「石井光次郎」の版間の差分
(新しいページ: '{{政治家 |人名 = 石井 光次郎 |各国語表記 = いしい みつじろう |画像 = |国略称 = {{JPN}} |生年月日 = {{生年月日と年齢|1889|8|18|死去}} |...') |
|||
83行目: | 83行目: | ||
== 外部リンク == | == 外部リンク == | ||
*[http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/ishiimitsujirou.html 石井光次郎関係文書 | 国立国会図書館] | *[http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/ishiimitsujirou.html 石井光次郎関係文書 | 国立国会図書館] | ||
+ | |||
+ | [[Image:岸・石橋・石井.jpg|thumb||400px|[[第3回党大会]]で[[総裁]]に選ばれた[[石橋湛山]]氏と握手を交わす[[岸信介]]氏(中央)と石井光次郎氏(右) | ||
+ | 1956年12月14日 東京・産経ホール]] | ||
2009年11月21日 (土) 18:58時点における最新版
日本の政治家 石井 光次郎 いしい みつじろう [[画像:|0200px|石井 光次郎]]
| |
生年月日 | 1889年8月18日((2024-1889)+((11-8)*100+(12-18)>=0)-1歳) |
出生地 | 福岡県久留米市 |
没年月日 | 1981年9月20日((1981-1889)+((9-8)*100+(20-18)>=0)-1歳没) |
死没地 | |
出身校 | 東京高等商業学校専攻部卒業 |
前職 | 朝日新聞社専務取締役 |
現職 | |
所属政党 | (日本自由党→) (民主自由党→) (自由党→) 自由民主党 |
所属委員会 | |
議員会館 | |
選挙区 | |
当選回数 | |
元首 | 天皇 昭和天皇 |
称号・勲章 | |
世襲の有無 | |
親族 | |
配偶者 | |
サイン | [[画像:|128px|サイン]] |
公式サイト | [ ] |
第54代 衆議院議長 | |
---|---|
内閣 | |
就任期間 | 1967年2月15日 |
第21代 法務大臣 | |
内閣 | 第1次佐藤第1次改造内閣 第1次佐藤第2次改造内閣 |
就任期間 | 1965年6月3日 |
第20代 通商産業大臣 | |
内閣 | 第1次池田内閣 |
就任期間 | 1960年7月19日 |
第17代 行政管理庁長官 | |
内閣 | 第1次岸内閣改造内閣 |
就任期間 | 1957年7月10日 |
第15代 北海道開発庁長官 | |
内閣 | 第1次岸内閣改造内閣 |
就任期間 | 1957年7月10日 |
その他の職歴 | |
副総理 第15-16代 運輸大臣 第29代 商工大臣 | |
石井 光次郎(いしい みつじろう、1889年8月18日 - 1981年9月20日)は、日本の政治家、元衆議院議長。
来歴・人物[編集]
福岡県久留米市出身。久留米商業学校(現久留米市立久留米商業高等学校)、神戸高等商業学校(現神戸大学)を経て、1914年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部を卒業する。 1913年に高等文官試験に合格し、東京高商専攻部卒業後に警視庁警部、台湾総督府秘書課長兼外事課長などを経て1922年に朝日新聞社入社する。同社専務取締役などを務めた後、1946年に鳩山一郎の日本自由党から衆議院議員に初当選。
1947年に商工大臣に就任するが、大臣就任中に公職追放を受ける。1950年に追放解除となり、1951年には朝日放送社長に就任。政界にも復帰し、1953年に第5次吉田内閣で運輸大臣、1957年には第1次岸内閣で副総理兼北海道開発庁長官兼行政管理庁長官、1960年に第1次池田内閣で通産大臣、1965年には第1次佐藤内閣第1次改造内閣で法務大臣と、重量級の役職で入閣した。
この間に周囲から推される形で自民党総裁選挙に1956年・1960年の2回立候補しているがいずれも敗北。1967年には衆議院議長に就任し、退任後は自民党顧問となる。1972年、総選挙に出馬せず政界から引退。
1956年に緒方竹虎が急死すると、緒方派を引き継いで石井派を率い、自民党の中間派閥の領袖として影響力を持った。しかし、石井の生真面目さとクリーンな政治信条から、入閣待ちの派閥の子分の入閣を強く働きかけたりすることは一切なかったという。勢い、自身の出世にも淡白であった。第1回自民党総裁選挙では、二位・三位連合の奇策で岸信介を破り石橋内閣成立の立役者にもかかわらず、その副総理就任を辞退した。岸派より主張された「党内融和の為に決選投票で対立した岸を石橋内閣の副総理として処遇すべき」との意見に強く抗しなかったためである。その後、思いもよらない石橋の病気退陣による後継総裁の座は、副総理として入閣していた岸に奪われることになる。
引退する者や派閥離脱者が出ても、無理して新人を増やすこともしなかったため、石井派は選挙の都度勢力を減らしていったが、坂田道太、田中伊三次、中垣國男、灘尾弘吉、長谷川峻らが損得抜きで最後まで石井を支え続けた。晩年は岸信介らとともに親台湾派の長老として党で重きをなし、同じ親台湾派の福田赳夫を一貫して支持した。
神戸高等商業学校、東京高等商業学校専攻部在学中は相撲選手として活躍。1949年に日本ゴルフ協会会長に就任。第8代日本体育協会会長を1962年11月から1975年3月まで務めた。在任期間の間に1964年開催の東京オリンピック、1967年開催の東京ユニバーシアード、1972年開催の札幌オリンピックと国際大会を成功させた。会長退任後は名誉会長に就任した。横綱審議委員会委員長なども務めた。
1981年9月20日死去。享年93(満92歳没)。
家族[編集]
久留米市名誉市民。妻は立憲政友会総裁や逓信大臣等を歴任した久原房之助の娘。次女の石井好子は、石井音楽事務所や日本シャンソン協会を設立しフランス芸術文化勲章(コマンドゥール章)を受章したシャンソン歌手。息子の石井公一郎はブリヂストンサイクルの元社長で、現在は日本会議副会長。長女の夫はフランス文学者の朝吹三吉で、妹はフランソワーズ・サガンの翻訳などで著名なエッセイストの朝吹登水子で、石井好子とは姉妹同然の仲であった。
文献[編集]
- 『追悼石井光次郎』 石井久子編、1982年 私家版.非売品
- 『回想八十八年』、『思い出の記』 カルチャー出版、1976年 政界引退に伴い刊行
- 『私の履歴書 第45集』日本経済新聞社、1972年に所収。
外部リンク[編集]
議会 | ||
---|---|---|
先代: | 衆議院議長 第54代:1967年 - 1969年
|
次代: |
官職 | ||
先代: | 国務大臣(副総理) 1957年 - 1958年
|
次代: |
先代: | 法務大臣 第21代:1965年 - 1966年
|
次代: |
先代: | 通商産業大臣 第20代:1960年
|
次代: |
先代: | 行政管理庁長官 第17代:1957年 - 1958年
|
次代: |
先代: | 北海道開発庁長官 第15代:1957年 - 1958年
|
次代: |
先代: | 運輸大臣 第15・16代:1952年 - 1953年
|
次代: |
先代: | 商工大臣 第29代:1947年
|
次代: 片山哲(臨時代理)
|
党職 | ||
先代: 結成
益谷秀次 |
自由民主党総務会長 初代 : 1955年 - 1956年
第6代 : 1959年 - 1960年 |
次代: |
先代: | 水曜会会長 第2代 : 1956年 - 1972年
|
次代: (空席)→消滅
|