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2007年6月12日 (火) 23:48時点における最新版
ジャック・ラカン(Jacques Lacan、1901年4月13日 - 1981年9月9日)は、フランスの精神科医、精神分析家。
目次
概要[編集]
フランスの構造主義、ポスト構造主義思想に影響力を持った精神分析家。 フロイトの精神分析学を構造主義的に発展させたパリ・フロイト派のリーダー役を荷った。また、フロイトの大義派(École de la Cause freudienne)を立ち上げた。
新フロイト派や自我心理学に反対した。アンナ・フロイトの理論については、フロイトの業績を正しく継承していないとして批判し「アナフロイディズム」と呼び、「フロイトに還れ」と主張した。
生涯[編集]
初め高等師範学校で哲学を学ぶが、転学しパリ大学に移り、そこで医学を学ぶ。卒業後は精神科医として働いていたが、徐々にフロイトの精神分析学に傾倒、さらにアレクサンドル・コジェーヴのヘーゲル講義などに参加。パリ精神分析協会に所属し、同協会の会長に選ばれるが、会長就任後、同協会に内紛が生じ分裂した。1964年に自ら「パリ・フロイト派」を立ち上げた。だが同派も結局1980年に解散することになった。1981年に大腸癌により死去。
セミネール[編集]
計20年以上にわたりセミネール(セミナー、一種の勉強会)を開き、「対象a」「大文字の他者」「鏡像段階」「現実界」「象徴界」「想像界」「シェーマL」などの独自の概念群を利用しつつ、自己の理論を発展させた。セミネールの開催場所は、当初はサンタンヌ病院であったが、後にルイ・アルチュセールの計らいによって、高等師範学校となった。参加者には、ラカン派の臨床家だけでなく、ジャン・イポリット(ヘーゲル哲学者)、フランソワ・ヴァール(スイユ社編集者)などもいた。
著作物[編集]
ラカンは基本的には「語る」人であり、あまり「書く」人ではなかった(つまりセミネールで語りはしたが、あまり本の執筆はしなかった)。生前の著書らしい著書と言えばせいぜい1966年の『エクリ』(Écrits、「書かれたもの」あるいは「書き物」の意)があるだけであった。
ラカンの死後、ラカンの草稿・原稿類の管理はミレール(正統な後継者と見なされている人物)が行っている。2001年になって、『エクリ』に収録されなかった論文を集めた『他のエクリ』(Autres Écrits)が出版された。近年になり、未公刊だったセミネールの内容が順次公刊されてきており、日本での邦訳も進んできている。
ラカンの理論は内容的にも難解ではあるが、それ以上に、語り口が逆説的で、晦渋な言い回しをしきりに用いた。21世紀初頭では精神分析学そのものを擬似科学だとする見解が趨勢をしめているが、ジャック・ブーヴレスは、論理実証主義的な見地から、ラカンについても批判している。またラカンは特に後期(おおむね1970年代以降)において、理論の解説のために、自己流の(一見は)数式風の表現を援用したが、物理学者アラン・ソーカルらは、これが全くのデタラメなものであるとして、ラカンの数式風の表現は科学的な外観を装う粉飾だと批判した(→ソーカル事件参照)。
ラカン派のその後[編集]
フランスでは一口に「ラカン派」とはいっても、さまざまの団体・流派に分かれて活動することになった。 いわゆる「正統派」は「フロイトの大義派」およびパリ第8大学精神分析学科を拠点に、ミレールを中心とした分析家たちが研究と教育を通じて活動している。また、ミレールの教育分析を担当したシャルル・メールマンは別の団体「国際ラカン協会」(Association Lacanienne Internationale)を設立し、「正統派」とは独立に活動している。また、アルゼンチン出身のJ=D・ナシオ(フランス読みでは「ナジオ」)は、フランソワーズ・ドルト(ラカンが信頼していたとされる僚友)の協力を得て「パリ精神分析セミナー」(Les Séminaires Psychanalytiques de Paris)を主宰し、独自の方法でラカン理論の再解釈を精力的に展開している。
フランス国外にもラカン派精神分析学の影響はあった。南米方面(アルゼンチン、ブラジルなど)では、世界精神分析協会(Association Mondiale de la Psychanalyse)は、「フロイトの大義派」と連携しつつ活動している。また、かつてラカンおよびパリ・フロイト派を「破門」した国際精神分析学会(International Psychanalytical Association)内部でも、ラカンを研究しようという動きもあり、かつての緊張関係は緩んできている。これに並行してロンドンにも「新ラカン派」(New Lacanian School)が旗揚げされ、「フロイトの大義派」と人的交流を持つに至っている。
理論[編集]
鏡像段階論[編集]
初期ラカンを代表する、発達論的観点からの理論。
鏡像段階論とは、幼児は自分の身体を統一体と捉えられないが、成長して鏡を見ることによって(もしくは自分の姿を他者の鏡像として見ることによって)、鏡にうつった像が自分であり、統一体であることに気づくという理論。生後6ヶ月から18ヶ月のあいだに幼児はこの過程を経るとされる。
幼児はいまだ神経系が未発達であり、自己の身体の統一性を獲得していない(「寸断された身体」)。そこで幼児は鏡に映る自己の姿を見ることにより、自分の身体を認識し、自己を同定していく。この鏡とはまぎれもなく他者のことでもある。つまり人は他者を鏡にすることにより、他者の中に自己像を見出す(この自己像が「自我」となる)。
すなわち、人間というものはそれ自体まずは空虚なベース(エス)そのものであって、いっぽう自我とはその上に覆い被さり、その空虚さ・無根拠性を覆い隠す(主として)想像的なものである。自らの無根拠や無能力に目をつぶっていられるこの想像的段階(この段階が鏡像段階に対応する)に安住することは、幼児にとって快いことではある。
しかしながら、人間が自己同一性や主体性をもち・それを自ら認識するには、言語の媒介・介入が欠かせない。つまり象徴界へと参入するということは、想像界に安住するのを禁ずる父の命令(「父の名」)を受け入れることであり、このことは社会的な法の要求を受け入れること、自分が全能ではないという事実を受け入れることと同義である(なおこの受け入れ過程は、幼児の全能性=「ファルス」を傷つけることという意味で、「去勢」と呼ばれる)。こうして、人間は自らの不完全性を認めることによってはじめて、不完全であるところの自己を逆に積極的に確立するのである。
逆に見れば、自己を同定し、自我を確立するためには他者が必要だが、決してそこで真の自己と出会えるわけではない。人は常に「出会い損ね」ている存在なのだ。ここに人間の根源的な空虚さを見出せるとも言える。
このように、彼の言う「我、思わぬ故に我あり」は、フロイトの「エスがあったところに自我が生じなければならない」という警句の別言である。ラカンの鏡像段階論は、フロイトのエディプス理論のラカン的読み替えなのである。
構造論的転回[編集]
ラカンはローマン・ヤコブソンやエミール・バンヴェニストらを通じて、フェルディナン・ド・ソシュールの構造主義言語学の影響を受けている。
ソシュールによれば、記号はシニフィアンとシニフィエの対からなる。ソシュールはそのことを
- <math>\frac{SE}{SA}</math>
と表記した。ラカンはそれを上下逆にし、SA→S、SE→sと記号を変えて
- <math>\frac{S}{s}</math>
と書く。上下を逆にしたのはラカンの「シニフィアンの優位」という考え方に関係がある。ソシュールにとっても、シニフィアンの差異こそがシニフィエの差異を生みだすのだから、その考え方においてはソシュールとラカンは共通している。しかし上が下を規定する、というニュアンスからラカンはこの分数表記を上下逆にしている。
さらにラカンは、ヤコブソンの失語症研究より、失語症に見られる2つのタイプが、それぞれ隠喩と換喩という修辞表現の対立と並行関係がある、との示唆を受ける。
シェーマL[編集]
シェーマLは主体S、他者A、他者a'、自我aからなる。
Sは主体(sujet)を表すとともに、エス(Es)も表す。Aは他者を表す。
a'は他者を表す。aは自我を表す。Aとa'は異なるものである。
主体Sと他者Aを結ぶ軸を象徴的な軸という。他者a'と自我aを結ぶ軸を想像的な軸という。
批判[編集]
ラカンは特に後期(おおむね1970年代以降)において、理論の解説のために、自己流の(一見は)数式風の表現を援用したが、物理学者アラン・ソーカルらは、これが全くのデタラメなものであるとして、ラカンの数式風の表現は科学的な外観を装う粉飾だと批判した(→ソーカル事件参照)。
著書[編集]
邦訳著書(セミネール以外)[編集]
- 『エクリ(1-3)』(弘文堂, 1972年)
- 『二人であることの病い――パラノイアと言語』(朝日出版社, 1984年)
- 『ディスクール』(弘文堂, 1985年)
- 『家族複合』(哲学書房, 1986年)
- 『人格との関係からみたパラノイア性精神病』(朝日出版社, 1987年)
- 『テレヴィジオン』(青土社, 1992年)
セミネール[編集]
- Les Ecrits techniques de Freud 1953-1954 (『フロイトの技法論(上・下)』岩波書店, 1991年)
- Le Moi dans la theorie de Freud et dans la technique de la psychanalyse 1954-1955 (『フロイト理論と精神分析技法における自我(上・下)』岩波書店, 1998年)
- Les psychoses 1955-1956 (『精神病(上・下)』岩波書店, 1987年)
- La relation d'objet 1956-1957
- Les formations de l'inconscient 1957-1958 (『無意識の形成物(上)』岩波書店, 2005年)
- Le desir et son interpretation 1958-1959
- L'ethique de la psychanalyse 1959-1960 (『精神分析の倫理(上・下)』岩波書店, 2002年)
- Le transfert 1960-1961
- L'identification 1961-1962
- L'angoisse 1962-1963
- Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse 1963-1964 (『精神分析の四基本概念』岩波書店, 2000年)
- Problemes cruciaux pour la psychanalyse 1964-1965
- L'objet de la psychanalyse 1965-1966
- La logique du fantasme 1966-1967
- L'acte psychanalytique 1967-1968
- D'un Autre a l'autre 1968-1969
- La psychanalyse a l'envers 1969-1970
- D'un discours qui ne serait pas du semblant 1971
- ...ou pire 1971-1972
- Le savoir du psychanalyste 1971- 1972
- Encore 1972-1973
- Les non-dupes errent 1973-1974
- R.S.I. 1974-1975
- Le sinthome 1975-1976
- L'insu que sait de l'une bevue s'aile a mourre 1976-1977
- Le moment de conclure 1977-1978
- La topologie et le temps 1978-1979
- Dissolution 1980