「藤山愛一郎」の版間の差分

提供: Yourpedia
移動: 案内検索
 
(来歴・人物)
 
10行目: 10行目:
  
 
[[Image:藤山愛一郎外相.jpg|thumb||300px|岸首相(左)と藤山愛一郎外相(右)、後ろ中央は[[千宗興]]日本JC会頭]]  
 
[[Image:藤山愛一郎外相.jpg|thumb||300px|岸首相(左)と藤山愛一郎外相(右)、後ろ中央は[[千宗興]]日本JC会頭]]  
[[1957年]]の[[岸内閣]]発足によって、民間人ながら[[岸信介]]に請われたる[[外務大臣]]に就任し慶應の後輩で自社社員の[[斎藤文夫_(参院議員)|斎藤文夫]]を秘書として採用<ref>戦前から岸に資金援助しており、[[フィリピン]]に対する戦後賠償交渉では政府全権になるなどしていた。元々岸は、藤山が産業界に明るいという理由から[[経済産業大臣|通産大臣]]として手腕を発揮してくれることを望んでいた。しかし藤山は岸の度重なる懇請にもかかわらず「産業界には知己が多すぎ、陳情攻めで大変だから」と言って通産大臣への就任を固辞し続けた。</ref>。同時に日商会頭を初めとする202にも及ぶ経済界の要職を辞任した。翌[[1958年]]の[[第28回衆議院議員総選挙]]には[[自民党]]公認で[[神奈川県第1区_(中選挙区)|神奈川1区]]から[[衆議院議員]]に当選(史上唯一人の現職[[民間人閣僚]]たる新人衆院候補)<ref>ちなみに史上唯一の現職民間人閣僚たる新人参院候補は[[2004年]][[第20回参議院議員通常選挙]]・[[比例区]]で自民党内最多得票記録した[[竹中平蔵]]</ref>。外相として、[[日米安保]]改正に取り組み、[[日米地位協定]]制定などに奔走した。
+
[[1957年]]の[[岸内閣]]発足によって、民間人ながら[[岸信介]]に請われたる[[外務大臣]]に就任し慶應の後輩で自社社員の[[斎藤文夫_(参院議員)|斎藤文夫]]を秘書として採用。戦前から岸に資金援助しており、[[フィリピン]]に対する戦後賠償交渉では政府全権になるなどしていた。元々岸は、藤山が産業界に明るいという理由から[[経済産業大臣|通産大臣]]として手腕を発揮してくれることを望んでいた。しかし藤山は岸の度重なる懇請にもかかわらず「産業界には知己が多すぎ、陳情攻めで大変だから」と言って通産大臣への就任を固辞し続けた。同時に日商会頭を初めとする202にも及ぶ経済界の要職を辞任した。翌[[1958年]]の[[第28回衆議院議員総選挙]]には[[自民党]]公認で[[神奈川県第1区_(中選挙区)|神奈川1区]]から[[衆議院議員]]に当選(史上唯一人の現職[[民間人閣僚]]たる新人衆院候補)ちなみに史上唯一の現職民間人閣僚たる新人参院候補は[[2004年]][[第20回参議院議員通常選挙]]・[[比例区]]で自民党内最多得票記録した[[竹中平蔵]]。外相として、[[日米安保]]改正に取り組み、[[日米地位協定]]制定などに奔走した。日米関係の強化をめざす[[岸信介内閣]]は、藤山愛一郎外相をアメリカに派遣。[[ダレス]][[国務長官]]との会談で、[[安保条約]]の改定を打診させ合意を取りつけた。改定の重点は、(1)条約の対象区域を沖縄・小笠原を除く日本全土とする(2)アメリカが日本以外での戦闘のために日本の施設・区域を使用するときは事前協議を行うという2点に置かれた。[[1958年]][[10月4日]]、東京で安保条約の改定交渉が始まった。
 +
 
 +
[[Image:藤山とダレス.jpg|thumb||300px|ワシントン空港に到着、出迎えの[[ダレス]][[米国務長官]]と握手する藤山外相。1958年9月10日 米国・ワシントンDC]]
  
 
岸退陣後は総理大臣の座を目指して[[1960年]]7月の[[自民党総裁選]]にも出馬するも敗北([[池田勇人]]が総裁に当選)。この総裁選を機に[[星島二郎]]・[[江崎真澄]]・[[小泉純也]]・[[福家俊一]]らを擁して岸派から分派、[[愛正会]](藤山派)を結成した。その後は[[自民党総務会長]]を経て[[経済企画庁|経済企画庁長官]]などを歴任。その後総裁選に計3度立候補をするも尽く敗北<ref>[[1964年]]に[[池田勇人]]、同年11月に[[佐藤栄作]]、[[1966年]](昭和41年)に佐藤栄作の再選に敗北。<BR>総裁選ごとに得票は増したが、その内情は藤山の資金を目当てにした議員や他派閥で一癖も二癖もある議員が多くて藤山自身を積極的に支持するものは少なかった</ref>し、派閥維持の費用などで巨額の私財を政治につぎ込む格好となった。結果として藤山コンツェルンは解体されてしまい<ref>大日本精糖・日東化学は[[三菱グループ]]が経営権を掌握、[[日本NCR]]は米[[NCR (企業)]]傘下となった。同系列だった[[ホテルニュージャパン]]も[[横井英樹]]に買収されている</ref>、資産の多くを失った<ref>このため「絹のハンカチが雑巾に」「最後の井戸塀政治家(私財を投じて政治に没頭し、ついには井戸と塀しか残らなかったという意味)」などと言われた</ref>
 
岸退陣後は総理大臣の座を目指して[[1960年]]7月の[[自民党総裁選]]にも出馬するも敗北([[池田勇人]]が総裁に当選)。この総裁選を機に[[星島二郎]]・[[江崎真澄]]・[[小泉純也]]・[[福家俊一]]らを擁して岸派から分派、[[愛正会]](藤山派)を結成した。その後は[[自民党総務会長]]を経て[[経済企画庁|経済企画庁長官]]などを歴任。その後総裁選に計3度立候補をするも尽く敗北<ref>[[1964年]]に[[池田勇人]]、同年11月に[[佐藤栄作]]、[[1966年]](昭和41年)に佐藤栄作の再選に敗北。<BR>総裁選ごとに得票は増したが、その内情は藤山の資金を目当てにした議員や他派閥で一癖も二癖もある議員が多くて藤山自身を積極的に支持するものは少なかった</ref>し、派閥維持の費用などで巨額の私財を政治につぎ込む格好となった。結果として藤山コンツェルンは解体されてしまい<ref>大日本精糖・日東化学は[[三菱グループ]]が経営権を掌握、[[日本NCR]]は米[[NCR (企業)]]傘下となった。同系列だった[[ホテルニュージャパン]]も[[横井英樹]]に買収されている</ref>、資産の多くを失った<ref>このため「絹のハンカチが雑巾に」「最後の井戸塀政治家(私財を投じて政治に没頭し、ついには井戸と塀しか残らなかったという意味)」などと言われた</ref>

2009年11月29日 (日) 20:29時点における最新版

1968.01 藤山邸にて。写真左から、藤山愛一郎氏、石原慎太郎藤代耕一

藤山 愛一郎(ふじやま あいいちろう、1897年5月22日 - 1985年2月22日)は日本政治家実業家。元外務大臣経済企画庁長官藤山コンツェルン二代目。

来歴・人物[編集]

東京王子王子製紙専務取締役藤山雷太の長男[1]として生まれる。慶應幼稚舎時代、当時の官立崇拝の強い風潮の中、府立一中を受験するも失敗、慶應義塾普通部に進学した。更に慶應義塾政治科(現在の慶應義塾大学法学部)に進むが1918年に中退し、父が築いた藤山コンツェルンの後継者として大日本製糖社長となる。その後、日東化学工業(現在の三菱レイヨン)社長や日本金銭登録機(現在の日本NCR)社長などを歴任、1941年に僅か44歳で日本商工会議所会頭に就任した。

国内定期航空運送事業の営業免許取得。日本航空輸送(総代鈴木幸七)と合流

戦後公職追放となるが1950年に復帰。1951年には日商会頭を再度務めると共に、日本航空初代会長に就任。その一方で経済同友会代表幹事などを歴任する。

岸首相(左)と藤山愛一郎外相(右)、後ろ中央は千宗興日本JC会頭

1957年岸内閣発足によって、民間人ながら岸信介に請われたる外務大臣に就任し慶應の後輩で自社社員の斎藤文夫を秘書として採用。戦前から岸に資金援助しており、フィリピンに対する戦後賠償交渉では政府全権になるなどしていた。元々岸は、藤山が産業界に明るいという理由から通産大臣として手腕を発揮してくれることを望んでいた。しかし藤山は岸の度重なる懇請にもかかわらず「産業界には知己が多すぎ、陳情攻めで大変だから」と言って通産大臣への就任を固辞し続けた。同時に日商会頭を初めとする202にも及ぶ経済界の要職を辞任した。翌1958年第28回衆議院議員総選挙には自民党公認で神奈川1区から衆議院議員に当選(史上唯一人の現職民間人閣僚たる新人衆院候補)ちなみに史上唯一の現職民間人閣僚たる新人参院候補は2004年第20回参議院議員通常選挙比例区で自民党内最多得票記録した竹中平蔵。外相として、日米安保改正に取り組み、日米地位協定制定などに奔走した。日米関係の強化をめざす岸信介内閣は、藤山愛一郎外相をアメリカに派遣。ダレス国務長官との会談で、安保条約の改定を打診させ合意を取りつけた。改定の重点は、(1)条約の対象区域を沖縄・小笠原を除く日本全土とする(2)アメリカが日本以外での戦闘のために日本の施設・区域を使用するときは事前協議を行うという2点に置かれた。1958年10月4日、東京で安保条約の改定交渉が始まった。

ワシントン空港に到着、出迎えのダレス米国務長官と握手する藤山外相。1958年9月10日 米国・ワシントンDC

岸退陣後は総理大臣の座を目指して1960年7月の自民党総裁選にも出馬するも敗北(池田勇人が総裁に当選)。この総裁選を機に星島二郎江崎真澄小泉純也福家俊一らを擁して岸派から分派、愛正会(藤山派)を結成した。その後は自民党総務会長を経て経済企画庁長官などを歴任。その後総裁選に計3度立候補をするも尽く敗北[2]し、派閥維持の費用などで巨額の私財を政治につぎ込む格好となった。結果として藤山コンツェルンは解体されてしまい[3]、資産の多くを失った[4] 。その後、藤山派が細っていくのと同時に権力闘争にも興味を示さなくなったといわれる。

1971年2月23日、周恩来総理と郭沫若全人代常務委員会副委員長兼中日友好協会名誉会長は自由民主党の藤山愛一郎衆議院議員らと会見

その傍ら親中派として1970年12月に日中国交回復議員連盟を結成し[5]、政界引退後も国際貿易促進協会会長を務めるなど松村謙三らと共に日中国交回復に心血を注いだ。「藤山現代中国文庫」と言われた中国近現代史料のコレクションを所有していたが、1982年2月に発生したホテルニュージャパン火災で同ホテルに構えていた事務所も全焼しコレクションも焼失した。

1967年勲一等旭日大綬章を受章。1976年9月、総選挙に出馬せず政界を引退。連続6回当選。

大正製薬創業者の石井絹治郎の葬儀委員長を務めた。

1985年2月22日死去。享年87。

家族・親族[編集]

弟に大日本製糖(現在の大日本明治製糖)の会長を務めた藤山勝彦、元日東化学工業(現在の三菱レイヨン)の副社長を務めた藤山洋吉日本NCR副社長・菱和航空サービス株式会社会長を務めた田中元彦がいる。

妻は大蔵大臣を務めた結城豊太郎の三女、久子(ひさこ)。長男に大日本製糖社長・会長を務めた藤山覚一郎がいる。第二夫人は有名女優の細川ちか子であることが広く公にされており、間に2人の子供がいる。細川の死に際しては藤山とその2人の子が葬儀を取り仕切った。娘婿に三菱重工業の取締役を務めた西村健三がいるが、西村は桜商会(現・サクラクレパス)の社長を務めた西村斉次郎の三男である。なお西村健三の姪は元皇族の久邇朝建久邇宮朝融王の第2皇子)に嫁いでいる。

[編集]

  1. 後に請われて大日本製糖社長となり、初代の日本商工会議所会頭を歴任
  2. 1964年池田勇人、同年11月に佐藤栄作1966年(昭和41年)に佐藤栄作の再選に敗北。
    総裁選ごとに得票は増したが、その内情は藤山の資金を目当てにした議員や他派閥で一癖も二癖もある議員が多くて藤山自身を積極的に支持するものは少なかった
  3. 大日本精糖・日東化学は三菱グループが経営権を掌握、日本NCRは米NCR (企業)傘下となった。同系列だったホテルニュージャパン横井英樹に買収されている
  4. このため「絹のハンカチが雑巾に」「最後の井戸塀政治家(私財を投じて政治に没頭し、ついには井戸と塀しか残らなかったという意味)」などと言われた
  5. 1971年10月には議員連盟団長として日本国と中華民国との間の平和条約を無効とする中華人民共和国との共同声明に調印したことで物議を醸したことがある

関連事項[編集]

外部リンク[編集]


先代:
岸信介
外務大臣
第88・89代:1957 - 1960
次代:
小坂善太郎
先代:
迫水久常
高橋衞
経済企画庁長官
1961 - 1962
1965 - 1966
次代:
池田勇人(事務取扱)
佐藤榮作(事務取扱)
先代:
赤城宗徳
自由民主党総務会長
1963 - 1964
次代:
中村梅吉
先代:
八田嘉明
高橋龍太郎
日本商工会議所会頭
第9代:1941年 - 1946年
第11代:1951年 - 1957年
次代:
高橋龍太郎
足立正
先代:
高橋龍太郎
東京都共同募金会会長
第3代:1952年 - 1957年
次代:
足立正