決したのは、1970年の瀬戸内シージャック事件、1977年の長崎バスジャック事件とこの事件の3つだけであり、三菱銀行人質事件以降、日本の人質事件において犯人を射殺した事件は存在しない。
なお、事件のあった北畠支店は「三菱UFJ銀行北畠支店」として現存している[1]。
詳細[編集]
1月26日[編集]
事件発生状況[編集]
1979年1月26日の閉店近く、チロルハットを被り黒スーツに黒サングラスの犯人梅川昭美(当時30歳)が5000万円を強奪する目的で銀行に押し入り、ニッサン・ミロク社製の猟銃(上下2連式12番口径)を天井に向けて発砲した。梅川は現金をリュックサックに入れるように行員を脅したが、その際に非常電話で通報しようとした20歳男子行員を見つけ射殺し、流れ弾に当たった男子行員と跳弾に当たった女子行員を負傷させた。観念した男子行員が現金を詰め込み、梅川は警察が到着する前に銀行から逃走する予定であったが、逃げてきた客が自転車で警ら中の警官に通報し、事件は発覚した。
通報から籠城まで[編集]
梅川の予想より遥かに早く52歳警官が銀行に駆けつける。52歳警官は梅川に銃を捨てるよう要求し天井に向けて威嚇発砲をしたが、梅川は52歳警官の顔と胸を撃って射殺した。その数分後に逃げてきた別の客からの通報を受けパトカーで駆けつけた2人の警官にも発砲し、29歳警官を射殺した。もう一人の警察官は防弾チョッキを着ていたため無事だった。
午後2時35分に大阪府警に銀行の異常事態が通知され、3分後には大阪府内の全署に緊急配備指令発令。緊急配備から2分後には武装警官およそ320名が銀行を包囲し、銀行付近500メートルの道路を閉鎖。すると梅川は行員にシャッターを下ろすよう命じ、銀行の出入口を閉鎖したが、その際現場に到着していた警察官がとっさに近くにあった看板や自転車等をシャッターの下に置いたため、完全にシャッターが下りなかった。
シャッターが閉じられた店内には梅川と客12人と行員31人の合計43人が人質に取られたが、うち親子連れと妊婦の客4人はすぐに解放されたため、39人が人質に取られることとなった。また人質とは別に梅川に気付かれずに貸し金庫室などに隠れた客5人が店内に残された。店内の状況は凄惨で、梅川によって殺害された死体とともに人質に取られていた。銀行行員を裸にして用便も許されず、負傷した男子行員の耳を同僚に切り取らせるといった残虐非道な行為も行われた。
店内の状況[編集]
銀行に籠城した梅川は47歳の支店長をなじると、猟銃を至近距離より発射し支店長を射殺した。この猟銃は上下2連でピストルより命中率が高く、殺傷力も強いものだった。支店長を射殺した梅川は狙撃隊から自分の身を守るために男子行員全員は上半身のみ裸、女子行員は電話係を除く19人全員が全裸になり『肉の盾』となるよう命令する(梅川は男の下半身は見苦しいから見せるなと言っていた。その後、梅川は片親の女子行員1人のみ服を着ることを許している)。
やがて、こういう状況の中でも冷静沈着な最年長の男子行員を生意気だと怒った梅川は再び猟銃を発砲し、男子行員に重傷を負わせた。梅川は別の男子行員にナイフでとどめをさすように命じるが、「もう死んでいる」と命令された行員は嘘をつく。
すると梅川は映画『ソドムの市』で死人の儀式を行うワンシーンの話を出した上で、「そんなら耳を切り取ってこい。」と新たな命令を出す。命じられた行員は激しく抵抗するが、散弾銃で撃たれた遺体と猟銃で狙われている恐怖で、死んだふりをしていた行員の左耳を切除し、その耳を梅川に差し出した。すると梅川は耳を口にして、まずいと言って吐き出している。耳を切り取られた行員は失神するも、夜明けに目覚め、左耳から流れる血液で、「Y(妻の名前) ツヨクイキロ コドモタチモツヨクイキロ」と遺言を書くも、後から流れ出る血液で遺言は消えてしまったと後にマスコミのインタビューに答えている。その後も梅川は行員らに向けて威嚇発射をするなどいたぶって喜んでは、ささいなことで癇癪を起こして「殺すぞ!」と怒鳴りながら真剣な顔をして銃口を突きつけたりした。
警察の対策[編集]
事件発生から警察は銀行の2階の事務室に特別捜査本部をかまえた。捜査本部長は大久保清や森恒夫などの事件発生時は群馬県警本部長で、大阪府警本部長の吉田六郎であった。ここから1階の梅川と電話で会話できるようホットラインを設置。外から当初パトカー113台、警官644名が銀行を包囲、銀行の半径1km内の交通をすべて遮断。本部は銀行の図面から、北と東のシャッターと2階のドアなどドリルで小さな穴を7つ開けて、外から中の様子を観察しようと試みた。午後6時半、ようやくひとつの穴から、行内が見渡せるようになったが、店内は警官や行員の遺体が転がり、そのそばで「肉の盾」が動いている異様な光景が見えた(なお、このシャッターの穴から見えた梅川の写真は後に毎日新聞がスクープ報道する)。そのほかに現金自動支払機を動かしその隙間からも室内を偵察していた。
吉田はこの3月で退官する予定だったが、事件発生当時は出張中だったため、彼が出張先から戻るまで刑事部長だった新田勇が現場指揮にあたった。吉田が2府2県本部長会議で訪れていた出張先の京都から戻った時も梅川の素性が不明であったが、深夜岐阜県多治見市内で職務質問された男の自供から、犯人が梅川であり、頼まれてライトバンを盗んだこと、梅川から銀行強盗の相棒を頼まれたが断ったこと、短気で感情を爆発させると何をするかわからない性格であることを多治見署ですべて供述していたことで梅川の素性が判明した。また彼の証言通り、梅川が15歳で強盗殺人の罪で服役したことが判明する。
人質はトイレに行くことも許されなかったが、梅川が許可を出したときのみカウンターの隅で用を足すことを許されていた。用を足しにきた行員らに、警察は2階から励ましたり、作戦計画を伝えていた。
夜、梅川が警察に要求したビーフステーキとワインが届けられる。人質にはカップラーメンが差し入れられたが、「栄養がない」と梅川が怒り、代わりにサンドイッチや胃薬が差し入れられた。このカップラーメンは後に梅川が食べている。午後9時半、ひどい風邪をひいている女子行員が解放された。警察は梅川が食べるビーフステーキに睡眠薬を入れることを検討したが、舌を刺激するという理由で断念している。なお、食事の差し入れは全て人質に毒味をさせ後で口にしていた。
1月27日[編集]
日付は変わり、しばらく膠着状態が続いていたが深夜2時頃、人質の客(76歳男性)がトイレに行かせてくれと申し出たところ梅川は年齢を聞くと解放。同じころ、大阪府警は銀行の3階の女子更衣室に作戦指揮室を開設して指揮に当たった。
数時間後、ラジオの差し入れが遅いことに腹を立てた梅川は、ロッカーに向けて発砲。跳弾が客と男子行員の合計2人に当たり負傷。夜明け前にラジオが差し入れられ、そのラジオのニュースで実名が誤った読み方で報道されていたことに激怒し、捜査本部に「報道のやつらにアキヨシだと言っておけ!」と言い放った。
1月27日の午前8時前に人質の客(41歳女性)が解放され、9時30分には退職した大阪府警捜査一課の元刑事(57歳男性)が釈放。梅川に職業を聞かれたとき、元刑事は身分を大工と偽っていたが、梅川はまったく疑わなかった。だがラジオが差し入れられてから、いつ梅川が自分の嘘に気づいて激怒して猟銃を発射するかと思うと生きた心地がしなかったと、マスコミのインタビューで述べている(事件解決するまで、この事実は公表されなかった)。
10時半ごろ、梅川の母親と亡き父の弟が捜査本部に到着し、説得を始めるも梅川は電話を切ってしまい失敗に終わる。母親の説得が終了すると、梅川は全員に服を着ることを許可して、昼までに2人の人質(いずれも女性客)を解放した。
その後、差し入れてもらった朝刊を女子行員に朗読させ、銀行中の800万円の現金を用意させると、梅川は借金の支払い先を書いたメモを男子行員に渡し、借金を返済してくるよう命じる。午後1時半、弁当の差し入れと引き換えに人質の客(24歳の女性)を解放。午後3時前、梅川の借金返済のため男子行員がハイヤーで出発し(同日午後10時ごろ銀行に帰る)、覆面パトカーが追跡。ハイヤーに乗った男性が人質の銀行員らしき情報が報道陣に流れるも、この借金返済についてマスコミが知ったのは事件解決後であった。なお、この借金返済は法律上無効であり、借金返済の金は警察によって回収され銀行に戻された。
午後3時半、リポビタンDの差し入れの後に人質の客(19歳の女性)解放。しばらくして行員の申し出によって、3人の男子行員の負傷者を解放される。3人のうち2人は大阪府立病院に、残る1人は阪和記念病院に救急車で搬送。それから1時間後の午後5時前、最後の人質の客(25歳の男性)解放。梅川はこの人質が最もお気に入りだったらしく、この人質をKちゃんと愛称で呼ぶほどだった。午後6時、梅川に気づかれずに隠れていた客(合計5人)が、応接室、貸し金庫室、カウンターから捜査員の誘導により無事脱出され、梅川は5名の存在も脱出も知らなかった。この際民間の錠前技術者が府警の要請により技術協力し通用口等の鍵を解除、脱出支援を行った。
梅川は夕食とシャトー・マルゴーを要求(当時、このワインの名を知る人は少なかった)。銀行の向かいの酒屋にこのワインがなかったので、シャトー・ランゴア・バルトンとなる。午後7時、梅川がシャッターの穴に気づき、行員に穴を塞ぐように命じる。だが東のシャッターの穴だけは唯一、気づかれず事件終了まで梅川や行内を監視しつづけた。深夜、遺体の腐敗臭が強くなると、梅川と行員が協力し合って遺体を移動させる。1月28日の午前0時から、捜査本部は人質の苦痛はすでに限界と判断して突撃作戦を開始する。
1月28日[編集]
機動隊の突入[編集]
朝からチャンスをうかがっていた警察は人質の見張り役が前夜外出した行員と交代した直後突入準備を開始。トイレにきた行員から「今回はチャンスがあると思うので合図しますからよろしく」との伝言を受け、突撃隊に待機させた。直後梅川の至近距離にいて射撃の際に被弾する可能性のあった女子行員がお茶を入れるために離れた。のぞき穴から監視していた警察官からの報告を受け吉田本部長は強行突破を指示。突撃隊7名はトレーニングウェアを着用して匍匐前進で侵入。
1月28日午前8時41分、警察の作戦を知らされていた唯一の男子行員が、居眠りしている梅川を確認して警察に合図した直後、7名の大阪府警察本部警備部第二機動隊零中隊(SAT前身部隊)が銀行に突入する。機動隊は38口径拳銃で8発発射し、そのうち3発が梅川に命中した。担架で固定された瀕死の梅川を逆方向にして、前を救急隊員、後ろを刑事が担いで運び出すが、救急車にたどりつく寸前で後方の刑事が転倒する。このハプニングが致命傷となり梅川は死亡したという説や、すでに銀行内で即死していたという説もあるが、公式発表は出されなかった。梅川は天王寺の大阪警察病院に搬送、意識不明の重体であったが脳波は確認され、大量の輸血と銃弾の摘出手術を受けるも、右の頸部の貫通銃創が致命傷となり同日午後5時43分に死亡した。梅川は自分のサングラスや帽子と弾を抜いた銃を男性行員に持たせる偽装を行っていたが、警察には見抜かれていた。
この事件により大阪府警捜査一課は現場捜査本部に100名派遣、およそ1億8千万円が事件解決のため投入された。
補足事項[編集]
- この事件はNHK大阪放送局・毎日放送・朝日放送・関西テレビ・読売テレビの5局が解決まで中継放送している。突入→狙撃(※もちろん写っていない)→血塗れの犯人搬送→人質解放の一部始終はVTRと16mmフィルムの両方で保管されているが読売テレビだけがVTRで保管していなかったため同局に限りVTR映像がない。この事でローカル報道の取り組みが遅れている事が露呈され、これを機にローカルワイドニュース番組が編成される契機になったといわれている。なお、サンテレビ[2]では同事件による番組差し替えは行われなかった。
- 1979年1月27日の事件当日、毎日放送は、夜9時から人気刑事ドラマ「Gメン'75」の放送が予定されていたが、同日の内容が銀行強盗がテーマだったため、急きょ同番組を放送中止とし、同事件の報道特別番組に差し替えた。
- 1979年1月28日の突入実行時、毎日放送では時事放談を放送していた。突入するや製作元の東京放送(現:TBSテレビ)は放送を中断して毎日放送の映像に切り替えた。同番組が放送中に中断したのはこの時と2015年2月1日の後藤謙二殺害の時。中断に際しては出演者に事前承諾は得ており、番組進行役の細川隆元は番組冒頭に「いつ、画面が切り替わるか分からんが…」と発言していた。
- 1979年1月29日、朝日放送ほかテレビ朝日系列は、夜7時半からアニメ『一休さん』の放送を予定していたが、急きょ同番組の再放送に差し替えた。
- 犯人が人質をとって立てこもった後大阪府警は北畠支店のシャッターに穴をあけて写真を撮影していたが、この写真を解決後に毎日新聞が入手し、スクープ記事として全国に配信している。
- この事件については逸見政孝が『逸見の情報案内人・素敵にドキュメント』(朝日放送・テレビ朝日系)で「私が(フジテレビ在籍期に)報道番組でお伝えした数多くの事件の中で最も衝撃のあった事件です。」と、発言している。なお、逸見の出生地大阪市阿倍野区と同事件が起きた三菱銀行(現三菱UFJ銀行)北畠支店がある大阪市住吉区は隣接しており、現場付近では北側の南港通が両区の境界となっている。また、北畠は阿倍野区の地名である。
- 梅川が15歳で金欲しさゆえ女性をメッタ刺しにして殺害、金銭を奪って逃げて逮捕されたが、少年法により1年半ほどで仮釈放され、後に住吉警察署より猟銃保持許可を出されていた。後のマスコミのインタビューで、人質たちが異口同音に少年法改正を訴えたが、全国紙では梅川の前科には触れても、短期間で仮出所していたことや少年法の問題に触れることはなかった。
- 2009年3月1日にフジテレビが報道特別番組で同事件をとり上げた際に狙撃した警察官として登場した人物が実際には突入狙撃班には入っていなかったことが判明し、3月13日に訂正放送が実施された。
脚注[編集]
関連書籍[編集]
- 毎日新聞社会部編『破滅 梅川昭美の三十年』
- 福田洋『三菱銀行人質強殺事件』
- 麻生幾『封印されていた文書(ドシエ)』
- 新堂冬樹『銀行篭城』
- 大歳成行『危機管理 三菱銀行と猟銃人質事件の真実』
関連項目[編集]
- 時事放談
- ソドムの市(犯行時の犯人が引き合いに出した成人指定の映画)
- ハードボイルド(犯人が好んだ小説のジャンル)
- TATOO<刺青>あり(1982年の日本映画。素材として犯人が描かれている)
- ストックホルム症候群:人質事件において、人質が犯人に同調した行動をとる心理学的現象。当事件においても、見張り役をやらされた行員が警官の侵入に対し「入るな」や「警官がいます」など、犯人に協力する姿勢を示すということがあった。このような行動は、期待可能性不存在を理由に、犯罪とはされない。
- 再犯:前例の通り、同事件でも発生している。
- 水谷勝海:元毎日放送アナウンサー。スポーツ実況アナウンサーのイメージが強いが、この事件解決までの2日間の中継リポートを担当した。
外部リンク[編集]
- 昭和事件史 デパート火災・猟銃強盗・巨額詐欺 - youtube内の動画。
- 三菱銀行事件 1/2 - 同上。