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2013年3月2日 (土) 19:41時点における版
民主党(みんしゅとう、英語:Democratic Party of Japan、"DPJ")は中国の政党。略称は「民主」。
自由民主党と二大政党を形成する、現在の政権与党である。衆議院、参議院の両方において第1会派を形成している。
党のキャッチコピーは、小沢一郎が考案した「国民の生活が第一。」と菅直人が考案した「元気な日本を復活させる。」。
目次
概要
1998年4月、院内会派「民主友愛太陽国民連合」(民友連)に参加していた旧民主党・民政党・新党友愛・民主改革連合が合流して結成された。法規上では、1998年、旧民主党が各党を吸収したという形をとっており、1996年結成の旧民主党の存続ということになっている。
結党時には保守中道を掲げる旧民政党系と中道左派を掲げる旧民主党系が対立した結果、党の基本理念を「民主中道」とすることで落ち着いた。
保守・中道右派を自認する自民党に対して、海外メディアから、リベラル・中道左派の政党と位置付けられることが多い。しかし、結党の経緯により主に自民党旧経世会の流れを汲む保守本流、保守左派の議員も多く存在しており、このため、左派政党であるとも言い難い側面がある。
なお、2001年に党内左派から社会主義インターナショナルに加盟すべきという提案がなされたこともあるが、当時の代表である鳩山由紀夫は「左派というのは民主党のコンセンサスではない」と反対し、頓挫した経緯がある。
党史
結党の背景
1980年代の後半からリクルート事件などを契機として政治とカネのあり方が問われ始めると、小沢一郎や後藤田正晴らを中心に自民党内の一部で小選挙区制と政党交付金の導入を主張する政治改革の機運が高まっていった。これには政権交代可能な二大政党制を実現させ、中選挙区制によって馴れ合いに陥っていた55年体制(小沢談)を打破するという目的があった。
小選挙区制への移行は短期的には最大政党の自民党に有利なものであったため、野党は一斉にこれに反発する。一方で自民党内でも、将来的に政権から転落する可能性が高まることや特定利権からの支援効果が薄まることなどから反対論が相次ぎ、海部内閣では政治改革四法は廃案に追い込まれた。
1993年、宮沢内閣でも法案が否決されるに至って党内の対立は決定的となり、小沢一郎、羽田孜、鳩山由紀夫、岡田克也ら改革推進派は内閣不信任案に賛成票を投じて自民党を離党する。宮沢は衆議院の解散を選択して第40回衆議院議員総選挙に踏み切るも、自民党は政権から転落。この選挙では枝野幸男、前原誠司、野田佳彦、小沢鋭仁ら、後に民主党の主要メンバーとなる議員が政治改革を訴えて新党から多数初当選を果たしている。
政治改革を成し遂げた翌1994年、小沢や岡田らは野党勢力の多くを結集させて新進党を結党し、自民・新進の二大政党時代へと向かって舵を切った。
一方、鳩山由紀夫、菅直人らは新党さきがけに参加して自民・社民との連立政権の一翼を担っていた。薬害エイズ問題の厚生省追及などで世論の脚光を浴びつつも、1996年9月に鳩山、菅、前原ら自民党との連立に見切りをつけた議員が党首の武村正義と決別して新党の結成に動く。これが、現在の民主党の源流となる旧民主党である。
結党、黎明期
新党さきがけを離党した鳩山由紀夫、菅直人らと社民党の右派議員、ほか鳩山邦夫らが集い、「官僚依存の利権政治との決別」「地域主権社会の実現」を標榜して旧民主党を結党。両院合わせて57名での船出であった。翌月に控えていた第41回衆議院議員総選挙を横ばいの議席で乗り切り、翌1997年には菅直人が党代表に、鳩山由紀夫が幹事長にそれぞれ就任して党の体制が整えられた。
一方の新進党は第41回衆議院議員総選挙で政権獲得はおろか議席を減らすという敗北を喫していた。党の求心力は急激に衰え、自民党の野中広務による周到な引き抜き工作などもあり、離党者が後を絶たない状況に陥る。1997年12月、党の再生が困難だと判断した小沢は、新進党の解党を宣言する。自民党に復党、合流する議員が更に多数出る中、民政党・新党友愛・民主改革連合などを結成して、自由党にも公明党にも与しない形で野党に留まる勢力があった。旧民主党はこれら民政党・新党友愛・民主改革連合と1998年1月に院内会派「民主友愛太陽国民連合」(民友連)を結成し、合流に向けた協議を進める。旧民主党の枝野幸男、民政党の岡田克也、新党友愛の川端達夫らが基本理念をまとめる協議にあたり、合意に至る。4月27日、ここに現在の民主党が誕生した。手続上は他政党が解散し、民主党に合流した形となった。
新民主党は、「行政改革」「地方分権」「政権交代」を掲げ、自民党に代わる政権政党となること、二大政党時代を作り上げることを目指すとした。「生活者」「納税者」「消費者」の代表という立ち位置、「市場万能主義」と「福祉至上主義」の対立概念の否定などを結党時の基本理念に掲げている。
この年の参院選では、大型公共事業の抜本的見直しや地方分権の推進などを訴え、10議席増の27議席を獲得する。しかし、当時衆議院で単独過半数の回復に成功していた自民党と比して、この頃の民主党を二大政党の一角と見る動きはまだ少なく、あくまでも最大野党という位置付けが一般的であった。
1999年9月、代表選挙で菅直人を破った鳩山由紀夫が代表に就任。共同代表を除き、旧民主時代を通じて初めて菅以外の代表が誕生する。
党勢拡大、二大政党へ
2000年6月の第42回衆議院議員総選挙で、定数削減があったにも関わらず改選前の95議席を大きく上回る127議席を獲得、二大政党時代の到来を宣言する。とは言え、議席数こそ減らしたものの自公保政権は引き続き安定多数を維持しており、与党を過半数割れに追い込むという狙いは達せられなかった。この選挙では、現行消費税の年金目的税化、扶養控除の廃止と児童手当の金額倍増などが公約に盛り込まれた。
2001年7月の参院選ではいわゆる小泉旋風の前に4議席増の26議席獲得に留まる。選挙公約には、道路特定財源の一般財源化、天下り禁止法の制定、全てのダム建設の一時凍結などが新たに盛り込まれた。
翌2002年9月、鳩山は代表に再選されるがこれに関連して中野寛成を幹事長に起用する論功行賞人事が党内の求心力の低下を招き、自由党との統一会派構想の責任を取る形で12月には辞任に追い込まれた。同月、岡田克也を破った菅直人が代表に返り咲く。これに伴い、かねてより菅との対立を指摘されていた熊谷弘ら保守系の議員5名が保守新党を結成して民主党を離党(後に除名)した。
その後も、党結成以来の重鎮であった松沢成文、上田清司が民主党を離党し、地方自治体の首長に転身するなど、小泉旋風の前に苦難の時代が続く。
2003年9月、来る総選挙を前に執行部が自由党との合併に踏み切ることを正式に決断する。枝野幸男らをはじめ強硬に反対を唱える声もあったものの、役員、要綱、党名を据え置くという民主党による事実上の吸収合併という形で一応の決着を見せた。この民由合併により民主党は両院合わせて204人(衆議院137、参議院67)を擁するまでに党勢を拡大させた。
11月、日本初のマニフェスト選挙となった第43回総選挙では、改選前を40議席上回る177議席を獲得、大きく躍進する。比例区の得票数では自民党を上回った。高速道路の原則無料化、年金制度の一元化、衆議院の定数80削減などがこの選挙から新たに政権公約でに加えられた。
2004年、年金制度改革を巡るいわゆる「年金国会」がスタートすると政治家の年金未納問題が次々と明らかになり、法案の審議以上に世論の大きな関心事へと発展する。民主党は小泉政権の閣僚にも年金未納の議員が居ることを好機とし追求するが、やがて代表の菅直人の納付記録に未納期間があることが判明。菅は行政側の過失で自身の納付歴に問題はないと説明するも、厳しい世論の前に辞任へと追い込まれた。後に菅の主張通り社会保険庁職員の怠慢による手続きミスであったことが明らかとなり、厚生労働省が謝罪している。菅の後継にいったんは小沢一郎が内定するが、小沢にも年金の未納が発覚し、代表辞退に追い込まれた。
5月、新代表に岡田克也を無投票で選出。間を置かず7月の参議院選挙を迎えた。発足間もない新体制に一部不安視する声もあったが、50議席を獲得し、国政選挙において初めて自民党(49議席)に勝利を収めた。
この時期から政権選択選挙という言葉が急速に現実味を帯び始めるようになる。
郵政選挙の大敗、出直し
2005年8月、小泉純一郎首相が郵政民営化の是非を問うとして衆議院を解散(郵政解散)。自民党は民営化に反対したいわゆる造反議員との分裂選挙に突入した。岡田は「政権交代が実現できなかった場合は代表の座に留まるつもりはない」と宣言。選挙戦の序盤は「漁夫の利」などとして民主党に楽観的な論評も飛び交い、政権交代を確実視して伝える一部海外メディアもあった。
郵政民営化の是非を争点に選挙戦を展開した与党に対し、民主党は郵貯・簡保の徹底的な縮小と郵便事業への民間事業者参入促進など、2003年以来党が掲げてきた改革案で応えた。また、郵政問題よりも重要な争点として、利益誘導型政治・官僚支配からの脱却、公務員人件費の2割削減、18兆円に及ぶ税源の地方への委譲、大型公共事業の見直しなどを改めて提示し、「徹底した無駄削減」と「コンクリートからヒトへ」による大胆な社会構造の変革を訴えた。
しかし、「造反議員」と「刺客候補」の対決構図が連日のように報道されていく中で政策論争は次第に世論の関心を失い、民主党は小泉劇場の前に埋没していく。結局、改選前を大きく下回る113議席という結果に終わり、岡田民主は歴史的大敗を喫した。岡田は即日代表辞任の意向を表明する。
党代表後継には菅直人と若手急先鋒の前原誠司が名乗りを上げる。当初は菅有利と見られていたものの、最終演説で投票議員の心を掴んだ前原が僅か2票差で選出された。前原は、「脱労組」「世代交代」「対決路線から対案路線への転換」を打ち出し、党の再建に着手する。耐震偽装問題で馬淵澄夫による証人喚問が世論の喝采を浴びるなど、新生民主党は順調な出直しを図ったかに見えた。
しかし、2006年2月に堀江メール問題が起きると、一転して民主党は激しい世論の批判を浴びることになる。情報の真偽を巡って執行部の対応が後手に回ったことも問題を長引かせる要因となり、翌3月にはついに前原が辞任に追い込まれる。これにより、民主党は解党の噂すら実しやかに囁かれる、危機的な状況に陥った。
トロイカ体制、形勢の逆転
4月、小沢一郎が菅直人を破り、新代表に就任する。小沢は菅を代表代行に指名し、幹事長を務める鳩山と共に「トロイカ体制」と言われる挙党一致体制を敷いた。直後に行われた千葉7区補欠選挙で圧倒的不利の下馬評を覆して薄氷の勝利を収め、メール問題以後混乱状態にあった党をいったん建て直すことに成功した。
小沢体制では、「対立軸路線」への復帰や2005年総選挙で掲げた年金目的消費税の凍結など、政局・政策的にはいくつか転換も図られた。また地方組織が磐石ではない民主党にあって、小沢は各議員・候補に徹底した地元活動を求めるなど、地盤の強化にも力を注いだ。2007年4月の統一地方選挙を勝利し、その勢いを保って7月の第21回参議院議員通常選挙でも60議席獲得と大勝。ついに参議院で与野党の逆転を果たした。
11月、ねじれ国会の運営に行き詰った福田康夫首相と、政策の実現を図りたい小沢の間で大連立構想が協議される。しかし予てから「健全な二大政党制」を望んでいた民主党役員会では小沢を除く全ての議員がこれに反対、世論も同様の反応を示した。小沢は混乱を起こした責任を取って辞意を表明するが、周囲の説得により翻意、引き続き代表に留まった。その後も、民主党は2008年のガソリン国会などでねじれ国会を有利に戦いを進める。この頃には首都圏の政党支持率では自民党を圧倒するようになる。
ところが2009年3月、西松献金問題で小沢の公設第一秘書が逮捕・起訴され、党内外に激震が走る。検察の捜査の正当性には郷原信郎を始めとした専門家から異論が唱えられたが、事件を機に支持率は軒並み下降する。小沢は事実関係については裁判で争うとしたものの、迫る総選挙への影響を避けるため、5月に代表を辞任した。
事前の世論調査で支持を集めた岡田克也と、小沢に近い議員らが推す鳩山由紀夫が代表の座を争い、参議院票の取り込みで優勢に立った鳩山が接戦を制した。代表選後は岡田が幹事長職を引き受けて再び挙党体制が敷かれた。
7月12日、総選挙の前哨戦とも位置付けられた東京都議会議員選挙で第1党に躍り出る。島部を除く全ての選挙区で民主系の候補者が1位当選を確保するなど、地滑り的大勝を飾った。
翌13日、麻生太郎首相が衆議院を解散する意向を表明。この月、NHKの全国世論調査で初めて民主党が政党支持率で自民党を逆転する。
政権交代
2009年7月21日、衆議院が解散され、事実上の任期満了選挙に突入する。鳩山由紀夫はこの総選挙を「政権交代選挙」と銘打ち、社民党、国民新党と合わせて過半数の議席確保を勝敗ラインに据えた。マニフェストには、子ども手当ての創設、年金一元化、歳出の組み換えによる財源捻出など、前回の参院選で訴えた内容とほぼ変わらぬ政策が盛り込まれた。各種世論調査では終始民主党の圧倒的優勢が伝えられ、各地の選挙区で民主党のマニフェストが不足するなど、真夏の選挙戦はかつてない盛り上がりを見せた。
投開票日の8月30日、絶対安定多数を超える308議席を確保して、結党以来の悲願であった政権交代をついに実現する。308議席は、一つの党が獲得した議席数としては過去最多であった。第172回国会で鳩山由紀夫内閣が正式に発足し、民・社・国の連立政権が誕生した。
鳩山は、政策決定の一元化を担う国家戦略担当大臣を政権の最重要ポストに挙げ、菅直人を起用する。党幹事長に小沢一郎、外務大臣に岡田克也、内閣官房長官には平野博文がそれぞれ起用された。地球温暖化対策や公共事業の見直し等で自公政権時代からの大きな政策転換が行われる中、70%を超える高い内閣支持率を得て政権がスタートを切った。
民主壊滅。バブルはじけ、批判の嵐。首相「人材失い痛恨の極み」
3年4カ月前とは正反対の屈辱だった。都内のホテルに設置された民主党開票センター。2012年12月16日午後11時20分、野田佳彦首相はうつむき加減で壇上に上がり、会場に一礼した上で、立ったまま反省の弁を口にした。
「政府や党でとことん一生懸命働いてくれた同志、あるいは将来が嘱望される有為な人材を数多く失った。痛恨の極みだ」
女房役の藤村修官房長官をはじめ現職閣僚が8人も落選した。一時は「陰の首相」とさえいわれた仙谷由人元官房長官も議員バッジを失った。極めつきは党創設時からの中心人物、菅直人前首相が選挙区で敗れるという波乱。
歴史的な政権交代を果たした前回の熱狂が嘘のような大敗北。現実は残酷だ。首相の会見が終わってもなお、当選者名に赤いバラを張るボードは真っ白なまま。党職員は「負けすぎだ」と絶句した。
バラバラ体質嫌気
それにしても、ジェットコースターのような浮き沈みの激しさだ。民主党は衆院選で平成12年に127議席、15年に177議席と膨張を続けたが、17年の郵政選挙では113議席と大敗。しかし、21年の総選挙では308議席を獲得し念願の政権交代を果たす。
でも、それは「バブル」だったのかもしれない。野党時代の民主党は、与党・自民党への批判をしていれば一定の支持を得ることができた。だが、今回の選挙は初めて「与党」として臨んだ。国民の政権への批判は直接、自分たちへの批判となって突き刺さった。
今回の大敗の最大の要因は、一言で言えば政党としての力不足。野党としては存在意義はあるが、政権政党の資格はなかったということだろう。
細野豪志政調会長は「前回マニフェスト(政権公約)が実現できなかったことと、党の分裂が影響した」と敗因を語った。確かに、政策的な失敗も大きかったが、ここまでの大敗北を招いた原因は、民主党特有の「バラバラ」体質に国民が嫌悪感を示したことが大きい。
開票が進んでいる最中、輿石東幹事長の周辺からはさっそく「執行部総退陣は当然だ。『集団自殺』の引き金を引いたのは首相だ」との声が漏れた。何か失敗があると、必ず内部抗争を始める。こうした内向きな体質に、国民が「ノー」を突きつけたのが今回の選挙といえるのではないか。
功労者を見放した
振り返ると、国民の期待を背負って約3年4カ月前に登場した鳩山由紀夫元首相は米軍普天間飛行場移設問題で迷走し、時の幹事長、小沢一郎氏は政府と党の「政策決定の一元化」の名のもとに助け舟を出さなかった。鳩山氏を事実上、見放したに等しかった。
その後、政権を担った菅氏はマニフェストに書いていない消費税増税を言い出し、22年の参院選で大敗。参院で与党は過半数割れに陥り、国会運営で主導権を自民党に奪われていく。マニフェストは変質し、マニフェスト至上主義の小沢氏との対立は激化。野田政権下で小沢系はごっそりと離党した。
「民主党には代表を支える文化が育っていない」
野党当時、民主党の多くの幹部はそう言って嘆き、与党になればリーダーの足を引っ張るその体質も変わると思われた。
だが、自民党が与党時に見せていた、権力を手放さないために最後は結束して事に当たるという文化が育つことは、ついになかった。しかも、党をまとめ切る力量に欠けるリーダーばかりとあって信頼は得られなかった。
「対決」か「純化」か
民主党という政党は今後、どうなるのか。考えられる道は2つある。
1つは、民主党離党組が大量に所属する日本未来の党などと連携、または合併する道。この場合、来年夏の参院選に向け、民主党は自民、公明両党との対決路線を歩むことになるだろう。ただ、これでは「選挙互助会」的政党という、これまでの歴史の繰り返しだ。
もう1つは「純化路線」を突き進み、自公両党との協調路線を模索する道。この場合、党の立ち位置を明確にできれば再生も可能だ。だが、自公両党の補完勢力に成り下がり、縮小傾向に歯止めがかからなくなることも予想される。
「民主党が何のために存在するのか、そのことそのものが厳しく問われた」
細野氏はテレビの番組で今回の敗北をこう総括した。党内では今後、後継の代表を選ぶ動きが本格化する。ここで党再生への方向性を誤れば、民主党という政党の存続はない。
「何を間違えたのか」(2013年2月)
2月8日昼、民主党の2人の首相経験者が国会近くの日本料理店で向き合った。
「どうすれば党を支えることができるかな」。
昼食に誘った菅直人(66)の問いかけに、野田佳彦(55)の答えはそっけなかった。
「今は何を言っても皆に迷惑をかけますから……」
民主党が自民、公明両党に政権の座を譲り渡して2カ月。3年余りに及んだ国政運営への失望が党への強い逆風となって吹き付ける。再生への手掛かりをなかなか見いだせない現状は、2人の元首相の姿と重なる。
「閉門蟄居の身です。こういう時期は四股を踏むことが大事だ」。
1月31日、自身のグループ「花斉会」に顔を出した野田の表情は硬かった。落選者には「残念ながら時間がいっぱいできた。一兵卒としてミニ集会でも何でも行く」と繰り返す。
2012年11月、党内の慎重論に耳を貸さず衆院解散に踏み切った結果が、選挙前の約4分の1の57議席という惨敗。党内は野田らを名指しで糾弾する声が満ち満ちている。
組織委員長の玉置一弥(68)は1月下旬、党本部で参院議員会長の輿石東(76)に迫った。
「首相経験者を最高顧問から外してほしい。最低顧問だ」。
周囲には「解散時期を間違えた野田さん、2010年の参院選で敗因をつくった菅さんは最大の戦犯だ」と息巻く。
消費増税、原発再稼働、環太平洋経済連携協定(TPP)―。野田は「決められない政治」からの脱却を目指し、社会保障と税の一体改革での民自公の3党合意にカジを切った。その決断に悔いはなく、周囲には「TPPもやっておきたかった」と漏らす。
当時の政権幹部は「結果として党の分裂を招き、有権者の失望に拍車をかけた」と振り返る。それだけに増税に反対して党を割り、生活の党代表を務める小沢一郎(70)との亀裂は決定的だ。
「小沢さんとくっつくつもりなら考えないといけないなあ」。
野田は13日夜、都内のレストランで側近の長島昭久(51)や政権時代の後見役で政界引退した藤井裕久(80)と日本酒を酌み交わしながら語った。藤井も「野田さんの最大の功績は消費増税と小沢さんを追い出したことだ」と相づちを打った。
輿石らは離党組との再連携への意欲を公言している。小沢との距離感は、野党に転落した後も党内対立の火種だ。
菅は独自の動きを見せる。1月22日、党本部で開いた常任幹事会で、おもむろに「党再生に向けて」と題する一枚紙を配った。
「二大政党の一方になるには選択肢を国民に提示できることが必要。右傾化する自民党に対抗する二大政党を目指すべきだ」
新たな党綱領を巡り、執行部内には「中道」や「リベラル」という言葉で対立軸を明確にする案もあった。ただ保守系議員の反発を懸念し、構想は幻に終わった。
菅は14日の党綱領検討委員会でも「なぜ『リベラル』と書かないのか」とかみつき、「まとめる直前になって言わないでください」と制された。政策の軸が定まらず、党内がまとまらない構図はいまだに変わらない。
民主党の看板に執着する必要はない、との突き放した空気も一部に漂いはじめている。
「近いうちに飯でも食おうや」。1月下旬の衆院本会議場。長島は日本維新の会の共同代表、石原慎太郎(80)に肩をたたかれた。保守系で前から石原と親交がある長島は会うたびに「いつ維新に来るんだ」と声をかけられる。長島のもとには「受け皿をつくってほしい」との落選者からの電話も相次いでいる。
維新は自民党に対抗する「第二極」の中核をうかがう。共同代表の橋下徹(43)は21日の記者会見で民主党の現状について言い放った。「僕らと同じ価値観の人もいれば真逆の人もいる。政党の体を成していない。早く別れた方がいい」
民主党は「日本を変えてほしい」との有権者の期待を集め、一度は圧倒的な第1党に上り詰めた。野田の周辺は衆院選敗北について「結論を出す政治が批判を受けたわけじゃない。鳩山、菅両政権の負の遺産を跳ね返せなかった」と漏らす。
24日、民主党が再起を目指して開いた党大会。代表の海江田万里(64)は厳しい表情で会場に問いかけた。
「なぜ失敗したのか。何を間違え、何が足りなかったのか……」
その答えを出さないままで、復活の日は訪れない。
民主党3分裂→消滅のカウントダウン
解体まっしぐらだ。2013年2月22日、民主党の植松恵美子参院議員と川崎稔参院議員が離党届を提出。2人とも今夏の改選だから、選挙を意識しての離党なのは間違いない。民主党から出馬しても勝てないことが確実だからだ。
「2人の離党は、参院の勢力図に大きな影響を与えます。これまで、補正予算案などの重要法案が、参院では1~2票差で否決される可能性があった。ところが、この2人が与党案に賛成するとなると、状況は一転する。日銀総裁の人事案も、民主党とみんなの党が反対しても通ってしまいます。これ以上、参院から離党者が出れば、第1党の座も危うくなってくる」(民主党関係者)
参院でも存在感を示せないとなると、民主党にとどまるメリットは何もない。衆院の代議士も生き残りを図って動き始める。民主党の大臣経験者の秘書が「わが党はもうオシマイ」と、嘆息まじりにこう言った。
「おそらく民主党は労組系、松下政経塾系、それ以外に3分裂します。労組系は、存続の危機同士で社民党と一緒になるかもしれない。政経塾系の前原・野田グループは、右寄りの政策を前面に出して自民や維新と連携しようと考えている。その他の議員は維新やみんなの党に移ろうと画策したり、市長選や知事選などへの転身を考えるんじゃないですか」
崩壊へのカウントダウンが始まったのだ。政治評論家の有馬晴海氏もこう言う。
「民主党は、もはや政党の体をなしていません。離党を食い止める求心力になるのは、党本部のカネだけ。今も衆院落選組に月50万円を支給していますが、これだって、どこまで歯止めになるか。もらえるものはもらっておくけど、さて、次の選挙はどの党から出るべきかと考えている人は少なくないと思います。現職議員にしても、党にとどまるメリットがなければ、離党者が今後も出てくるでしょうね」
それもこれも、政権交代に託した国民の期待を裏切った自業自得。24日の党大会も、お寒いものになりそうだ。
略年表
- 1996年
- 1998年
- 2000年
- 6月 - 第42回総選挙で、改選前を32議席上回る127議席を獲得。
- 2003年
- 2004年
- 5月 - 菅直人が、社会保険庁の過失により自身の年金納付に未納期間が発生していることから、責任を取って代表を辞任。岡田克也が無投票で新代表に選出される。
- 7月 - 第20回参議院議員通常選挙で2003年11月の第43回衆議院議員総選挙に引き続き比例区の得票で自由民主党を抑え、選挙区を含め50議席を獲得。
- 2005年
- 2006年
- 2007年
- 7月29日 - 第21回参議院議員通常選挙で60議席を獲得。自民党結党以来、非自民政党として初めて参議院で第1党となり、1955年の自民党結党後としては初めて非自民の参議院議長に江田五月を選出した。
- 2009年
- 3月 - 小沢代表の公設第一秘書が、西松建設からの献金について、政治資金規正法違反で逮捕・起訴される。
- 5月11日 - 小沢一郎が、西松献金問題による党の支持率低下で党内が動揺したことを受け、挙党体制確立のために代表を辞任。
- 5月17日 - 代表選挙で岡田克也との接戦を制した鳩山由紀夫が代表に復帰する。
- 7月12日 - 東京都議会議員選挙で54議席(定数127)を獲得し、都政で初めて第1党に躍進。
- 8月30日 - 衆議院議員総選挙で絶対安定多数を上回る308議席を獲得。第1党に躍進。
- 9月16日 - 首班指名選挙で鳩山由紀夫代表が指名され鳩山由紀夫内閣が成立。
- 10月25日 - 参院統一補欠選挙で神奈川選挙区と静岡選挙区で民主党候補者が追加議席を獲得。参議院議席は115に前進した。
- 2010年
政策
公式HPに掲載されている1998年の第一回党大会決定によれば、民主党の基本理念は、
- 透明・公平・公正なルールにもとづく社会をめざします。
- 経済社会においては市場原理を徹底する一方で、あらゆる人々に安心・安全を保障し、公平な機会の均等を保障する、共生社会の実現をめざします。
- 中央集権的な政府を「市民へ・市場へ・地方へ」との視点で分権社会へ再構築し、共同参画社会をめざします。
- 「国民主権・基本的人権の尊重・平和主義」という憲法の基本精神をさらに具現化します。
- 地球社会の一員として、自立と共生の友愛精神に基づいた国際関係を確立し、信頼される国をめざします。
–
と定めている。
福祉・医療
- 障害者自立支援法による福祉サービスの負担増が障害者の自立を妨げているとし、廃止をマニフェストに掲げている。障害当事者を参画させた機関を設置して「障がい者総合福祉法(仮称)」を制定し、能力に応じた負担額に見直すことや、中小企業を含めた雇用の促進に取り組む方針を固めている。
- 自公政権が「骨太の方針2006」で打ち出した社会保障費削減方針(年2200億円、5年間で1兆1000億円)を撤廃した。
- 後期高齢者医療制度を廃止し、国民皆保険制度を守るとしている。
- 実働医師の数を増やすと共に、勤務医の不払い残業を是正し、当直を夜間勤務に改める等、医療現場の労働環境を改善するとしている。
- 2013年までに介護労働者の賃金を月4万円程度引き上げ、介護事業者に対する介護報酬も7%加算することを目指している。
年金
- 年金制度を一元化し、全ての職業の人が「所得が同じなら、同じ保険料の負担」となる仕組みに改めるとしている。この制度の給付は「所得比例年金」と「最低保障年金」の二階建てから成る。
- 「所得比例年金」は、所得から徴収される保険料を財源とし、職業を問わず納めた保険料に応じて給付額が決定される。制度の『二階部分』にあたる。会社員は負担・給付額共にほぼ変わらず、公務員は給付額が下がる。自営業者は負担・給付額共に増える。
- 「最低保障年金」は、どんな低所得者であっても最低7万円の年金を受給できるようにするものである。制度の『一階部分』にあたる。ただし、「所得比例年金」の給付水準が高い高額所得者へは減額、又は支給されない。制度導入前(~2013年)に年金未納だった者もその分だけ減額される。
- 「最低保障年金」の財源には消費税5%分が充てられる。そのため、2033年~53年までに年金目的の消費税を段階的に引き上げる必要があるとしている。
- 年金保険料は年金給付以外に使わず、事務費や広報費に費やされてきた年間約2000億円の経費は圧縮した上で国庫負担とすることにしている。
- 「消えた年金」「消された年金」問題を早期に解決するため、2009年から約2000億円を投入して2年間集中的に取り組むとしている。
少子化対策
- 高額所得者に有利であるとされる扶養控除を2011年に廃止し、同年から中学卒業までの子供1人当たりに年31万2000円(月額2万6000円)の「子ども手当」を直接給付することを決定している(2010年度は半額にて実施)。
- 出産一時金の給付額を42万円から55万円に増額する方針である。
- 不妊治療への医療保険適用を検討し、支援拡充を打ち出している。
- 公立高校の授業料を無料化し、私立高校生にも授業料を補助(年12万~24万円程度)する制度を2010年度から開始させる。
- 保育所に入所できないいわゆる待機児童の解消に向け、認可保育所の増設と共に、小中学校の空き教室の活用した施設の拡充や保育ママ制度の積極活用などを推進するとしている。
予算の見直し
- マニフェストで示された各種政策を実行するために、事業の効率化や歳出削減を断行して2013年度には16.8兆円の財源を生み出すとしている。
- 不要不急の公共事業やハコモノ建設の凍結・廃止を表明し、政権発足後直ちに国土交通省が実行に移している。
- 高速道路を原則として無料化する。交通・流通コスト軽減による内需拡大や、渋滞の解消による地球温暖化対策などの効果を見込んでいる。
行政改革・地域主権
- 首相直属の「国家戦略局(室)」を創設し、各省の縦割りを排除して政治主導で予算の骨格作りを進めている。
- 各大臣の連携を強め、政治主導の政策決定を行うための「閣僚委員会」、行政全般を見直す「行政刷新会議」を設置し、国会議員100人を行政に送り込むなどして、官僚依存政治からの脱却を図っている。
- ひも付きの補助金を廃止し、およそ18兆円の税源を地方に移譲して地域主権社会の確立を進めるとしている。
- 国直轄事業に対する地方負担金制度が、国と地方との主従関係を築いているとしてこれを廃止し、従来負担金に充てていた財源を地方の自由な意思で使用できるように改めるとしている。
- 国家公務員の天下りや、中央省庁による再就職の斡旋を禁止し、官製談合や随意契約の原因を根絶するとしている。
- 独立行政法人が非効率な事業運営によって税金を無駄に使っているとして、一つ一つ精査した上で廃止か、民営化又は国直轄として存続させるかを決めるとしている。天下り受け入れの見返りに業務を独占するなど、実質的に各省庁の外郭団体となっている公益法人は廃止することにしている。
財政・税制
- 財政再建への具体的な道筋をマニフェストで示していない。将来的にも消費税を財政赤字の穴埋めには使わないと明記している。
- 社会保険庁を廃止・解体し、業務を国税庁に吸収させて歳入庁を設置し、年金保険料の無駄遣いを無くすとしている。
- 2013年以降の消費税引き上げを否定していない。その際、低所得者への配慮として「給付付き消費税額控除」を導入して基礎的な消費支出にかかる消費税額は返還するとしている。
- 中小企業の法人税率を一時的に11%に引き下げるとしている。
- 相続税・贈与税の引き上げを検討している。
- 酒税・たばこ税の引き上げを検討している。
- ガソリンの暫定税率を廃止し、道路特定財源を一般財源化して道路建設・整備以外の目的にも使っていくとしている。
外交・安全保障
- コソボ紛争やイラク戦争のような米国の単独行動主義的な武力行使に対しては反対するが、国連における安全保障理事会のプロセスを経た軍事出動には賛成の立場を取っている。
- 小沢一郎のISAF参加発言やアフガニスタン復興支援特別措置法案に見られるように国連中心主義を基調とした自衛隊の海外派遣に比較的積極的であるとされる。ただし、民主党の基本政策では党内左派に配慮し「海外における武力行使を行わないこと」と明記されている。
- 戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案を他党に先駆け国会に提出し、これまで8度にわたり提出している。
- 各国が同様の取り組みを行うことを前提条件に、1990年比で二酸化炭素の排出量を2020年までに25%削減することを国際公約に掲げている。
- 米国を含む世界各国と自由貿易協定(FTA)、経済連携協定(EPA)の締結を推進する方針である。
選挙・政治
- 外国人地方参政権を与える法案を検討しているが、党内には慎重な意見もある。法案提出への対応は、小沢一郎幹事長に一任されているが、小沢幹事長は「総選挙前に在日本大韓民国民団に約束したことなので約束は必ず守る」と表明している。
- 企業・団体献金を全面禁止し、税額控除やインターネット献金の推進によって個人献金を普及させるとしている。
- 現職の国会議員の配偶者および三親等内の親族が、同一選挙区から連続して立候補することを民主党の内規で禁止している。
- 一票の格差(較差)是正のため、衆議院の小選挙区を全て人口比例で振り分けるとしている。同様に参議院でも格差是正を図るとしている。
- 資産公開の徹底、政治的地位利用罪の導入などにより、政治倫理を確立するなどを基本政策に掲げている。
- 衆議院の比例定数を80議席削減するとしているが、連立を組む社民党が反対の姿勢を明らかにしており、政権としての最終的な結論は出されていない。また参議院においても、衆議院に準じて定数を削減するとの方針を打ち出している。
- 選挙権の年齢を18歳に引き下げる方針を固めている。
- 2006年に与党の反対で否決された「インターネット選挙運動解禁法案」を成立させ、政策本位の選挙・カネのかからない選挙の実現を図るとしている。
- 地域からの陳情については、民主党都道府県連で聞き、党本部幹事長室を通じて、関係各省庁に伝えられる仕組みを作った。吉田治副幹事長は、地方県知事からの道路建設などの陳情受け付けの条件として「民主党を選挙で応援すること」を挙げた。
子供・男女共同参画
- 婚外子(非摘出子)の相続差別をなくす。
- 選択的夫婦別姓の早期実現に向けて法案成立の準備を進めている。
- 「離婚後300日以内に誕生した子を前夫の子と推定する」「推定を覆す申し立ては前夫からしか起こせない」とした現行制度により「戸籍のない子」問題が生じている現実を踏まえ、事実上離婚状態にあった期間を勘案して本当の父親を認定できるよう法改正するとしている。
その他
- 労働政策では格差是正緊急措置法案により、欧米並みの最低賃金全国平均1,000円を目指している。
- 製造業の派遣労働を原則禁止とし、専門業務(高い給与水準)の労働派遣に限って認める方向で労働者派遣法の改正を行う。また、違法な派遣が行われた場合は、派遣労働者が直接雇用を通告できるようにするとしている。
- 農業政策では、戸別所得補償制度を掲げ、現在の農業協同組合への支援を中心とした政策を改めることを目指している。
- 警察の取り調べの可視化や証拠開示義務を法制化し、冤罪の防止を図るとしている。
- 性同一性障害者の性別変更について、未成年の子供がいてもこれを認めるように法制を見直すとしている。
- 先進国中最も冷たいとされる日本の難民受け入れ状況を改善するため、「難民等の保護に関する法律」を制定し、国連難民高等弁務官事務所が認定した難民は原則として受け入れる方針を打ち出している。
所属議員による政策批判
同党所属の土屋敬之東京都議会議員は、民主党が政策集に明記している永住外国人への地方参政権付与、選択制夫婦別姓制度、実子と婚外子の相続平等化などについて、「マニフェストにも正直に明記して国民の信を問うべき」と主張し、同党の衆院選マニフェストを「(耐震)偽装マンションのパンフレット」などと揶揄した。民主党東京都連は「党の決定に背く行為」があったとして土屋を党から除名した。
党組織
本部
2009年12月現在の民主党本部は、永田町1丁目11番1号三宅坂ビルの一部を間借している。2009年衆院選において308議席を獲得し、衆参両院で417名の大所帯になったこと、政権与党になったことから来客が多くなり、党本部の手狭さが大きな悩みとなっている[1]。
党内派閥
民主党は自民党と同じく、社会民主主義や民主社会主義、新自由主義などの幾つかの政治的思想の異なる政党の連合によって成立した為、全体の合意は存在するが個別政策によっては対立が生じてる場合もある。
- 野党時代には、小沢一郎を中心とする「対立軸路線(与党との違いを明確にする)」を主張するグループと、前原誠司を中心とする「対案路線(与党と政策で競争する)」を主張するグループの対立がしばしば指摘された。
- 2006年10月、北朝鮮が核実験を行った後の朝鮮半島情勢は「周辺事態法」を適用できるかどうかを巡り、「周辺事態法は適用できない」とする小沢一郎代表(当時)ら執行部の見解を発表した。しかし、これに対して前代表である前原誠司を始めとする党内の右派から「周辺事態法は適用できる」とする意見表明が行われ、また民主党の外交・防衛部門は、「小沢代表らトロイカ体制の見解は民主党の公式見解ではない」と発表したため、有事に対する対応の不一致が浮き彫りになった。
- 2008年10月、長島昭久が衆議院のテロ防止特別委員会でソマリア沖の海賊対策として海上自衛隊艦艇による民間商船の護衛を麻生太郎首相に提案。麻生首相が賛意を示す一方で、直嶋正行政調会長からは自衛隊の海外派遣につながるとして「どういうことなんだ」と詰め寄られた。
- 戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案を積極的に国会に提出するともに慰安婦(日本人女性のみ除外)に戦時性的強制被害者と新たな呼称を付すなど共産党や社民党と積極的に共闘する一方で、法案と反対の見解をとり、自民党右派と呼応する議員連盟「慰安婦問題と南京事件の真実を検証する会」と対立している。
- 鳩山由紀夫・岡田克也をはじめとする主流派が所属する「在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟」が永住外国人への参政権を付与する活動を行っているが、反対の見解をとる議員連盟「永住外国人の地方参政権を慎重に考える勉強会」と対立している。
内規
- 民主党は2009年衆院選以降、世襲政治家制限の一環として内規において選挙区の候補について配偶者および三親等内の親族が当該議員と同一選挙区から連続立候補をする場合は新規に国政参入する新人については公認候補としないことを決めた。なお、民主党は2009年衆院選で福島1区から当選した石原洋三郎は父が2003年まで福島1区選出の衆議院議員であった石原健太郎であるが、6年間の空白があるため、民主党は同一選挙区でも6年間の空白があれば同一選挙区からの一等親の親族の立候補を認めている。
- 2009年9月18日、民主党は政府・与党一元的化のため、議員立法を禁止し、政府提出法案を原則とするを決めた。例外として「選挙・国会など議員の政治活動に係る、優れて政治的な問題」にかかわる法案としており、公職選挙法や政治資金規正法などに限定される見込みである。
- 国会議員の公設秘書に配偶者を新規採用することは2004年に法律で禁じられたが、民主党では透明性確保に向けた取り組みをアピールするため、「三親等以内の親族」を公設秘書に採用することを禁止した内規を設けている。2009年衆院選の結果多くの新人議員が誕生したことにより、2009年9月15日に内規を「一親等以内の親族」に緩和することを決定した。
歴代代表(党首)
歴代執行部役員
党役職
党役員
最高顧問 | 羽田孜 | |||
---|---|---|---|---|
代表 | 鳩山由紀夫 | |||
幹事長 | 小沢一郎 | |||
幹事長職務代行 | 輿石東 | |||
筆頭副幹事長 | 高嶋良充 | |||
副幹事長 | 伴野豊 | 細野豪志 | 生方幸夫 | |
吉田治 | 阿久津幸彦 | 樋高剛 | ||
青木愛 | 一川保夫 | 広野允士 | ||
山根隆治 | 今野東 | 富岡由紀夫 | ||
佐藤公治 | ||||
国会対策委員長 | 山岡賢次 | |||
国会対策委員長代理 | 三井辨雄 | |||
国会対策筆頭副委員長 | 松木謙公 | 笠浩史 | ||
国会対策副委員長 | 松原仁 | 牧義夫 | 鈴木克昌 | |
篠原孝 | 吉田泉 | 内山晃 | ||
神風英男 | 市村浩一郎 | 小宮山泰子 | ||
園田康博 | 高山智司 | 松本大輔 | ||
小泉俊明 | 山花郁夫 | 福田昭夫 | ||
森本哲生 | 北神圭朗 | 石関貴史 | ||
参議院国会対策委員長 | 平田健二 | |||
常任幹事会議長 | 前田武志 | |||
総務委員長 | 奥村展三 | |||
総務委員長代理 | 岡島一正 | 藤田幸久 | ||
選挙対策委員長 | 石井一 | |||
選挙対策委員長代理 | 海江田万里 | 森裕子 | ||
財務委員長 | 佐藤泰介 | |||
財務委員長代理 | 鈴木克昌 | 水岡俊一 | ||
組織委員長 | 細野豪志 | |||
組織委員長代理 | 中塚一宏 | 室井邦彦 | ||
広報委員長 | 小川敏夫 | |||
広報委員長代理 | 松崎哲久 | 辻泰弘 | ||
企業団体対策委員長 | 細野豪志 | |||
企業団体対策委員長代理 | 松崎公昭 | 室井邦彦 | ||
国民運動委員長 | 小川敏夫 | |||
国民運動委員長代理 | 中野譲 | 太田和美 | 岩本司 | |
常任幹事 | 北海道 | 石川知裕 | 東北 | 玄葉光一郎 |
北関東 | 山根隆治 | 南関東 | 米長晴信 | |
東京 | 阿久津幸彦 | 北陸信越 | 一川保夫 | |
東海 | 山下八洲夫 | 近畿 | 滝実 | |
中国 | 柚木道義 | 四国 | 中谷智司 | |
九州 | 岩本司 | |||
両院議員総会長 | 松本龍 | |||
両院議員総会長代理 | 円より子 | |||
代議士会長 | 土肥隆一 | |||
代議士会長代理 | 池田元久 | |||
中央代表選挙管理委員長 | 小平忠正 | |||
中央代表選挙管理委員 | 古賀敬章 | 村井宗明 | 和田隆志 | |
川上義博 | 工藤堅太郎 | |||
会計監査 | 梶原康弘 | 主濱了 | ||
倫理委員長 | 山下八洲夫 | |||
倫理委員 | 黄川田徹 | 山口壯 | 横山北斗 | |
大久保勉 | 谷岡郁子 | 藤原良信 | ||
倫理委員会党外委員 | 五百蔵洋一 |
- 党役員一覧 民主党公式ホームページ 2009/11/9付参照
参議院議員団役員
会長 | 輿石東 | |||
---|---|---|---|---|
副会長 | 藤原正司 | 広中和歌子 | 円より子 | 山下八洲夫 |
幹事長 | 高嶋良充 | |||
幹事長代理 | 一川保夫 | 広野允士 | ||
副幹事長 | 加賀谷健 | 谷岡郁子 | 津田弥太郎 | ツルネンマルテイ |
松岡徹 | 柳澤光美 | 吉川沙織 | ||
政策審議会長 | 櫻井充 | |||
政策審議会会長代理 | 家西悟 | 岩本司 | ||
政策審議会副会長 | 相原久美子 | 梅村聡 | 大石尚子 | 金子恵美 |
川上義博 | 中谷智司 | 水戸将史 | ||
国会対策委員長 | 平田健二 | |||
国会対策委員長代理 | 羽田雄一郎 | 森裕子 | ||
国会対策副委員長 | 岩本司 | 大久保潔重 | 川崎稔 | 行田邦子 |
辻泰弘 | 徳永久志 | 外山斎 |
党勢の推移
衆議院
選挙 | 当選/候補者 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|
(結党時) | 98/- | 511 | |
第42回総選挙 | ○127/262 | 480 | 追加公認+2 |
第43回総選挙 | ○177/277 | 480 | 追加公認+3 |
第44回総選挙 | ●113/299 | 480 | |
第45回総選挙 | ○308/330 | 480 |
参議院
選挙 | 当選/候補者 | 非改選 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
(結党時) | 38/- | - | 252 | |
第18回通常選挙 | ○27/48 | 20 | 252 | 追加公認+7 |
第19回通常選挙 | ○26/63 | 33 | 247 | 追加公認+1 |
第20回通常選挙 | ○50/74 | 32 | 242 | 追加公認+2 |
第21回通常選挙 | ○60/80 | 49 | 242 |
(参考文献:石川真澄(一部、山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店・岩波新書、ISBN 4-00-430904-2)
- 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属の議員を含む。
支持層
政党支持率の推移
第21回参議院議員通常選挙までは、民主党の政党支持率は自民党と比べ上下変動が大きく、国政選挙の直前に急上昇する傾向が見られた。各種全国紙の世論調査では大体15%前後で推移していたが、朝日新聞の調査では第43回衆議院議員総選挙の前に20%台まで上昇している。また同調査で第20回参議院議員通常選挙および第21回参議院議員通常選挙の前には30%台まで急上昇し、このときは自民党の支持率を逆転するまでに至った。しかしその一方で、選挙後は選挙前の水準まで下がるのが一般的であった。また堀江メール問題など党内で不祥事などが起きると平時よりも政党支持率が一段と下落していた。
年齢別に見ると、結党後しばらくは20~40代の世代に強い支持を集めていたが、自由党と合併し小沢一郎の代表就任後は50~60代の中高年層や保守層などにも支持を広げている。一方性別で見てみると、女性議員の数は自民党より多いにも関わらず、女性層の支持は男性層より少ない。
第21回参議院議員通常選挙後は、これまでのような、選挙後に支持率が急降下するという現象が発生しておらず、各種世論調査で20%以上の支持率を維持している。このため、選挙後も自民党の支持率を上回るという現象が初めて維持されていたが、安倍首相の辞任会見、福田康夫新総裁の選出の余波を受け、多くの調査で自民党に政党支持率トップの座を奪い返された。しかし、その後も各種世論調査で政党支持率はこれまでに比べて高い水準を維持し続け、大連立騒動などの混乱が起こっても支持率の急降下という現象が発生しなくなった。福田首相の突然の辞任とその後に発足した麻生太郎内閣の混乱に伴って自民党支持率が急降下したため、最近では再び各種世論調査で支持率が自民党を上回るようになった。
しかし、2009年3月の小沢一郎代表の公設第一秘書が逮捕された事件の影響で、各種世論調査での支持率は低下し、各種世論調査での政党支持率が自民党を下回ったが、鳩山由紀夫新代表の選出直後には再び自民党を上回っている。
都市部優位からの変化
かつて、民主党は、1区現象で顕著であったように、各県の県庁所在地や東京などの都市部での支持が圧倒的に強いという傾向があった。ところが、2005年9月11日の第44回衆議院議員総選挙においては、「逆1区現象」と呼ばれたほど民主党が都市部での票を大きく失い、東京都内の小選挙区での当選者が東京18区の菅直人のみ、千葉県内の小選挙区の当選者が野田佳彦のみ、神奈川県内の小選挙区での当選者は0となるなど、大敗北を喫した。これは、自民党が、地方を軽視する傾向にあったものの、「小泉劇場」「刺客選挙」で増幅され続けた小泉純一郎首相への個人的人気(ポピュリズム)、いわゆる「小泉旋風」により、特に都市部において自民党候補への票が圧倒的に増加したことが原因とされている。
一方で地方や農村部で民主党がそれまでになく健闘するケースも出てきている。統一地方選挙の前哨戦と言われた2006年12月10日の茨城県議会議員選挙では、保守王国・自民王国である茨城県において、水戸市や日立市で民主党議員がトップ当選し、県南地域の土浦市でも民主党が議席を獲得した。2007年の参議院選挙では、地方を中心とする「一人区」で民主党が自民党に対し17勝6敗(無所属等も含めると23勝6敗)と3倍近い議席を獲得した。
その後、政権交代を実現した2009年の第45回衆議院議員総選挙では民主党が都市部において支持を挽回し自民党を圧倒する一方、西日本の農村部を中心に自民党が議席を守るといった傾向が顕著になっている。
地方組織の形成
結党当初、愛知県、北海道などの旧日本社会党勢力がそのまま参加した地域を除き、地方組織がほとんど無い状態でスタートした政党だったため、国政の議員数に比べ明らかに地方議員の数が少ない状態が続いていた。しかし、複数の国政選挙の経験から、また自由党から合流し代表となった小沢一郎の方針により、地方組織の充実のため地方議員を増加させることが党の課題とされた。2007年の統一地方選挙がその試金石であった。
2007年4月8日に実施された、東京都・茨城県・沖縄県を除く44道府県議会議員選挙では、民主党は都市部を中心に躍進し、埼玉県・千葉県・神奈川県・愛知県といった大都市圏の県議会で大幅に議席を増やした。また、政令指定都市の市議選でも、札幌市・名古屋市・川崎市で議席数が自民党を上回り、仙台市・神戸市・堺市では自民党に1議席差まで迫った。議員定数の少ない選挙区でも、民主党新人が自民党の大物議員に競り勝った。
2007年4月22日実施の特別区議選では43議席増、市町村議選でも一般市議選で82議席を増やしており、地域での基盤の充実の方針が成果を収めつつあると考えられる。しかし、市区町村地方議会議員の数では、公明党、日本共産党と比べると少なく、社民党よりも議員の数が少ない地域もある。
小沢一郎代表は、2007年7月の第21回参議院議員通常選挙に備え、自ら参議院一人区となっている地方を重点的に回り、自民党の支持基盤の切り崩しを図った。その結果、自民党の支持基盤である地方でも選挙区選挙で自民党候補を押す人が減り、支持の急伸した民主党候補に逆転される場合が多くなった。安倍自民党が閣僚たちの数々の不始末や年金問題などで自滅し続けていた(新聞各紙のアンケート調査)という要素もあるが、地方でこのような民主党への着実な支持が新たに広がっていたため、参議院一人区で、民主党公認候補が17勝6敗、野党系無所属候補を合わせると23勝6敗という大躍進が実現したと考えられる。
その後も、2008年9月の麻生太郎首相就任後、自民、民主両党が対決した知事選、政令指定都市の市長選など7つの大型地方選で5勝した後、2009年7月12日に行われた東京都議選では自民党を44年ぶり第一党から転落させ、都議会第一党に躍進するなど着実に地方での支持を拡大させている。
学生組織
青年局学生部 (CDS) が存在する。
支援団体
カテゴリー | 団体 |
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労働組合 | *日本労働組合総連合会(連合) 2005年11月、組合員数約670万人。民主党の最大の支持基盤とされる。しかし、地方によっては社民党を支持する組合もある。このことから、連合内の路線も統一されていないといえる。また、かつての社会党・総評ブロック、民社党・同盟ブロックに見られたような「運命共同体」と呼べるほどの密接さは民主党と連合の間には存在しない。2005年9月に党代表に就任した前原誠司は、官公労との関係を見直して距離を置くという姿勢を繰り返し示したことで連合側が反発し、関係が冷え込んだこともある。連合傘下の有力単産は、政治的影響力を行使するため[2]、組織内候補を民主党を中心に擁立し、国政に送り込んでいる。 議員を送り込んでいる主な連合傘下組合は次の通り。 *全国繊維化学食品流通サービス一般労働組合同盟(UIゼンセン同盟) 現在では日本最大の単産として強い影響力を持ち、高木剛会長他、連合に多数の役員を出している。民主党には、元幹事長で現在は副代表の川端達夫など、多数の組織内議員を送り込んでいる。 *全日本自治団体労働組合(自治労) 政府が進める公務員制度改革に対しては「民主的な改革」特に労働基本権の回復に力を入れている。主に民主党を支持。高嶋良充、相原久美子(自治労特別中央執行委員)をはじめ、多くの自治労関係者が民主党から出馬し当選している。 *全日本自動車産業労働組合総連合会(自動車総連) 組織内議員として、直嶋正行、池口修次を擁している。 *JAM 組織内議員として、津田弥太郎を擁している。 *日本教職員組合(日教組) 日教組の組織内候補として那谷屋正義(日教組教育政策委員長)をはじめ、日本民主教育政治連盟(日政連)という政治団体を通じて関連議員を政界に送り込んでいる。現在の日政連議員9名のうち近藤正道(社民党会派に所属)以外の8名は民主党に属している。 *日本基幹産業労働組合連合会(基幹労連) 2名の組織内議員(高木義明、轟木利治)、2名の準組織内議員(柳田稔、辻泰弘)を擁している。 *情報産業労働組合連合会(情報労連) 組織内議員として吉川沙織を擁している。 *その他の単産 日本郵政グループ労働組合(JP労組)、日本鉄道労働組合連合会(JR連合)など、連合傘下の有力単産が組織内議員を擁している。 |
宗教団体 | *立正佼成会(新日本宗教団体連合会) 以前は自民党を支持していたが、自民党が対立組織である創価学会が支持する公明党と連立政権を組むようになったため、実質的に民主党を支持するようになった。2005年9月の衆院選では自民党16名に対し、民主党167名を推薦し、組織で応援している。2007年参院選では立正佼成会を支持母体とする風間直樹と大島九州男し、両名とも当選している。 |
業界団体 | *全日本遊技事業協同組合連合会(全日遊連)および日本遊技関連事業協会(日遊協) 民主党娯楽産業健全育成研究会に属する民主党議員を通じてパチンコ業界と関係を築いている。また、19名の民主党議員がパチンコ・チェーンストア協会の政治分野アドバイザーを務める(自民党議員25名も所属)。民主党娯楽産業健全育成研究会は2005年6月、換金を合法化する『遊技場営業の規制及び業務の適正化等に関する法律案大綱』という法案を作成。 |
その他 | *部落解放同盟 民主党ホームページにて関連団体としてリンクされ、民主党の支持団体である。また2004年、部落解放同盟中央書記長であった松岡徹が民主党から参院選に出馬し、当選。彼は民主党『次の内閣』ネクスト法務副大臣(2007年9月就任)となっている。 *在日本大韓民国民団 地方外国人参政権の獲得を目的に民主党と公明党の支援を表明しており、小沢一郎もそれに謝意を表明し、帰化した韓国系日本人の支援を期待していると発言している。また民主党を応援しようという団員からの投稿が機関紙に掲載された[3]こともあり、2004年参院選にて民主党から比例区で出馬した白真勲は当選直後に民団へ行き「参政権運動にともに邁進しよう」と挨拶をした[4]。2007年の参院選では、在日2世(2005年帰化済)の民団員である金政玉(民団葛飾支部国際課長)が民主党から出馬したが落選。 |
ロゴマーク
赤い2つの円が描かれた民主党のロゴマークは、1998年4月に発表された。デザインは浅葉克己によるもので、白地に一つの赤色の真円と、もう一つの赤色の歪んだ円とを、上下に少しだけ重なるように並べて配置し、その2つの円の重なった部分だけは素地と同じ白色にしたものとなっている。
2つの円は「民の力」の結合を象徴的に表しており、下側の円の輪郭線が曲線でないのは、円がみなぎる力で動いたり、育ったりして、生命体のように成長しつつ、融合して新しい形を生み出す様子を表している[5]。また、結党当時の代表・菅直人によると、「今は完全ではないが、雪だるまも転がしているうちに大きくきれいな球に育つ」という思いを込めたものだと解説している。
国旗切り張り問題
2009年8月8日に鹿児島県霧島市で開かれた皆吉稲生の第45回衆議院議員総選挙立候補予定者集会で、党代表代行の小沢一郎も席を並べたそのステージ上に、国旗2枚を裁断して支持者が作成したとされる党旗が掲げられた。民主党の陣営の説明によれば、「熱心な支持者」が自作して持参した党旗であり、それが2枚の日本の国旗を縫い合わせたものだとは気づかなかった、とされている。
この8日の集会終了時に既にマスコミ関係者から、国旗で作った民主党党旗を問題視する声が出ていたが、公示日前日となる同月17日に開催された党首公開討論会で自民党の麻生太郎総裁(内閣総理大臣)がこれを取り上げたことで、世間に広く知れ渡ることになった。麻生は、会場に掲げられた民主党の党旗は「よく見ると、国旗を切り刻んで上下につなぎ合わせていた。民主党のホームページにも載っている。とても悲しい、許し難い行為だ」と批判した。
これを受けて民主党の鳩山由紀夫代表は、その場で「そんなけしからんことをやった人間がいるとすれば、大変申し訳ない。我々の神聖なマークなので、マークをきちんと作らなければならない話だ」と謝罪した。同日、民主党の公式ホームページから、集会場の模様が撮られた画像が全て削除された。
8月18日、皆吉稲生は予定通り衆院選に立候補し、出陣式で「国旗の使用方法としては不適切で深くおわびする」と謝罪した。同日、民主党幹事長・岡田克也が皆吉を口頭注意した。皆吉の後援会は、党本部や県連および支援団体に「国旗の尊厳をおとしめる意図は全くなく、主催者の不手際が原因」と謝罪する文書を送付した。
麻生総裁は事件以降、衆院選遊説中に、「日の丸をひっちゃぶいて(引き破いて)、2つくっつけた。日の丸をふざけたような形で利用するなんてとんでもないと、もっと怒らにゃいかんのです」などと批判を繰り返し、他にも自民党のホームページにこの批判を掲載して民主党へのネガティブ・キャンペーンに使用した。
櫻井よしこは、韓国の法律で国旗を手厚く守っている姿を例に挙げ、また源氏から続く幾世紀、幾十世代の日本人の思いが注がれてきた日の丸が日本国旗となったという先人たちの思いを語り、そのような国旗を無惨に切り裂き、そのことを取り立てて問題だと思わない民主党の面々と多くの日本人に対し、おかしな日本の姿がくっきり浮かんだ「事件」だったと論じた[6]。
産経新聞では、明らかに国旗に対する侮辱であるとし、小沢一郎代表代行まで出席し、また党のホームページにその写真が載っていながら、指摘されるまで党内で問題にされなかったことを批判し、国旗国歌法の成立に反対してきた民主党の旧社会党議員や、特に国旗国歌に反対してきた日本教職員組合は民主党の支持母体の一つであり、議員としても何人も民主党に送り込んでいることを挙げて、それがこの「事件」と無関係ではないとし、民主党の大会でも国旗が掲げられていないと指摘した。
訴訟
- 2009年6月12日、堀江貴文元ライブドア社長から、民主党による偽メール問題で名誉を傷つけられたとして、損害賠償と謝罪広告を求める訴えを東京地方裁判所に起こされた。同年12月30日、民主党側が堀江に謝罪し、300万円を支払うことで和解が成立した。
脚注
関連項目
- 日本の政治
- イルミナティ
- 民主党国会議員一覧
- 民主党代表
- 民主党の派閥
- 民主党の次の内閣一覧
- 民主党の閣僚経験者一覧
- 新緑風会(参議院の民主党会派の民主系無所属議員部分)