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− | しかし臣下である議会が王位継承に口をはさむという、当時としては革新的な制度に反感を持つ人は多かった。議会は、イングランドは[[ | + | しかし臣下である議会が王位継承に口をはさむという、当時としては革新的な制度に反感を持つ人は多かった。議会は、イングランドは[[イングランド国教会|国教会]]が主流の[[プロテスタント]]国であるがジェームズ2世は[[カトリック教会|カトリック]]であること、さらに当時、非国教会信徒は政府官職につくことが禁じられていたことを理由にしたが、それをもって王の海外追放や議会による王位のコントロールを正当化することには疑問を持つ風潮もあったのである。 |
− | + | そうした疑問を持つ人々の間にも温度差はあったが、とくに熱心にジェームズ2世とその正嫡(男系子孫)をイングランド王に復位させるべきとして、ジェームズを支持した人たちをジャコバイトと呼ぶ。また、彼らのとった政治・[[軍事]]的行動はジャコバイト運動とよばれる。 | |
ジャコバイトは、名誉革命以後半世紀にわたって、後述する国王暗殺未遂事件や反乱などを起こし、それらの運動は名誉革命体制に対する深刻な脅威となって、時に政権を動揺させた。しかし運動は次第に尻すぼみになっていき、[[ロバート・ウォルポール|ウォルポール]]ら[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ]]の政略もあって、ついに実を結ぶことはなかった。 | ジャコバイトは、名誉革命以後半世紀にわたって、後述する国王暗殺未遂事件や反乱などを起こし、それらの運動は名誉革命体制に対する深刻な脅威となって、時に政権を動揺させた。しかし運動は次第に尻すぼみになっていき、[[ロバート・ウォルポール|ウォルポール]]ら[[ホイッグ党 (イギリス)|ホイッグ]]の政略もあって、ついに実を結ぶことはなかった。 | ||
== ジャコバイトとそれを支援する勢力 == | == ジャコバイトとそれを支援する勢力 == | ||
− | + | 前述のとおり、名誉革命後も王位は世襲によって守られるべきであり、議会が王位継承に関与すべきでないという考え方は依然根強かった。このイデオロギーはイングランド内外で一定の支持をあつめ、ジェームズ2世とその後裔が核となった。ジャコバイトは特に[[スコットランド]]や[[フランス]]で強く、イングランドの外側からうかがう形が多かった。ここでは、イングランド、スコットランド、[[アイルランド]]、そしてイギリス以外のジャコバイト、および支援した勢力・イデオロギーなどについて言及する。 | |
=== イングランドのジャコバイト === | === イングランドのジャコバイト === | ||
− | [[イングランド]] | + | [[イングランド]]内では、ジャコバイトが高度に組織化されることはあまりなかったものの、ウィリアム3世・メアリー2世両王よりジェームズ2世を依然支持する声もあった。特に保守派であった[[トーリー党 (イギリス)|トーリー]]に多かったといわれるが、その中でも公然とジャコバイトであると言明する者から、板挟みになって悩む者、名誉革命を支持する者など多様な反応に分かれた。 |
− | + | これはトーリーは'''世襲君主政の原則'''を尊重しており、この意味では正嫡継承を主張するジャコバイトの立場に近かったためである。一方でトーリーは'''国教会維持'''の性格も併せ持っており、カトリック信者のジェームズを王に戴くことへの疑問もあった。しかし議会での反対勢力であるホイッグのウォルポールがおしすすめた「ジャコバイトは危険分子である」というキャンペーンや国際情勢から、公然とジャコバイトを名乗ることは次第に政治生命を危険にさらす行為となっていった。 | |
− | + | またこれとは別に、その時々の体制に不満を持つ者や失地回復を望む者が、ホイッグ・トーリーに関わらず、亡命したステュアート家に希望を託すためにジャコバイトとなる例もあった。 | |
=== スコットランド・アイルランドのジャコバイト === | === スコットランド・アイルランドのジャコバイト === | ||
− | ジャコバイトの最大の支持基盤が[[スコットランド]]、特に[[ | + | ジャコバイトの最大の支持基盤が[[スコットランド]]、特に[[ハイランド地方]]であった。もともとスコットランドにはイングランドとの根深い対立意識があったばかりでなく、ステュアート家がスコットランド出身ということもあって、[[スコットランド人]]はジェームズに同情的であった。特に[[1707年]]に批准された'''イングランド・スコットランド合同法'''は、歴史的・宗教的対立を抑えこんで経済的利益を優先させたものであったが、すぐにはスコットランド側が期待していたほどの利益をもたらさず、イングランドに対する不満は高まっていた。[[1715年]]の反乱ではマー伯という指導者を得て、スコットランドのほとんどが反乱軍の手に落ちた。 |
一方アイルランドでは、宗教的側面からジェームズが支持された。[[清教徒革命]]以降、アイルランドは少数の国教徒が多数のカトリック信徒を支配する構図が成立しており、カトリックに対する宗教的寛容を求めてジャコバイトとなる者が少なくなかった。 | 一方アイルランドでは、宗教的側面からジェームズが支持された。[[清教徒革命]]以降、アイルランドは少数の国教徒が多数のカトリック信徒を支配する構図が成立しており、カトリックに対する宗教的寛容を求めてジャコバイトとなる者が少なくなかった。 | ||
=== 海外の支援 === | === 海外の支援 === | ||
− | ジェームズ2世はカトリックであった。このためカトリック国でもあり、[[大同盟戦争 | + | ジェームズ2世はカトリックであった。このためカトリック国でもあり、[[大同盟戦争]]におけるイングランドの敵対国でもあった[[フランス]]は、ジャコバイトを積極的に支援した。特に[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]はこの支援に熱心であり、彼の在位中はジャコバイト運動が盛んであった。ルイ14世没後は、ジャコバイトやステュアート家に冷淡になったフランスに代わって、イタリア諸都市やスウェーデン、スペインなどが後ろ盾となった。 |
== ジャコバイト運動の経緯 == | == ジャコバイト運動の経緯 == | ||
− | ジャコバイトはフランスなど海外勢力の後押しを受けて、イングランド内外で大小さまざまな政治的・軍事的行動を起こし、ステュアート朝の復活を企図した。特に[[1715年]]と[[1745年]]の反乱はそれぞれ「the 'Fifteen」「the 'Forty- | + | ジャコバイトはフランスなど海外勢力の後押しを受けて、イングランド内外で大小さまざまな政治的・軍事的行動を起こし、ステュアート朝の復活を企図した。特に[[1715年]]と[[1745年]]の反乱はそれぞれ「the 'Fifteen」「the 'Forty-Five」と呼ばれ、イングランドの人々の記憶に長く残る事件となった。後述するこうした反乱などに、17世紀末 - 18世紀前半の革命政府はすくなからず動揺した。しかし1745年の反乱以降はジャコバイトが組織化されることはほぼなくなり、名誉革命転覆の危機はひとまず去った。 |
=== ウィリアマイト戦争 === | === ウィリアマイト戦争 === | ||
− | + | [[画像:James II of England.jpg|175px|thumb|ジェームズ2世]] | |
+ | この戦争は、ウィリアム3世とメアリー2世の共同統治が決定してわずか2日後の[[1689年]][[2月15日]]に起こった。ジェームズが王位を取り戻そうと、亡命先のフランスからルイ14世に借りた軍を起こしたのである。ジェームズはアイルランドに上陸し、当地のジャコバイト勢力と結びついて、またたくうちにアイルランド全土を席巻した。これを受けて5月5日、イングランドは[[アウクスブルク同盟|対仏同盟]]に参加し、フランスに宣戦布告する。ウィリアム3世は自ら軍を率い、1690年7月1日、アイルランドの[[ダブリン]]近郊[[ボイン川]]でジェームズ軍を破った([[ボイン川の戦い]])。ジェームズはまだ余力を残していたにも関わらずフランスに逃げ帰り、アイルランド各地で起こっていた武力抵抗も[[1691年]]10月に鎮圧された。 | ||
− | + | これ以降、カトリック教徒は公職・法律職を禁じられ、土地所有や借地も厳しく制限され、アイルランドは少数のプロテスタント勢力によって支配されることとなった。また、これまでイギリスはヨーロッパ大陸の争いごとにあまり参加してこなかったが、この戦争からイギリスも大同盟戦争に巻き込まれ、「'''[[第2次百年戦争]]'''」ともよばれる対仏戦争を繰り返し、ヨーロッパの覇権争いに加わることになった。 | |
=== ウィリアム3世暗殺未遂事件(1696年) === | === ウィリアム3世暗殺未遂事件(1696年) === | ||
− | 別名フェンウィック陰謀事件ともよばれるこの事件は、[[1696年]] | + | 別名フェンウィック陰謀事件ともよばれるこの事件は、[[1696年]]当時、大同盟戦争で不利な状況にあったフランスが黒幕であった。ジェームズの庶子[[ジェームズ・フィッツジェームズ (初代ベリック公)|ベリック公]]がその任を受け、イングランドに渡りジャコバイトを組織化してクーデターを計画したが、2月22日に露見し、300人以上が逮捕されることとなった。しかし、このクーデターに参加した者ないし積極的に反対しなかった者の中には大物政治家・軍人が多数含まれており、名誉革命体制がいまだ砂上の楼閣であることを印象づけた。 |
=== 1715年の反乱 === | === 1715年の反乱 === | ||
− | 後に「the 'Fifteen」(ザ・フィフティーン、「あの15年」の意)とも呼ばれるほど深刻で衝撃的だったこの武力蜂起は、[[1714年]]の[[ハノーヴァー朝]]成立、[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]] | + | [[画像:Prince James Francis Edward Stuart by Anton Raphael Mengs.jpg|175px|thumb|ジェームズ・フランシス・エドワード(老僣王)]] |
+ | 後に「the 'Fifteen」(ザ・フィフティーン、「あの15年」の意)とも呼ばれるほど深刻で衝撃的だったこの武力蜂起は、[[1714年]]の[[ハノーヴァー朝]]成立、[[ジョージ1世 (イギリス王)|ジョージ1世]]の[[グレートブリテン王国]]国王即位に端を発している。[[アン (イギリス女王)|アン]]女王の死に伴い、北ドイツの有力諸侯であ | ||
+ | った[[ハノーファー王国|ハノーファー選帝侯]]ゲオルク・ルートヴィヒは、[[王位継承法]]の規定に基づいてジョージ1世として即位した。しかしグレートブリテン王国全体がこれを唯々として受け入れたわけではなかった。確かにジョージ1世はステュアート家の血を引いてはいたが(母方の祖母[[エリザベス・ステュアート|エリザベス]]が[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]の娘)、ジェームズ2世から5親等も離れており、ジェームズ2世の子[[ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート|ジェームズ・フランシス・エドワード]](ジェームズ老僣王、自称ジェームズ3世)が存命中だったこともあわせて、グレートブリテン王国内は騒然となった。 | ||
− | [[バーミンガム]]や[[オックスフォード]]などで民衆暴動が起こり、さらに[[1715年]]の総選挙で大勝したホイッグは、それまで政権を担っていたトーリに対する苛烈な弾圧を加えた。これには[[1713年]]の[[ユトレヒト条約]] | + | [[バーミンガム]]や[[オックスフォード]]などで民衆暴動が起こり、さらに[[1715年]]の総選挙で大勝したホイッグは、それまで政権を担っていたトーリに対する苛烈な弾圧を加えた。これには[[1713年]]の[[ユトレヒト条約]]がグレートブリテン王国に経済的利益をもたらす一方で、同盟国である[[ドイツ]]諸邦や[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]を切り捨てる行為でもあったため、ジョージ1世がトーリを信用していなかったという側面もある。 |
こうした動きに、スコットランドでは、ジョージ1世に忠誠を誓約したにもかかわらず国務大臣から解任されたマー伯が[[1715年]][[9月6日]]挙兵し、トマス・フォスターが北部イングランドのウォークワースで[[10月6日]]これに続いた。マー伯の軍勢はスコットランドの大部分を制圧したが、[[11月13日]]シェリフミュアの戦いで兵站が底をつき、さらに[[11月14日]]にフォスターが政府軍に包囲されて降伏した。こうして次第に事態は政府軍有利に展開し、ジェームズ老僣王が[[12月13日]]にスコットランドに上陸したときには帰趨は決していた。結局翌年[[2月4日]]、ジェームズ老僣王は何もできずフランスに逃げ帰った。 | こうした動きに、スコットランドでは、ジョージ1世に忠誠を誓約したにもかかわらず国務大臣から解任されたマー伯が[[1715年]][[9月6日]]挙兵し、トマス・フォスターが北部イングランドのウォークワースで[[10月6日]]これに続いた。マー伯の軍勢はスコットランドの大部分を制圧したが、[[11月13日]]シェリフミュアの戦いで兵站が底をつき、さらに[[11月14日]]にフォスターが政府軍に包囲されて降伏した。こうして次第に事態は政府軍有利に展開し、ジェームズ老僣王が[[12月13日]]にスコットランドに上陸したときには帰趨は決していた。結局翌年[[2月4日]]、ジェームズ老僣王は何もできずフランスに逃げ帰った。 | ||
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2012年2月5日 (日) 12:58時点における版
ジャコバイト(Jacobite)とは、1688年イギリスで起こった名誉革命の反革命勢力の通称である。彼らは追放されたステュアート朝のジェームズ2世およびその直系男子を正統な国王であるとして、その復位を支持し、政権を動揺させた。ジャコバイトの語源はジェームズのラテン名(Jacobus)である。
目次
概要
ウィリアム3世とメアリ2世 |
1688年、名誉革命とその体制はジェームズ2世を追放、ジェームズ2世の娘であるメアリーと夫でジェームズ2世の甥のオランダ総督ウィレム3世をオランダから招聘、メアリー2世・ウィリアム3世として戴冠させた。それにともない、議会が王位の継承権を王位継承法によって規定しようとした。
しかし臣下である議会が王位継承に口をはさむという、当時としては革新的な制度に反感を持つ人は多かった。議会は、イングランドは国教会が主流のプロテスタント国であるがジェームズ2世はカトリックであること、さらに当時、非国教会信徒は政府官職につくことが禁じられていたことを理由にしたが、それをもって王の海外追放や議会による王位のコントロールを正当化することには疑問を持つ風潮もあったのである。
そうした疑問を持つ人々の間にも温度差はあったが、とくに熱心にジェームズ2世とその正嫡(男系子孫)をイングランド王に復位させるべきとして、ジェームズを支持した人たちをジャコバイトと呼ぶ。また、彼らのとった政治・軍事的行動はジャコバイト運動とよばれる。
ジャコバイトは、名誉革命以後半世紀にわたって、後述する国王暗殺未遂事件や反乱などを起こし、それらの運動は名誉革命体制に対する深刻な脅威となって、時に政権を動揺させた。しかし運動は次第に尻すぼみになっていき、ウォルポールらホイッグの政略もあって、ついに実を結ぶことはなかった。
ジャコバイトとそれを支援する勢力
前述のとおり、名誉革命後も王位は世襲によって守られるべきであり、議会が王位継承に関与すべきでないという考え方は依然根強かった。このイデオロギーはイングランド内外で一定の支持をあつめ、ジェームズ2世とその後裔が核となった。ジャコバイトは特にスコットランドやフランスで強く、イングランドの外側からうかがう形が多かった。ここでは、イングランド、スコットランド、アイルランド、そしてイギリス以外のジャコバイト、および支援した勢力・イデオロギーなどについて言及する。
イングランドのジャコバイト
イングランド内では、ジャコバイトが高度に組織化されることはあまりなかったものの、ウィリアム3世・メアリー2世両王よりジェームズ2世を依然支持する声もあった。特に保守派であったトーリーに多かったといわれるが、その中でも公然とジャコバイトであると言明する者から、板挟みになって悩む者、名誉革命を支持する者など多様な反応に分かれた。
これはトーリーは世襲君主政の原則を尊重しており、この意味では正嫡継承を主張するジャコバイトの立場に近かったためである。一方でトーリーは国教会維持の性格も併せ持っており、カトリック信者のジェームズを王に戴くことへの疑問もあった。しかし議会での反対勢力であるホイッグのウォルポールがおしすすめた「ジャコバイトは危険分子である」というキャンペーンや国際情勢から、公然とジャコバイトを名乗ることは次第に政治生命を危険にさらす行為となっていった。
またこれとは別に、その時々の体制に不満を持つ者や失地回復を望む者が、ホイッグ・トーリーに関わらず、亡命したステュアート家に希望を託すためにジャコバイトとなる例もあった。
スコットランド・アイルランドのジャコバイト
ジャコバイトの最大の支持基盤がスコットランド、特にハイランド地方であった。もともとスコットランドにはイングランドとの根深い対立意識があったばかりでなく、ステュアート家がスコットランド出身ということもあって、スコットランド人はジェームズに同情的であった。特に1707年に批准されたイングランド・スコットランド合同法は、歴史的・宗教的対立を抑えこんで経済的利益を優先させたものであったが、すぐにはスコットランド側が期待していたほどの利益をもたらさず、イングランドに対する不満は高まっていた。1715年の反乱ではマー伯という指導者を得て、スコットランドのほとんどが反乱軍の手に落ちた。
一方アイルランドでは、宗教的側面からジェームズが支持された。清教徒革命以降、アイルランドは少数の国教徒が多数のカトリック信徒を支配する構図が成立しており、カトリックに対する宗教的寛容を求めてジャコバイトとなる者が少なくなかった。
海外の支援
ジェームズ2世はカトリックであった。このためカトリック国でもあり、大同盟戦争におけるイングランドの敵対国でもあったフランスは、ジャコバイトを積極的に支援した。特にルイ14世はこの支援に熱心であり、彼の在位中はジャコバイト運動が盛んであった。ルイ14世没後は、ジャコバイトやステュアート家に冷淡になったフランスに代わって、イタリア諸都市やスウェーデン、スペインなどが後ろ盾となった。
ジャコバイト運動の経緯
ジャコバイトはフランスなど海外勢力の後押しを受けて、イングランド内外で大小さまざまな政治的・軍事的行動を起こし、ステュアート朝の復活を企図した。特に1715年と1745年の反乱はそれぞれ「the 'Fifteen」「the 'Forty-Five」と呼ばれ、イングランドの人々の記憶に長く残る事件となった。後述するこうした反乱などに、17世紀末 - 18世紀前半の革命政府はすくなからず動揺した。しかし1745年の反乱以降はジャコバイトが組織化されることはほぼなくなり、名誉革命転覆の危機はひとまず去った。
ウィリアマイト戦争
この戦争は、ウィリアム3世とメアリー2世の共同統治が決定してわずか2日後の1689年2月15日に起こった。ジェームズが王位を取り戻そうと、亡命先のフランスからルイ14世に借りた軍を起こしたのである。ジェームズはアイルランドに上陸し、当地のジャコバイト勢力と結びついて、またたくうちにアイルランド全土を席巻した。これを受けて5月5日、イングランドは対仏同盟に参加し、フランスに宣戦布告する。ウィリアム3世は自ら軍を率い、1690年7月1日、アイルランドのダブリン近郊ボイン川でジェームズ軍を破った(ボイン川の戦い)。ジェームズはまだ余力を残していたにも関わらずフランスに逃げ帰り、アイルランド各地で起こっていた武力抵抗も1691年10月に鎮圧された。
これ以降、カトリック教徒は公職・法律職を禁じられ、土地所有や借地も厳しく制限され、アイルランドは少数のプロテスタント勢力によって支配されることとなった。また、これまでイギリスはヨーロッパ大陸の争いごとにあまり参加してこなかったが、この戦争からイギリスも大同盟戦争に巻き込まれ、「第2次百年戦争」ともよばれる対仏戦争を繰り返し、ヨーロッパの覇権争いに加わることになった。
ウィリアム3世暗殺未遂事件(1696年)
別名フェンウィック陰謀事件ともよばれるこの事件は、1696年当時、大同盟戦争で不利な状況にあったフランスが黒幕であった。ジェームズの庶子ベリック公がその任を受け、イングランドに渡りジャコバイトを組織化してクーデターを計画したが、2月22日に露見し、300人以上が逮捕されることとなった。しかし、このクーデターに参加した者ないし積極的に反対しなかった者の中には大物政治家・軍人が多数含まれており、名誉革命体制がいまだ砂上の楼閣であることを印象づけた。
1715年の反乱
後に「the 'Fifteen」(ザ・フィフティーン、「あの15年」の意)とも呼ばれるほど深刻で衝撃的だったこの武力蜂起は、1714年のハノーヴァー朝成立、ジョージ1世のグレートブリテン王国国王即位に端を発している。アン女王の死に伴い、北ドイツの有力諸侯であ ったハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒは、王位継承法の規定に基づいてジョージ1世として即位した。しかしグレートブリテン王国全体がこれを唯々として受け入れたわけではなかった。確かにジョージ1世はステュアート家の血を引いてはいたが(母方の祖母エリザベスがジェームズ1世の娘)、ジェームズ2世から5親等も離れており、ジェームズ2世の子ジェームズ・フランシス・エドワード(ジェームズ老僣王、自称ジェームズ3世)が存命中だったこともあわせて、グレートブリテン王国内は騒然となった。
バーミンガムやオックスフォードなどで民衆暴動が起こり、さらに1715年の総選挙で大勝したホイッグは、それまで政権を担っていたトーリに対する苛烈な弾圧を加えた。これには1713年のユトレヒト条約がグレートブリテン王国に経済的利益をもたらす一方で、同盟国であるドイツ諸邦やオランダを切り捨てる行為でもあったため、ジョージ1世がトーリを信用していなかったという側面もある。
こうした動きに、スコットランドでは、ジョージ1世に忠誠を誓約したにもかかわらず国務大臣から解任されたマー伯が1715年9月6日挙兵し、トマス・フォスターが北部イングランドのウォークワースで10月6日これに続いた。マー伯の軍勢はスコットランドの大部分を制圧したが、11月13日シェリフミュアの戦いで兵站が底をつき、さらに11月14日にフォスターが政府軍に包囲されて降伏した。こうして次第に事態は政府軍有利に展開し、ジェームズ老僣王が12月13日にスコットランドに上陸したときには帰趨は決していた。結局翌年2月4日、ジェームズ老僣王は何もできずフランスに逃げ帰った。