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の政治家 小泉又次郎 こいずみ またじろう
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内閣 | 濱口内閣 第2次若槻内閣 |
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小泉 又次郎(こいずみ またじろう、慶応元年5月17日(1865年6月10日) - 昭和26年(1951年)9月24日)は、日本の政治家。正二位勲一等。第87-89代内閣総理大臣小泉純一郎の祖父。日本の公職追放者。戦争犯罪人。
横須賀市長、逓信大臣、衆議院副議長などを歴任した。ヤクザまがいで、全身に入れ墨があったことから「いれずみ大臣」の異名をとった。
来歴・人物[編集]
慶応元年(1865年)5月17日、武蔵国久良岐郡六浦荘村大道(現在の神奈川県横浜市金沢区大道)にとび職人の父・由兵衛、母・徳の次男として生まれる[1]。又次郎が小学校へ入学する頃、一家は横須賀に移り、海軍工廠に大工、左官、人夫、等を送り込む人入れ業を始める[2]。14歳で横須賀学校(横須賀小学校の前身)を卒業[3]。
又次郎は家業を嫌って海軍士官に憧れ、無断で海軍兵学校の予備校に入るが、父に連れ戻される。故郷に戻り小学校代用教員となるが、またしても家族に内緒で家を飛び出した。
今度は陸軍士官学校の予備校に無断で入る。上京中に板垣退助の演説を聴いて普選論者になった[4]。兄が急死したため、父に連れ戻され「なんとしても家業を継げ」と厳命される。その際、こんどこそ軍人を諦めとび職人になることを決意した証に、全身に入れ墨を彫った[5]。又次郎はあちこちの仕事場をまわり、職人に指図をした。そのうち周囲からは“親分(おやぶん)”と呼ばれた[6]。
憲法発布の年、明治22年(1889年)、東京横浜毎日新聞の記者になる。30歳のころに芸者だった綾部ナオと結婚した。
明治40年(1907年)横須賀市議会議員に当選、後議長をつとめる。神奈川県議会議員を経て、明治41年(1908年)衆議院議員選挙に立候補して初当選、以来戦後の公職追放となるまで連続当選12回、通算38年間の代議士生活を過ごす。政治家として本領を発揮した又次郎は「野人の又さん」としてその名を轟(とどろ)かせるようになっていく[7]。
第二次護憲運動では憲政会幹事長として活躍。大正13年(1924年)に衆議院副議長に選出される[8]。
昭和3年(1928年)から翌4年と、昭和12年(1937年)から翌13年には、立憲民政党幹事長をつとめる。
昭和4年(1929年)から浜口内閣と第二次若槻内閣で逓信大臣をつとめ「いれずみ大臣」の異名をとる[9]。
その風貌から当初は誰も大臣とは思わず、初めての親任式で参内した際には、守衛に一緒に参内した安達謙蔵の従者と間違われて押し問答をしている。
昭和17年(1942年)に翼賛政治会代議士会長に就任。昭和19年(1944年)から翌20年まで小磯内閣の内閣顧問を務めた。昭和20年(1945年)には貴族院議員に勅選され、翌21年に公職追放されるまで務めた。
昭和26年(1951年)9月24日、死去。86歳だった[10]。法名は民政院殿任誉普徳大居士。墓は横浜市金沢区の宝樹院にある。
人物像[編集]
日露戦争後のポーツマス条約に反対して、日比谷焼き討ち事件では大暴れした[11]。
又次郎は普通選挙推進運動の闘士だった。ある支持者が、政府から“扇動政治家”と批判される又次郎を心配して「又さんよ、普選運動なんか熱心にやったって、得にはならんよ。あんたの選挙にも不利になる。」と諭した。黙って耳を傾ける又次郎だったが彼は国会で貴族院が公言した「貧乏人に選挙権を与えるのは国家に反逆するに等しい」という考え方に猛烈に反発心を抱いていた。のちに又次郎はこう述懐している。「特権の牙城(がじょう)から民衆を睥睨(へいげい)していた特権階級を正義、平等の一線まで引き下ろす。それとともに虐げられた下層階級の地位を正義、平等まで引き上げる。両者の均衡と握手の間に幸福なる社会、健全なる国家を建設しようというところに希望の焦点がある」(『普選運動秘史』)[12]。
大正9年(1920年)2月、芝公園のデモを仕掛けた又次郎は選挙期間中さまざまな妨害にあった。「危険な社会主義者」「過激思想の持ち主の扇動政治家」「社会組織を脅威する危険分子」等又次郎を誹謗中傷する宣伝がなされた[13]
昭和6年(1931年)娘の芳江と純也が駆け落ちしたとき、又次郎は『帰って来い』と、新聞の尋ね人欄に広告までだしている[14]
家は清貧だった。40円の家賃滞納で伊皿子の借家を追い立てられたことがあった[15]
略年譜[編集]
- - 横須賀学校(横須賀小学校の前身)を卒業。家出をして上京、海軍士官予備学校に入る。
- - 横須賀学校(横須賀小学校の前身)の代用教員になる。
- - 再び上京、陸軍士官予備学校に入る。
- - 立憲改進党に入党。
- - 東京横浜毎日新聞に入社。
- - 日刊「公正新聞」創刊。
- - 神奈川県議会議員に当選。
- - 日比谷焼き討ち事件に参加。
- - 横須賀市議会議員に当選。
- - 衆議院議員に当選。
- - 衆議院副議長に就任。
- - 逓信大臣に就任。
- - 横須賀市長に就任。
- 9月24日 - 死去。
栄典[編集]
- 昭和26年9月24日:勲一等瑞宝章
家族・親族[編集]
- 実家
- 自家
系譜[編集]
- 小泉家
綾部幸吉━━━━ナオ (旧姓鮫島) ┃ 小泉純也 小泉由兵衛━┳━小泉又次郎 ┣━━━━━━┳━小泉純一郎 ┃ *━━━━━━━芳江 ┗━小泉正也 ┃ 石川ハツ ┃ ┗小泉岩吉
著書[編集]
- 『普選運動秘史』
参考文献[編集]
- 梅田功 『変革者 小泉家の3人の男たち』 2001年 角川書店
- 『小泉純一郎―血脈の王朝』139-146頁(佐野眞一 著、文藝春秋、2004年)
- 『小泉純一郎と日本の病理』29-34、39-43頁(藤原肇 著、光文社、2005年)
- 『ダークサイド・オブ・小泉純一郎』179-185頁(岩崎大輔 著、洋泉社、2006年)
- 『ヤクザと日本―近代の無頼』(宮崎学 著、筑摩書房、2008年)
関連項目[編集]
注釈[編集]
- ↑ 梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』28頁に「又次郎が生まれた当時、鎌倉街道に面したこの地は、戸数わずか三十二戸の小さな村であったという。父・小泉由兵衛は村の代々の鳶職だったが、のちに軍港横須賀に進出して、海軍に労働者を送り込む軍港随一の請負師になった」とある
- ↑ 当時の横須賀では沖仲仕の手配師として目兼の大親分と小泉組が縄張りを競い合い、博徒たちのにぎやかな出入りがくり返されていたという(藤原肇 著『小泉純一郎と日本の病理』29頁)。宮崎学の著書『ヤクザと日本―近代の無頼』54-55頁には「1884年(明治17年)に海軍鎮守府が置かれた横須賀は、日清戦争(1894~1895年)から日露戦争(1904~1905年)にかけて軍港として急速に発展したが、ここでも、軍艦に砲弾や燃料の石炭、食糧などを積み込む仲仕の組織が発達し、これを仕切る仲仕請負からやくざ組織が生まれていったのである。当時、横須賀でこの仲仕の仕切りでしのぎを削ったのが、博徒の目兼組と鳶の小泉組であった。この縄張り争いは、近世以来の古い型の博徒である目兼組を抑えて、新興の小泉組が制していく。そして、この小泉組を率いていた鳶の親方・小泉由兵衛が跡目を継がせた息子の又次郎がこの帰趨を決定的にし、小泉組は軍港のやくざとして一台組織を築くことになった。この又次郎こそが、のちの首相・小泉純一郎の祖父であった。この小泉組も、吉田磯吉と同じ時期、同じ環境から生まれてきた近代ヤクザのひとつにほかならない。」とある
- ↑ 梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』29頁
- ↑ 又次郎は「ぼくは小学校を出てそこの助教員をやっていたが、陸軍を志願して上京中に板垣の演説で、普選論者になっちまったんだ」と述べている(梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』59頁)
- ↑ 入れ墨を入れている者は軍人になることができなかった。又次郎が背中から二の腕、足首まで彫った入れ墨は、九門竜だったとも「水滸伝」の魯智深(ろちしん)、すなわち花和尚だったともいわれる(佐野眞一 著『小泉純一郎――血脈の王朝』140頁)。藤原肇 著『小泉純一郎と日本の病理』39-40頁に「巷間(こうかん)いわれている“軍人になるのを諦めるために刺青を彫った”という話はつくり話であり、やはりテキ屋の親分になるために彫ったという方が真相に近いと私は解釈している」とある。彫り師凡天太郎は「とくに港町ともなれば素性もわからないような流れ者がゴロゴロ集まった。そんな彼らの上に立つには、刺青を彫るような人物ではないと現場を仕切れなかったろう」と述べている(岩崎大輔 著『ダークサイド・オブ・小泉純一郎』58頁)
- ↑ 梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』34頁
- ↑ 梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』43頁
- ↑ 又次郎が衆議院副議長に選出された三日後、朝日新聞は一面に漫画家岡本一平が描く又次郎のコミカルな漫画を掲載している。ゴリラが背広を着たようなその絵はまさに「野人」を表現したものだった(梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』55頁)
- ↑ 浜口内閣で又次郎自身は、はじめ入閣するとは思っていなかった。又次郎は「野人に名誉は要らん。おれは大臣などにはならん。今度の内閣は、よほどうまくやってくれんと困る。だから、おれは大久保彦左衛門になって、悪いことでもあったら、すぐねじこんでやる。もう年寄りだから、いくら憎まれても、いいからな」などと、記者たちにたんかを切っていたが、その又次郎に大臣のポストが出された。「自分は入閣を辞退する」とまでいいはったが、延々一時間、浜口に誠意をこめて説かれて、折れた。そして、又さんもまた大臣を受けた。頭をかきながら、前言を取り消し、「どうも仕様がなくて、大臣にされてしまった。野人の歴史をけがして残念だが、山王台のように、どなってばかりもいられねえからな」と述べた(梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』56-57頁)
- ↑ 佐野眞一 著『小泉純一郎―血脈の王朝』153頁に「又次郎は生誕地近くの陋屋(ろうおく)で愛妾の寿々英に看取られながら、公職追放解除となった昭和二十六年(一九五一)年、八十六歳の生涯を閉じた」とある
- ↑ 梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』57頁
- ↑ 梅田功 著『変革者 小泉家の3人の男たち』49-50頁
- ↑ 梅田功 『変革者 小泉家の3人の男たち』53-54頁
- ↑ 梅田功 『変革者 小泉家の3人の男たち』87頁
- ↑ 梅田功 『変革者 小泉家の3人の男たち』58-59頁
- ↑ 小泉家の苦しい家計を支えたのは、又次郎が家業を譲った弟の岩吉だった。兄・又次郎同様、背中にみごとな入れ墨を入れた岩吉は、又次郎の度重なる無心にもいやな顔ひとつ見せず、必要な金を必ず用立てたという(佐野眞一 著『小泉純一郎―血脈の王朝』150頁)。
- ↑ 正妻ナオとの間に子がなかったので、石川ハツが芳江(小泉純一郎元首相の母)を産んだ。ハツの末娘・竹田綾子によると、ハツは富山県の滑川出身で、ハツの兄が横須賀に出て仕出し屋を開き、鳶の又次郎のところに出入りするようになったのが、ハツが又次郎のところに奉公するきっかけになったという。ハツはその後、又次郎の紹介でみこしなどを造る宮大工の山口忠蔵と結婚し、3人の子を産んだ。忠蔵の背中にも入れ墨があったといい、佐野眞一は「又次郎と山口はいわば “入れ墨兄弟” の関係ではなかったか」と想像している(佐野眞一 著『小泉純一郎―血脈の王朝』139-143頁)。
外部リンク[編集]
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