「豊臣秀吉」の版間の差分

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(小田原の役)
(織田家の再興)
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=== 織田家の再興 ===
 
=== 織田家の再興 ===
 
文禄元年(1592年)9月9日、東北から九州の果てまで全国を完全に平定した秀吉は、織田家の嫡孫・織田秀信を美濃国の大名に封じ岐阜城を返した。
 
文禄元年(1592年)9月9日、東北から九州の果てまで全国を完全に平定した秀吉は、織田家の嫡孫・織田秀信を美濃国の大名に封じ岐阜城を返した。
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またこの年、織田信雄も家康の仲介で赦免され、相伴衆に加えられて大和国内に1万8,000石を領した。肥前名護屋城にも兵1,500を率いて着陣したという(太閤記)。この際、長男・秀雄も越前国亀山5万石を与えられた<ref>この時、実際に知行を与えられたのは秀雄の4万5000石(当代記)で、信雄は後見役(隠居身分)として復帰したに過ぎず、本人が知行を直接与えられたのは御伽衆として秀吉に召抱えられた晩年で、1万7000石ともいう(武家事紀)。</ref>。
  
 
=== 文禄の役 ===
 
=== 文禄の役 ===

2011年10月8日 (土) 23:21時点における版

豐臣 秀吉(とよとみ の ひでよし / とよとみ ひでよし[1])/ 羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将戦国大名三英傑の一人。

はじめ木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、はじめ平氏を自称するが、近衛家猶子となり藤原氏に改姓した後、豊臣氏に改める。

尾張国愛知郡中村の半農半兵の家に百姓として生まれた。当初今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を表す。信長が本能寺の変明智光秀に討たれると、「中国大返し」によりへと戻り、山崎の戦いで光秀を破る。その後、織田政権を乗っ取って実質的に運営するようになり、関白に任官するとこれを豊臣政権とした。大坂城を築き関白太政大臣に就任、豊臣姓を賜り日本全国の大名を従え天下統一を果たした。その後、太閤検地刀狩など、織田信長の実行していた政策を全国レベルに広げ、慶長の役の最中に病没。

生涯

出自

秀吉は尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の名古屋市中村区)、もしくは美濃国[2]で、百姓と伝えられる木下弥右衛門・なか(のちの大政所)の子として生まれた。生年については、従来は天文5年(1536年)といわれていたが、最近では天文6年(1537年)説が有力となっている。弥右衛門の素性には諸説がある[3]。 誕生日は1月1日、幼名は日吉丸となっているが、これは『絵本太閤記』の創作で、実際の生誕日は『天正記』や家臣伊藤秀盛の願文の記載から天文6年2月6日とする説が有力である。

秀吉の出自に関しては、父・木下弥右衛門足軽(鉄砲足軽?)[4]から農民、さらにはその下の階級ではなかったかとも言われており、確定していないが、少なくとも下層階級の出身であった。

秀吉は自身の御伽衆である大村由己にいくつかの伝記を書かせているが(天正記)、それによっても素性は異なっている。本能寺の変を記した『惟任退治記』では「秀吉の出生、元これ貴にあらず」と低い身分であった事が書かれているが、関白任官翌月の奥付を持つ『関白任官記』では、母親である大政所の父は「萩の中納言」であり、大政所が宮仕えをした後に生まれたと記述されており、天皇の子である事がほのめかされているが、これは事実とは考えられていない[5] [6]

広く流布している説として、父・木下弥右衛門の死後、母・なかは竹阿弥と再婚したが、秀吉は竹阿弥と折り合い悪く、いつも虐待されており、家を出て侍になるために駿河国に行ったとされる。江戸初期に成立した『太閤素性記』によると7歳で実父・弥右衛門と死別し、8歳で光明寺に入るがすぐに飛び出し、15歳の時亡父の遺産の一部をもらい家を出て、針売りなどしながら放浪したとなっている。しかし、『太閤記』では竹阿弥を秀吉の実父としている。木下姓も父から継いだ姓かどうか疑問視されていて、妻・ねねの母方の姓とする説もある[5]。秀吉の出自については、ほかに村長の息子[7]、大工・鍛冶等の技術者集団[8]や行商人[9]であったとする非農業民説[10]水野氏[11]、また漂泊民の山窩出身説[12]、などがあるが、真相は不明である。

松下家臣時代

はじめ木下 藤吉郎(きのした とうきちろう)と名乗り[13]今川氏の直臣飯尾氏の配下で、遠江国長上郡頭陀寺荘(現在の浜松市南区頭陀寺町)にあった引馬城支城の頭陀寺城主・松下之綱(加兵衛)に仕え、今川家の陪々臣(今川氏から見れば家臣の家臣の家臣)となった。藤吉郎はある程度目をかけられたようだが、まもなく退転した[14]

その後の之綱は、今川氏の凋落の後は徳川家康に仕えるも、天正11年(1583年)に秀吉より丹波国と河内国、伊勢国内に3,000石を与えられ、天正16年(1588年)には1万6,000石と、頭陀寺城に近い遠江久野城を与えられている。

織田家に仕官

秀吉の名が現れた最初の史料は、永禄8年(1565年)11月2日付けの書状であり、「木下藤吉郎秀吉」として副署している(坪内文書)[5]。永禄11年(1568年)9月、近江箕作城攻略戦で活躍したことが『信長記』に記されている(観音寺城の戦い)。 同年、信長の上洛に際して明智光秀丹羽長秀らとともに京都の政務を任された。

以降は確かな史料によらない、疑わしいレベルの記述である。

元亀元年(1570年)、越前国朝倉義景討伐に従軍。順調に侵攻を進めていくが、金ヶ崎付近を進軍中に突然盟友であった北近江の浅井長政が裏切ったという報告が入る。浅井と朝倉の挟み撃ちされる恐れが出てきたため、信長は速やかに撤退。秀吉は池田勝正や明智光秀と共に金ヶ崎城に入り殿軍を務めた。この時に功績を挙げたとも言うが(金ヶ崎の退き口)、信頼できる史料には戦いがあったという記述はなく、疑わしい。また、従来は『三河物語』に書かれているように秀吉が殿軍を率いたとされてきたが(信長公記は「秀吉を金ヶ崎城に入れおいた」とあるのみ)、近年は当時の序列から考えて池田勝正が主将だったのではないかともされる。

姉川の戦いの後、横山城の城代に任じられた。

その後、小谷城の戦いでは3千の兵を率いて夜半に清水谷の斜面から京極丸を攻め落すという功をあげた。

織田政権下での台頭

天正元年(1573年)、浅井氏が滅亡すると、その旧領北近江三郡に封ぜられて、今浜の地を「長浜」と改め、長浜城の城主となる。この頃、木下氏を羽柴氏に改めている(羽柴秀吉[17]。信長は長浜の年貢や諸役を免除したため、近在の百姓などが長浜に集まってきた。そのことに不満を感じた秀吉は方針を引き締めようとしたが、正妻ねねの執り成しにより年貢や諸役免除の方針をそのままとした[18]。このころ近江で、旧浅井家臣団などの部下を登用。この中には後の石田三成もいた。

天正3年(1575年)、長篠の戦いに従軍。

天正4年(1576年)、越後国上杉謙信と対峙している北陸方面軍団長・柴田勝家への救援を信長に命じられるが、秀吉は勝家と仲違いをし、無断で帰還してしまった。信長は秀吉の行動に激怒したが許され、秀吉は織田信忠の指揮下で松永久秀を滅ぼし功績を挙げる(信貴山城の戦い)。ちなみに勝家らは情報不足から撤退した(手取川の戦いがあったともいわれるが、真偽不明)。

その後、信長に中国地方攻略を命ぜられ播磨国に進軍し、かつての守護赤松氏の勢力である赤松則房別所長治小寺政職らを従える。さらに小寺政織の家臣の小寺孝高(黒田孝高)より姫路城を譲り受け、ここを中国攻めの拠点とする。一部の勢力は秀吉に従わなかったが上月城の戦い(第一次)でこれを滅ぼした。

天正7年(1579年)には、上月城を巡る毛利氏との攻防の末、備前国美作国の大名宇喜多直家を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめるものの、摂津国荒木村重が反旗を翻した(有岡城の戦い)ことにより、秀吉は苦戦する。

天正8年(1580年)には同じく反旗を翻した播磨三木城主・別所長治を攻撃。途上において竹中重治や古田重則といった有力家臣を失うものの、2年に渡る兵糧攻めの末、降した(三木合戦)。同年、但馬国山名堯熙が篭もる有子山城も攻め落とし、但馬国を織田氏の勢力圏においた。

天正9年(1581年)には因幡山名家の家臣団が、山名豊国を追放した上で毛利一族の吉川経家を立てて鳥取城にて反旗を翻したが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させた(鳥取城の戦い)。その後も中国西地方一帯を支配する毛利輝元との戦いは続いた。同年、岩屋城を攻略して淡路国を支配下に置いた。

天正10年(1582年)には備中国に侵攻し(中国攻め)、毛利方の清水宗治が守る備中高松城を水攻めに追い込んだ(高松城の水攻め)。その後、毛利輝元・吉川元春小早川隆景らを大将とする毛利軍と対峙し、信長に援軍を要請している。

これ以降、バカのひとつ覚えのように兵糧攻め・水攻めを多用するようになる。が、これは秀吉の才能というより、織田家の圧倒的な物量によるところが大きい。

信長の死から清洲会議まで

天正10年(1582年)6月2日、主君・織田信長が京都の本能寺において明智光秀の謀反により殺された(本能寺の変)。このとき、備中高松城を水攻めにしていた秀吉は事件を知ると、すぐさま高松城城主・清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、京都に軍を返した(中国大返し)。

秀吉勢の出現に驚愕した明智光秀は、6月13日に山崎において秀吉と戦ったが、光秀には何の大義名分もなく、池田恒興や丹羽長秀といった織田家の諸将は秀吉と協力し、光秀の寄騎であった中川清秀高山右近も光秀にはつかなかった。兵力で劣る光秀方は大敗を喫し、光秀は落武者狩りにより討たれた(山崎の戦い)。その後、光秀の残党もほぼ残らず討たれた。

6月27日、清洲城において信長の後継者と遺領の分割を決めるための会議が開かれた(清洲会議)。会議の詳細は不明だが[19]。信忠の子・三法師が家督を継ぎ、織田信孝がその後見人になったという結果は確かである。

信長・信忠の遺領は、織田信雄が尾張国、織田信孝が美濃国、織田信包が北伊勢伊賀国、光秀の寄騎であった細川藤孝丹後国筒井順慶大和国、高山右近と中川清秀は本領安堵、丹羽長秀は近江国滋賀高島15万石の加増、池田恒興は摂津尼崎大坂15万石の加増、堀秀政は近江佐和山を与えられた。勝家も秀吉の領地であった近江長浜12万石が与えられた。秀吉自身は、明智光秀の旧領であった丹波国山城国河内国を増領し、28万石の加増となった。これにより、領地においても秀吉は勝家に勝るようになったといわれるが、織田の領国経営は国を支配しているからといってその国の全権を任されているわけではなく、さらに与力システムといったものも存在するため、実際に上回っていたかは不明である。

柴田勝家との対立

秀吉と勝家の対立は、日増しに激しくなった。原因は秀吉にあった。秀吉は敵領に面していない山崎に宝寺城を新しく築城し、さらに山崎と丹波で検地を実施、筒井順慶から人質を出させるなどした。これらは全て織田家や勝家の承認を得ないものであった。天正10年(1582年)10月に勝家は滝川一益や織田信孝と共に秀吉に対する弾劾状を諸大名にばらまいた。だが秀吉は全く懲りず、10月15日、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主として、大々的に信長の葬儀を行ない、自らのプロパガンダとした。

12月、越前の勝家が雪で動けないのを好機と見た秀吉は、信孝が三法師を安土に戻さないことなどを大義名分とし、信孝打倒の兵を挙げる。もちろん不当なものであった。なぜなら戻さないなら戻さないで、まず書状なり何なりで言上するべき問題だからである。そもそも戻さなかったからといって、家臣筋の秀吉が口出しする案件ではない。

12月9日、秀吉は池田恒興ら諸将に動員令を発動し、5万の大軍を率いて山崎宝寺城から出陣し、12月11日に堀秀政の佐和山城に入った。そして柴田勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を包囲した。元々勝豊は勝家、そして同じく養子であった柴田勝政らと不仲であった上に病床に臥していたため、秀吉の調略に応じて降伏。秀吉は長浜城を獲得した。12月16日には美濃に侵攻し、稲葉一鉄らの降伏や織田信雄軍の合流などもあってさらに兵力を増強した秀吉は、信孝の家老・斎藤利堯が守る加治木城を攻撃して降伏せしめた。こうして岐阜城に孤立してしまった信孝は、三法師を秀吉に引き渡し、生母の坂氏と娘を人質として差し出すことで和議を結んだ。

天正11年(1583年)1月、反秀吉派の一人であった滝川一益は、秀吉方の伊勢峰城を守る岡本良勝関城伊勢亀山城を守る関盛信らを破った。これに対して秀吉は2月10日に北伊勢に侵攻する。2月12日には一益の居城・桑名城を攻撃したが、桑名城の堅固さと一益の抵抗にあって、三里も後退を余儀なくされた。また、秀吉が編成した別働隊が長島城中井城に向かったが、こちらも滝川勢の抵抗にあって敗退した。しかし伊勢亀山城は、蒲生氏郷細川忠興山内一豊らの攻撃で遂に力尽き、3月3日に降伏した。とはいえ、伊勢戦線では反秀吉方が寡兵であるにもかかわらず、優勢であった。

2月28日、勝家は前田利長を先手として出陣させ、3月9日には自らも3万の大軍を率いて出陣した。これに対して秀吉は北伊勢を蒲生氏郷に任せて近江に戻り、3月11日には柴田勢と対峙した。この対峙はしばらく続いたが、4月13日に秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・山路正国が勝家方に寝返るという事件が起こった。さらに織田信孝が岐阜で再び挙兵して稲葉一鉄を攻めると、信孝の人質を磔にした(磔にしたのが先だとも言う)。はじめは勝家方が優勢であった。

4月20日早朝、勝家の重臣・佐久間盛政は、秀吉が織田信孝を討伐するために美濃に赴いた隙を突いて、奇襲を実行した。この奇襲は成功し、大岩山砦の中川清秀は敗死し、岩崎山砦の高山重友は敗走した。しかしその後、盛政は勝家の命令に逆らってこの砦で対陣を続けたため、4月21日に中国大返しと同様に迅速に引き返してきた秀吉の反撃にあい、さらに前田利家らの裏切りもあって柴田軍は大敗を喫し、柴田勝家は越前に撤退した(美濃大返し)。

4月24日、勝家は正室お市の方と共に自害した。秀吉はさらに加賀国能登国も平定し、それを前田利家に与えた。5月2日(異説あり)には、信長の三男・織田信孝も自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏した。

こうして織田家の実力者たちを葬ったことにより、秀吉は家臣第一の地位を確立。表面上は三法師を奉りつつ、実質的に織田家中を牛耳ることになった。

徳川家康との対立と朝廷への接近

天正12年(1584年)、信長の次男・織田信雄は、秀吉から年賀の礼に来るように命令されたことを契機に秀吉に反発し、対立するようになる。そして3月6日、信雄は秀吉に内通したとして、秀吉との戦いを懸命に諫めていた重臣の浅井長時岡田重孝津川義冬らを謀殺し、秀吉に事実上の宣戦布告をした。このとき、信長の盟友であった徳川家康が信雄に加担し、さらに家康に通じて長宗我部元親紀伊雑賀党らも反秀吉として決起した。

これに対して秀吉は、調略をもって関盛信(万鉄)、九鬼嘉隆、織田信包ら伊勢の諸将を味方につけた。さらに信長の乳兄弟だった美濃の池田恒興を、尾張国と三河国を恩賞に与えるという約束をエサにして味方につけた。そして3月13日、恒興は尾張犬山城を守る信雄方の武将・中山雄忠を攻略した。また、伊勢においても峰城を蒲生氏郷・堀秀政らが落とすなど、緒戦は秀吉方が優勢であった。

しかし家康・信雄連合軍もすぐに反撃し、羽黒に布陣していた森長可を破った(羽黒の戦い)。連合はさらに小牧に堅陣を敷き、秀吉と対峙した。秀吉は雑賀党に備えてはじめは大坂から動かなかったが、3月21日に大坂から出陣し、3月27日には犬山城に入った。秀吉軍も堅固な陣地を構築し両軍は長期間対峙し合うこととなり戦線は膠着した(小牧の戦い)。このとき、羽柴軍10万、織田・徳川連合軍は3万であったとされる。

そのような中、前の敗戦で雪辱に燃える森長可や池田恒興らが、秀吉の甥である三好秀次(豊臣秀次)を総大将に擁して4月6日、三河奇襲作戦を開始した。しかし、奇襲部隊であるにもかかわらず、行軍は鈍足だったために家康の張った歩哨網に引っかかり、4月9日には徳川軍の追尾を受けて逆に奇襲されて大敗。池田恒興・池田元助親子と森長可らは戦死してしまった(長久手の戦い)。

兵力で圧倒的に優位であるにもかかわらず、相次ぐ戦況悪化により、秀吉自らが攻略に乗り出すことを余儀なくされた。秀吉は加賀井重望が守る加賀井城など、信雄方の美濃における諸城を次々と攻略していき、信雄を圧迫する。

11月11日、信雄は家康に無断で秀吉と単独講和した。これにより、家康も秀吉と戦うための大義名分が無くなり、三河に撤退することとなった。家康は次男・於義丸を秀吉の養子(=人質)として差し出し、「羽柴秀康(のちの結城秀康)」とし講和した。

この戦いの最中の10月15日、秀吉は初めて従五位下左近権少将に叙位任官され、そのわずか一ヵ月後の11月22日には権大納言に任官された。この急速な昇進のための辻褄合わせが行われ、従五位下左近権少将叙爵の綸旨は2年さかのぼった天正10年に発給された事になっている。天正11年5月5日に従四位下参議と任官された文書もあるが、これも同様と見られている。

これにより秀吉の地位は主家の織田家を凌駕することになり、織田政権は「秀吉政権」となった。また、信雄との和議後は「羽柴」の苗字を使用しなくなった[5]

その後、秀吉は天正14年(1586年)には妹・朝日姫を家康の正室として、さらに母・大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促す。有利な秀吉側がこのような事をしたということは、明らかな大義名分作りであり、家康がモタモタしていたらなにかしらの難癖をつけ、徳川家を討伐していただろう。母孝行とされる秀吉だが、自身の野望のためならその母を犠牲にする事も何ら問題にはしなかったのである。これに気付いた家康はただちに上洛し、秀吉への臣従を誓った。これ以降も家康は秀吉につけいるスキを見せず、なんとか家を保った。

関白任官と紀伊・四国・越中攻略

天正11年(1583年)、秀吉は信長の構想をパクり(もちろんそうは言わず、自身の策だと喧伝した)、大坂本願寺(石山本願寺)の跡地に大坂城を築いた。

天正12年(1584年)には朝廷より将軍任官を勧められたが断ったとする説がある。が、これの真偽はさしたる問題ではないことは、関白任官のあたりで後述することにする。

天正13年(1585年)3月10日、秀吉は正二位・内大臣に叙位・任官された。そして3月21日には紀伊に侵攻して雑賀党を各地で破る(千石堀城の戦い)。最終的には藤堂高虎に命じて雑賀党の首領・鈴木重意を謀殺させることで平定した(紀州征伐)。

また、四国の長宗我部元親に対しても、弟・羽柴秀長を総大将として、毛利輝元や小早川隆景らも出陣させるという大規模なもので、総勢10万という大軍を四国に送り込んだ。これに対して元親は抵抗したが、兵力の差などから7月25日、秀吉に降伏する。元親は土佐国のみを安堵されることで許された(四国攻め)。

同年7月11日にはかねてから紛糾していた関白職を巡る争い(関白相論)に便乗し、近衛前久の猶子として関白宣下を受けた。秀吉としては将軍でも関白でもどちらでも良かった。秀吉には朝廷による権威づけが必要だったのだ。別に朝廷を敬っていたとか、関白という位を好き好んでいたのではないという事は、秀吉が明確に天皇より上を目指していることからもわかる(この事については朝鮮出兵の項で述べる)。その秀吉が関白に就いたということは、この時期はまだ関白職が必要だったという事以外の何者でもないのである。このあたり、本能寺の変より数年前から無官で様々なことが行えた信長とは異なり、秀吉の権力の脆弱さがうかがえるではないか。

天正14年(1586年)9月9日には豊臣の姓を賜って[20]、12月25日には太政大臣に就任し[21]、政権を確立した(豊臣政権)。なお、秀吉は征夷大将軍職に就いて「豊臣幕府」を開くために足利義昭へ自分を養子にするよう頼んだが断られたために関白職を望んだという俗説もあるがこれは後の創作[22]である。

越中国佐々成政に対しても8月から富山の役を開始したが、ほとんど戦うこと無くして8月25日に成政は剃髪して秀吉に降伏する。織田信雄の仲介もあったため、秀吉は成政を許して越中新川郡のみを安堵した。もっとも本気で許すつもりはなくーなぜなら織田譜代の佐々成政は秀吉にとって目の上のタンコブだったーのちに肥後で策略にハメ、切腹させる。

こうして紀伊・四国・越中は秀吉によって平定されたのである。

九州の役

詳細は 九州の役 を参照

その頃九州では大友氏龍造寺氏を下した島津義久が勢力を大きく伸ばし、島津に圧迫された大友宗麟(織田家とは同盟)が秀吉に助けを求めてきていた。天正13年(1585年)関白となった秀吉は島津義久と大友宗麟に朝廷権威を以て停戦命令(いわゆる惣無事令の第一号)を発したが、島津氏はこれに反発していう事を聞かず、秀吉は九州に攻め入ることになる。

天正14年(1586年)には豊後戸次川(現在の大野川)において、仙石秀久軍監とした、長宗我部元親・長宗我部信親十河存保大友義統らの混合軍で島津軍の島津家久と戦うが、仙石秀久の失策により、長宗我部信親や十河存保が討ち取られるなどして大敗した(戸次川の戦い)。

だが天正15年(1587年)には秀吉自らが、弟・秀長と共に20万の大軍を率い、九州に本格的に侵攻し、島津軍を圧倒、島津義久を降伏させる(九州の役)。帰り道に備後国へ亡命中の足利義昭のもとを訪れ、京都に連れ帰り出家させた。こうして秀吉は西日本の全域を服属させた。九州の役完了後に博多においてバテレン追放令を発布した。この段階では、庶民の信仰は自由、大名は届出制であるもののキリシタンも許可されていた。

同年10月1日には京都にある北野天満宮の境内と松原において千利休津田宗及今井宗久らを茶頭として大規模な茶会を開催した(北野大茶会)。茶会は一般庶民にも参加を呼びかけた結果、当日は京都だけではなく各地からも大勢の人が参加し、会場では秀吉も参加して野点が行われた。また、黄金の茶室も披露されている。

朝臣として聚楽第を構える

天正15年(1587年)、平安京旧大内裏跡付近に聚楽第を築いた。本能寺の二の舞にならないための京都の城塞である。これ以前、本能寺には本格的な城塞は無かったのだ。

天正16年(1588年4月14日には聚楽第に後陽成天皇を迎え華々しく饗応、徳川家康や織田信雄ら有力大名に自身への忠誠を誓わせた。同年には刀狩令海賊停止令を発布した。

小田原の役

天正17年(1589年)、側室の淀殿との間に鶴松が産まれた。

同年、後北条氏の家臣・猪俣邦憲真田昌幸家臣・鈴木重則が守る上野国名胡桃城を奪取したのをきっかけとして、秀吉は天正18年(1590年)に関東へ遠征、後北条氏の本拠小田原城を包囲した。

小田原城は堅城として知られるが、3か月の篭城戦の後に北条氏政北条氏直父子は降伏した。北条氏政・北条氏照は切腹し、氏直は紀伊の高野山に追放された(小田原の役)。小田原城を包囲中に、伊達政宗ら東北の大名も秀吉に恭順の意を示した。これによって、名実ともに秀吉の天下統一事業が完遂された。この戦後の論功行賞で、謀反を起こす可能性のある徳川家を江戸に、織田信雄を家康の旧領地へと豊臣家から遠くへ国替えさせた。だが信雄には断られたため、領地を全て没収して流罪にした。

天下統一

こうして秀吉は後北条氏を下し、日本を統一した。だが、毛利氏島津氏といった有力大名は滅ぼすことはできず臣従させるにとどまり、いまだ強大である徳川氏や、全く戦うことなく戦力を温存した伊達氏のような勢力もいた。これら有力諸大名の処遇が、豊臣政権の課題となった。

天正19年(1591年)、後継者に指名していた鶴松が病死した。そのため、甥・秀次を養子として関白職を譲り、太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになる。ただし、秀吉は全権を譲らず、実権を握り二元政を敷いた。

この年、重用してきた茶人・千利休に自害を命じている。利休の弟子である古田重然、細川忠興らの助命嘆願は受け入れられず、利休は切腹した。その首は一条戻橋に晒された。この事件の発端には諸説があるが、信長路線を続けて天皇家の墓石を手水鉢にするなどしていた事が、関白という立場の秀吉は許すことができなかったのだ、というのが通説である。

同年には東北で南部氏一族の九戸政実が、後継者争いのもつれから反乱を起こした。南部信直の救援依頼に、秀吉は豊臣秀次を総大将として蒲生氏郷・浅野長政・石田三成ら九戸討伐軍を派遣した。東北諸大名もこれに加わり6万の軍となった。戦いの後に九戸政実・実親は降伏した。九戸氏は豊臣秀次に一族とともに斬首され滅亡し、乱は終結した。

織田家の再興

文禄元年(1592年)9月9日、東北から九州の果てまで全国を完全に平定した秀吉は、織田家の嫡孫・織田秀信を美濃国の大名に封じ岐阜城を返した。

またこの年、織田信雄も家康の仲介で赦免され、相伴衆に加えられて大和国内に1万8,000石を領した。肥前名護屋城にも兵1,500を率いて着陣したという(太閤記)。この際、長男・秀雄も越前国亀山5万石を与えられた[23]

文禄の役

詳細は 文禄・慶長の役#文禄の役 を参照

文禄元年(1592年)、の征服と朝鮮の服属を目指して宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵した。初期は朝鮮軍を撃破し、漢城平壌などを占領するなど圧倒したが、各地の義兵による抵抗や明の援軍が到着したことによって戦況は膠着状態となり、文禄2年(1593年)、明との間に講和交渉が開始された。

秀次事件

詳細は 豊臣秀次#秀次事件 を参照

一方、文禄2年(1593年)に側室の淀殿が秀頼を産むと、秀次との対立が深刻となる。2年後の文禄4年(1595年)、秀次を「殺生関白」(摂政関白のもじり)と呼ばれたほどの乱行を理由として廃嫡し、高野山へ追放。のちに謀反の容疑で切腹を命じた。秀次の補佐役であった古参の前野長康らも切腹処分となったほか、秀次の妻子などもこの時処刑された。秀吉の命令により秀次の側室たち39人の首は次々と切り落とされ、遺体は巨大な穴に投げ捨てられた。秀次の乱行が実際にあったかには諸説あり、実子が生まれたので秀次が邪魔になったという見方も有力である。

サン=フェリペ号事件と二十六聖人処刑

詳細は サン=フェリペ号事件 を参照

文禄5年(1596年)10月に土佐国にスペイン船が漂着し、サン=フェリペ号事件が起きる。奉行・増田長盛らは船員たちに「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる三名のポルトガル人ほか数名に聞いた」という秀吉の書状を告げた[24]。 同年12月8日に秀吉は再び禁教令を公布した。

慶長2年(1597年)、秀吉は朝鮮半島への再出兵と同時期に、イエズス会の後に来日したフランシスコ会(アルカンタラ派)の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都と大阪に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛し処刑を命じた。三成はパウロ三木を含むイエズス会関係者を除外しようとしたが、果たせなかった。2月5日、日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人、ポルトガル人各1名の26人が処刑された。

慶長の役

詳細は 文禄・慶長の役#慶長の役 を参照

文禄5年(1596年)、明との間の講和交渉が決裂し、秀吉は作戦目標を「全羅道を悉く成敗し、忠清道京畿道にもなるべく侵攻すること、その達成後は拠点となる城郭を建設し在番の城主を定め、その他の諸将は帰国させる[25]」として再出兵の号令を発した。慶長2年(1597年)、小早川秀秋を元帥として14万人の軍を朝鮮へ再度出兵する。漆川梁海戦で朝鮮水軍を壊滅させると進撃を開始し、2か月で慶尚道・全羅道・忠清道を制圧。京畿道に進出後、日本軍は撤収し作戦目標通り南岸に文禄の役の際に築かれた既存の城郭の外縁部に新たに城塞(倭城)を築いて城郭群を補強した。このうち蔚山城は完成前に明・朝鮮軍の攻撃を受けたが大破する(第一次蔚山城の戦い)。城郭群が完成し防衛体制を整えると、6万4千余の将兵を在番として拠点となる城郭群に残し防備を固めさせる一方、7万余の将兵を本土に帰還させ慶長の役の作戦目標は完了した[26]。秀吉は慶長4年(1599年)にも大規模な軍事行動を計画しており、それに向けて倭城に兵糧や玉薬などを諸将に備蓄するように命じていたが、計画実施前に秀吉が死去したため実施されることはなかった[27]

最期

慶長3年(1598年)3月15日、醍醐寺諸堂の再建を命じ、庭園を造営、各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて秀頼や奥方たちと一日だけの花見を楽しんだ(醍醐の花見)。同年5月から秀吉は病に伏せるようになり日を追う毎にその病状は悪化していった[28][29][30]。5月15日には『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』という名で、徳川家康・徳川秀忠・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元ら五大老及びその嫡男らと五奉行のうちの前田玄以長束正家に宛てた十一箇条からなる遺言書を出し、これを受けた彼らは起請文を書きそれに血判を付けて返答した[31]

自分の死が近いことを悟った秀吉は7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び寄せて、家康に対して子の秀頼の後見人になるようにと依頼した[30][32]。 8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記し、8月18日、その生涯を終えた[31]

秀吉の死はしばらくの間秘密とされることとなった[33]。 死因については現在も不明である[31]が、近年「脚気」だったという説も唱えられている。死の直後に通夜も葬儀も行われないまま、その日のうちに伏見城から阿弥陀ヶ峰に遺体を移し埋葬され、家督は秀頼が継いだ。

辞世の句は「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢 」。

秀吉が死去すると、戦争継続を主張する者はほとんどおらず、五大老や五奉行によって撤兵が決定された。当時、日本軍は、攻撃してきた明・朝鮮軍に第二次蔚山城の戦い泗川の戦い順天城の戦いなどで勝利していたが、撤退命令が伝えられると明軍と和議を結び、全軍朝鮮から撤退した。秀吉の死は秘密にされたままであった。

この戦争は、朝鮮の国土と軍民に大きな被害をもたらした。また、明は莫大な戦費の負担と兵員の損耗によって疲弊し、後に滅亡する一因となった。日本でも、征服軍の中心であった西国大名達が消耗し、秀吉没後の豊臣政権内部の対立の激化を招くことになる。

秀吉の墓は壮麗に築かれたものの、没後の混乱のため、葬儀は行なわれなかった。

年表

和暦 西暦[34] 月日[34] 年齢 内容
天文6年 1537年 2月6日 1歳 生誕
天文23年 1554年 17歳 織田信長に仕官
永禄4年 1561年 24歳 浅野長勝の養女(高台院)と結婚。
永禄11年 1568年 9月12日 31歳 観音寺城の戦い
元亀元年 1570年 4月20日 33歳 金ヶ崎の戦い
天正元年 1573年 8月 36歳 小谷城の戦い
羽柴改姓?
天正3年 1575年 7月3日 38歳 筑前守
天正5年 1577年 10月5日 40歳 信貴山城の戦い
11月3日 手取川の戦い
天正6年 1578年 3月 41歳 三木合戦
4月18日 上月城の戦い
天正10年 1582年 45歳 備中高松城の戦い
6月13日 山崎の戦い
6月27日 清洲会議
10月3日 従五位下左近衛少将(『公卿補任』)
天正11年 1583年 4月 46歳 賤ヶ岳の戦い
5月22日 従四位下参議
11月 本拠を大坂城に移転。
天正12年 1584年 9月16日 47歳 小牧・長久手の戦い
11月21日 従三位権大納言
天正13年 1585年 3月 48歳 紀州征伐
3月10日 正二位、内大臣宣下
6月 四国攻め
7月 近衛前久の猶子となる、藤原改姓
7月11日 従一位関白宣下、内大臣如元
8月 富山の役
10月 惣無事令実施(九州地方)
天正14年 1586年 7月 49歳 九州征伐
9月9日 賜豊臣氏(『押小路文書』)
12月19日 内大臣辞職
12月25日 太政大臣兼帯
天正15年 1587年 5月9日 50歳 書状「かうらい国へ御人」
6月1日 書状「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」
6月19日 バテレン追放令制定
12月 惣無事令実施(関東・奥羽地方)
天正16年 1588年 7月28日 51歳 刀狩令制定
8月12日 島津氏を介し琉球へ服属入貢要求
海賊停止令制定
天正17年 1589年 5月 52歳 鶴松が誕生。鶴松を後継者に指名。
天正18年 1590年 2月 53歳 小田原の役
2月28日 琉球へ唐・南蛮も服属予定として入朝要求
7月 奥州仕置
11月 朝鮮へ征明を告げ入朝要求
天正19年 1591年 54歳 身分統制令制定
3月3日 天正遣欧少年使節が聚楽第において秀吉に西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏
7月25日 ポルトガル領インド副王に宛ててイスパニア王の来日を要求
9月15日 スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に服属要求
10月14日 島津氏を介し琉球へ唐入への軍役要求
12月 関白辞職、太政大臣如元
文禄元年 1592年 4月12日 55歳 朝鮮出兵開始(文禄の役)
7月21日 スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に約を違えた朝鮮を伐ったことを告げ服属要求
人掃令制定
文禄2年 1593年 8月 56歳 本拠を伏見城に移す。秀頼が誕生。
11月5日 高山国へ約を違えた朝鮮を伐ち明も和を求めているとして服属入貢を要求
慶長元年 1596年 60歳 サン=フェリペ号事件
慶長2年 1597年 2月 61歳 再度の朝鮮出兵開始(慶長の役)
7月27日 スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に日本は神国でキリスト教を禁止したことを告ぐ
慶長3年 1598年 62歳 太政大臣辞職
8月18日 伏見城で薨去。
大正4年 1915年 8月18日 贈正一位

人物

出身・家系

  • 秀吉の父・弥右衛門は百姓であったとされるが、百姓=農民とするのは後代の用例であり、弥右衛門の主たる生業は織田家の足軽だったとする説もある。太田道灌北条早雲の軍制に重用された足軽は急速に全国へ広まっていた。ただし、秀吉が初めて苗字を名乗るのは木下家出身のねねとの婚姻を契機とすることを指摘した研究もある。つまり、それ以前は苗字を名乗る地盤すら持たない階層だった可能性も指摘されている[35]フロイス日本史では「若い頃は山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた」、日本教会史では、秀吉は「木こり」出身と書かれている。また八切止夫は、秀吉は「端柴売り」出身で、わざとその事を示す羽柴(=端柴)に改姓し、自分が本来低い身分なのだとアピールすることによって周囲からの嫉妬を避けようとしたのだと推測している。井沢元彦は「当時の西洋人からは端柴売りが木こりに見えたのだろう」と両者を整合する説をとっている。[36]
  • 秀吉は好色・女好きで知られ、300名ともいわれる多くの側室を置いていたが[37]、一方で正室である高台院にも、側室のほとんどとの間にも子供が生まれず、実子の数は生涯を通じても非常に少なかった。これは秀吉自身が子供ができにくい体質であったためと思われる。そのため秀頼は秀吉の子ではなく、淀殿が他の者(大野治長など)と通じて成した子であるとする説もある。これについては、秀頼だけでなく鶴松の時点でそうした噂があったようである[38]
  • 子宝に恵まれなかった秀吉であるが、長浜城主時代に一男一女を授かったという説がある。男子は南殿と呼ばれた女性の間に生まれた子で「秀勝」と言ったらしい。長浜で毎年4月(昔は10月)に行われる曳山祭は、秀吉に男の子が生まれ、そのことに喜んだ秀吉からお祝いの砂金を贈られた町民が、山車を作り、長浜八幡宮の祭礼に曳き回したことが、始まりと伝えられている。しかし、実子秀勝は、幼少で病死(その後、秀吉は2人の養子に秀勝の名を与えている)。長浜にある妙法寺には、伝羽柴秀勝像といわれる子どもの肖像画や秀勝の墓といわれる石碑、位牌が残っている。女子については、名前を含め詳細不明であるが、長浜市内にある舎那院所蔵の弥陀三尊の懸仏の裏に次のような銘記がある。「江州北郡 羽柴筑前守殿 天正九年 御れう人 甲戌歳 奉寄進御宝前 息災延命 八月五日 如意御満足虚 八幡宮」これは秀吉が、天正2年(1574年)に生まれた実娘のために寄進したとされている[39]。となると秀吉は長浜城時代に秀勝ともう一人の女の子が授かっていることになる。しかし、舎那院では現在、秀吉の母である大政所のために寄進されたものであると説明している。多聞院日記によれば、大政所は文禄元年(1592年)に76歳で亡くなっているとされているので年代にずれがある。「御れう人」とは麗人のことであり、76歳の老人にまで解釈が及ぶものかどうか疑問であり、秀吉に女児が生まれたと考える方が妥当である。
  • 関白就任時に、母親の大政所は萩中納言の娘であり、自身も帝の血を引いていると主張した。側近の大村由己が記した『関白任官記』の他、松永貞徳の『戴恩記』にも同様の記述が見られる。当時の公家に萩中納言という人物は存在せず、関白就任のための方便だったとされている[6]

容姿

ファイル:Toyotomi hideyoshi Osaka-houkoku.jpg
大阪の豊国神社に建立された『豊臣秀吉公像』。制作者は彫刻家の中村晋也
  • 「猿面冠者」という言葉が残るように、秀吉が容姿からと呼ばれたことは有名である。
    • 『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」としている。
    • 秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とある(『太閤素生記』)。
    • 松下加兵衛は「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。
    • 秀吉が猿と呼ばれたのは、関白就任後の落書『まつせ(末世)とは別にはあらじ木の下のさる関白』などを見るに付てもの中で「どこの馬の骨とも分からない身分の低い生まれ」という意味の皮肉として使われた「さる関白」という表現に由来するという説もある。
    • 毛利家家臣の玉木吉保は「秀吉は赤ひげで猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。
    • 秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」と報告している(『懲毖録』)。
    • ルイス・フロイスは「彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている[40]。また、秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語ったという。[41]
    • 藤田達生山王信仰(猿は日吉大社の使い)を利用するため「猿」という呼び名を捏造したと推測している。
    • 信長は「猿」と呼んでいないとの主張もある。「禿げ鼠」の呼び名も、信長のねねへの書状の中で秀吉を叱責する際に「あの禿げ鼠」と書かれているものが1つ現存しているのみで、普段でもそう呼ばれていたかどうかは不明。
  • 秀吉は指が1本多い多指症だったとルイス・フロイスの記録や前田利家の回想録『国祖遺言』に記されている。後者によれば右手の親指が1本多く、信長からは「六ツめ」と呼ばれていたという。当時は(現在もそうだが)、多くの場合、幼児期までに切除して五指とするが、秀吉は周囲から奇異な目で見られても六指で生涯を通し、天下人になるまでその事実を隠すことがなかったという。しかし天下人となった後は、記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す姿で描かせたりした。そのため、「秀吉六指説」は長く邪説扱いされていた。現在では六指説を真説とする考えが有力であるものの、いまだにこのことに触れない秀吉の伝記は多い[42]
  • 身長は小柄であったが詳しい数字は不明。150cm下から160cm余まで諸説ある。
  • 髭が薄かったため、付け髭をしていた。当時の戦国武将が髭を蓄えるのは習慣であり、髭の薄いものが付け髭をするのは普通のことであった。

死因

  • 様々な説が唱えられており、脳梅毒、痢病(赤痢・疫痢の類)[43]のほか、沈惟敬による毒殺説もある[44]
  • 50代後半頃からは、老衰のためか無意識のうちに失禁した事もあったと記録されている[45]
  • 平成21年(2009年)に脳神経外科医で作家の若林利光が、当時の症状などを基に「脚気だった」とする新説をまとめた。

逸話

  • 人の心を掴む天才とされており、「人たらし」と称せられる。
    • 九州征伐において降伏した島津義久に対し、丸腰の義久に自らの佩刀を渡している。同様に小田原の役でも遅参した伊達政宗に佩刀を渡し石垣山の崖上で二人きりになった。両名とも秀吉のあまりの度量に気を呑まれ斬りつけることは出来なかった。
    • 小牧・長久手の戦いの後に上洛した徳川家康の下を近習一人をつれて密かに訪れ、数万の徳川兵の中で酒を交わしながら翌日の拝謁の打ち合わせをした。
    • 賤ヶ岳の戦いの最中、熱暑に苦しむ負傷兵に秀吉は農家から大量の菅笠を買い敵味方の区別無く被せて回った。『賤ヶ岳合戦記』は「誠に天下を治め給うほどの大将はかく御心の付き給うものかな」と伝えている。
    • 賤ヶ岳の戦いの後、小早川隆景に書状で「無精者は成敗すべきであるが、人を斬るのは嫌いだから命を助け領地も与える」と報じている。
    • ただし、徳川家康や伊達政宗を筆頭に豊臣政権に牙をむいた者はおり、少なくとも全員の心を掴んでいたわけではない。
  • 非常にスケールの大きい「大気者」だったともいわれているが、狭量な面も見せている。
    • 秀吉が関白になった後、秀吉が可愛がっていた鶴が飼育係の不注意から飛んで逃げてしまった。飼育係の者は、打ち首覚悟で秀吉に、事の次第を隠さずに報告したが、「日本国中がわしの庭じゃ。なにも籠の中におらずとも、日本の庭におればよい。」と笑って許したという。
    • 小田原の役の際、鎌倉鶴岡八幡宮の白旗の宮を訪ね、源頼朝の木像[46]に向かい「小身から四海を平定し天下を手中にしたのは貴方とこのわしだけであり、我らは天下友達である。しかし貴方は御門の御後胤で、父祖は東国の守護であり、故に流人の身から挙兵しても多く者が従った。わしは、元々は卑賤の出で、氏も系図もない男だ。だからこのように天下を平定したことは、貴方よりわしの功が優れている」と木像の肩を叩きながら言ったという。
    • 非常に世評を気にする人物であった。北野大茶会や華美な軍装などの人々の評判が上がる行為を頻繁に行った。一方、聚楽第に自身を非難する落書が書かれた際は当番の兵を処刑し、作者を探し出して自害させている。
    • 上述のような逸話などのせいか、ドラマなどでも人を殺すことを嫌う人物のように描写されることの多い秀吉であるが、実際には元亀2年に湖北一向一揆を殲滅したり(『松下文書』や『信長公記』より)、天正5年に備前・美作・播磨の国境付近で毛利氏への見せしめのために、女・子供200人以上を子供は串刺しに、女は磔にして処刑する(同年12月 5日の羽柴秀吉書状より)等、現代の価値観では残酷とされる行為を行うこともあった。
  • 母・大政所への忠孝で知られる。小牧・長久手の戦いの後、家康を上洛させるため母と妹を人質として一時家康に差し出したが、そこで母を粗略に扱った本多重次を後に家康に命じて蟄居させている。天下人としての多忙な日々の中でも、正室・北政所や大政所本人に母親の健康を案じる手紙をたびたび出しており、そのうちの幾つかは現存している。朝鮮出兵のために肥前名護屋に滞在中、母の危篤を聞いた秀吉は急いで帰京したが、結局臨終には間に合わず、ショックのあまり卒倒したという。秀吉が親孝行であったことは明治時代国定教科書でも好意的に記述された。
  • 戦国大名は主君と臣下の男色(いわゆる「衆道」)を武士の嗜みとしていたが[47]、秀吉には男色への関心がまったくと言ってよいほどなかった。男色傾向の無さを訝しんだ家臣が家中で一番との評判の美少年を呼び出し、秀吉に会わせ二人きりにさせたのだが秀吉はその少年に「お前に姉か妹はいるか?」と聞いただけだったと言われる。
  • ルイス・フロイスは、秀吉の外見以外については「優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた」「極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた」「抜け目なき策略家であった」「彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた」などと記している。
  • 上杉謙信と対決するために北陸へ出兵した際、軍議で大将の柴田勝家に反発し、勝手に領地へ引き上げてしまったことがある[48]。その後の中国攻めでも、宇喜多直家の寝返りを勝手に許可してしまい、再び信長に怒られている。
  • 人と同じに振る舞うことを嫌う、傾奇者だった。何回か開いた仮装茶会(名護屋城の仮装茶会が有名)では、参加する武将達にわざと身分の低い者の格好をしてくるように通達し、自身も瓜売りの姿で参加したと伝えられている。武将たちも喜んで通達に応じ、徳川家康は同じく瓜売り、伊達政宗は山伏に扮した。
  • 今で言う美食家であり、食事には贅沢をした。ただ、後年家来に対し、「位が高くなっていろいろ贅沢なものを食べたが、貧しい時代腹が減ったときに食べた、麦飯ほど美味いものはなかった」と語っている。
  • 文化的修養を積むことに努力し身につけていた。古典文学を細川幽斎連歌里村紹巴茶道千利休、有識故実を菊亭晴季西笑承兌儒学を大村由己、能楽を金春太夫安照に学んだとされる[49]
    • 能楽には無邪気なほど熱中し、前田利家と徳川家康と共に天皇の御前で演じたり、『明智討』『柴田』など自分の活躍を演目にして自ら演じたりした。
    • 秀吉の和歌は、八条宮智仁親王によって『豊臣太閤御詠草』として編纂された。
    • 茶人としても独自の境地を切り開いた。茶道の研究者である矢部良明は、千利休でも古田重然でもなく、秀吉こそが武家茶の湯の大成者であると指摘している[50]
    • 能筆家であった。北大路魯山人は秀吉のに対して、新たに三筆を選べば、秀吉も加えられると高く評価した。達筆である反面、文字の正確さにはこだわらない性格であった。『老人雑話』や『武野燭談』、『太閤夜話』には「醍醐」の「醍」を祐筆が失念した際、「大」と書くよう指示したという逸話が記されている。現存する秀吉の書簡には、誤字や当て字、仮名が多用されている。ただし当時の私的な書状では慣例的に当て字や仮名が使用されていて当然であり、このことは秀吉の無教養を示すことにはならないと桑田忠親は擁護している。

本能寺の変の黒幕説

本能寺の変で最終的に最も得をした秀吉が事件の黒幕ではないか、との説もある。その説の根拠は、秀吉の信長に対する必要ないと思われる援軍要請である。秀吉は備中高松城攻めのとき、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景らが高松城の救援に出てきたため、信長に苦境を訴えて援軍を要請した。ところが当時の毛利氏は、相次ぐ対外戦争による財政的問題、豊後の大友宗麟や山陰の南条元続たちへの備えといった理由により高松城救援に用意できた兵力は羽柴軍の半分の1万5000ほどでしかなく、救援など不要であったと思われる。

では、なぜこのような要請を行なったのかと言えば、当時の信長は三職補任問題や皇位継承問題などで朝廷と頻繁に交渉していたため、京都に上洛する必要があった。明智光秀はそこを狙って「本能寺の変」を起こした訳であるが、一つだけ大きな問題があった。それは、軍勢を集める理由である。ところが秀吉の必要ない救援要請で援軍に赴くように命じられたため、信長に疑われること無く軍勢を集め、その軍勢で光秀は京都の信長を討ち果たしているのである。光秀が近衛前久と内通していたという説があるように、秀吉も当時の朝廷の実力者である大納言の勧修寺晴豊あたりと内通しており、その筋から光秀の謀反計画を知り、わざわざこのような要請を行なったのではないかと言われている。

また、秀吉の中国大返しに関しても、沼城から姫路城まで70キロの距離をわずか1日で撤収している。如何に秀吉が優秀な武将だったとはいえ、あの速さは事前に用意をしていなければ出来ない、「本能寺の変」を知らせる使者は果たして、本当に毛利方と間違えて秀吉の陣に入ってきたのか、中国大返し後の織田方有力武将への切崩しの異常な速さ等について、疑惑が持たれている。

ただし、以上のような説は正規の学説にはなっていない。学会では、むしろ本能寺の変の原因に争点の中心が置かれている関係もあり、現在では小説家や歴史研究家が個人的にフィクションや推論として採用している例がほとんどである。従って上記の説についても、反論を挙げる事は可能である。

  • 信長についての史料として信憑性が高いとされる『信長公記』によれば、高松城への援軍、西国への出陣を立案したのは信長自身であり、秀吉は毛利家主力の出陣を報告したのみで、秀吉側から援軍の要請があったという記述はない。
  • 『浅野家文書』には毛利軍5万人と記されており、秀吉は初期情報のこの数字を元に信長の援軍を請求した可能性が存在する。
  • 本能寺の変直後の六月三日には、江北周辺の武田、京極らの武将は光秀に呼応し秀吉の居城である長浜城を接収しており、同城には、光秀の重臣である斎藤利三が入城している。また、長浜にいた秀吉の家族らは本能寺の急報を聞き、美濃へ避難したという。このことから考えると、光秀と秀吉に先立っての接触があったとは考えづらい。「『言経卿記』、『豊鑑』」
  • 明智光秀の援軍は、対毛利戦線の山陰道方面に対してのものであり、秀吉が現在戦っている山陽道方面ではない。
  • 秀吉の援軍要請は、手柄を独占する事によって信長に疑念を持たれるのを避ける(信長自身を招いて信長に手柄を譲る)為の保身であり、有利な状況でありながら援軍を求める必然性は存在する。(『常山記談』)
  • いわゆる「中国大返し」についても、信長自身による援軍を迎えるための道中の準備が、たまたま功を奏したに過ぎない。「事前に用意していなければ出来ない」とする説はほとんどが近年の学者が述べている発言であり、当時秀吉や豊臣家と関係があった武士からは敵味方を問わず中国大返しを疑問視した発言や記録は出ていない。そもそも沼城から姫路城まで、わずか1日で70キロを走破というのは、事前の準備があってもあり得ないスピードである。種をあかせば、わずか1日で撤収したのは最初に姫路城に到着した兵であり、彼らは馬に乗っていたためにこの速度が可能だった。徒歩の兵士を含めての全てが姫路城まで到着するには、もっと時間がかかっている。
  • 本能寺の変を知った吉川元春は和睦を反古にして秀吉軍を攻撃する事を主張したが、小早川隆景らの反対[51]によって取り止めになっている。一歩間違えば秀吉は毛利勢と明智勢の挟み撃ちにあった恐れが大であり、現に滝川一益のように本能寺の変が敵方に知られた事により大敗し領土を失った信長配下の武将も存在し、秀吉がこのような危険極まり無い事を、謀略としてあえて意図したとは考えにくい。
  • また、もし秀吉が光秀と共謀していたなら、山崎の合戦で光秀はそのことを黙って討たれたことになる。共謀が事実ならばそのことを公表することで秀吉は謀反の一味となり、他の織田旧臣や信孝ら織田一族との連合はほぼ不可能となる。光秀方にきわめて有利な情勢を作り出せるからである。
  • 当時の武士から見ても不自然な状況であったり、連携を疑わせる情報が流れていれば、後に秀吉と敵対した織田信雄・信孝・柴田勝家・徳川家康などがそれを主張しないのは不自然である。

政策

詳細は 豊臣政権 を参照

朝臣体制

秀吉は天皇・朝廷の権威を自身の支配のために利用した、というのが定説である。

彼は関白の地位を得ると、諸大名に天皇への臣従を誓わせることによって、彼らを実質的に自分の家臣とした。織田家との主従関係はこれによって逆転している。また、天皇の名を使って惣無事令などの政策を実行し、これに従っていないという事を理由として九州や関東以北を征服するなど、戦いの大義名分作りにも利用している。これらの手法は、かつて織田信長が足利義昭の将軍としての権威を様々に利用した事や、義昭と対立した際に朝廷と接近した事と共通するものである。

さらに秀吉は、関白としての支配を強固にするため、本来は公家のものであった朝廷の官位を自身の配下たちに次々と与え、天皇を頂点とした体制に組み入れた。この方策・体制は「武家関白制」などと呼ばれる。

このように秀吉の地位は天皇の家臣であったが、実質的な日本の支配者は秀吉であったことが様々な史料から読み取れる。秀吉が事実上の権力者として政治を行っている事から、摂関政治の一種とも解釈されることがある。

天下統一をなしとげた上、天皇・朝廷の権威まで加わったので、秀吉の権力は絶大だったが、一方では天皇の権威を借りているために、政権に不安要素も抱えることになってしまった。後に豊臣秀頼が関白になれなかったことは、徳川家による政権奪取や豊臣家滅亡の一因となった。

なお、秀吉は実質的な支配者という地位に満足せず、朝鮮出兵・明征服による権威上昇によって、名目上でも天皇をしのぐ支配者になろうとしたという説も存在する[52]

国内統治システム

豊臣秀吉が鋳造させた天正大判

秀吉は政策面では織田信長のものを多く踏襲している。具体的には、織田政権で限定的に行われていた検地や刀狩、惣無事、楽市楽座等、関所の廃止といったものを、秀吉は調整を加えつつ全国的に広げていった[53][54]

また領土拡大と並行して、日本全国の税制を石高制に統一、身分の確定と兵農分離、百姓の逃散禁止、海賊の取り締まり、朱印船貿易、貨幣鋳造などを行った。

秀吉の政策の多くは江戸幕府に継承されたため、江戸時代の基礎を築いたとも言われる。

宗教政策

仏教勢力に対しては、高野山を降伏させたり、根来寺を焼き討ちするなど、信長時代に引き続き武力によって統制した。一方で大仏を建立したり本願寺を再建したりもしているが、その後の顕如への態度など、仏教への好意や敬意は伺えない。ルイス・フロイスは伴天連追放令後の状況にあって「(秀吉は)偶像を以前にも増して悪しざまに扱い、仏僧たちを我ら以上に虐待している」と書いている。

キリシタンに対しては、当初は好意的であった。しかし宣教師による信仰の強制、キリシタンによる寺社の破壊、宣教師たちの牛馬の肉食、日本人を奴隷商品として国外へ売却していた事などを理由に、天正15年(1587年)に伴天連追放令(バテレン追放令)を出した。ただしこのときの布告は強制的な禁教を伴うものではなく、宣教師たちも依然として日本国内で布教活動を継続することが可能であった。秀吉が決定的に態度を硬化させるのは、慶長元年(1596年)に起きたサン=フェリペ号事件からのことである。幕末以降の歴史書・研究史においては、秀吉は、宣教師の行いを通じて、スペインやポルトガルの日本征服の意図を察知していた事が強調されている。イエズス会宣教師による日本征服計画があったのは確実であるが[55]、スペインやポルトガル本国が宣教師たちの提案に賛同したかどうかは不明である。

外交政策

『釜山鎮殉節図』 文禄の役での釜山城攻略を描いたもの。

秀吉は大陸侵攻(唐入り)の準備をしつつ、周辺諸国やスペイン・ポルトガルの植民地に対し服属入貢を要求した。

秀吉における海外進出の構想は天正15年(1587年)の九州遠征の時期に行われたとみられ、5月9日に秀吉夫妻に仕える「こほ」という女性への書状において「かうらい国へ御人しゆつか(はし)かのくにもせひはい申つけ候まま」と記し、九州平定の延長として高麗(朝鮮)平定の意向もある事を示している[56]。明への出兵についてはかつて信長も語っており、秀吉にも知らされていた可能性がある。

同年6月1日付で本願寺顕如に宛てた朱印状のなかで「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」と記している[57]。この先例に倣って[58]高麗(朝鮮)国王は諸大名と同じように朝廷(秀吉)への出仕義務があると考え、直後に李氏朝鮮に対馬の宗氏を介して服属入貢を要求した[56]

翌天正16年(1588年)には島津氏を介して琉球へ服属入貢を行い、以後複数回要求を繰り返す。天正19年(1591年)7月25日にはポルトガル領インド副王に宛ててイスパニア王の来日を要求した。同年9月15日、スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に服属要求し、翌天正20年(1592年)5月18日付関白豊臣秀次宛朱印状では高麗の留守に宮中を置き、3年後に天皇を北京に移し、その周辺に10カ国を進上し、秀次を大唐の関白に就け、北京周辺に100カ国を与えるとした[59]。 また秀吉自身は北京に入ったあと、天竺(インドの古称)[60]征服のために寧波に移るとした[61]。 文禄2年(1593年)には高山国へ服属入貢を要求した[62]

人事政策

  • 人事においては、石田三成や大谷吉継らを文治派加藤清正福島正則らを武断派として用いた。秀吉としては個人の能力に見合った仕事を与えることで両派を形成させたと思われるが、両派を分断したことは秀吉の死後、豊臣家臣団の分裂を招くことにも繋がった。
  • 織田信長が重臣の林秀貞佐久間信盛らを追放したことは有名だが、秀吉も神子田正治尾藤知宣らを追放し、さらに軍師であった黒田孝高も冷遇して中枢から排除している。これらの面々は信長時代から秀吉に仕えていた譜代の家臣とも言ってよい人物だったため、その追放は譜代の家臣がいなかった豊臣家の衰退に繋がったと言っても過言ではない。
  • 天下統一後の政権の中に、秀吉に縁の深い家臣団という一群と、外様大名という一群の二つの勢力が存在し、死後の政権争いの元となっている。
  • 蒲生秀行小早川秀秋ら諸大名を大した罪でも無いのに若年などを理由に減封・移封したことは、関ヶ原の戦いで彼らを東軍(徳川方)に所属させる一因を成した。
  • 多くの家臣たちに豊臣の、羽柴のを与えた。

後世の評価

  • 明治から昭和の戦前にかけては、富国強兵政策や身分が低いながらも関白太政大臣になったということで民衆の手本にしようという試みもあり、好意的に捉えられることが多かった。秀吉を肯定することで家康および江戸幕府の評価を下げ明治政府の正当性を高める、関白を好意的にとらえることで天皇の権威を高める、という側面もあったとも言われる。その評価では、日本では武将ながら愛嬌に満ちた存在、武力より知略で勝利を得るなど、陽的な人物とされ、「太閤さん」と呼ばれることも多い。このような評価から創られた物語では、信長を怜悧な天才、家康を実直な慎重家と設定し、彼らとの対比で秀吉を陽気な知恵者として描かれることが多い。江戸時代では逆に「徳川史観」の元に、石田三成などのように意図的に貶められた存在として描かれていた。
  • 秀吉を好意的に評価する土地は多く、特に誕生の地である名古屋市中村区[63]や政権を執った本拠地の大阪市[64]では人気が高い。

系譜

略系図

実線は親子関係 点線は婚姻関係

妻子

絵本太閤記』・『新書太閤記』によると、秀吉は故郷の尾張を離れた後、浜松頭陀寺城主・松下之綱に仕えた。之綱は秀吉を気に入り、家臣の娘で美人のおきくという女性を選び、結婚させた。しかし、おきくは秀吉を嫌い、秀吉が尾張へ向かう際に離縁したといわれている。そのため、秀吉は高台院とは2度目の結婚であり、高台院の生母朝日殿が結婚に反対した理由のひとつともいわれている。

養子

養女

猶子

家臣

譜代の家臣を持たずに生まれ、天下人へと至った秀吉は、その生涯で多くの家臣を(新たに)得た。

織田信長に仕えた頃からの陪臣として浅野長政堀尾吉晴山内一豊中村一氏竹中重治樋口直房脇坂安治片桐且元石田三成黒田孝高増田長盛などがおり、福島正則加藤清正は幼少の頃から自身で養育する。親類縁者は当然のように総動員で取り立てられたが、農民から大名となり、あげくに追放された姉婿・三好吉房だけでなく、その子・豊臣秀次、やはり甥の小早川秀秋ら、環境の激変する中で不幸な生涯を終えた者が多い。

賤ヶ岳の戦いでは、抜群の功績を上げた正則、清正に加え加藤嘉明、脇坂安治、平野長泰糟屋武則、片桐且元らが賤ヶ岳の七本槍として数えられる。ただし、誰を賤ヶ岳の七本槍とすべきかについては諸説ある。

信長の後継を得るとその重臣である前田利家、丹羽長秀、蜂須賀正勝らも臣下に加えるが、彼らとは友人としての関係を保ったとも考えられている。

晩年には豊臣政権の職制として五大老三中老五奉行、十人衆を設けるが、譜代の家臣は武断派と文治派に分かれ死後関ヶ原の戦いで戦った。

五大老
徳川家康(筆頭)、前田利家毛利輝元宇喜多秀家小早川隆景上杉景勝(隆景死後)
三中老
生駒親正中村一氏堀尾吉晴
五奉行
浅野長政(筆頭)、石田三成増田長盛長束正家前田玄以
十人衆
富田知信寺西正勝毛利吉成堀田一継佐々行政石田正澄片桐貞隆石川光元山中長俊木下延重
一門
豊臣秀長豊臣秀次豊臣秀勝豊臣秀保小早川秀秋木下家定木下勝俊杉原家次青木一矩
賤ヶ岳の七本槍
福島正則加藤清正加藤嘉明脇坂安治平野長泰糟屋武則片桐且元、(桜井佐吉石川一光
与力
宮部継潤一柳直末田中吉政木村定重小出吉政亀井茲矩谷衛友寺沢広高新庄直頼斎村政広別所重宗
信長旧臣
丹羽長秀蜂須賀正勝前野長康蒲生氏郷堀秀政細川藤孝細川忠興蜂屋頼隆織田信包織田長益長谷川秀一長谷川与次日根野弘就日根野盛就長谷川宗仁矢部家定建部寿徳稲葉一鉄市橋長利伊東長久九鬼嘉隆古田重然堀内氏善丸毛兼利毛利秀頼
黄母衣衆
青木一重伊木遠勝石尾治一伊東長実井上道勝井上頼次猪子一時織田信高小野木公郷郡宗保仙石秀久津川親行津田信任戸田勝隆友松盛保中島氏種中西守之長原雲沢軒野々村吉安長谷川重成蜂須賀家政服部一忠速水守久尾藤知宣舞兵庫神子田正治箕浦勘右衛門三好房一毛利吉成森可政山内一豊分部光嘉一柳直末
参謀
竹中重治黒田孝高
その他子飼い
小西行長大谷吉継宮田光次

秀吉が偏諱を与えた人物

墓所・霊廟・神社

明治時代に再建された京都の豊国神社

死後、京都東山の阿弥陀ヶ峰(現在の豊国廟)に葬られ、豊国大明神として豊国神社に祀られた。しかし大坂の陣で豊臣家が滅亡すると、徳川家康により大明神の号は剥奪された。この時、建物も破却されかけたが、秀吉の正室であった高台院や豊国神社の社僧である神龍院梵舜の嘆願により、内苑(本殿など)は残された[65]。なお、建造物の一部は片桐且元らによって宝厳寺都久夫須麻神社に移築されたともされる。その後家光の時代に幕府は社領も没収、社殿は破却解体され、豊国神社の敷地は荒れるがままであったと言う。明治になり日光東照宮の相殿に祀られ、豊国神社は再興された。

秀吉が主祭神として祀られている神社は、京都市以外には大阪長浜名古屋にある[66]。なお高野山奥の院に豊臣家墓所があるのは有名であるが、現存する墓碑の中に秀吉のものはない。その理由は不明[67]

脚注

  1. 読み方については「豊臣氏」の項を参照。
  2. フロイス日本史
  3. 出身・家系の項目を参照。
  4. 『太閤素性記』には元鉄砲足軽であったとの記述があるが、日本で初めて種子島鉄砲が伝わったのが1543年8月であり、同年1月に弥右衛門が亡くなっていることなどから信憑性に疑問が持たれている。
  5. 5.0 5.1 5.2 5.3 池上、147-149p
  6. 6.0 6.1 小和田哲男 『豊臣秀吉』 中公新書、1985年、44頁。ISBN 978-4121007841
  7. 『前野家文書』「武功夜話」
  8. 小和田哲男 『豊臣秀吉』 中公新書、1985年、50~53頁。ISBN 978-4121007841
  9. 一説に秀吉自身は仕官以前の放浪時代に針の行商人であったという。
  10. この説を支持している代表的な人物として、歴史学者小和田哲男や石井進が挙げられる。
  11. 日本家紋研究会高澤等は秀吉の一族が用いる沢瀉紋と、秀吉の通称「藤吉郎」、また姉日秀、妹朝日の夫の出身地などの関係から、水野氏説のある継父竹阿弥を含め、秀吉自身も水野氏族を意識していたのではないかとの説を『歴史読本』に寄稿している。
  12. この説を唱えている代表的な人物として、作家の八切止夫小林久三が挙げられる。歴史小説家加藤廣も、『秀吉の枷』と『空白の桶狭間』の中でこの説を採用している。
  13. 『太閤記』といった秀吉の伝記では、松下加兵衛が烏帽子親となって元服させ、最初は故郷の名を取って中村藤吉郎と名乗り、後に木下に改姓したと書かれている。なお、加兵衛もしくは信長と最初に会った時に「木の下」に立っていたのでこれを名字としたとする俗説は極めて信憑性が薄く、事実ではないと考えられている。
  14. 『太閤記』のように、朋輩に妬まれて虐めを受ける藤吉郎を不憫に思った加兵衛が金を与えて送り出した、と書いてある史料が多い。藤吉郎が使いの金を盗んで出奔したとする俗説もあるが、いずれにせよ真偽は不明である。
  15. 仕官のいきさつについては、信長に直訴した(『太閤記』)、信長に仕えていた友人の紹介(『太閤素性記』)、信長の側室吉乃の紹介(『武功夜話』)など諸説ある。
  16. 田端泰子 『北政所おね』 ミネルヴァ書房、2007年、11頁。ISBN 978-4623049547
  17. 太閤記などでは、柴田勝家と丹羽長秀から1字ずつもらったとされているが、上の立場の人間にばかり配慮したこの考え方はモロに儒教思想に基づいたもので(太閤記の作者は熱心な儒教信者)、逆説の日本史などで反論されており、疑わしい
  18. 桑田忠親『太閤の手紙』31頁、天正元年十二月廿二日秀吉書状
  19. 織田家筆頭家老の柴田勝家は信長の三男・織田信孝(神戸信孝)を推したが、明智光秀討伐による戦功があった秀吉は、信長の嫡男・織田信忠の長男・三法師(後の織田秀信)を推した。勝家はこれに反対したが、池田恒興や丹羽長秀らが秀吉を支持し、さらに秀吉が幼少の三法師を信孝が後見人とすべきであるという妥協案を提示したため、勝家も秀吉の意見に従わざるを得なくなり、三法師が信長の後継者となった。
  20. これを「羽柴」から「豊臣」への改姓と誤解されることが多いが、「羽柴」は名字、「豊臣」は本姓であり、両者は性質が異なる。詳細は「豊臣氏」を参照。
  21. 公卿補任』には12月19日と記載されているが、『兼見卿記』に後陽成天皇即位式当日に式に先立って任命が行われたとされており、『公卿補任』はその事実を憚ったとされている(橋本政宣『近世公家社会の研究』)。
  22. 林羅山の『豊臣秀吉系譜』『後鏡』の記述が根拠とされる。後に竹内確斎の『絵本太閤記』にも採用され、通説となった。
  23. この時、実際に知行を与えられたのは秀雄の4万5000石(当代記)で、信雄は後見役(隠居身分)として復帰したに過ぎず、本人が知行を直接与えられたのは御伽衆として秀吉に召抱えられた晩年で、1万7000石ともいう(武家事紀)。
  24. 松田毅一『秀吉の南蛮外交』新人物往来社、昭和47年、227-8頁
  25. 『慶長二年二月二十一日付朱印状(立花家文書他)』
  26. 『日本戦史 朝鮮役』/日本陸軍参謀本部393項
  27. 来年は御人数指し渡され、朝鮮都までも動きの儀、仰せ付けららるべく候。其の意を得、兵糧、玉薬沢山に覚悟仕り、在庫すべく候なり『慶長三年三月十三日付朱印状(立花家文書)』 度々仰せ遣わされ候ごとく、来年大人数遣わされ働の儀、仰せ付けらるベく候間、其の中いずれの城々も丈夫に在番肝用に候『慶長三年五月二十二日付朱印状(鍋島家文書)』等
  28. 『関ヶ原から大坂の陣へ』19頁
  29. 『関ヶ原から大坂の陣へ』20頁
  30. 30.0 30.1 『関ヶ原から大坂の陣へ』21頁
  31. 31.0 31.1 31.2 『関ヶ原から大坂の陣へ』23頁
  32. 『関ヶ原から大坂の陣へ』22頁
  33. 『関ヶ原から大坂の陣へ』26頁
  34. 34.0 34.1 1582年10月4日以前はユリウス暦、それ以降はグレゴリオ暦。日付は宣明暦長暦。
  35. 当時の百姓身分は農業や手工業の比較的規模の大きい経営者階層であり、この層に出自する者が地侍などの形で武士身分に食い込みを図るときには、勢力地盤となっている村の名前などを苗字とするのが普通であるし、そもそもこの階層は惣村共同体の足軽中で通用する程度に権威のある私称の苗字を保持しているのが通例であった。それすらも自前で名乗る地盤を持たなかったとすれば、秀吉の出自は百姓身分ですらない、さらに下層の出身者である可能性がある。
  36. 井沢はさらに「秀吉」という名前も、「稗よし(稗くらいは良く食べられますように)」という当時の貧民層に見られた名前を変えたもので、これも自分をへりくだるための命名だと推測している。
  37. ルイス・フロイスは『日本史』において「300名の側室を抱えていた」と記録している。その反面、『伊達世臣家譜』には「秀吉、愛妾十六人あり」という記述が見られる。歴史学者の桑田忠親も、秀吉の正式な側室は20人足らずだと推定している。フロイスが挙げた数字は、側室の世話をする女官も含めた数字であろう。
  38. 『完訳フロイス日本史5 「暴君」秀吉の野望』第34章
  39. 近江坂田郡誌に記載
  40. 『完訳フロイス日本史4 秀吉の天下統一と高山右近の追放』第16章
  41. 『完訳フロイス日本史4 秀吉の天下統一と高山右近の追放』第14章
  42. 近年発表された小説でさえこの説を奇説扱いするなど、まだ一般に認知されるには至っていない。なお、戦国時代を題材にした漫画では、『センゴク』と『シグルイ』がこの説を取り入れており、これらの作品に登場する秀吉は六指である。
  43. 『日本西教史』より
  44. 朝鮮の古文書『燃黎室記述』による。ただし沈惟敬が日本に来たのは慶長元年(1596年)で、秀吉が死亡したのはその3年後である。
  45. 『駒井日記』より
  46. 「伝源頼朝坐像」(重要文化財)、現在は東京国立博物館所蔵。「e国宝」に画像と解説あり
  47. 有名なのは織田信長と長谷川秀一などである。
  48. この無断撤退が信長の怒りを買ったことは、『信長公記』にも記されている。『絵本太閤記』では、謙信の武勇を軽視した勝家に対する面当てだったとされる。
  49. 桑田忠親 『豊臣秀吉の発想力と知謀』 広済堂文庫、1990年、222頁。ISBN 4-331-65065-0
  50. 矢部良明 『茶人豊臣秀吉』 角川選書、2002年、255~261頁。ISBN 978-4047033474
  51. 『萩藩閥閲録』などによれば、毛利・小早川勢には信長・信忠・信孝が既に討たれ、謀反に加担した者は光秀の他に津田信澄・柴田勝家らがいるとの情報(誤報)が入っていた。仮に秀吉軍を追撃して破ったところで、柴田・津田らの軍勢を含めた明智勢と再度事を構えるまでの余裕はないため、追撃を諦め、正確な情報が入るまで静観するべきだという結論に至ったと考察されている(谷口克広説など)。
  52. 井沢元彦『逆説の日本史11 戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎』より。
  53. 織田政権下ではまだ存在していた七口の関を廃止し、また座の撤廃も積極的に行った。ただし秀吉も政権運営当初は、前田玄以に命じて畿内の座を安堵する文書を発給している。豊臣政権が本格的に座の撤廃に動き出すのは、本能寺の変から数年後のことであった。研究者の中には秀吉の楽座を特に「破座」と呼んで区別する者も居る。
  54. 脇田修 『秀吉の経済感覚 経済を武器とした天下人』 中公新書、1991年、112~123頁。ISBN 978-4121010155脇田修佐々木潤之介は「信長までは中世であり、秀吉から近世が始まる」と分類している。
  55. アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、1582年12月14日のフィリピン総督宛の書簡において、明征服のためには日本でキリスト教徒を増やし、彼らを兵として用いることを進言している。また、ペドロ・デ・ラ・クルスは、1599年2月25日付けのイエズス会総会長宛ての書簡で、日本は海軍力が弱く、スペイン海軍をもってすれば九州または四国を征服できると進言している。当時の西洋の強国にとって、武力で手に入れた港を拠点とし、そしてさらなる征服を進めるのが常套手段であり、ポルトガルは、ゴア、マラッカ、マカオをこの方法で征服している(高橋裕史『イエズス会の世界戦略』講談社、1999年)。
  56. 56.0 56.1 清水紘一「博多基地化構想をめぐって -天正禁教令との関連を中心として-」(藤野保先生還暦記念会編 『近世日本の政治と外交』 雄山閣、1993年、ISBN 4639011954
  57. 本願寺文書による
  58. 当時は神功皇后の三韓征伐が史実と考えられていたし、また鎌倉時代の『曾我物語』(妙本寺本)においても日本の西の果てを「鬼界・高麗・硫黄嶋」と記している。秀吉のこうした振舞いは朝鮮を惣無事令などの日本の法令の適用対象として認識していた可能性を示している。
  59. 『秀吉と文禄・慶長の役』 佐賀県立名護屋城博物館、2007年、43頁
  60. さらに南蛮つまりヨーロッパや西アジアまでを射程にいれていたとする説もある(佐藤信淵『宇内混同秘策』)。
  61. 秀吉側近の山中長俊の書状「組屋文書」による(『秀吉と文禄・慶長の役』 佐賀県立名護屋城博物館、2007年、43頁)
  62. 『秀吉と文禄・慶長の役』 佐賀県立名護屋城博物館、2007年、16頁
  63. 記念館がある。また、名古屋まつりでは毎年織田信長・徳川家康とともに彼に扮した人物がパレードする。
  64. 江戸期の大坂商業発達の基盤を築いたという見方も強い。
  65. 外苑部分は破却された。
  66. 大阪と長浜はかつて秀吉が統治した町、名古屋は秀吉の生地である。
  67. 高野山戦国大名の墓

参考文献

関連事項

史料

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関連作品

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歌謡曲

関連項目

外部リンク