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2018年3月22日 (木) 22:43時点における版
[1]。実際に日露戦争で陸軍兵士の3万人近くが脚気で苦しみ戦死でなく病死した事実、同じ時期に海軍兵士の脚気患者がほぼ皆無であったにも拘らず海軍の食事を取り入れずに通達や要望などを握りつぶしたことが近年ようやく明らかになり、著名な小説家としての名誉もかなり低くなっている。
逆に鷗外を擁護するものとして、以下の見解がある[2]。
- 陸軍の脚気惨害の責任について、戦時下で陸軍の衛生に関する総責任をおう大本営陸軍部の野戦衛生長官(日清戦争・石黒忠悳、日露戦争・小池正直)ではなく、隷下の一軍医部長を矢面に立たせることへの疑問。
- 鷗外が白米飯を擁護したことが陸軍の脚気惨害を助長したという批判については、日露戦争当時、麦飯派の寺内正毅が陸軍大臣であった(麦飯を主張する軍医部長がいた)[3]にもかかわらず、大本営が「勅令」として指示した戦時兵食は、日清戦争と同じ白米飯(精白米6合)であった。その理由として、軍の輸送能力に問題があり、また脚気予防(理屈)とは別のもの(情)もあったとの指摘である。その別のものとは、白米飯は庶民あこがれのご馳走であり、麦飯は貧民の食事として蔑まれていた世情を無視できず、また部隊長の多くも死地に行かせる兵士に白米を食べさせたいという心情とされる[4]。
- 鷗外の「陸軍兵食試験」が脚気発生を助長したとの批判については、兵食試験の内容(当時の栄養学にもとづく栄養試験であり、脚気問題と無関係の試験)を上官の石黒にゆがめられたためとの見解を示した[5]。
以上を端的にいえば、鷗外が脚気問題で批判される多くは筋違いとの見解である。つづけて鷗外への批判が起こった理由として、
が挙げられた。
ただし、鷗外が岡崎桂一郎著「日本米食史 - 附食米と脚気病との史的関係考」(1912)に寄せた序文で「私は臨時の脚気病調査会長になって(中略)米の精粗と脚気に因果関係があるのを知った」と自ら記述している事実から、鷗外は脚気病栄養障害説が正しいことを知りながら、敢えてそれを排除、細菌原因説に固執して、調査会の結論を遅らせていたとの指摘もある[7]。
目次
年譜
※日付は1872年までは旧暦
- 1862年(文久 2年)1月19日 - 石見国津和野藩(現・島根県鹿足郡津和野町)に、藩医・森静泰(後に静男と改名)、峰子の長男として生まれる。
- 1867年(慶応3年)11月 - 村田久兵衛に論語を学ぶ。
- 1868年(明治元年)3月 - 米原綱善に孟子を学ぶ。
- 1869年(明治 2年) - 藩校の養老館で、四書を一から読み直す。
- 1870年(明治 3年) - 五経、オランダ語を学ぶ。
- 1871年(明治 4年) - 藩医の室良悦にオランダ語を学ぶ。
- 1872年(明治 5年)
- 1873年(明治 6年)
- 6月 - 津和野町の家を売却し、祖母、母なども上京。
- 11月、第一大学区医学校予科(現・東京大学医学部)に入学。同校は、のちに東京医学校に改称。
- 1877年(明治10年) - 東京医学校は、東京開成学校と合併して東京大学医学部に改組され、その本科生になる。
- 1880年(明治13年) - 本郷龍岡町の下宿屋「上条」に移る。翌年3月、下宿先で火災に遭い、講義ノートなどを失う。
- 1881年(明治14年)
- 1882年(明治15年)
- 1884年(明治17年)
- 1885年(明治18年)
- 1886年(明治19年)3月 - ミュンヘンに移る。大学衛生部に入学し、ペッテンコーフェルに衛生学を学ぶ。
- 1887年(明治20年)
- 1888年(明治21年)
- 1889年(明治22年)
- 1890年(明治23年)
- 1891年(明治24年)
- 1892年(明治25年)
- 1893年(明治26年)11月 - 陸軍一等軍医正(大佐相当)に昇進し、軍医学校長になる。
- 1894年(明治27年)
- 1895年(明治28年)
- 1896年(明治29年)
- 1897年(明治30年)
- 1898年(明治31年)
- 時事新報』にて箴言集「智恵袋」(ドイツ人作家・Adolf Freiherr von Knigge著『Über den Umgang mit Menschen』の抄訳・翻案)連載開始。 8月 - 『
- 10月 - 近衛師団軍医部長兼軍医学校長に就任。
- 1899年(明治32年)
- 1902年(明治35年)
- 1903年(明治36年)
- 茉莉誕生。 1月 - 長女・
- 新小説』にて箴言集「慧語」(スペイン人作家・Baltasar Gracián著『Handorakel und Kunst der Weltklugheit (Oráculo manual y arte de prudenciaのドイツ語訳)』の抄訳・翻案)連載開始。 3月 - 『
- 1904年(明治37年)
- 1905年(明治38年) - 奉天会戦勝利後、残留していたロシア赤十字社員の護送に尽力。
- 1906年(明治39年)
- 1907年(明治40年)
- 1908年(明治41年)
- 三木竹二死去。 1月 - 弟・
- 2月 - 次男・不律死去。
- 臨時仮名遣調査委員会委員になる。 5月 - 文部省の
- 1909年(明治42年)
- 1910年(明治43年)
- 1911年(明治44年)
- 1912年(明治45年)
- 文芸委員会に頼まれていた戯曲『ファウスト』の訳を完結させる。 1月 -
- 10月 - 初の歴史小説「興津弥五右衛門の遺書」を『中央公論』に発表。
- 1913年(大正 2年)
- 1914年(大正 3年)
- 1915年(大正 4年)
- 1916年(大正 5年)
- 1917年(大正 6年)
- 1918年(大正 7年)
- 1919年(大正 8年)
- 帝国美術院の初代院長に就任。 9月 -
- 1921年(大正10年)
- 1922年(大正11年)
- 1927年(昭和 2年) - 墓が三鷹市禅林寺に移される。分骨され津和野町永明寺にも墓がある。
主な作品
小説
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戯曲
詩歌
翻訳
- カルデロン・デ・ラ・バルカ「調高矣津弦一曲」(El alcalde de Zalamea)、1889年。※三木竹二との共訳
- 於母影(新声社訳『国民之友』夏期付録、1889年)
- ハンス・クリスチャン・アンデルセン「即興詩人」 (『しからみ草紙』1892年11月 から掲載され、『めさまし草』1901年2月完)
- ゲーテ『ファウスト』 (第一部:1913年1月、第二部:3月、冨山房)
- オスカー・ワイルド「サロメ」
- アルトゥル・シュニッツラー「みれん」「恋愛三昧」ほか
史伝
随筆
家族 親族
先祖
典医としての森家(森氏)は、1650年前後(慶安年間)から1869年(明治2年)の版籍奉還に及ぶ。
玄佐━玄篤━玄叔━周菴━玄佐━玄碩━玄叔━周菴━秀菴━立本━秀菴━白仙━静泰━┳林太郎 ┣篤次郎 ┣喜美子 ┗潤三郎
妻子
- 先妻 登志子(海軍中将赤松則良娘)
- 長男 於菟(おと、医学者、台北帝国大学医学部教授などを歴任)
- 後妻 - 志け
- 小説「波瀾」を著しており(『樋口一葉・明治女流文学・泉鏡花集』現代日本文学大系5、筑摩書房、1972年)、義妹の小金井喜美子とともに雑誌『青鞜』の賛助員になった。
4人の子供はいずれも鴎外について著作を残しており、とりわけ茉莉(国語教科書に載った『父の帽子』)と杏奴(『晩年の父』)が有名である。
弟妹
- 弟 篤次郎(三木竹二)
- 明治期を代表する劇評家で、内科医。演劇雑誌『歌舞伎』を主宰し、歌舞伎批評に客観的な基準を確立した(三木竹二『観劇偶評』、渡辺保編、岩波文庫、2004年)。
- 妹 喜美子
- 明治期に若松賤子と並び称された翻訳家で、また随筆家・歌人でもあった(『鴎外の思い出』岩波文庫、1999年。『森鴎外の系族』岩波文庫、2001年)。
- 義弟 小金井良精
小金井夫妻の孫の1人が小説家の星新一。
傍系
その他
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- 常日頃、文人の自分と武人のそれを厳格に分けて考えていた。あるとき文壇の親しい友人が軍服を着て停車場にいた森に何気なく話しかけたら、その友人を怒鳴りつけたことがある。
- 軍人としての誇りが高く、娘と散歩する時にも必ず軍服に着替えた。あるとき杏奴と散歩をしていると、「わー中将が歩いているぞ」と子供たちがバラバラと駆け寄ってきた。日露戦争後で、軍人が子供たちのヒーローであったのである。鴎外を見つめていた子供たちの1人が、襟の深緑色を見て、「おい、なんだ、軍医だよ」と声をあげ、子供たちが散るように去ってしまったことにかなり落胆したそうである。
- 1892年(明治25年)に東京府東京市本郷区(現・東京都文京区)に建設し、晩年まで過ごした住居「観潮楼」跡地に、文京区立本郷図書館鴎外記念室がある。
- 細菌学を究めて以来、パスツール同様潔癖症になってしまい、果物などの食べ物も加熱しないと食べられなくなってしまったという。
- 酒は飲めず、大の甘党だった。あんパンや「消毒してあって、滋養に富んでいる」焼き芋が好物であった[10]。娘(茉莉・杏奴)の著書によると饅頭も茶漬けにして食べていたという。
- 風呂嫌いで、盥を前に身を清めるのが日課であった。
脚注
- ↑ 志田(2009)、16–18、237頁。
- ↑ 山下(2008)、471–472、448頁。また山下は、ビタミンの存在を知っている後世から、その存在を知らなかった前世に対して安易に批判すべきではないとした。特に「基礎栄養学、ビタミン学、脚気医学の専門知識がない」門外漢による批判をいましめた。
- ↑ 後年、寺内は脚気病臨時調査会の第1回会合のあいさつで、自ら長年脚気を患い麦飯で治癒した経験があること、陸軍への麦飯導入を石黒に激しく反対されたことを披瀝(ひれき)し、
〔日清戦争〕当時は此席に居らるゝ森局長の如きも亦石黒説賛成者にして余を詰問せられし一人なりし
–
- ↑ 山下 2008、289頁
- ↑ 兵食試験をあたかも脚気の試験であったかのように誤用し、試験成績を独断的にゆがめたのが上官の石黒忠悳であった。石黒の誤用により、兵食試験は誤解されたとの見解。山下(2008)、448–449頁。
- ↑ この見解については、保身や党派性を、医師としての公衆に対する義務より優先させたとの批判がある。志田(2009)、179頁
- ↑ 志田(2009)、145–153頁
- ↑ 史伝の新版は、『鴎外歴史文学集』(全13巻、岩波書店)に、一部の小説作品や、漢詩と共にある。
- ↑ 歴代医学部長
- ↑ 嵐山 2000
参考文献
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- 猪瀬直樹「元号に賭ける」、 (2002) [ 天皇の影法師 ] 日本の近代猪瀬直樹著作集 10 小学館 2002 9 4-09-394240-4
- 植木哲 (2000) 植木哲 [ 新説 鴎外の恋人エリス ] 新潮選書 新潮社 2000 4 4-10-600587-5
- 大谷晃一 (2000) 大谷晃一 [ 鴎外、屈辱に死す ] ノアコレクション 3 編集工房ノア 2000 9 1983 4
- 片山杜秀 (2007) 片山杜秀 [ 近代日本の右翼思想 ] 講談社選書メチエ 396 講談社 2007 9 978-4-06-258396-1
- 金子幸代 (1992) 金子幸代 [ 鴎外と〈女性〉 森鴎外論究 ] 大東出版社 1992 11 4-500-00588-9
- 小金井喜美子 (1999) 小金井喜美子 [ 鴎外の思い出 ] 岩波文庫 岩波書店 1999 11 4-00-311611-9
- 小平克 (2006) 小平克 [ 森鴎外「我百首」と「舞姫事件」 ] 同時代社 2006 6 4-88683-577-5
- 小堀杏奴 (1981) 小堀杏奴 [ 晩年の父 ] 岩波書店〈岩波文庫〉 1981 9 4-00-310981-3
- 小堀杏奴 (2003) 小堀杏奴 [ 朽葉色のショール ] 新版 講談社文芸文庫 講談社 2003 1 4-06-198319-9
- 小堀桂一郎 (1998) 小堀桂一郎 [ 森鴎外 批評と研究 ] 岩波書店 1998 11 4-00-025283-6
- 今野勉 (2010) 今野勉 [ 鴎外の恋人 百二十年後の真実 ] 日本放送出版協会 2010 11 978-4-14-081442-0
- 坂内正 (2001) 坂内正 [ 鴎外最大の悲劇 ] 新潮選書 新潮社 2001 5 4-10-603500-6
- 佐谷眞木人 (2009) 佐谷眞木人 [ 日清戦争 「国民」の誕生 ] 講談社現代新書 1986 講談社 2009 3 978-4-06-287986-6
- 志田信男 (2009) 志田信男 [ 鴎外は何故袴をはいて死んだのか 「非医」鴎外・森林太郎と脚気論争 ] 公人の友社 2009 1 978-4-87555-540-7
- 末延芳晴 (2008) 末延芳晴 [ 森鴎外と日清・日露戦争 ] 平凡社 2008 8 978-4-582-83407-9
- 長島要一 (2005) 長島要一 [ 森鴎外 文化の翻訳者 ] 岩波新書 岩波書店 2005 10 4-00-430976-X
- 新関公子 (2008) 新関公子 [ 森鴎外と原田直次郎 ミュンヘンに芽生えた友情の行方 ] 東京藝術大学出版会 2008 2 978-4-904049-03-7
- 林尚孝 (2005) 林尚孝 [ 仮面の人・森鴎外 「エリーゼ来日」三日間の謎 ] 同時代社 2005 4 4-88683-549-X
- (1997) 平川祐弘・平岡敏夫・竹盛天雄編 [ 鴎外の人と周辺 ] 講座 森鴎外 第1巻 新曜社 1997 5 4-7885-0597-5
- (1997) 平川祐弘・平岡敏夫・竹盛天雄編 [ 鴎外の作品 ] 講座 森鴎外 第2巻 新曜社 1997 5 4-7885-0598-3
- (1997) 平川祐弘・平岡敏夫・竹盛天雄編 [ 鴎外の知的空間 ] 講座 森鴎外 第3巻 新曜社 1997 6 4-7885-0603-3
- 松本清張 (1997) 松本清張 [ 両像・森鴎外 ] 文春文庫 文藝春秋 1997 11 4-16-710684-1
- 森鴎外 (1996) 森鴎外 田中美代子解説 [ 森鴎外全集 13 独逸日記・小倉日記 ] ちくま文庫 筑摩書房 1996 7 4-480-03093-X
- 森鴎外 (2000) 森鴎外 千葉俊二編 [ 鴎外随筆集 ] 岩波文庫 岩波書店 2000 11 4-00-310068-9
- 森鴎外 (2006) 森鴎外 金子幸代編・解説 [ 鴎外女性論集 ] 不二出版 2006 4 4-8350-3497-X
- 森潤三郎 (1942) 森潤三郎 [ 鴎外森林太郎 ] 丸井書店 1942
- 森まゆみ (2000) 森まゆみ [ 鴎外の坂 ] 新潮文庫 新潮社 2000 7 4-10-139022-3
- 山﨑國紀 (2007) 山﨑國紀 [ 評伝 森鴎外 ] 大修館書店 2007 7 978-4-469-22189-3
- 山下政三 (2008) 山下政三 [ 鴎外森林太郎と脚気紛争 ] 日本評論社 2008 11 978-4-535-98302-1
- 六草いちか (2011) 六草いちか [ 鴎外の恋 舞姫エリスの真実 ] 講談社 2011 3 978-4-06-216758-1
関連項目
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- 井上通泰:『於母影』の共訳者で、歌会常磐会の創設メンバーの1人。
- 上田敏:一緒に雑誌『芸文』『万年艸』を創刊する等、親交を深めた。
- 木下杢太郎:医学生時代、鴎外に進路を相談。後年、鴎外の心境を深く理解した。
- 黒田清輝:東京美術学校の後輩教員。鴎外の依頼を受け、故原田直次郎展の発起人を務めた。
- 佐佐木信綱:『めさまし草』に歌を発表し、長年にわたって親交を深めた。
- 太宰治:希望したとおり、鴎外の墓のはす向かいに埋葬された(禅林寺)。
- 田山花袋:とくに鴎外の審美学(美学の旧称)が好きで、その影響を受けたと書いた。
- 永井荷風:鴎外の推薦で慶應義塾大学教授に就任。生涯その恩を忘れなかった。
- 中村不折:鴎外の自宅から別荘の表札、墓碑銘まで書いた。
- 原田直次郎:ドイツ留学時代からの友人。
- 吉田増蔵:晩年の鴎外に乞われて上京し、元号や勅語や皇族名などに関わった。
- 交響曲(訳語)
- 戦争論
- 美学
- 飛行機(訳語)
- 横浜市立横浜商業高等学校(Y校校歌)
- エルヴィン・フォン・ベルツ
外部リンク
- 森鴎外 - 青空文庫
- 文京区立本郷図書館鴎外記念室(文京区)
- 鴎外文庫書入本画像データベース(東京大学総合図書館。鴎外の自筆草稿や書入本を見ることができる)
- 森 鴎外
- 森鴎外経歴
- 森鴎外遺言
- 近代文学研究会:『舞姫』論、鴎外の医学方面での活動
- 島根ゆかりの文学者 森 鴎外
- 森鴎外のお墓
- 森鷗外記念館 ベルリン
- 防衛研究所図書館「軍隊と脚気」
- 壺齋閑話「森鴎外晩年の歴史小説」
- ニコニコ写真帳 第一集 軍服姿の森鴎外(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
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