「ホテル日本閣殺人事件」の版間の差分
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− | [[1908年]] | + | [[1908年]]、小林カウは[[埼玉県]][[大里郡]][[玉井村]](現・[[熊谷市]])の農家に7人兄弟の5番目の次女として生まれた<ref>[[玉川しんめい]]「戦後女性犯罪史」([[東京法経学院出版]])では8人兄弟となっている。</ref>。小学校を4年で終えて、5年ほど家事を手伝ったのち、[[東京]]・[[本郷]]の[[旅館]]に[[女中]][[奉公]]に出た。 |
[[1930年]]、22歳の時、姉の口利きでH(当時27歳)という男と[[見合い]][[結婚]]したが、Hはいくつも持病を抱えていた。2人は熊谷市内で[[雑貨]]屋を営んでいたが、そのうち経営が悪化、2人は東京近辺を転々としてまわった。 | [[1930年]]、22歳の時、姉の口利きでH(当時27歳)という男と[[見合い]][[結婚]]したが、Hはいくつも持病を抱えていた。2人は熊谷市内で[[雑貨]]屋を営んでいたが、そのうち経営が悪化、2人は東京近辺を転々としてまわった。 | ||
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終戦後、2人は熊谷で[[自転車]]の[[タイヤ]]の[[ブローカー]]を始めた。またKは[[内職]]を始めたほか、[[観光地]]向けの土産物製造卸売りを始め、病気がちな夫に代わり生計を支えた。この頃からKは金を稼ぐ楽しさを知ると共に、品物を仕入れる際には代金の替わりに自分の体を提供するなど[[好色]]の面も芽生えていた。商才を開花させて金を溜め込むうちに物欲は膨らむ一方だった。 | 終戦後、2人は熊谷で[[自転車]]の[[タイヤ]]の[[ブローカー]]を始めた。またKは[[内職]]を始めたほか、[[観光地]]向けの土産物製造卸売りを始め、病気がちな夫に代わり生計を支えた。この頃からKは金を稼ぐ楽しさを知ると共に、品物を仕入れる際には代金の替わりに自分の体を提供するなど[[好色]]の面も芽生えていた。商才を開花させて金を溜め込むうちに物欲は膨らむ一方だった。 | ||
− | + | この頃、小林カウは近くの[[交番]]に勤務する[[巡査]]・N(当時25歳)と知り合い、恋仲になった。独身ですらりとしたNと関係を重ねるKは、彼と一緒になりたいと考えるようになる。 | |
そんな中、[[1952年]][[10月2日]]、Hが突然異様な唸り声をあげて急死した。その声に驚いた隣人が駆けつけると、KはHの死に顔を撫でていたという。Hのかかりつけだった医師は、[[保健所]]の医師立会いの元で[[脳出血]]と診断した。2人はたびたび派手な喧嘩をしていたことから、近所でもその死を疑う噂が流れたが、病死と断定され[[捜査]]は打ち切られた。 | そんな中、[[1952年]][[10月2日]]、Hが突然異様な唸り声をあげて急死した。その声に驚いた隣人が駆けつけると、KはHの死に顔を撫でていたという。Hのかかりつけだった医師は、[[保健所]]の医師立会いの元で[[脳出血]]と診断した。2人はたびたび派手な喧嘩をしていたことから、近所でもその死を疑う噂が流れたが、病死と断定され[[捜査]]は打ち切られた。 | ||
− | + | その後、カウはNと自宅で同棲を始めるが、Nは以前からの素行の悪さを理由に[[11月]]に[[懲戒免職]]となってしまう。Kは翌年、Nの家に移り同棲を続けたが、その関係は2年で終結した。Nは母親ほども年の離れたカウに嫌気がさしたのか、彼女を追い出して若い娘と[[結婚]]した。 | |
− | + | その後、カウは姉の家が経営している[[漬け物|辛子漬け]]の[[卸売]]を受け持った。積極的な気性もあって商売を順調に進めるKは近県の温泉地を訪れるうちに、[[1954年]]、[[栃木県]][[那須塩原市]]の[[塩原温泉郷]]に落ち着いた。 | |
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− | + | カウは塩原の住人ともすぐ馴染みになり、商売も繁盛した。[[1956年]]の春、Kは町内の小店を一軒1年分の[[家賃]]を前払いして借り、物産店の商売を始めた。さらに翌年春には隣りの店を買いとって[[食堂]]を開き、姉夫婦に経営を任せた。両方の店の[[売上]]は伸びて[[預金]]や[[資産]]も増え、[[土地]]も買えるほどになっていった。しかし、Kはさらに[[温泉宿]]を所有したいという野心を持つようになっていく。 | |
− | [[1958年]] | + | [[1958年]]秋、カウは「ホテル日本閣」が安値で売りに出ていることを知る。「ホテル日本閣」は名前こそ立派だったが、三流の小さな[[旅館]]だった。この日本閣が経営不振により300‐400万円で売却されるというもので、Kは早速主人のAと交渉したが、彼はKに売る気がなく、話はいったん立ち消えた。しかし、翌年になって経営がさらに苦しくなると、Aはすぐにカウに[[融資]]をもちかけてきた。この時の条件は、B(Aの妻)に対する手切れ金50万円を出してくれれば、後妻に迎えてやるというものだった。しかし、カウが手切れ金を30万円に下げたところ、Bは50万円を譲らなかった。そこで手切れ金を出すのが惜しいと考えたカウはBの殺害を決めた。 |
− | [[1960年]] | + | [[1960年]]1月中旬、カウは日本閣の雑用係をしていたO(当時36歳)にB殺害を命じた。KはOに「手間賃2万円、成功したら抱いてやる」と言って手をとり股にはさんで誘惑したという。[[2月8日]]夜、Oはひとり寝ていたBを麻紐で[[絞殺]]した。[[遺体]]はOがさらに手間賃1万円を受けとって、元[[ボイラー]]室の[[土間]]に埋めた。 |
− | しかしこの後、町では「Bは殺された」という[[噂]] | + | しかしこの後、町では「Bは殺された」という[[噂]]が流れ始めた。噂を聞いたカウはOに命じてボイラー室の床を[[コンクリート]]で塗り固めた。すると今度は「ボイラー室に埋められている」という噂が流れた。3月中旬、カウ・O・Aの3人はコンクリートの床を再び掘り返し、遺体を裏の林の中に運んで埋めなおした。 |
− | だが、[[1960年]]の[[12月31日]] | + | だが、[[1960年]]の[[12月31日]]、今度はAがカウとOにより殺害される。KがB殺害直後、[[登記所]]に行ってみると、自分の名義になっているはずの新館が旧館とともに近々[[競売]]にかけられることになっていることが分かったからである。増築などで200万円ほど注ぎ込んでいたカウはこの裏切り行為に怒り、Aの殺害を決めた。今度は[[報酬]]と日本閣の亭主というエサでOを釣った。当初は[[毒#利用|毒殺]]を計画し、12月中旬、[[塩酸]]をAの[[食事]]や[[酒]]に混ぜたが、味がきつすぎたのか吐き出して失敗した。そこで次なる計画を立て、大晦日の午後5時過ぎ、カウは[[夕食]]の仕度で[[台所]]に立つふりをして忍び足で戻ると、背後から帳場の[[炬燵]]で寝ていたAの首を細紐で絞めた。そこへOがAに飛びかかって押し倒し、さらにKが差し出した[[包丁]]を必死に抵抗するAの首に刺し、とどめをさした。翌[[1961年]][[1月1日]]、[[年賀]]の客がやってくると、カウは「Aは[[東京]]に金策に行きました」と話していた。 |
− | + | しかし、Aの殺害後、町では「Aはカウに殺された」という、前よりもまことしやかな噂が流れた。ついに新聞もAとBの失踪を取り上げ、[[警察]]も動き出した。[[2月19日]]、KとOは[[逮捕]]された。カウは2人の殺害だけでなく、かつてNと[[共謀]]して夫Hを[[青酸カリ]]で毒殺したことも[[自白]]した。これによりNも逮捕された。Kは逮捕後も男好きの病気は治らず、取調官に「死刑だけはかんにんしてね」と愛嬌をこめて言うなどして誘惑していた。 | |
== 裁判・その後 == | == 裁判・その後 == | ||
− | 一審ではHの殺害については[[証拠]]がないとして[[無罪]] | + | 一審ではHの殺害については[[証拠]]がないとして[[無罪]]となり、カウにはAとBの殺人で[[死刑]]、Oには[[無期懲役]]、Nは[[銃刀法違反]]で[[懲役]]1年の[[判決]]が下った。しかし、[[検察]]側とカウが[[控訴]]した二審ではHの殺害も認定され、カウとOに死刑、Nは懲役10年の判決が下った。[[1966年]][[7月14日]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]はKとOの[[上告]]を[[棄却]]し死刑が確定、またNについても上告が棄却され懲役10年の刑が確定した。 |
− | [[1970年]][[6月11日]]、[[小菅]][[刑務所]](現・[[東京拘置所]] | + | [[1970年]][[6月11日]]、[[小菅]][[刑務所]](現・[[東京拘置所]])においてカウの死刑が執行された(Oも同日に死刑執行)。[[享年]]61。戦後の女性への死刑執行はこれが初のケースであった。 |
== 関連作品 == | == 関連作品 == |
2015年2月21日 (土) 21:18時点における版
ホテル日本閣殺人事件(ほてるにほんかくさつじんじけん)は、1960年から1961年にかけて栃木県の塩原温泉郷にあった「ホテル日本閣」の経営者夫婦が殺害された殺人事件。同ホテルの共同経営者の女・K(1908 - 1970)と雑用係の男の犯行だった。Kは1970年に死刑が執行され、戦後初の女性への死刑執行となった。
事件の経過
生い立ちから第一の殺人
1908年、小林カウは埼玉県大里郡玉井村(現・熊谷市)の農家に7人兄弟の5番目の次女として生まれた[1]。小学校を4年で終えて、5年ほど家事を手伝ったのち、東京・本郷の旅館に女中奉公に出た。
1930年、22歳の時、姉の口利きでH(当時27歳)という男と見合い結婚したが、Hはいくつも持病を抱えていた。2人は熊谷市内で雑貨屋を営んでいたが、そのうち経営が悪化、2人は東京近辺を転々としてまわった。
終戦後、2人は熊谷で自転車のタイヤのブローカーを始めた。またKは内職を始めたほか、観光地向けの土産物製造卸売りを始め、病気がちな夫に代わり生計を支えた。この頃からKは金を稼ぐ楽しさを知ると共に、品物を仕入れる際には代金の替わりに自分の体を提供するなど好色の面も芽生えていた。商才を開花させて金を溜め込むうちに物欲は膨らむ一方だった。
この頃、小林カウは近くの交番に勤務する巡査・N(当時25歳)と知り合い、恋仲になった。独身ですらりとしたNと関係を重ねるKは、彼と一緒になりたいと考えるようになる。
そんな中、1952年10月2日、Hが突然異様な唸り声をあげて急死した。その声に驚いた隣人が駆けつけると、KはHの死に顔を撫でていたという。Hのかかりつけだった医師は、保健所の医師立会いの元で脳出血と診断した。2人はたびたび派手な喧嘩をしていたことから、近所でもその死を疑う噂が流れたが、病死と断定され捜査は打ち切られた。
その後、カウはNと自宅で同棲を始めるが、Nは以前からの素行の悪さを理由に11月に懲戒免職となってしまう。Kは翌年、Nの家に移り同棲を続けたが、その関係は2年で終結した。Nは母親ほども年の離れたカウに嫌気がさしたのか、彼女を追い出して若い娘と結婚した。
その後、カウは姉の家が経営している辛子漬けの卸売を受け持った。積極的な気性もあって商売を順調に進めるKは近県の温泉地を訪れるうちに、1954年、栃木県那須塩原市の塩原温泉郷に落ち着いた。
日本閣事件
カウは塩原の住人ともすぐ馴染みになり、商売も繁盛した。1956年の春、Kは町内の小店を一軒1年分の家賃を前払いして借り、物産店の商売を始めた。さらに翌年春には隣りの店を買いとって食堂を開き、姉夫婦に経営を任せた。両方の店の売上は伸びて預金や資産も増え、土地も買えるほどになっていった。しかし、Kはさらに温泉宿を所有したいという野心を持つようになっていく。
1958年秋、カウは「ホテル日本閣」が安値で売りに出ていることを知る。「ホテル日本閣」は名前こそ立派だったが、三流の小さな旅館だった。この日本閣が経営不振により300‐400万円で売却されるというもので、Kは早速主人のAと交渉したが、彼はKに売る気がなく、話はいったん立ち消えた。しかし、翌年になって経営がさらに苦しくなると、Aはすぐにカウに融資をもちかけてきた。この時の条件は、B(Aの妻)に対する手切れ金50万円を出してくれれば、後妻に迎えてやるというものだった。しかし、カウが手切れ金を30万円に下げたところ、Bは50万円を譲らなかった。そこで手切れ金を出すのが惜しいと考えたカウはBの殺害を決めた。
1960年1月中旬、カウは日本閣の雑用係をしていたO(当時36歳)にB殺害を命じた。KはOに「手間賃2万円、成功したら抱いてやる」と言って手をとり股にはさんで誘惑したという。2月8日夜、Oはひとり寝ていたBを麻紐で絞殺した。遺体はOがさらに手間賃1万円を受けとって、元ボイラー室の土間に埋めた。
しかしこの後、町では「Bは殺された」という噂が流れ始めた。噂を聞いたカウはOに命じてボイラー室の床をコンクリートで塗り固めた。すると今度は「ボイラー室に埋められている」という噂が流れた。3月中旬、カウ・O・Aの3人はコンクリートの床を再び掘り返し、遺体を裏の林の中に運んで埋めなおした。
だが、1960年の12月31日、今度はAがカウとOにより殺害される。KがB殺害直後、登記所に行ってみると、自分の名義になっているはずの新館が旧館とともに近々競売にかけられることになっていることが分かったからである。増築などで200万円ほど注ぎ込んでいたカウはこの裏切り行為に怒り、Aの殺害を決めた。今度は報酬と日本閣の亭主というエサでOを釣った。当初は毒殺を計画し、12月中旬、塩酸をAの食事や酒に混ぜたが、味がきつすぎたのか吐き出して失敗した。そこで次なる計画を立て、大晦日の午後5時過ぎ、カウは夕食の仕度で台所に立つふりをして忍び足で戻ると、背後から帳場の炬燵で寝ていたAの首を細紐で絞めた。そこへOがAに飛びかかって押し倒し、さらにKが差し出した包丁を必死に抵抗するAの首に刺し、とどめをさした。翌1961年1月1日、年賀の客がやってくると、カウは「Aは東京に金策に行きました」と話していた。
しかし、Aの殺害後、町では「Aはカウに殺された」という、前よりもまことしやかな噂が流れた。ついに新聞もAとBの失踪を取り上げ、警察も動き出した。2月19日、KとOは逮捕された。カウは2人の殺害だけでなく、かつてNと共謀して夫Hを青酸カリで毒殺したことも自白した。これによりNも逮捕された。Kは逮捕後も男好きの病気は治らず、取調官に「死刑だけはかんにんしてね」と愛嬌をこめて言うなどして誘惑していた。
裁判・その後
一審ではHの殺害については証拠がないとして無罪となり、カウにはAとBの殺人で死刑、Oには無期懲役、Nは銃刀法違反で懲役1年の判決が下った。しかし、検察側とカウが控訴した二審ではHの殺害も認定され、カウとOに死刑、Nは懲役10年の判決が下った。1966年7月14日、最高裁判所はKとOの上告を棄却し死刑が確定、またNについても上告が棄却され懲役10年の刑が確定した。
1970年6月11日、小菅刑務所(現・東京拘置所)においてカウの死刑が執行された(Oも同日に死刑執行)。享年61。戦後の女性への死刑執行はこれが初のケースであった。
関連作品
- 明治大正昭和 猟奇女犯罪史 - オムニバス映画。本作の一編である「東洋閣事件」は本件をモチーフにしている。1969年制作。藤江リカがKをモデルにした主人公を演じた。
- 天国の駅 HEAVEN STATION - 本件をモチーフに作られた映画。1984年制作。吉永小百合がKをモデルにした主人公を演じた。Aは津川雅彦、Oは西田敏行、Nは三浦友和。
- Mr.サンデー 特別版・新証言&極秘資料入手『 東京オリンピックと世紀の大犯罪』~追跡!封印された死刑囚たちの“正体”~ 」CX系、2014年10月12日放送。K役は美保純。
参考文献
- 福田洋 () 福田洋 [ 現代殺人事件史 ] 河出書房新社
- 山崎哲 () 山崎哲 [ <物語>日本近代殺人史 ] 春秋社
- 大貫大八 () 大貫大八 [ ある裁判の断層―塩原日本閣事件の巻き添えをうけた元巡査の明暗― ] 落合書店
- 吉田和正 () 吉田和正 [ 誘う女 ドキュメント日本閣殺人事件 ] 三一書房
- () コアマガジン [ 実録戦後女性犯罪史 日本毒女たちの凶状録 ] コアマガジン
- 日高恒太朗 () 日高恒太朗 [ 江戸・明治・大正・昭和・平成 日本の女殺人犯101 ] 笠倉出版社
- () 新人物往来社 [ 別冊歴史読本 なぜ悪女なのか 毒婦と呼ばれた女たち ]
- () 日本犯罪心理研究会 [ 死刑囚の記録 明治・大正・昭和・百年の犯罪史 ] 清風書房
- 玉川しんめい () 玉川しんめい [ 戦後女性犯罪史 ] 東京法経学院出版
- 松村喜彦 () 松村喜彦 [ 悪女たちの昭和史 ] ライブ出版
- 草野唯雄 () 草野唯雄 [ みなごろしの寺 ] 双葉社
脚注
外部リンク
- 事件録1945→1979 ホテル日本閣事件(日本語)
- 事件史探求 ホテル日本閣殺人事件(日本語)