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兵庫県立神戸高等学校(ひょうごけんりつこうべこうとうがっこう、Hyogo Prefectural Kobe High School)は、兵庫県神戸市灘区城の下通一丁目にある県立高等学校。略称は「神高」(じんこう)、「神戸」(こうべ)、「神戸高校」(こうべこうこう)など。
目次
沿革[編集]
- 旧制中学校・新制高等学校(男子校)時代
- 1895年(明治28年)4月5日 - 臨時兵庫県会が開会される。
- 1896年(明治29年)
- 1899年(明治32年)
- 4月1日 - 中学校令の改正により「兵庫県神戸中学校」に改称(「尋常」が除かれる)。
- 4月7日 - 寄宿舎を設置。
- 1901年(明治34年)4月1日 - 「兵庫県立神戸中学校」に改称(県の後に「立」が加えられる。
- 1907年(明治40年)
- 3月28日 - 寄宿舎を廃止。
- 4月1日 - 兵庫県立第二神戸中学校が新設されたことにより、「兵庫県立第一神戸中学校」に改称。
- 1912年(明治45年)2月17日 - 改築校舎に移転。
- 1913年(大正2年)6月 - 校歌を制定。
- 1919年(大正8年)8月19日 - 野球部が第5回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園の前身大会)で優勝。
- 1925年(大正15年)1月19日 - 蹴球部が第8回日本フットボール優勝大会で優勝。
- 1928年(昭和3年)
- 9月 - 自治的訓練強化のために戊辰会を結成。
- 10月 - 昭和天皇御大典を記念して三田に学校林を購入。
- 1929年(昭和4年)4月29日 - 湊川神社において校旗入魂式挙行。
- 1936年(昭和11年)4月29日 - ラグビー部が全国中等学校蹴球大会出場。決勝戦で天理中に敗れ準優勝。
- 1938年(昭和13年)4月9日 - 現在地に移転。
- 1942年(昭和17年)
- 1943年(昭和18年)4月1日 - 中等学校令の施行により、この時の入学生から修業年限が4年となる。
- 1944年(昭和19年)4月1日 - 教育ニ関スル戦時非常措置方策により、修業年限短縮(5年から4年へ短縮)の実施が前倒して行われることとなる。
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)
- 1947年(昭和22年)
- 1948年(昭和23年)
- 4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施)にともない、旧制中学校が廃止され、新制高等学校「兵庫県立第一神戸高等学校」(男子校)が発足。
- 旧制中学校卒業生(5年修了者)を新制高校3年生、旧制中学校4年修了者を新制高校2年生、併設中学校卒業者(3年修了者)を新制高校1年生として収容。
- 併設中学校は新制高校に継承され(名称:兵庫県立第一神戸高等学校併設中学校)、在校生が1946年(昭和21年)に旧制中学校へ最後に入学した3年生のみとなる。
- 5月25日 - 兵庫県立第一神戸女子高等学校が併置される。
- 4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施)にともない、旧制中学校が廃止され、新制高等学校「兵庫県立第一神戸高等学校」(男子校)が発足。
- 高等女学校・新制高等学校(女子校)時代
- 1901年(明治34年)
- 1902年(明治35年)5月4日 - 寄宿舎を開設。
- 1903年(明治36年)4月1日 - 技芸専修科を併置。
- 1910年(明治43年)4月1日 - 県内に高等女学校が新設されたため、「兵庫県立神戸高等女学校」と改称。
- 1911年(明治44年)5月 - 校歌を制定(作詞:大桑イヨ/作曲:田中銀之助)。
- 1913年(大正2年)3月5日 - 技芸専修科を廃止。
- 1919年(大正8年)4月1日 - 同窓会の経営による補習科(後の欽松学園)を開講。
- 1920年(大正9年)6月1日 - 制服を和服から洋服に改定。
- 1924年(大正13年)
- 1925年(大正14年)3月13日 - 兵庫県立第二神戸高等女学校の新設に伴い、「兵庫県立第一神戸高等女学校」と改称。
- 1926年(大正15年)11月3日 - 排球部が明治神宮競技大会で優勝。
- 1927年(昭和2年)8月30日 - 排球部が上海で行われた第8回極東選手権競技大会で優勝。
- 1928年(昭和3年)6月10日 - 排球部が日本オリンピック大会3連覇。
- 1929年(昭和4年)6月7日 - 昭和天皇が来校。
- 1931年(昭和6年)3月31日 - 寄宿舎を廃止。
- 1932年(昭和7年)4月1日 - 補習科を家政研究科と改称し、保育研究科を併置。
- 1933年(昭和8年)4月18日 - 家政・保育両研究科が、欽松学園として県から認可される。
- 1940年(昭和15年)10月30日 - ヒトラーユーゲント来校。
- 1942年(昭和17年)4月1日 - 学区制が導入され、新生田川以東が校区となる。
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)12月24日 - 北長狭校舎(現・神戸市立神戸生田中学校)に移転。
- 1947年(昭和22年)
- 3月 - 欽松学園、保育科を廃止。
- 4月1日 - 学制改革(六・三制の実施)が行われる。
- 高等女学校の生徒募集を停止。
- 新制中学校を併設し(名称:兵庫県立第一神戸高等女学校併設中学校、以下:併設中学校)、高等女学校1・2年修了者を新制中学校2・3年生として収容。
- 高等女学校3・4年修了者はそのまま高等女学校に在籍し、4年生または高等科生となる。
- 1948年(昭和23年)
- 4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施)により、高等女学校が廃止され、新制高等学校「兵庫県立第一神戸女子高等学校」(女子校)が発足。
- 高等女学校高等科生を新制高校3年生、高等女学校卒業生(4年修了者)を新制高校2年生、併設中学校卒業生(3年修了者)を新制高校1年生として収容。
- 併設中学校は新制高校に継承され(名称:兵庫県立第一神戸女子高等学校併設中学校)、在校生が1946年(昭和21年)に高等女学校へ最後に入学した3年生のみとなる。
- 5月25日 - 兵庫県立第一神戸高等学校の校地に移転し、併置される。
- 8月 - 「兵庫県立神戸欽松高等学校」に改称。
- 4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施)により、高等女学校が廃止され、新制高等学校「兵庫県立第一神戸女子高等学校」(女子校)が発足。
- 新制高等学校(男女共学)
- 1948年(昭和23年)
- 1949年(昭和24年)
- 1950年(昭和25年)3月 - 旧高等女学校の高等科を廃止。
- 1951年(昭和26年)
- 1952年(昭和27年)4月1日 - 中学区制を実施。神戸市は3つの学区に再編され現在に至る。
- 1956年(昭和31年)3月31日 - 商業科を廃止。
- 1958年(昭和33年)11月 - 合唱部がNHK全国唱歌ラジオコンクールで初優勝。
- 1959年(昭和34年)5月 - 鵬雛会(男子・旧一中同窓会)と欽松会(女子・旧県一同窓会)が統合され、「社団法人兵庫県立神戸高等学校同窓会」が発足。
- 欽松学園の経営も神高同窓会に継承される。
- 1961年(昭和36年)
- 1962年(昭和37年)11月 - 合唱部がNHK全国学校音楽コンクール、全日本合唱コンクールの両コンクールを同時制覇。
- 1963年(昭和38年)4月 - 合唱部がアメリカ合衆国親善演奏旅行。
- 1965年(昭和40年)- 米国ワシントン州コロンビア高校と姉妹校提携。
- 1968年(昭和43年)- 兵庫方式入試制度実施。理IIコースを設置。
- 1969年(昭和44年)- 兵庫県高等学校総合体育大会において、公立校として初の男子総合優勝。
- 1971年(昭和46年)- 芦屋市教育委員会の方針転換により、芦屋学区からの越境入学が事実上禁止される。
- 1972年(昭和47年)- 兵庫県高等学校総合体育大会において男子総合4連覇。
- 1973年(昭和48年)- 合唱部が全日本合唱コンクールで史上初の3年連続金賞受賞。
- 1974年(昭和49年)4月1日 - 欽松文化学園が「欽松女子専門学校」と改称。
- 1978年(昭和53年)- 県教委の広域人事計画が発表。以降教員の移動が激しくなり、永年勤続の名物教師の転出が加速。理IIコース廃止。
- 1979年(昭和54年)4月1日 - 欽松女子専門学校が「欽松専門学校」と改称。
- 1986年(昭和61年)4月1日 - 理数コースを設置。
- 1988年(昭和63年)8月 - 山岳部が全国高等学校総合体育大会にて優勝。
- 1989年(平成元年)- 合唱部が全日本合唱コンクールで2度目の3年連続金賞受賞。
- 1994年(平成6年)- 欽松専門学校が解散。
- 1995年(平成7年)1月17日 - 阪神・淡路大震災が発生し生徒2名、職員1名が犠牲となる。
- 1996年(平成8年)5月1日 - 創立100周年記念式典を挙行。
- 1997年(平成9年)10月 - シンガポールのラッフルズ・ジュニア・カレッジ(RJC)と姉妹校提携。
- 2002年(平成14年)
- 2003年(平成15年)4月1日 - 理数コースに代わり、総合理学コースを設置。
- 2004年(平成16年)4月1日 - 文部科学省からスーパーサイエンスハイスクール(SSH)の研究指定を受ける。
- 2006年(平成18年)4月1日 - 学区再編(神戸第一学区→神戸第一・芦屋学区)により、芦屋市が通学圏に復帰。
- 2007年(平成19年)
- 4月1日 - 総合理学コースを全県学区の総合理学科に改編。
- この年 - 英国のチャタム・グラマースクール・フォア・ボーイズ(CGSB)と姉妹校提携。
- 2009年(平成21年)4月1日 - スーパーサイエンスハイスクール事業「中核的拠点育成プログラム採択校」に指定。
- 2010年(平成22年)4月1日 - スーパーサイエンスハイスクール事業「コアSSH採択校」に指定。
名門高教師が教え子に「睡眠薬入り紅茶」。わいせつの舞台は物理準備室[編集]
「熱心でまじめ。生徒からも慕われる良い先生だった…」。
兵庫県内屈指の名門校、県立神戸高校の教諭、数越達也(58)=同罪で起訴=が2014年3月、準強制わいせつで兵庫県警に逮捕された。数越は校内で、元教え子の卒業生の20代女性に大学受験の指導中、睡眠導入剤入りの紅茶を飲ませ、太ももや胸を触るなどした。生徒や同僚からの信頼も厚く、高い評価を受けた指導法は文部科学大臣表彰を受賞したほどの名物教諭。だが、その裏側には自らの欲望を満たすためには手段を選ばぬ“男”の顔があった。
「君も飲んだらどうだ」と紅茶[編集]
国立大学の前期入試を10日後に控えた2月15日、元教え子の女性は、数越の待つ母校の物理準備室を訪れた。現役時代に受けた授業と同様に難解な入試問題を分かりやすく説明していく数越。女性も、数越の言葉を一言たりとも聞き漏らすまいと必死になっていたに違いない。
指導が一段落した午後4時ごろ、数越は「君も飲んだらどうだ」と女性に紅茶を勧めた。何の疑いもなく紅茶を口に運ぶ女性。その直後、突然の眠気に襲われた。
「何でこんなに眠いんだろう…」。必死に目を覚まそうとするが、意識はもうろうとしていくばかり。そんな中、女性は信じられない感覚に襲われる。
「体を触られている!」
物理準備室にいるのは女性と数越だけ。おぞましい行為が誰によるものなのか疑う余地はない。薄れゆく意識の中でも、多大な信頼を寄せていた恩師の「裏切り行為」に対するショックが消えることはなかった。
女性は2月末、兵庫県警灘署に被害を申告。灘署は3月11日、数越を準強制わいせつで逮捕した。数越は「肩が凝ったというのでツボを押さえただけ」と否認したが、同罪で神戸地検に起訴された。
4月26日、神戸地裁で開かれた初公判の罪状認否では、起訴内容を認めながらも、被告人質問で「抵抗できない状態でなかった」と主張した。
予備校よりわかりやすい授業[編集]
事件の舞台になった神戸高校は、明治29年開校の兵庫県神戸尋常中学校を前身に持つ県内屈指の伝統校。今年も20人以上が京都大に合格するなど高い進学実績を誇り、公立の名門校として受験生から高い人気を集める。卒業生には作家の村上春樹氏をはじめ、元参院議長の扇千景氏、ソニー創業者の1人である井深大氏、吉田茂元首相のブレーンなどとして知られる実業家、白洲次郎氏ら蒼々たる顔ぶれが並ぶ。
優秀な生徒たちを指導してきた数越の教師人生は昭和56年、県立吉川高校(三木市吉川町)から始まった。鳴門海峡の渦潮の構造を示すソフトウエアを開発して授業に活用したり、課外活動で顧問を務めた放送部を全国大会優勝に導いたりするなど実績を積み重ねる。平成7年の阪神大震災の後には自らホームページを開設し、生徒の被災体験を伝えるなどしてさらに注目を集めた。
神戸高校に異動したのは平成21年。県内の高校事情に詳しい学習塾関係者は「神戸高校に限らず、県立高校の各学区のトップ校には、他校での実績を買われて異動してくる教諭が多い」と明かす。また、学校関係者によると、同校では主に物理を担当し、難度の高い入試問題を分かりやすく解説することに定評があった。
「数越先生の解説は予備校よりも分かりやすい」と、現役生だけでなく浪人中の卒業生からも質問が絶えない“名物教諭”だったという。
2013年9月には、長年にわたり視聴覚教材を授業で活用した実績が認められ、「視聴覚教育・情報教育功労者」の文部科学大臣表彰を受賞。その栄誉は地元紙にも取り上げられたほどだった。
結局はモラル頼み[編集]
「聖職」であるはずの教職だが、生徒との上下関係を逆手に取って、わいせつ行為やセクハラ行為に及ぶ“悪徳教諭”は後を絶たない。
東京のある私立高3年の女子生徒(17)は高校受験を控えた中学時代、担任教師からセクハラ行為こそ受けなかったものの、セクハラまがいの言動を繰り返し受けたという。
「雑用名目で担任に何度も誰もいない印刷室に呼び出されたり、すれ違いざまに『今日もかわいいね』などと声をかけられた」
女子生徒は苦い記憶を呼び覚まし、「とても気持ち悪かった」とつぶやく。ただ、最後まで学校側に被害を訴えなかった。その理由について「被害を訴えたら担任から嫌われ、成績を下げられるかもしれない。どうしても志望校に行きたかったので、抵抗するわけにはいかなかった」と打ち明ける。
女性の心に深い傷を残すわいせつ行為やセクハラ行為。教育現場では、どのような防止策がとられているのだろうか。
兵庫県教委では年間数回、各教職員に対し「綱紀粛正および服務規律の確保について」と題した通達を出している。この中では、個人情報の保護や飲酒でのトラブル防止などに加え、「児童や生徒の心を傷つけるセクハラ行為などの防止や排除、相談体制の確立に全教職員あげて取り組むこと」などと呼びかけている。とはいえ、密室での個別対応を禁止するなどといった細かな規定が存在しているわけではない。
県教委の担当者は「現場の教職員間では、異性の生徒と1対1で対応するのは極力避けようという不文律がある」と説明。どうしても1対1で対応しなければならない場合、ドアや窓を開けておくなどといった予防策を現場の判断で取っていると強調する。
特色・校則[編集]
- 入学定員は普通科280名、総合理学科40名。総合理学科は県下全域から受験可能である。
- 新制高校として発足以来、一貫して男子の比率が高い(3:2程度)学校であったが、近年では男女ほぼ同数となっている。
- 65分×5時間の授業形態を採用している。また総合理学科(全学年)と普通科(全学年)は月曜日が6時間授業となる。(近年まで普通科においては3年生のみ。)
- 細かい校則は成文化されておらず、基本的に生徒の自主性を尊重するという形式を取っている。
- 実力考査・課題考査においては、開始終了時に教師が用紙の配布・回収はするものの、試験監督を置いていない。これは、点数重視ではなく、生徒各自が考査を通じて自ら学習状況を把握できることが重視されているためである。
校章・校木[編集]
- 校章は旧制両校の意匠を生かしたシンプルな金色の「テンプレート:CP932フォント」の文字で、段違いのある底部に特徴がある。副校章としてデザイン化された鵬(おおとり)の意匠が定められている。
- 校木は「楠」、校花は「春蘭」。
校風[編集]
- 神戸一中時代より「質素剛健」「自重自治」を四綱領としている(範例的要素のある校訓よりもむしろ、学校の雰囲気を示した校風である)。四綱領を掲げた際に成文化された校則も廃止され、現在にいたる。したがって新制高校に見られる生徒手帳が存在せず、携行品は1枚物の生徒証のみ、規定については携行を前提としない冊子としている。
- 2年間以上の部活動や自治会・委員会活動を行った生徒には、卒業時に「春蘭の頌」が授与される。また各方面で顕著な業績を挙げた生徒に対しては「山縣杯」(運動部員対象)・「川西杯」(文化部員対象)・「井深杯」(個人・福祉・教育分野対象)がそれぞれ与えられ顕彰される。
- 神戸一中は明治42年に初代校長・鶴崎久米一の発案により、カーキ色(軍服のカーキ色ではなく、オレンジ色に近い独特の色をそう呼称した)の学生服を採用した。この特徴ある制服は鶴崎が校長を兼務していた本校と神戸二中(現・兵庫高)のみのものであったため、全国屈指の上級学校進学成績を誇った戦前には『エリートの証』として羨望の対象となり、また生徒自身の自覚と自負心を否が応でも高める効果があったという。戦後は通常の黒詰襟に変更されたが、女子は現在も県一高女時代に制定(スカートの形式は1994年に変更)されたセーラー服と八稜鏡を模った胸章を継承している。
- 第二代校長・池田多助は自由と規律を機軸とする英国流のパブリック・スクール教育を推進。進取の気心に富みながらも権威と伝統を重んじる保守的な校風はこの時代に形成されたと考えられる。生徒指導も教師の手によらず、生徒による自主的な自治組織である戊辰会に委ねられ、上級生が下級生に対して規範を示すという形式が採用された。1960年代の学園紛争時に各地の進学校が先陣を切って改革路線を歩んだ時期にも、本校自治会は微動だにせず制服・制帽(丸刈りの強制は1969年に漸く廃止されたが、その後も自発的に短髪を貫き、制帽をきちんと着用する生徒が多かった)を堅持した。しかしながら、こうした校風を無言の圧力や権威と感じて反発を覚える生徒も少なくなく、小松左京は自著にて、鉄拳制裁に代表される一中の軍国主義的スパルタ教育から解放され三高入学を果たした日を、「わが人生最高の日」と述懐している。また村上春樹にも校則に反発して不登校の時期があったと伝えられるほか、戦前にも日野原重明のように他校進学を前提に受験し、入学式当日に確信犯的に退学届を提出した者もいる。
- 県一高女は兵庫県初の公立女学校として誕生したため、初期には寄宿舎を擁し、全県から向学心に燃える優秀な良家の女学生が偏に集う場であった。高等教育を受ける女子などごく稀であった時代でもあり、こうした黎明期の卒業生は特に強い自負と行動力を発揮し、公立校でありながら同窓会が経営する私塾や高等科(現在の短期大学に相当)を早期に開設するなど、兵庫の教育界においては一中に勝るとも劣らない存在感を示す学校であった。そうした県の女子教育をリードしてきたというプライドや栄華の歴史も、県一OGの教師たちが退職し、欽松学園も消滅した現在では語り継いでいくことが徐々に難しくなってきているようである。新制高校になってからも1994年までは校内分掌に女子教育委員会が生徒指導とは別に設置され講演会を開くなどの教育環境があった。一方で新制高校発足当初より学級名簿を男女混合としていた点も特徴である。
- 戦後の学制改革以降、優秀な生徒や教員が灘高を代表とする近隣私立校に流出し、進学校としての実績は緩やかに低迷してゆく。昭和43年(1968年)の「兵庫方式(内申書偏重の入試制度)」の導入や学区制の厳格化(それまでは事実上の越境通学をしている生徒が阪神間を中心に少なくなかった)、県教委の広域人事による教員の転出や在職期間短期化なども名門の解体に追い打ちをかけた。それでも昭和50年代までは公立校としては傑出した学力に加え、部活動全般においても県内トップクラスの実力を保ち『文武両道』の名をほしいままにした。現在は都市構造の変化や阪神・淡路大震災による学区内人口の減少、全国的な中学受験ブームに伴う私立中高一貫校の台頭などの影響を受け、神戸市東部および芦屋市という限られた地域のトップ校という位置に甘んじている。ただし、2007年より全県学区の総合理学科を設置しているほか、2015年からは神戸市全域・芦屋市・淡路島を一学区とする学区広域化が決定している。
- 新入生にとっての通過儀礼であった「江井」(淡路島の旧一宮町)における臨海学舎は、もともと県一高女で行われていたものが共学化により、また敗戦による男子の軍事教練廃止に代わるものとして、男子にも行われるようになった。教師から教わるのではなく先輩から後輩に伝わる、集団生活の規律や水難の危険性に直面することでの精神修養面での貴重な生活訓練の機会であったが、サメ出没などを理由に1994年に鳥取県東浜に移転(ここを移転先としたのは同じ兵庫県立の鳴尾高校と尼崎北高校がここで臨海学舎をしていたことに起因する。)後は民宿で宿泊するホームルーム的要素に転換、さらに民宿の確保が十分できなくなったこと(民宿の廃業による)などを受け、2003年を最後に廃止された。現在はそれに代わるものとして宿泊を伴う六甲山縦走と在校生による新入生歓迎セレモニーが実施されている。
校舎[編集]
神戸一中の初代校舎は三宮に近い新生田川沿いにあったが(二宮橋附近。なお、この橋の脇には「一中のくすのき」が現存している)、周辺環境の俗悪化に伴い摩耶山麓の現校地に移転した(この、現校地は「観音山」と表現されることがある。これは、丁目を割り当てた住居表示になる以前に使用していた地名「上野観音山」に由来する)。1938年に竣工した2代目校舎は「ロンドン塔」と呼ばれる塔屋や銃眼に見立てた装飾などを持つ中世南欧の古城を模したロマネスク調建築となっており、大戦時には陸軍の司令部として、また敗戦後の昭和天皇の全国行幸の折には御宿泊所として利用されたという経緯を持つ。大震災にも耐えた歴史的な校舎を改築するに当たっては多方面から反対の声が上がり、卒業生や各界の有志による「神戸高校の校舎を考える会」を中心に保存運動が展開されたが、最終的にはロンドン塔や観音開きの窓、三連アーチのファサードなど建物の最も象徴的なモチーフを含む正面玄関ホール周辺のみを改修保存し、残りの部分は旧来のイメージを残した形で解体新築するという妥協案で決着をみた。
なお、正面玄関は生徒の通行が禁止されている。卒業式後、3年生はこの正面玄関をくぐり出ることで「鵬雛※の巣立ち」となる慣例である。(ちなみに在学中に正面玄関を通った生徒は受験に失敗するという言い伝えがある。)
- ※鵬雛(ほうすう):神高生の雅称として用いられる。旧制神戸一中時代に、生徒ひとりひとりを鵬(伝説上の巨鳥)のヒナに例えたことに由来。
県一高女の校舎は、兵庫県庁(当時の庁舎)に隣接する下山手通五丁目にあった。幸いにも空襲の被害は少なかったものの、それゆえに、被災した県庁の代わりにこの建物が使われることになり、その後の県一高女は、県二高女への間借りそして北長狭校舎を経て現校地への移転という度重なる引越しを余儀なくされることとなった。県一の旧校舎は兵庫県庁本庁舎として、現在の兵庫県庁1号館に建て替えられるまで使用された。新築された1号館の外壁には「兵庫県立第一神戸高等女学校跡」の石碑が埋め込まれている。
神戸高校の校舎は戦前から残る数少ない学校建築として、近年ではしばしばドラマなどの舞台として使用されることがある。 改築のために取り壊される直前に行われた少年H青春篇(2001年フジテレビ)のロケでは神戸二中にみなして教室や、独特の椅子一体型の机などが使用されたほか、火垂るの墓(2005年日本テレビ)では主人公の清太が通う学校として設定され、カーキ色の学生服も登場した。(ただし、原作設定における清太の入学年度には既にカーキ色の制服は廃止されており、あえてこの衣装を用いたのは学校側または製作スタッフのノスタルジアによるものと思われる)
部活動[編集]
- 合唱部は1950年に創部され、その9年後にNHK全国学校音楽コンクールにおいて全国大会初優勝。また全日本合唱コンクールにおいては2度の3年連続を含む金賞12回。近年でも2011年に全国大会で金賞を受賞している。
- サッカー部は全国選手権出場25回、優勝7回(現存する学校の中では歴代最多記録)、準優勝2回、三位6回、大会通算勝率7割超、日本代表選手20名以上。白シャツにカーキ色のパンツという全盛期のユニフォームはオールドファンに印象深い。
- 1919年(大正8年)に野球部が全国中等学校優勝野球大会制覇を達成した際に、「我々は見世物ではない」と表彰式後の場内一周を拒否したというエピソードは有名。
- 馬術部やボート部など特色ある部を有し、また女学校以来の伝統として箏曲部、華道部、茶道部なども維持されている。音楽会などの行事の際には、普段は個別に活動している吹奏楽部と弦楽部の協力により本格的なオーケストラが編成され、OBによる吹奏楽団やアマチュア管弦楽団も独自の活動を行っている。
- 兵庫高校(旧制神戸二中)とは毎年春・秋に武道・球技の、夏には水泳の定期戦が行われている。ことに明治期から続く野球はかつて『扇港(神戸)の早慶戦』とも呼ばれ、観衆のあまりの白熱のため大正から昭和にかけての20年間にわたって開催が中止されたという逸話がある。
高校関係者一覧[編集]
兵庫県立神戸高等学校の人物一覧 を参照
関連項目[編集]
- 兵庫県高等学校一覧
- 日本の理数科設置高等学校一覧
- 旧制中学校
- 高等女学校
- ナンバースクール
- 阪神間モダニズム
- 一中御三家(神戸一中、府立一中、愛知一中の三校)
- 兵庫県立東神戸高等学校(神戸高等学校内にかつてあった定時制高等学校)
脚注[編集]