「ドーハの悲劇」の版間の差分
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2020年1月15日 (水) 23:13時点における最新版
テンプレート:Infobox football match ドーハの悲劇(ドーハのひげき)は、1993年10月28日、カタールのドーハのアルアリ・スタジアムで行われた日本代表とイラク代表のサッカーの国際試合(1994年アメリカワールドカップ・アジア地区最終予選の日本代表最終戦)において、試合終了間際のロスタイムにイラク代表の同点ゴールが入り、日本のFIFAワールドカップ初出場が確定するまでわずかな時間を残すだけの状況から一転して予選敗退が決まった事を指す日本での通称である。
目次
最終予選の経過[編集]
第4戦まで[編集]
日本は、1次予選F組で7勝1分けとし、UAEを抑えて1位通過し、最終予選に進んだ。
この最終予選は、ドーハでのセントラル方式にて行われ、1次予選を勝ち抜いた6か国の総当たりリーグ戦で、上位2か国がワールドカップの出場権を得ることになっていた。
日本は初戦のサウジアラビア戦を0-0で引き分け、第2戦のイラン戦を1-2で落とした。この時点で最下位に転落したが、第3戦の北朝鮮戦を3-0で勝利し、続く第4戦ではそれまでW杯と五輪のアジア予選で一度も勝てなかった韓国に三浦知良のゴールで1-0で勝利し、韓国に代わり首位に立ち本戦出場に王手をかけた。
イラクは1次予選でA組に参加し、6勝1分1敗で勝ち点13、中国を勝ち点1差で抑え首位で通過した。最終予選では初戦の北朝鮮戦に2-3で敗れた後、韓国戦に2-2で引き分け、イラン戦では2-1で初勝利を収め、サウジアラビア戦は1-1の引き分けを記録していた。
各国は最終戦となる第5戦を残して、順位は以下のとおり。
順位 | チーム | 勝点 | 勝 | 分 | 負 | 得失差 | 総得点 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 日本 | 5 | 2 | 1 | 1 | +3 | 5 |
2 | テンプレート:KSAf | 5 | 1 | 3 | 0 | +1 | 4 |
3 | 韓国 | 4 | 1 | 2 | 1 | +2 | 6 |
4 | テンプレート:IRQ1991f 4 | 1 | 2 | 1 | 0 | 7 | |
5 | テンプレート:IRNf | 4 | 2 | 0 | 2 | -2 | 5 |
6 | 北朝鮮 | 2 | 1 | 0 | 3 | -4 | 5 |
- (当時の勝ち点は勝利2、引き分け1、敗戦0。
- 勝ち点が同じ場合、得失点差、総得点、当該国間の対戦結果の順で順位を決した。)
同日・同時刻キックオフとなる最終戦3試合の組み合わせは
となっており、北朝鮮以外の5か国に本大会出場のチャンスが残っていた。首位の日本は勝てば他会場の試合結果にかかわらず出場決定、引き分けた場合でもサウジアラビア・韓国が共に勝利するのでなければ出場権をほぼ得られるはずで、日本はかなり有利な条件で最終戦に臨んだ。一方、イラクは日本戦での勝利がまず必要となり、加えてサウジアラビア-イラン戦が引き分けかイランの2点差以内勝利(3点差以上の場合は得失点・総得点でイランとの争い)または韓国が北朝鮮に対し引き分けか敗れた場合、1986年メキシコ大会に続く2度目のW杯本大会出場が実現する状況だった。3位の韓国も自力出場の可能性が消滅しており、最終戦で勝利しても日本とサウジアラビアが共に勝利した場合は本大会出場ができない状況にあった。
第5戦(最終戦)[編集]
試合経過[編集]
最終戦、日本は開始5分に長谷川健太のミドルシュートがクロスバーに弾かれた所を三浦知良がヘディングで押し込み先制。前半は日本が試合を優位に進めたまま終了した。しかし、イラクは後半に入るとボール支配率を高めて反撃に転じ、55分にアーメド・ラディが粘り強いボールキープからシュートを決め同点に追いついた。64分にはドリブルで抜け出したアラー・ジェベルが無人のゴールへシュートするも外すなど、イラクはその後も何度か決定的なチャンスを掴むものの得点には結びつかず。逆に日本は69分にラモス瑠偉のスルーパスをオフサイドラインぎりぎりで抜け出した中山雅史が受け、ゴール右角に決め2-1の勝ち越しに成功した。
イラク攻勢の状態が続くまま時間は経過して89分50秒、ラモスのパスをカットしたイラクはカウンターアタックを仕掛けコーナーキックのチャンスを得た。このキック前に90分を経過してロスタイムに突入。ここでキッカーのライト・フセインはゴール前に直接センタリングを送らず、意表を突くショートコーナーをフセイン・カディムに渡した。フセイン・カディムは、慌てて対応に走った日本の三浦知をドリブルで振り切りセンタリングを上げ、これをオムラム・サルランがヘディングシュート。ボールはGK松永成立の頭上を放物線を描いて越えてゴールに吸い込まれ同点となった(90分20秒)。イラクの同点ゴールが決まった瞬間、控えを含めた日本代表選手の多くが愕然としてその場に倒れ込んだ。その後、日本はキックオフからすぐ前線へロングパスを出すも、ボールがそのままタッチラインを割ったところで主審のセルジュ・ムーメンターラーの笛が鳴らされ、2-2の引き分けで試合終了となった。終了後、ピッチ上の日本代表選手の多くはその場にへたり込んだまま動けず、オフトや清雲コーチらに声をかけられ漸く立ち上がるという状態だった。
日本-イラク戦より数分早く終了した他会場の結果が、『サウジアラビア 4-3 イラン』『韓国 3-0 北朝鮮』だったため、最終順位は以下のとおりとなり、サウジアラビアと韓国が本大会への出場権を獲得。得失点差で韓国に及ばず3位に転落した日本は出場権を逃した。
順位 | チーム | 勝点 | 勝 | 分 | 負 | 得失差 | 総得点 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | テンプレート:KSAf | 7 | 2 | 3 | 0 | +2 | 8 |
2 | 韓国 | 6 | 2 | 2 | 1 | +5 | 9 |
3 | 日本 | 6 | 2 | 2 | 1 | +3 | 7 |
4 | テンプレート:IRQ1991f 5 | 1 | 3 | 1 | 0 | 9 | |
5 | テンプレート:IRNf | 4 | 2 | 0 | 3 | -3 | 8 |
6 | 北朝鮮 | 2 | 1 | 0 | 4 | -7 | 5 |
試合結果[編集]
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放送[編集]
日本ではNHK BS1、および地上波ではテレビ東京がテレビ中継を、ニッポン放送がラジオ中継を行った。テレビ東京での当該視聴率は日本時間の深夜帯にもかかわらず、同局史上最高の48.1%を記録した。
テレビ東京の放送では実況が久保田光彦、解説は前田秀樹。スタジオでは金子勝彦が司会を務め、ゲストとして釜本邦茂(当時:ガンバ大阪監督)、森孝慈(当時:浦和レッズ監督)、当時の日本代表主将・柱谷哲二の実兄である柱谷幸一(当時:浦和レッズ選手)がいた。試合終了後、スタジオに画面が戻ってきても、金子、釜本、森、柱谷兄の四者とも呆然として何も言うことができず、特に柱谷は放送中にも関わらず頭を抱え込み泣いていた。森孝慈は「これがサッカーなんですよ」と、ロスタイムの同点劇についてコメントを残している。
NHK BS1の放送では実況が山本浩、解説は田中孝司。岡田武史と田嶋幸三がスタジオ解説、友田幸岐がスタジオ司会であった。試合終了直後、友田にコメントを促された岡田は途中で涙ぐみ言葉を詰まらせ、「これがサッカーというものなんですけどね。何もこんな大事な試合のこんなところで起こらなくても…」とコメントした。岡田はこの4年後、1998年フランスワールドカップ最終予選中に急遽日本代表監督を引き継ぎ、ワールドカップ初出場を決めることになる(ジョホールバルの歓喜)。
ニッポン放送のラジオ中継は、実況が師岡正雄、解説が小谷泰介。イラクの2点目(同点ゴール)の直後に、小谷が「何ということだ……」とコメントしている。また、フジテレビでドーハの悲劇の映像が流れる際にはこのニッポン放送の実況音声が使われた。
登録メンバー[編集]
選手の所属クラブ名は当時のもの。
ゴールキーパー | ||
---|---|---|
1 | 松永成立 | 横浜マリノス |
19 | 前川和也 | サンフレッチェ広島 |
ディフェンダー | ||
2 | 大嶽直人 | 横浜フリューゲルス |
3 | 勝矢寿延 | 横浜マリノス |
4 | 堀池巧 | 清水エスパルス |
5 | 柱谷哲二 10px | ヴェルディ川崎 |
6 | 都並敏史 | ヴェルディ川崎 |
7 | 井原正巳 | 横浜マリノス |
21 | 三浦泰年 | 清水エスパルス |
22 | 大野俊三 | 鹿島アントラーズ |
ミッドフィルダー | ||
8 | 福田正博 | 浦和レッズ |
10 | ラモス瑠偉 | ヴェルディ川崎 |
14 | 北澤豪 | ヴェルディ川崎 |
15 | 吉田光範 | ジュビロ磐田 |
17 | 森保一 | サンフレッチェ広島 |
18 | 澤登正朗 | 清水エスパルス |
フォワード | ||
9 | 武田修宏 | ヴェルディ川崎 |
11 | 三浦知良 | ヴェルディ川崎 |
12 | 長谷川健太 | 清水エスパルス |
13 | 黒崎比差支 | 鹿島アントラーズ |
16 | 中山雅史 | ジュビロ磐田 |
20 | 高木琢也 | サンフレッチェ広島 |
監督 | ハンス・オフト | |
コーチ | 清雲栄純 | |
GKコーチ | ディド・ハーフナー |
評価[編集]
サッカー専門誌では、ハンス・オフト監督の作り上げた組織的サッカーが、この予選中でアジアトップレベルのサッカーを披露したとし、その功績を認めながらも、当時開幕したJリーグが大きな落とし穴となり、皮肉にもそのJリーグの試合で左足を亀裂骨折した左サイドバックの都並敏史のそれをはじめとした各ポジションのバックアップメンバーの不在を露呈した(都並の代役に、主にセンターバックや右サイドバックを務めていた勝矢寿延を使わざるを得なかった)こと、今回のように有事が起こった時のバックアップメンバーを育成しなかったこと、そしてイラク戦のハーフタイム中に興奮する選手達を落ち着かせ、適切な指示を与えることが出来なかった。日本サッカー協会強化委員会は同年11月5日に定例会議を開き、「修羅場での経験不足」を理由に翌1994年5月まで契約が残っていたオフトの解任を決定。10日に強化委員長の川淵三郎とオフトとの間で会談が開かれ、翌11日に退任が正式発表された。
一般マスコミや一般ファンは、ワールドカップ出場を直前で逃したにも関わらず、この結果を好意的に受け止めた。選手達を乗せたチャーター便が成田国際空港に到着すると、数百人のファンが選手達を温かく出迎えた。しかし、こういった反応はワールドカップ出場をギリギリで逃した選手達にとって複雑なものだったという。また実際に現場で取材したベテラン記者の中には、こうした国内の反応を苦々しく思う者もいた。
川淵三郎は、この試合がテレビ放映で高視聴率を記録したというだけでなく、国民感情の振幅も大きく日本国民にサッカーの面白さを強烈に印象付けることとなり、オリンピックをも上回る最大のスポーツイベントであるFIFAワールドカップの人気を日本に定着させることになったと評価した。
この試合の結果、自力での本大会出場の可能性がなかった韓国代表が本大会出場を決めたため、韓国では「ドーハの奇跡」と呼ばれている。日本でも捉え方によっては「ドーハの奇跡」と呼ばれることもある。
その後[編集]
この予選では中立地での対戦で本大会出場を逃した日本であったものの、次の1998年フランス大会、およびその次の2006年ドイツ大会(2002年日本・韓国大会は開催国で予選免除)の予選においては、奇しくも2大会続けて、中立地での対戦で勝利したことにより本大会出場を決めている。
1998年大会のアジア最終予選においては、最終予選がホーム・アンド・アウェー方式で行われるようになったものの、アジア3位決定プレーオフは中立地での一発勝負となっており、このプレーオフに勝利して本大会出場を決めている(ジョホールバルの歓喜)。また2006年大会のアジア最終予選においては、第5節で本来であれば北朝鮮代表との試合をアウェーで行うところであったものの、前の北朝鮮のホームゲームにおいて観客の暴動があったことから、北朝鮮のホームゲーム国内開催権が剥奪され、中立地(タイ・バンコク)での対戦となった。この試合で日本が勝利したことにより、本大会出場を確定させた。
ドーハの悲劇から18年後、カタールで開催されたAFCアジアカップ2011では日本代表は6試合中5試合をドーハで戦い史上初となる4度目のアジア制覇を成し遂げ、『もうドーハは「悲劇の地」では無くなった』などと言われた。特に初戦のヨルダン戦では、敗色濃厚の後半ロスタイムにショートコーナーからヘディングで同点に追いつくという、まさに18年前の立場を逆にしたかのような試合展開であった。
これ以降地名+名詞という付け方が多少無理矢理でも流行った。
余談だが、ウダイ・サッダーム・フセイン死後にイラク復興のため川淵三郎が当時の日本代表とイラク代表を集めてチャリティーの試合を行いたいと語っていたが、現在に至るまで実現されていない。
知られざる「本当の悲劇」[編集]
このように、日本はワールドカップ出場を逃したが、本当の悲劇に見舞われたのは、実は日本以上に対戦相手のイラク代表であることはあまり知られていない。
出場させたくない国「イラク」[編集]
1991年、アメリカおよびヨーロッパ主体の多国籍軍とイラクとの間に湾岸戦争が勃発。その後の経済制裁など、両国は極度の対立関係となっていた。そのような中で、戦勝国アメリカでのワールドカップに敗戦国ともいえるイラクが行くことなど、火に油を注ぐに等しい懸念事項であり、FIFAにとってイラクは「招かれざる」国だった。そのためこの予選では、公式には否定されているが、イラク潰しとしか言いようがない事態が起こっていた。
異常ともいえる出場停止人数[編集]
各チーム最終戦を残しての出場停止人数は
順位 | チーム | 出場停止人数 |
---|---|---|
1 | 日本 | 2 |
2 | サウジアラビア | 3 |
3 | 韓国 | 0 |
4 | テンプレート:IRQ1991 6 | |
5 | イラン | 3 |
6 | 北朝鮮 | 1 |
と、イラクの出場停止人数が圧倒的に多い。
その殆どが主力選手であり、その上、10月27日(前日)夜に出場停止選手の追加が通達されるといった有様で、選手編成を急遽組み替える事態となった。
日本寄りとも取れるジャッジ[編集]
試合中においても、イラクのゴールが得点として認められない、日本選手の後ろからの行為により転倒したにもかかわらず日本側に警告等は無し、明らかに日本側の反則にもかかわらずイラク選手が警告を受ける、日本の勝ち越しゴールもビデオで見る限りオフサイドの疑いが濃い、という、日本寄りと解釈できるジャッジが見られた。
選手を脅迫する母国[編集]
当時スポーツ大臣だったウダイ(当時の大統領サダム・フセインの長男)は非常に残忍な人物であり、「勝てばボーナス、負ければ拷問」とイラク代表選手を脅し、それが元で選手を辞退する者が続出した。日本戦についても、引分けとなったにも拘らず、選手の多くが投獄された。ロスタイムでの同点ゴールを決めた選手ですら、手当没収の上、海外移籍を握りつぶされ、監督宅にはミサイルを撃ち込み爆破するといった暴挙が展開された。
イラク代表選手の悲劇[編集]
イラク代表の選手達に「悲劇」が降りかかった。イラク選手にはイラク・サッカー協会会長のウダイ・サッダーム・フセインから「負ければ拷問」と脅された状態で対日本戦を戦った。そして引き分けに終わった為に選手の多くが投獄される事態となった。
参考文献[編集]
- 潮智史『日本代表監督論』講談社、2002年
- 大住良之『アジア最終予選』双葉社、2005年
- 後藤健生『日本サッカー史・日本代表の90年』双葉社、2007年
- 後藤健生『日本サッカー史・日本代表の90年 資料編』双葉社、2007年
- 週刊サッカーマガジン1993年11月17日号
関連項目[編集]
- パリの悲劇
- ヤウンデの悲劇
- メルボルンの悲劇
- ジョホールバルの歓喜(1998 FIFAワールドカップ・アジア地区第3代表決定戦 「日本vsイラン」)
- 1998 FIFAワールドカップ日本代表