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'''死'''(し)とは、[[生命]]活動が不可逆的に止まること、あるいは止まった状態。即ち、死ぬことや死んでいる状態、滅ぶことや滅んだ状態、存在しない状態である。[[対義語]]は[[生]](せい、いのち)または[[誕生]]。
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{{Otheruseslist|死そのもの|死の文化的な位置付け|死と文化|法令や社会における人の死を意味する様々な用語|死亡|権利の主体としての人の死|人の終期}}
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{{複数の問題|独自研究=2018年10月|出典の明記=2009年5月}}
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「Wikipedia:検証可能性」(WP:V)のルール。
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「出典が明示されていない編集は、誰でも取り除くことができます(【出典のない記述】は【除去】されても文句は言えません)。」
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「私たちがウィキペディアで提供するのは、信頼できるソース(情報源)を参照することにより「検証できる」内容だけだということです。」
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「Wikipedia:信頼できる情報源」(WP:RS)のルール。
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「【もっとも信頼できる】のは、その分野の【書き下ろし教科書】です。こうした教科書の著者には、その科目について幅広く権威のある知識を持っていることが期待されるからです。一般的に、【大学で使われる教科書】は頻繁に改訂が行われ、権威を保ち続けようと努めます。」
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「一般的には【査読された公表物】は【もっとも信頼できる】と考えられ、権威づけられた専門家による公表物がそれに次ぎます。」
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「二次資料
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ひとつまたはそれ以上の一次資料または二次資料を要約したものです。【学者】によって書かれ、【学術的な出版社】によって出版された二次資料は、品質管理のために注意深く精査されており、【信頼できる】と考えられます。」
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詳細は「Wikipedia:検証可能性」(WP:V)、「Wikipedia:信頼できる情報源」(WP:RS)を参照。
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'''死'''(し、{{lang-en|death}})とは、
  
転じて、[[組織 (社会科学)|組織]]の滅亡や、そのものがもつ本来の機能が失われることを例えて「死」と表現することもある。例:「[[]]の死」、「[[ローマ帝国]]の死」、[[相撲]]の「[[死に体]]」、[[野球]]の「[[死球]]」(デッドボール)など。
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*[[]]がなくなること<ref name="koujien">広辞苑 第五版 p.1127</ref>。[[生命]]がなくなること<ref name="daijisen">大辞泉</ref>。生命が存在しない状態<ref name="daijisen" />。<!--生命活動が止まること・止まった状態{{要出典|date=2013年12月}}。-->
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*機能を果たさないこと、役に立たないこと<ref name="koujien" />(→[[#比喩的な用法]]を参照)
  
== 定義 ==
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ただし、何をもって人間の死とするのか、その判定や定義は文化、時代、分野などにより様々である(→「[[#死亡の判定・定義|死亡の判定・定義]]」節を参照)。一旦は命が無いとされる状態になったが再び生きている状態に戻った場合、途中の「死」とされた状態を「仮死」や「仮死状態」という。伝統的に[[宗教]]、[[哲学]]、[[神学]]が死を扱ってきた。近年では、[[死生学]]、[[法学]]、[[法医学]]、[[生物学]]等々も死に関係している。死の後ろに様々な言葉をつなげ、様々なニュアンスを表現している。例えば「[[死亡]]」「[[死亡#死去|死去]]」「[[死亡|死没]]」などがある。
[[]]は、鼓動と呼吸の停止をもって死んだものとする見方が一般的である。しかし死にはさまざまな定義がある。
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現在の定義のひとつに、「[[生命]]活動が不可逆的に止まる事」<ref name=definition>関西医科大学大学院法医学生命倫理学研究室による[http://www3.kmu.ac.jp/legalmed/topics/brain.html 関西医科大学法医学講座]</ref>というものがある。不可逆的と言う意味を理解するには人間の例で考えると分かりやすい。人間の[[髪の毛]]や[[爪]]は[[心臓]]・[[肺]]・[[脳]]が全て停止していても、数日間は伸び続ける。この間は毛根[[細胞]]は生きているが、心肺脳が全て停止している場合、やがては毛根の活動も停止してゆくことは免れない。このように[[個体]]の状態の不可逆的な活動停止への変化を死と言う。逆に事故などで心肺停止状態に陥っても[[心肺蘇生]]によって息を吹き返した時には、この間の心肺停止は可逆的なので死とは言わない<ref name=definition>関西医科大学大学院法医学生命倫理学研究室による[http://www3.kmu.ac.jp/legalmed/topics/brain.html 関西医科大学法医学講座]</ref>
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世界においては1日あたり、おおよそ15万人が死を迎えるが、そのうち2/3は高齢による加齢関連が死因である<ref name="doi10.2202/1941-6008.1011"/>。先進国になるとその割合は高く、90%ほどが加齢関連である。
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{{Seealso|防ぎうる死}}
  
== 生物学的な意味での死 ==
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== 診断 ==
死に至った場合、生物体は次第に崩壊に至る。これは主として二つの作用による。
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=== 判定・定義 ===
*ひとつは、生物体自身が自らを分解することである。たとえば消化酵素のように、生物体を分解することが可能な酵素は生物体内のあちこちに存在しており、これによって生物体が分解されないのは、生命活動のひとつとして、それらを隔離した状態にする活動があるからである。死によってそれが止まれば、生物体は自ら分解を始める。
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どのような状態になったことを「死」とするのかということについては、各[[地域]]の文化的伝統、ひとりひとりの心情、医療、法制度、倫理的観点などが相互に対立したり影響しあったりしており、複雑な様相を呈している。領域ごとに異なった見解があり、またひとつの領域でも様々な見解が対立している。たとえば今 仮に、医学的な見解ひとつに着目してみた場合でも、そこには様々な見解がありうる。[[養老孟司]]は次のように指摘した。
*もう一つは、他の生物に分解されることである。生物の体は、それ以外のさまざまな生物にとって有益な栄養源である。特に微生物は常に空気中などから侵入を試みている。これが成功しないのは、生きた生物には[[免疫]]の働きがあるからである。死によってその活動が止まれば、たちまちそれらの侵入と繁殖が始まる。
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{{Quotation|生死の境目というのがどこかにきちんとあると思われているかもしれません。そして医者ならばそれがわかるはずだと思われているかも知れません。しかし、この定義は非常に難しいのです。というのも、「生きている」という状態の定義が出来ないと、この境目も定義できません。嘘のように思われるかも知れませんが、その定義は実はきちんと出来ていない{{Sfn|養老孟司|2004|p=55}}。}}
  
=== 単細胞生物等の死 ===
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ここではまず、多くの人々がとってきた見解を中心に、様々な見解を説明してゆく。
[[単細胞生物]]等は分裂することで幾らでも増加し、他の生物に食べられる、あるいは事故等がない限り幾らでも[[生命活動]]を続けられる。この場合は[[寿命]]([[老化]])による死という概念が曖昧な場合がある。例えば、現存する全ての生物は生命誕生以来分裂によって進化してきたので、その生命活動は今までに一度も途絶えておらず、したがって一度も死んだ事がないという考え方がそうである。
+
  
しかし、よく考えれば多細胞生物の場合にも生殖細胞においては親代々に引き継がれていることに代わりはないのであって、むしろ多細胞生物では生殖細胞以外の[[栄養体]]部を構成する細胞の大量死がなぜ起きるか、を考えるべき、との考えもあろう。
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;息が止まること
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:伝統的に[[生命|命]]は[[息]]と強く結びつけられて考えられてきた。よって、息が無くなった状態は死だと考えられてきた。
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;全身のさまざまなしるし
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:日本人では、従来(そして現在でも一部では)、[[爪]]や[[髪]]が伸びる間は、まだ(ある意味で)命はまだあるのだ、と感じている人がいる。現在でも、自分の親や子供などを亡くした遺族などの中には、家族(の身体・遺体)の髪や爪が伸びているのを見て、まだ生きていると感じ、[[荼毘]]に付すのを拒む人がいる。
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;臨終の場における医師の恣意的な判断
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:前述のように実際には医師にとっても生と死の境目ははっきりしているわけではない。ただ、言葉として「生死」という言葉があり用いられている以上、「間に切れ目がある」という前提が置かれてしまっており、また社会の制度としては、どういう形にせよ、切れ目を決めることを求められることになり、実体とは関係なく、法律というものは言葉で組み立てられているので、死を(法的に、形式主義的に)規定することが可能で、死亡診断書の「死亡時刻」欄に何らかの時刻を書くことで「この時点から死だ」とすることに決められている{{sfn|養老孟司|2004}}。よって(本当は境目ははっきりしていないのだが)医師は死亡診断書の「死亡時刻」欄を空欄にしておくことは許されず、(ともかくそれに書き込み)それによって「死の瞬間」が(形式的に)決定される。しかし、これは言葉の上で(恣意的に)決めたにすぎず、実体としての「死の瞬間」とは別のものである{{sfn|養老孟司|2004}}。
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;三兆候
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:医療で用いられる「死の三兆候」で、次の三つ。
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:* [[自発呼吸]]の停止
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:* [[心拍]]の停止
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:* [[瞳孔]]が開く
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:数十年前に臓器移植の問題が出現するまで、こう考えておけば基本的には問題はなかった{{sfn|養老孟司|2004|p=69}}。
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;バイタルサイン
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:現代の医療の現場では、基本的にまず[[バイタルサイン]]を見て生命の状態を判断している。つまり心拍数・呼吸数・血圧・体温である。そしてバイタルサインによる生命のしるしが無くなった段階で、[[瞳孔反射]]を調べ、それも無い場合に死亡したと判断する、というのがひとつの(よくある)方法である。<ref group="注">死の判定をする医療者について。原則として医師と歯科医師以外の者が患者の死亡を宣言する権限はない。消防機関の救急業務規程の中では、「明らかに死亡している場合」や「医師が死亡していると診断した場合」には、救急隊は患者を搬送しないと定められている。すなわち、それ以外の場合では、患者が生存している可能性があるものとして取り扱うことが求められている。「明らかに死亡」とは、断頭、体幹部の離断、死体硬直、死斑、腐敗、炭化、ミイラ化その他の明らかに生存状態とは矛盾する身体への損害(いわゆる社会死状態)をいう。社会死要件を満たさない場合、救急隊員は救命措置を開始後に、医師の診断を受けるまでそれをやめてはならない。病院到着時の診察で死亡が確認されることを、DOA(Dead on arrival = 病院到着時すでに死亡)という。
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</ref>
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;臓器移植と線引き
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:死は実は定義困難なのだが、医療の現場では前述の「死の三兆候」を用いることで、ともかくそういう細かいことを考えずに済んでいた。ところが、臓器移植という問題が出てきた段階で考え込まざるを得なくなった{{sfn|養老孟司|2004|p=69}}。
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:米国などで医師の一部によってさかんに[[臓器移植]]の試みがなされるようになると、こうした医師はできるだけ新鮮な臓器を使いたいと考え、少しでも早く臓器を摘出したいと考えるようになった。そのほうが移植された人の[[予後]]は良好になる傾向があるからである。だが、新鮮な臓器のほうが予後が良好だからと言って、早めに臓器を取り去った後に、その人は手術時に「生きていた」とされ、臓器を取ったことによって「死んだ」状態になったと判断されると、その一連の行為は(一種の)「[[殺人]]」ということになってしまう。そこで、臓器移植をさかんに行おうとする医師たちなどが、[[意識]]の有無を生死の線引きに用いることを提唱し、「[[脳死]]」という概念を用いることを主張した。それによって、人工心肺などを用いることで、脳が死んだ状態でも、残りの臓器はかわらず生かしておき、その新鮮な状態の臓器を移植することができる、と考えるようになったのである。彼らは「脳の電気的活性の停止が意識の終わりを示す」と考え、「脳の電気的活性が止んだとき、人間は死んだのだ」と言うようになった<ref group="注">生きている、死んでいる、ということは客観的に決められる、と一般人はしばしば思っているが、実はそういうことはなかなか決められない。だから、江戸時代に(医学研究のために)[[解剖]]を行う時も、その対象は刑死体(=死刑に処せられ死んだ人の遺体)だった。というのは、遺体を解剖で切るにしても、「もしも生きていたらどうする」という心配がつきまとうが、(前述のように)生死の境目は厳密にははっきりせず、もしはっきりするまで待とうとなると、肉が腐って骨になるまで待たなければならなくなり、「ここまで(腐るまで)見たから死んでいる。これなら死んでいないとは言わせない」という時点まで待つと、今度は(組織が腐って破壊されており)解剖する意味がなくなる状態になってしまう。だから、生死の判定というそもそもはっきりしないことについて心配しなくてよい唯一の対象である死刑囚を解剖の対象として選んだのだ、と養老は解説した。死刑囚ならば、解剖を開始した後に「生きていたかも知れない」とか「まだ生き返るかも知れない」などと言われても「大丈夫、これはもう死ななければならない人なんだから」という論理が成り立ったというのである。{{Harv|養老孟司|2004|pp=66-67}}</ref>。
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:「脳死」という考え方は、様々な激しい議論を生み、かなりの論争にもなった、現在では一時ほどは激しくはないが、今も様々な議論は続いている。
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:現代では「脳死が死だ」というふうに捉える人もいるであろう{{sfn|養老孟司|2004|p=57}}。だがこの「脳死」概念ですら線引きは様々で、(脳のどこが死んだ段階を「脳死」とするか意見は分かれ)、「脳の神経細胞が全部死んだ時点が脳死」とする人もいる{{sfn|養老孟司|2004|p=57}}。しかし、仮にこの論法を取る場合でも、一体どの時点で神経細胞が全部死んだのか、実はわからない{{sfn|養老孟司|2004|p=57}}<ref group="注">実は意識の有無の判定も容易ではない。意識の停止は睡眠中や昏睡中にも起こりえるため、停止は一時的なものではなく、永続的で回復不能なものでなくてはならない。意識の停止がたんなる睡眠であった場合は[[脳波計]]で比較的簡単に確認できる。
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だが、脳の一部の機能が失われたと外的にモニタできた場合でも、その状態で意識があるのか無いのか、判断できない場合が多い。</ref><!-- Among human beings, brain activity is a necessary condition to legal personhood in the United States. "It appears that once brain death has been determined … no criminal or civil liability will result from disconnecting the life-support devices." (Dority v. Superior Court of San Bernardino County, 193 Cal.Rptr. 288, 291 (1983)) アメリカの例であるため訳さず。--><ref group="注">一部の人は、[[脳幹]]が生きているかどうかを線引きに使えばいい、と主張している。だが、脳幹の機能が停止しているにもかかわらず、聴覚野のほうは生きて機能を保っていて、周囲の人の言葉を理解している患者の事例も発見された。</ref><ref group="注">一部の人は、「人間の意識に必要なのは脳の[[新皮質]]だけである」と主張している。こうした人は「新皮質の電気的活性だけを基準に死の判定をすべきである」とする。"[[大脳皮質]]の死によってもたらされる認識機能の永続的で回復不能な消失が、死を判定する基準となる"と述べる人もいる(関西医科大学大学院法医学生命倫理学研究室による[http://www3.kmu.ac.jp/legalmed/topics/brain.html 関西医科大学法医学講座])。"人の思考と人格を回復する望みはないから"と考えるのである。</ref><ref group="注">酸欠によって大脳皮質の機能が失われた場合でも、脳の電気的活性が脳波計が感知するにはあまりに低かった場合、何も存在しなくても、脳波計はノイズ(見かけの電気信号)を感知することがある。(病院では、脳波計を使って死を判定をするときは、病院内で広く空間を隔てるなどの精巧な実施要綱があるという。)</ref><!--
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次はおそらく米国に特徴的な一部の論調。[[Wikipedia:中立的な観点|中立的記述]]にする必要あり。
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現時点では、より保守的な、「大脳全体の電気的活性の停止をもって人の死」とする論が大勢を占めている{{要出典|date=2013年12月}}。
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--><ref group="注">米国では、2005年に、植物状態におちいった[[テリー・スキアボ]]の[[尊厳死]]を巡る事例が、アメリカの政治を脳死と人為的な生命維持の問題に直面させた。一般的に、そのように死の判定を巡って争われた事例で、脳の死因は無酸素状態によって起こる。
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大脳皮質はおよそ7分間の酸欠で死に至る。</ref><ref group="注">[[人工心肺]]などの医療技術が登場したことによって、[[心肺停止]]状態でも恒常的に脳を生かし意識を保つことも可能になった。また、[[脳]]機能のみが廃絶しても心肺機能を人工的に維持することが可能となり、心肺機能が保たれているが脳の活動を示す所見がない状態を「[[脳死]]」、心肺停止による心肺脳全ての停止を「心臓死」と呼ぶようになった。また、人間の心臓や肺に代わる[[生命維持装置]]、あるいは[[心臓ペースメーカー|ペースメーカー]]などによって生命を保つことが可能な場合が現れた。また、心肺蘇生術と迅速な細動除去の発達によって、鼓動や呼吸は再開させることができる場合も現れ、死に関する従来の医学的な考え方でも割り切れなくなってきた。そして心拍や呼吸の停止を「[[臨床死]]」と呼びわけることも行われるようになった。「死」をめぐる状況は複雑化してきているのである。</ref>。
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:脳死の議論は、一見したところではまるで科学の話のようでも、本当は問題となっているのは、社会が一致して決める「死」が問題の中心になっているようだと養老は指摘した{{sfn|養老孟司|2004|p=67}}。臓器移植を巡る「脳死」概念では、臓器移植をしようとする医師、臓器をとられる人とその家族、臓器を受け取る人の立場 等々は対立していてかみあわない。
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:そもそも、人体というのは様々な種類の[[細胞]]で出来ていてそれらが全体で生きているのに、そうした数多くの細胞の中から脳の神経細胞だけを特別視するほどの明確な根拠があるわけではない{{sfn|養老孟司|2004|p=57}}と養老孟司は指摘した。
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:脳の神経細胞だけを特別視するということは、皮膚や筋肉の細胞を差別(軽視)している、ということになる{{sfn|養老孟司|2004|p=59}}。おまけに筋肉というのは、「脳死」の判定後でも電気刺激を与えるとよく動く{{sfn|養老孟司|2004|p=58}}。筋肉は生きつづけているのである。こういうことからも、"「生死の境目」や「死の瞬間」は厳格に存在している"とする考えは、思い込みにすぎないことがわかる、と養老は書いた{{sfn|養老孟司|2004|p=58}}。
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:「[[臓器移植法]]」を見ても、そういうことはよく現れている{{sfn|養老孟司|2004|p=70}}。同法には "脳死は死である" などとは書かれていない{{sfn|養老孟司|2004|p=70}}。単に、脳死状態の患者からは臓器を移植してもよい、としか書いていない{{sfn|養老孟司|2004|p=70}}。つまり、生死の線引きをはっきりさせようとこだわると困る人がいるからそれを言わないようにしているわけで、「脳死者から臓器移植していい」というのは「どうせなら鮮度がいい臓器がいい」という(外科医や、臓器を受け取る側の)事情・都合で決めたに過ぎない{{sfn|養老孟司|2004|p=70}}。
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:また[[村上陽一郎]]も、医学が人間をパーツの集まりとしか見なくなったから「脳死」などという概念を作りだしたのであって、苦しむひとりひとりの人間としての患者への視点がすっかり欠如してしまっているからそうなってしまっている、と指摘し、「脳死」という概念はかなり不適切だ、と指摘している<ref>村上陽一郎『生と死への眼差し』青土社 2000、ISBN 4791758625</ref>。
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:{{See also|脳死}}
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:臓器移植と脳死を巡って議論が活発だった時に、死(脳死)を「これから先は死に向かって、不可逆的に進行する過程になる状態である」と書いた人がいた{{sfn|養老孟司|2004|p=68}}。法医学の教員でも、「人の死は、[[心臓]]・[[肺]]・[[脳]]、それら全ての不可逆的な機能停止」という人がいる。「生命活動が不可逆的に止まる事」などとも<ref name="注">関西医科大学大学院法医学生命倫理学研究室サイト掲載情報[http://www3.kmu.ac.jp/legalmed/topics/brain.html 関西医科大学法医学講座]</ref><ref group="注">こういう提案をする人は、「不可逆的」の意味を理解するには人間の例で考えるとわかりやすい、と言う。人間の[[髪の毛]]や[[爪]]は[[心臓]]・[[肺]]・[[脳]]が全て停止していても、数日間は伸び続ける。この間は毛根[[細胞]]は生きているが、心肺脳が全て停止している場合、やがては毛根の活動も停止してゆくことは免れない。こう考えて、「[[個体]]の状態の不可逆的な活動停止への変化が死」だと言う。この考え方では、逆に事故などで心肺停止状態に陥っても[[心肺蘇生]]によって息を吹き返した時には、この間の心肺停止は可逆的なので死とは言わない、のだという。(出典:関西医科大学大学院法医学生命倫理学研究室による[http://www3.kmu.ac.jp/legalmed/topics/brain.html 関西医科大学法医学講座]</ref><ref group="注">養老孟司は、このような「死に向かって不可逆的に進行する過程になる状態」が死だ、とする定義は、もっともらしく聞こえはするが、根本的に問題がある、と指摘している。というのは、そもそも人間は全員死ぬ。つまり、人間は全員、生まれた時から死に向かって不可逆的に進行する存在であり、後戻りできない。そもそも人は誰でも、最初からその状態で生きているのに、「不可逆的に…」といったことを定義として持ち出す論者は、ある人が、論者がイメージする"死に向かって不可逆的に進行する過程" なるものに、いつから入ったのか、どうやって判定するのか? と、養老はその定義・論法の問題点を指摘している。{{Harv|養老孟司|2004|p=69}}</ref>。
 +
:{{Main2|法律上、何をもって人の死とするかという問題については「[[人の終期]]」も}}
 +
:立場によって見解は異なり、現在でも「死」の判定や定義については、それぞれの立場で、様々な見解が示され続けている。
  
他方、実際にはクローニングにも限界が存在するようで、ゾウリムシによる実験では自家生殖や接合を行わせないよう注意深く飼育したところ、350回程度の細胞分裂の後に死を迎えたという。単細胞生物にも寿命は存在するようである。
+
=== 法的 ===
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{{Seealso|死亡}}
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ほとんどの国では医師による[[死亡診断書]]によって法的な死とする。
  
この限度を越えるためのしくみが[[有性生殖]]である、との説もある。上記の例では、分裂の続行が不可能になったゾウリムシが[[接合]]の後、再び分裂できるようになったとの観察があるらしい。
+
=== 誤診 ===
 +
{{Seealso|早すぎた埋葬}}
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医師に死亡を宣告された後、生き返った人々の逸話が多くある。
  
=== 多細胞生物の死 ===
+
イギリスの[[ビクトリア時代]]のそのような逸話では、あるものは[[エンバーミング|防腐処理]]を始めた時に、あるものは死の数日後に棺の中で意識を回復するなどして動き回ったりする。当時のイギリスでは、このような早すぎた埋葬を、強迫観念的に恐れるようになる人がいた。同時代以前には、[[ペスト]]などの伝染病流行時に、感染を恐れて検死がずさんだったりするケースもしばしばあったとされ、これが死者復活(→[[吸血鬼]][[ゾンビ]][[グール]]など)の伝承となったと考える者もいる。<!--中には悪趣味な墓泥棒が遺体から金目のものを奪った後、死体をあたかも自分で動き回ったかのように転がしたケースもあるかもしれないが。-->
[[多細胞生物]]では[[細胞]]・[[組織 (生物学)|組織]][[個体]]の死は区別される。
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<!--
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===進化と死===
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進化論的観点からは以下のように説明される。[[細胞]]は寿命を持つためのタイマーを仕掛けている。[[染色体]]の先にある[[テロメア]]。これが[[命の回数券]]である。細胞が[[分裂]]する度に、テロメアは短くなっていき、最終的にそれ以上分裂できない状態で死を迎える。つまり、[[ヒト]]を始め[[生物]]は全て生まれた瞬間から死に向かって走っているのである。
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では、生命はいつ死を迎えるのか。また、それは何故か。
+
これらは、その当時の[[検死]]技術が完全ではなく、[[ショック]]状態における体温の急激な低下や、呼吸量の著しい減少、あるいは血圧低下による脈の微弱な状態を死亡と誤って判定したケースや、一時的な心肺停止後に偶発的に心臓の鼓動が正常に戻るなどして「生き返った」とみなされたのだろう。このため近代的な検死では、最初のチェックから一定時間後に生命の兆候がないかを再チェックするようになっている。<!--ちょと自信がないのでSelfコメントアウト:今日、重大な事故の被害者が病院搬送から一定時間後に「死亡が確認される」のも、この再チェックのための期間があるためである。-->
生物は全て、子孫繁栄を目的として生きている。言い換えれば、子孫を作りさえすれば目的は達成されることになる。例えば[[サケ]](寿命:4年)は、成長すると川に帰ってきて産卵し、[[コルチステロン]]という[[ホルモン]]を分泌して死ぬ。産卵という最期の偉業をなすと、[[親]]は死ぬ。[[タコ]]の場合も同様。タコ(寿命:1年半)の生命の終わりは[[オプティック・グランド]]というホルモンの分泌だ。[[卵]]を守り、育て、生まれるとオプティック・グランドが放出され、死を迎えるのだ。
+
  
それが大型動物の場合、例えば[[哺乳類]][[鳥類]]の場合、子を儲けただけでは終わらない。自分の子が子供を産めるくらいになるまで子育てをすることになる。ヒトと99%同じ[[遺伝子]]をもつ[[チンパンジー]]の場合も子を産むと5年で死を迎える。だが、ヒトは子育てをしても死ぬ事はない。何故ヒトは子育てをしても死なないのか?
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検死技術の発達以前における[[土葬]]では、このように生きているにもかかわらず埋葬され、生き埋めとなる可能性は誰にでもあり、またそれらの可能性は大変な恐怖を伴った。そのため発明家たちは被埋葬者の状態を棺外に伝える方法を発明した。地表にはベルと旗があり、それが棺内にひもでつながっていた。棺の蓋には金槌や滑車装置で壊せるガラスの仕切りがあった。しかしこれは気休めでしかなく、この滑車装置が棺にかけられた土のため機能し得ず、棺を破壊したところで割れたガラスと土が被埋葬者の顔を覆う事になる。([[安全な棺]]も参照)
  
何万年も前から生物は死と向かい合って生きている。今から38億年前、生命に寿命というものは無かった。個体をほぼ無限にコピーする[[無性生殖]]であったからである。そこには親子や親戚の関係などはまったくなく、[[進化]]の術といえば[[突然変異]]でしかなかった。しかし、この方法には大きな問題があった。一度[[環境]]が変わり、その個体の生息できるような環境ではなくなると瞬く間に全滅してしまうからである。そんな滅亡の危機にさらされながら生きてきた[[無性生物]]の中に、これまでと違う画期的な生殖方法を持つ生物が誕生する。その方法が[[有性生殖]]である。有性生殖とは2つの遺伝子を組み合わせて子を誕生させる方法である。(詳細は各項目を参照の事)この生殖方法のおかげで雄と雌ができ、進化の機会は飛躍的に増えた。したがって生物は無性生殖のときに比べて、より地球の環境に適した個体を生み出すことが可能になった。地球上の生命は無限の可能性を秘めることになったのである。
+
== 原因 ==
 +
人間が死に至る原因を「死因」と言う。
  
しかし、その可能性とは引き換えに寿命が与えられることになる。何故なら、寿命という期限がなければ、かえって古い種と新しい種が入り混じり環境が不安定になる上、個体が無制限に増えることで環境がパンクしてしまうからだ。それぞれの個体に与えられた使命に、子孫を未来に繋ぐ事が含まれるようになった。こうして[[有性生殖]]により生物種が増え、地球上のあらゆる環境に適応した生命体であるが、親は次の世代の存続と引き換えに死を受け入れることが強いられる。だが、ヒトの場合、それだけではなく、他の生物には存在しない何故か[[老後]]という状態が存在することになった。
+
{{要出典範囲|直接的に死亡に繋がった原因の事を「直接死因(direct cause of death)」と言い、直接死因を招いた原因を「原死因(underlying cause of death)」と言う。|date=2014年9月}}
  
諸説ある人類誕生説の1つである[[アフリカ]][[グレート・リフト・バレー]]にその答えの鍵がある。[[マグマ]]の活動によって[[隆起]]し誕生した大地溝の東側と西側では荒野と雨林の2つのまったく正反対の気候になった。東側に取り残された[[サル]]の祖先は、樹上生活が営めなくなり、地上に降りた。[[二足歩行]]の開始である。[[アフリカ]][[砂漠気候]]がヒトの誕生の第1歩をもたらしたのである。自由になった前足:すなわち、手で道具を生み、脳が飛躍的に発達する。これが言語の誕生を促し、ヒトとしての技術を身に付けたのである。遺伝子では伝えられない情報:記憶を言語によって伝達することが可能になった。たとえ、繁殖する能力を失っていても叡智を持っている老後を迎えたヒトは次世代にそれらの情報を伝えるべく老後が存在すると考えられる。
+
(一般的な死因の分類と必ずしも一致するわけではないが参考までに)[[死亡診断書]]での「死因」の分類では次のようになっている<ref name="kansaiika">[http://www3.kmu.ac.jp/legalmed/pc/kenan.html 関西医科大学法医学講座 - 死亡診断書]</ref>
 +
 +
*「[[病死]]および[[自然死]]」<ref name="kansaiika" /><ref>「自然死」には[[老衰]]による死などが含まれる。</ref>
 +
*「不慮の外因死」(Accident)<ref name="kansaiika" />
 +
:「[[交通事故]]」、「転倒・転落」、「[[水死|溺死]]」、「煙、火災および火焔による障害(火災による死)」、「[[窒息]]」、「[[中毒]]」<ref name="kansaiika" />
 +
*「その他の外因死、不詳の外因死」<ref name="kansaiika" />
 +
:「自殺」「他殺」<ref name="kansaiika" />「その他の外因死、不詳の外因([[戦争]]による死、[[]]による死<ref name="kansaiika" />)<ref>病死か外因死か不詳の場合には「不詳の死」となる。</ref>
  
参考:朝日放送・イースト「たけしの万物創世記」-->
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子宮内の[[胎児]]が死亡した状態で産まれる事を、死胎検案書では「自然[[死産]]」や「人工死産」と分類する<ref>[http://www.mhlw.go.jp/toukei/manual/dl/manual_h25.pdf 死亡診断書(死体検案書)記入マニュアル - 厚生労働省]</ref>厳密には胎児そのものの死因を表すものではないが、胎児が死亡した際に用いられる。
  
=== 人間の死 ===
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なお病死に関しては、近年の日本では[[ガン]][[心疾患]][[肺炎]]が3大要因となっている<ref>[http://bizacademy.nikkei.co.jp/culture/keyword/article.aspx?id=MMACzf001006082013 日本人の死因3位に浮上した「肺炎」]</ref>。
[[生物]]、特に[[人間]][[ヒト]])が死ぬ事や死んでいる状態を'''死亡'''・'''死去'''・'''死没'''などという。特に、「死亡」の場合は、「生存」の対義語で、[[自然災害]][[事故]]による「落命」の意味を伴うことがある。
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{{Seealso|日本の健康}}
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{{要出典範囲|なお、(医師側の一次的な報告では一見したところ分かりづらく分類されてなかなか表に出ないのであるが)近年の米国では、米国の死亡者の死因を詳細に調査した研究者によって、実は死因の第2位が[[医原病]]であること、つまり[[医療]]が死因の第2位であることが判ってきている。|date=2017年11月}}
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<!--「{{要出典範囲|鈍器損傷(撲殺)・鋭器損傷(斬殺・刺殺)・銃器損傷(銃殺)・安楽死・ショック死(外傷性・出血性・心因性)・焼死・凍死・溺死・窒息死・縊死・扼殺・絞殺・圧死・轢死・激突死・墜死・爆死・病死・内因性急死・敗血死・中毒死・中枢(神経)障害死・衰弱死・脱水死・熱死・老衰死・渇死・餓死・感電死・憤死・悶死・狂死・笑い死に、等がある。|date=2013年9月}}」と言った人がいる{{誰|date=2013年9月}}。-->
  
[[法医学]]では、人間の死は、[[心臓]]・[[肺]]・[[脳]]全ての不可逆的な機能停止によって規定される。以前はいずれか1つのみの機能停止であっても速やかに他2者の機能停止に至るため、死亡は[[心停止]]を基準とする[[心臓死]]と同じ意味だった。
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== 死の不可避と死の延期の努力 ==
  
しかし、現在では[[人工心肺]]をはじめとした救命技術の進歩によって、[[心肺停止]]状態でも恒常的に脳を生かして意識を保って置ける、あるいはそれを回復する可能性を残すようになったため、心肺停止と心臓死は同じ意味では説明が難しくなり、心肺停止による心肺脳全ての停止を心臓死と呼ぶようになった。一方[[]]機能のみが廃絶しても心肺機能を保って置ける様になり、この状態を[[脳死]]と言うようになった。脳死を人の死と認めるべきか議論は決着しておらず、死の定義はより困難になってきている。
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{{出典の明記|section=1|date=2014年9月}}
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人類は、死を回避するために、様々な方法を考えて来た。安全に気をつける、健康に気を付ける、なども死を避ける方法の一つであり、生き延びることが難しい環境で、死を避けることを[[サバイバル]]と呼ぶ。また、老人など死が迫った者に対しては、[[延命措置]]という方法がとられることもある。今日では呪術的と看做される方法で死を避ける考えについては、[[不老不死]]の項目を参照。
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人間が死に至る原因は、[[外傷]]・[[疾患]]・[[老衰]]・[[自殺]]・[[他殺]]などさまざまである。
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== 生物学的な死の説明 ==
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{{出典の明記|section=1|date=2011-5}}
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死に至った場合、生物体は次第に崩壊に至る。これは主として二つの作用による。
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*ひとつは、生物体自身が自らを分解することである。たとえば消化酵素のように、生物体を分解することが可能な酵素は生物体内のあちこちに存在しており、これによって生物体が分解されないのは、生命活動のひとつとして、それらを隔離した状態にする活動があるからである。死によってそれが止まれば、生物体は自ら分解を始める。
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*もう一つは、他の生物に分解されることである。生物の体は、それ以外のさまざまな生物にとって有益な栄養源である。特に微生物は常に空気中や地面などから侵入を試みている。これが成功しないのは、生きた生物には[[免疫]]の働きがあるからである。死によってその活動が止まれば、たちまちそれらの侵入と繁殖が始まる。
  
== 比喩的な用法 ==
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=== 単細胞生物等の死 ===
生物学的な死の概念から派生して、「死」という語はなんらかの組織や活動が停止する場合にも使われる。現在では、[[機械]]装置などが破損した場合に「死んだ」などと形容されることもある。とくに[[コンピュータ]]に対しては、電源が切れた、クラッシュした、あるいは[[プロセス]]が停止したなどの状態を比喩的に「死んだ」と表現することがあり、その延長で「プロセスを殺す」(進行中の処理を停止させる)などといった比喩表現も使われる(一例を挙げれば、unix系オペレーティングシステムでは単なる比喩に止まらずプロセス停止コマンドとして'kill'コマンドが存在している)。
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原則として[[単細胞生物]]には[[寿命]]([[老化]])による死という概念が無い。
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多細胞生物は[[テロメア]]によって細胞の分裂回数が制限されており、[[ヘイフリック限界|分裂回数の限界]]が老化をもたらすが、真核単細胞生物は例外なく[[テロメラーゼ]]によってテロメアを修復することで、無限に増えることができる。
  
ただ生命の不可逆的な死とは異なり、これら比喩的な死では機械装置なら破損した部品を交換するなり修理して、コンピュータの場合はクラッシュしたプログラムに関するメモリを破棄して記憶媒体から読み出しなおすなど復旧させる方法は幾らでもある。特に技術筋にもなると「異常や故障が手に負えなくなり、それを破棄して異常のないものに入れ替えする以外に対処方法がない」場合に「死んだ」と表現する。
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単細胞生物に寿命なるものをさがそうとしても、[[ゾウリムシ]]の分裂制限ぐらいしか挙げられない。
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[[ゾウリムシ]]を人為的に一個体ずつに隔離する事を繰り返して、自家生殖もしくは接合を行わせないよう注意深く飼育したところ、350回程度の細胞分裂の後に死を迎える。これはゾウリムシは自家生殖もしくは接合による核の融合がテロメラーゼを働かせるスイッチになっているからである。故に、自然界で寿命を迎えることは、ありえないと言って良い。
  
ただ生命も一種の[[分子マシン]]の集合であり、動物でもその極大な構成物に過ぎないという考え方もある。このため[[サイエンス・フィクション]]分野では、そういった「壊れた部品を交換する」などして生命を「修理しよう」というアイデアもしばしば登場する。しかし[[テセウスの船]]の問題のように、部品交換で「生き返った」生命が前の生命と同じものなのか(=前の個体は既に死んでいて、目の前で生きているのは別の存在)?という多義的な問題も含んでいる。
+
=== 多細胞生物の死 ===
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[[多細胞生物]]では[[細胞]][[組織 (生物学)|組織]]・[[個体]]の死は区別される。
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=== 進化と死 ===
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進化論的観点からは以下のように説明される。細胞は寿命を持つためのタイマーを仕掛けている。[[染色体]]の先にある[[テロメア]]。これが[[命の回数券]]である。細胞が[[分裂]]する度に、テロメアは短くなっていき、最終的にそれ以上分裂できない状態で死を迎える。つまり、[[ヒト]]を始め[[生物]]は全て生まれた瞬間から死に向かって走っているのである。
  
== 死の過程 ==
+
では、生命はいつ死を迎えるのか。また、それは何故か。
=== 細胞死 ===
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「生物は全て、子孫繁栄を[[目的]]として生きている」という。言い換えれば「{{要出典}}子孫を作りさえすれば目的は達成されることになる」という。例えば[[サケ]](寿命:4年)は、成長すると川に帰ってきて産卵し、[[コルチステロン]]という[[ホルモン]]を分泌して死ぬ。産卵という最期の偉業をなすと、[[親]]は死ぬ。[[タコ]]の場合も同様。タコ(寿命:1年半)の生命の終わりは[[オプティック・グランド]]というホルモンの分泌だ。[[卵]]を守り、育て、生まれるとオプティック・グランドが放出され、死を迎えるのだ。
通常の細胞機能は、不可欠な細胞代謝のために必要なエネルギーと、酵素と構造タンパク質の生産、細胞の化学的および浸透的恒常性の維持、などを含む。
+
通常に機能している細胞は、酸素、リン酸塩、カルシウム、水素、炭素、窒素、硫黄、栄養的な基質、ATP、などを摂取する必要があり、また無傷の細胞膜と酸素を消費する不変の活動も必要とする。
+
これらの要素のうちどれがさえぎられても、細胞死は起こりえる。
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=== 死後の変化 ===
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それが大型動物の場合、例えば[[哺乳類]]や[[鳥類]]の場合、子を儲けただけでは終わらない。自分の子が子供を産めるくらいになるまで子育てをすることになる。ヒトと99%同じ[[遺伝子]]をもつ[[チンパンジー]]の場合も子を産むと5年で死を迎える。だが、ヒトは子育てをしても死ぬ事はない。何故ヒトは子育てをしても死なないのか?
死後、体芯温度は減少する([[死体冷]])。体温の低下速度は、死亡時の体温や死体の大きさ、環境や着衣など、いくつかの要因によって変化する。
+
  
[[哺乳類]]では、死体が腐敗するより前に[[死後硬直]]が始まる。死体硬直の発現までの時間とその持続期間は、死亡時の筋肉の体温と、気温に影響を受ける。死体硬直は通常、死の2-4時間後に始まり、筋肉はこの過程で、筋原線維内にあるATPと乳酸アシドーシスの有効性が減少するため、徐々にこわばっていく。死後9-12時間経過すると、死体硬直はおわる。また気温が十分に高ければ、死体硬直は起こらない。
+
何万年も前から生物は死と向かい合って生きている。今から38億年前、生命に寿命というものは無かった。個体をほぼ無限にコピーする[[無性生殖]]であったからである。そこには親子や親戚の関係などはまったくなく、[[進化]]の術といえば[[突然変異]]でしかなかった。この方法には大きな問題があった。一度[[環境]]が変わり、その個体の生息できるような環境ではなくなると瞬く間に全滅してしまうからである。そんな滅亡の危機にさらされながら生きてきた[[無性生物]]の中に、これまでと違う画期的な生殖方法を持つ生物が誕生する。その方法が[[有性生殖]]である。有性生殖とは2つの遺伝子を組み合わせて子を誕生させる方法である。(詳細は各項目を参照の事)この生殖方法のおかげで雄と雌ができ、進化の機会は飛躍的に増えた。したがって生物は無性生殖のときに比べて、より地球の環境に適した個体を生み出すことが可能になった。地球上の生命は無限の可能性を秘めることになったのである。
  
もう一つの死後の反応に[[死斑]]がある。死後、溶解酵素が漿膜から放出され、フィブリノゲンの溶解性分解を引き起こす。血はこの過程で死後30-60分以内に永久に非凝固性になる。重力による血の貯留は皮膚色の特徴のある変化をもたらす。死斑は死体の体重を支えている位置にある皮膚からでき始める。死斑は死後2時間以内に発現し、8-12時間で最大になる。死斑の色は死因と環境で異なる。死斑の広がりは、死体の表面にかかる圧力によって異なる。
+
ところが、その可能性とは引き換えに寿命が与えられることになる。「何故なら、寿命という期限がなければ、かえって古い種と新しい種が入り混じり環境が不安定になる上、個体が無制限に増えることで環境がパンクしてしまうからだ」という{{要出典}}。それぞれの個体に与えられた使命に、子孫を未来に繋ぐ事が含まれるようになった。「こうして[[有性生殖]]により生物種が増え、地球上のあらゆる環境に適応した生命体であるが、親は次の世代の存続と引き換えに死を受け入れることが強いられる。」と説明する。だが、ヒトの場合、それだけではなく、他の生物には存在しない何故か[[老後]]という状態が存在することになった。
  
死体の分解は以下の段階の経て推移する。
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諸説ある人類誕生説の1つである[[アフリカ]]の[[グレート・リフト・バレー]]にその答えの鍵がある。[[マグマ]]の活動によって[[隆起]]し誕生した大地溝の東側と西側では荒野と雨林の2つのまったく正反対の気候になった。東側に取り残された[[サル]]の祖先は、樹上生活が営めなくなり、地上に降りた。[[二足歩行]]の開始である。[[アフリカ]]の[[砂漠気候]]がヒトの誕生の第1歩をもたらしたのである。自由になった前足:すなわち、手で道具を生み、脳が飛躍的に発達する。これが言語の誕生を促すことで、ヒトとしての技術を身に付けたのである。遺伝子では伝えられない情報:記憶を言語によって伝達することが可能になった。たとえ、繁殖する能力を失っていても叡智を持っている老後を迎えたヒトは次世代にそれらの情報を伝えるべく老後が存在すると考えられる。
  
#自己分解(Autolysis):死体の「自己消化」は体内の酵素の働きによって進む。構造の完全性を失った細胞膜からは溶解酵素が放出され、高分子と残った細胞膜を変性させる。自己分解は、最も代謝が活発な細胞である分泌細胞と大食細胞から始まる。
+
参考:朝日放送・イースト「たけしの万物創世記」-->
#腐敗(Putrefaction):嫌気性細菌による残された細胞の消化。自己分解の最終段階では、好気性の環境が死体内で確立される。これは、嫌気性菌の成長に有利に働く。これら嫌気性菌の大部分は内生の[[腸内細菌]]であるが、一部は外因性の土壌細菌である。これらのバクテリアは死体内の炭水化物、蛋白質、脂質を分解し、酸とガスを生成して、死体の変色、臭気、膨張、液化を引き起こす。腐敗の進行速度は湿気や気温の影響を受ける。
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<!-- ミイラ化、死蝋化による腐敗の停止 -->
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<!-- colon fauna""のcolonは腸のことだと推測し、""腸内動物相""と訳したが、わかり易く""腸内細菌""とした。-->
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#腐朽(Decay):好気性バクテリアと真菌による残された細胞の消化。腐敗の最終段階では液状の腐敗物が流出し、軟部組織は縮小する。残った組織は比較的乾燥した状態にある。腐朽の特徴は好気性微生物による蛋白質のゆっくりとした分解であり、これにより硬組織だけが残った死体は[[白骨化]]する。
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<!-- "Decay"もまた"腐敗"と訳せるが、死体の状態を考慮して"腐朽"と訳した。しかし死体に対して"腐朽"という言葉を使うのを聞いたことがないので、むしろ"白骨化"とでもしたほうが良いのかもしれない。 -->
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#分解(Diagenisis):硬組織である骨と歯の分解。バクテリア、藻、菌類などの微生物は、生理的経路をたどるか、骨質を透過することによって、骨に侵入する。骨質の透過は、酸性代謝物質と酵素の代謝物質の排出によって達成される。特徴ある非生理的経路を生成することから、「穿孔経路」と呼ばれる。微生物の進入によって有機骨基質は化学分解される。その結果生じた代謝物質は、周囲にある無機物基質を破壊する。また、結晶質のリン酸カルシウムからなる無機物基質の分解は、環境中の化学要因に影響を受ける。酸性の環境は、部分的な骨の鉱物質消失に至る、リン酸カルシウムの溶解をもたらし、また部分的に本来よりもかなり大きく、より水溶性のある分子に再結晶化する。これら微生物と環境の働きによって、微小構造が分解される。
+
  
== 死亡の判定 ==
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=== 死の過程 ===
=== 脳死 ===
+
==== 細胞死 ====
死の正確な瞬間を判定する試みは、歴史的に問題を含んできた。
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通常の細胞機能は、不可欠な細胞代謝のために必要なエネルギーと、酵素と構造タンパク質の生産、細胞の化学的および浸透的恒常性の維持、などを含む。通常に機能している細胞は、酸素、リン酸塩、カルシウム、水素、炭素、窒素、硫黄、栄養的な基質、ATP、などを摂取する必要があり、また無傷の細胞膜と酸素を消費する不変の活動も必要とする。これらの要素のうちどれが遮られても、細胞死は起こりえる。
死はかつて鼓動と呼吸の停止と定義された{{要出典}}。しかし心肺蘇生術と迅速な細動除去の発達によって、以前の定義は不十分なものとなった。この以前の定義は現在「[[臨床死]]」と呼ばれている。臨床死が起こった後でも、場合によっては鼓動と呼吸を再開することがある。かつては死の原因となった出来事も、医療技術の発達によって直接は死に結びつかなくなった。心肺機能に代わる[[生命維持装置]]や[[ペースメーカー]]、さらには[[臓器移植]]によっても死を避けることができる。
+
  
今日では死の瞬間の定義が求められたとき、医師は通常「[[脳死]]」または「[[生物学的死]]」という概念を用いる。脳の電気的活性の停止が意識の終わりを示すと考えられるため、脳の電気的活性が止んだとき、人間は死んだことになる。しかし、意識の停止は睡眠中や昏睡中にも起こりえるため、停止は一時的なものではなく、永続的で回復不能なものでなくてはならない。意識の停止がたんなる睡眠であった場合、[[脳波計]]で簡単に確認できる。臓器を移植するさい、死後早急に臓器を摘出し、移植手術を行わなければならないため、正確な脳死判定が重要となる。
+
==== 死体現象 ====
<!-- Among human beings, brain activity is a necessary condition to legal personhood in the United States. "It appears that once brain death has been determined … no criminal or civil liability will result from disconnecting the life-support devices." (Dority v. Superior Court of San Bernardino County, 193 Cal.Rptr. 288, 291 (1983)) アメリカの例であるため訳さず。-->
+
{{Main|死体現象}}
  
しかし、人間の意識に必要なのは脳の[[新皮質]]だけである、と主張している人々は、新皮質の電気的活性だけを基準に死の判定をすべきである、と論じている。
+
現在の日本の法医学では、一般に、死後人体におこる変化を[[死後変化|死体現象]]と総称する。まず、心拍が停止した時点を死亡時間とし、その後見られる現象は以下の通りである。死亡後に見られる明らかな変化の多くは、血流の停止によってもたらされる。
結局のところ、[[大脳皮質]]の死によってもたらされる認識機能の永続的で回復不能な消失が、死を判定する基準となる<ref name=definition>関西医科大学大学院法医学生命倫理学研究室による[http://www3.kmu.ac.jp/legalmed/topics/brain.html 関西医科大学法医学講座]</ref>のかもしれない。
+
大脳皮質が失われれば、人の思考と人格を回復する望みはないからである。
+
しかし現時点では、より保守的な、大脳全体の電気的活性の停止をもって人の死とする論が大勢を占めている。
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2005年の植物状態におちいった[[テリー・スキアボ]]の[[尊厳死]]を巡る事例は、アメリカの政治を脳死と人為的な生命維持の問題に直面させた。
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一般的に、そのように死の判定を巡って争われた事例での、脳の死因は無酸素状態によって起こる。
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大脳皮質はおよそ7分間の酸欠で死に至る。
+
  
酸欠によって大脳皮質の機能が失われた場合でも、死の判定は難しい。
+
まず、体表温度が速やかに室温に近づいていく。死後、体芯温度は体表温度と異なり、緩やかに気温に近づく。多くの場合、気温は体温より低いため、低下する([[死体冷]])。体温の低下速度は、死亡時の体温や死体の大きさ、環境や着衣など、いくつかの要因によって変化する。周囲の湿度が低い場合、指尖、鼻尖等の突出部位から速やかに乾燥し皮膚の収縮がみられ、ミイラ化が始まる。生理学的には、血流停止後、酸素の供給が途絶えた全身の細胞の内、神経細胞などの脆弱な細胞から、数分以内に不可逆的な変化が始まり、最後に筋繊維などの一番疎血に強い細胞が死滅する。末梢の、上皮など血液以外から酸素を得られる細胞では血流の停止による水分の不足(乾燥)、電解質の異常などを原因に細胞死が始まる。乾燥から免れ、周囲の空気から何とか酸素が供給されている場合、毛根などの細胞はしばらく生存する可能性もあるが、死体の髭や髪が伸びると言われる場合、多くは表皮の乾燥による収縮のため、毛髪がより露出して見えることによる錯覚であるとも言われている。また、まばたきが行われないため、角膜の乾燥、角膜の細胞死による蛋白の変性による白濁が速やかに進行する。
脳の電気的活性が脳波計が感知するにはあまりに低かった場合、何も存在しなくても、脳波計はノイズ(見かけの電気信号)を感知することがあるためである。
+
[[哺乳類]]では、死体が腐敗するより前に[[死後硬直]]が始まる。死体硬直の発現までの時間とその持続期間は、死亡時の筋肉の温度と気温に影響を受ける。死体硬直は通常、死の2-4時間後に始まり、筋肉はこの過程で、筋原線維内にあるATPの減少と乳酸アシドーシスのため、徐々にこわばっていく。死後9-12時間経過すると、筋原繊維の機能が失われるため死体硬直は解除される。死後硬直中に他動的に関節を屈伸させると死後硬直は解除される。また気温が十分に高ければ、死体硬直は起こらない。
このため、病院では、脳波計を使って死を判定をするときは、病院内で広く空間を隔てるなどの、精巧な実施要綱がある。
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=== 早すぎた埋葬 ===
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もう一つの死後の反応に[[死斑]]がある。死後、溶解酵素が漿膜から放出され、フィブリノゲンの溶解性分解を引き起こす。血管内の血液の内、[[血漿]]はこの過程で死後30-60分以内は永久に非凝固性([[血清]]に近い状態)になる。重力による血の貯留(沈下)により局所の皮膚色の特徴のある変化をもたらす。死斑は死体の体重を支えている位置には形成されず、その周囲からでき始める。死斑は死後2時間以内に発現、最初は圧迫により消退するが、次第に固定され、強い圧迫によっても消退しないようになる。また、途中で姿勢(体位)を変えると、死斑の位置も移動する。その後、周囲の温度によるが、概ね8-12時間で固定、以後体位による移動は見られない。死斑の色は死因と環境で異なる。寒冷死の場合、死斑は鮮紅色を呈する。また、練炭による自殺などで見られる一酸化炭素中毒死の死斑も、特徴的な鮮紅色を呈する。死斑の広がりは、死体の表面にかかる圧力によって異なる。死斑は、皮下の血液によるため、大量出血、または、重症の貧血があった場合は、ほとんど見られないことがある。次に、周囲の温度によるが、概ね半日後に[[胆嚢]]から胆汁が腹腔内に漏出、腹部に緑色斑が出現すると、次第に拡大する。また、特に夏季など温暖な季節では、山林、または[[ハエ]]が多い場所では、死亡後直ちにハエが体表に産卵すると、産卵後わずか数時間で孵化、ハエの幼虫による食害が始まる。
医師に死亡を宣告された後、生き返った人々の逸話が多くある(→[[エドガー・アラン・ポー|ポー]]『早すぎる埋葬』:[http://www.aozora.gr.jp/cards/000094/card2526.html 青空文庫])。
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そのような逸話では、あるものは[[エンバーミング|防腐処理]]を始めた時に、あるものは死の数日後に棺の中で意識を回復するなどして動き回ったりする。ビクトリア時代の著しい科学の進歩のため、イギリスの一部の人々は、このような早すぎた埋葬を、強迫観念的に恐れるようになった。同時代以前には、[[ペスト]]などの伝染病流行時に、感染を恐れて検死が等閑だったりするケースもしばしばあったとされ、これが死者復活(→[[吸血鬼]]や[[ゾンビ]]・[[グール]]など)の伝承となったと考える者もいる。<!--中には悪趣味な墓泥棒が遺体から金目のものを奪った後、死体をあたかも自分で動き回ったかのように転がしたケースもあるかもしれないが。-->
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死体の分解は、実際には周辺の環境しだいで多種多様な経過を辿るが、概念的には以下の段階を経て推移する。
  
これらは、その当時の[[検死]]技術が完全ではなく、[[ショック]]状態における体温の急激な低下や、呼吸量の著しい減少、あるいは血圧低下による脈の微弱な状態を死亡と誤って判定したケースや、一時的な心肺停止後に偶発的に心臓の鼓動が正常に戻るなどして「生き返った」とみなされたのだろう。このため近代的な検死では、最初のチェックから一定時間後に生命の兆候がないかを再チェックするようになっている。<!--ちょと自信がないのでSelfコメントアウト:今日、重大な事故の被害者が病院搬送から一定時間後に「死亡が確認される」のも、この再チェックのための期間があるためである。-->
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# '''自己分解 (autolysis)''':死体の「自己消化」は体内の酵素の働きによって進む。構造の完全性を失った細胞膜からは溶解酵素が放出され、高分子と残った細胞膜を変性させる。自己分解は、最も代謝が活発な細胞である分泌細胞と大食細胞から始まる。
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# '''腐敗 (putrefaction)''':嫌気性細菌による残された細胞の消化。自己分解の最終段階では、好気性の環境が死体内で確立される。これは、嫌気性菌の成長に有利に働く。これら嫌気性菌の大部分は内生の[[腸内細菌]]であるが、一部は外因性の土壌細菌である。これらのバクテリアは死体内の炭水化物、蛋白質、脂質を分解、酸とガスを生成して、死体の変色、臭気、膨張、液化を引き起こす。腐敗の進行速度は湿気や気温の影響を受ける。
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<!-- ミイラ化、死蝋化による腐敗の停止 -->
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<!-- colon fauna""のcolonは腸のことだと推測後、""腸内動物相""と訳したが、わかり易く""腸内細菌""とした。-->
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# '''腐朽 (decay)''':好気性バクテリアと真菌による残された細胞の消化。腐敗の最終段階では液状の腐敗物が流出、軟部組織は縮小する。残った組織は比較的乾燥した状態にある。腐朽の特徴は好気性微生物による蛋白質のゆっくりとした分解であり、これにより硬組織だけが残った死体は[[白骨化]]する。
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<!-- "decay"もまた"腐敗"と訳せるが、死体の状態を考慮して"腐朽"と訳した。死体に対して"腐朽"という言葉を使うのを聞いたことがないので、むしろ"白骨化"とでもしたほうが良いのかもしれない。 -->
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# '''分解 (diagenisis)''':硬組織である骨と歯の分解。バクテリア、藻、菌類などの微生物は、生理的経路をたどるか、骨質を透過することによって、骨に侵入する。骨質の透過は、酸性代謝物質と酵素の代謝物質の排出によって達成される。特徴ある非生理的経路を生成することから、「穿孔経路」と呼ばれる。微生物の進入によって有機骨基質は化学分解される。その結果生じた代謝物質は、周囲にある無機物基質を破壊する。また、結晶質のリン酸カルシウムからなる無機物基質の分解は、環境中の化学要因に影響を受ける。酸性の環境は、部分的な骨の鉱物質消失に至る、リン酸カルシウムの溶解をもたらすと、また部分的に本来よりもかなり大きく、より水溶性のある分子に再結晶化する。これら微生物と環境の働きによって、微小構造が分解される。
  
検死技術の発達以前における[[土葬]]では、このように生きているにもかかわらず埋葬され、生き埋めとなる可能性は誰にでもあり、またそれらの可能性は大変な恐怖を伴った。そのため発明家たちは被埋葬者の状態を棺外に伝える方法を発明した。地表にはベルと旗があり、それが棺内にひもでつながっていた。棺の蓋には金槌や滑車装置で壊せるガラスの仕切りがあった。しかし多くの人は、この滑車装置が棺にかけられた土のため機能し得ないことや、割れたガラスと土が被埋葬者の顔を覆うことに気付かなかった。
+
{{seealso|アポトーシス|食物連鎖}}
  
=== 救急現場での死の判定 ===
 
原則として医師と歯科医師以外の者が患者の死亡を宣言する権限はない。
 
消防機関の救急業務規程の中では、「明らかに死亡している場合」や「医師が死亡していると診断した場合」には、救急隊は患者を搬送しないと定められている。すなわち、それ以外の場合では、患者が生存している可能性があるものとして取り扱うことが求められている。「明らかに死亡」とは、断頭、体幹部の離断、死体硬直、死斑、腐敗、炭化、ミイラ化その他の明らかに生存状態とは矛盾する身体への損害(いわゆる社会死状態)をいう。
 
社会死要件を満たさない場合、救急隊員は救命措置を開始し、医師の診断を受けるまでそれをやめてはならない。病院到着時の診察で死亡が確認されることを、DOA(Dead on arrival = 病院到着時すでに死亡)という。<!-- In cases of electrocution, CPR for an hour or longer can allow stunned nerves to recover, allowing an apparently-dead person to survive. 電気椅子による処刑の例か。実力不足のため訳せず。People found unconscious under icy water may survive if their faces are kept continuously cold until they arrive at an emergency room.[citation needed] This "diving response", in which metabolic activity and oxygen requirements are minimal, is something we share with cetaceans (whales, dolphins, etc) called the mammalian diving reflex. 人間の潜水反応に関する記述だが、救急医療には関係があるが、死との関連は薄いので、コメントアウト。 -->
 
  
== 死の受容 ==
+
== 臨死体験 ==
=== 人称による死 ===
+
{{Main|臨死体験}}
人間が死一般を受け止めるものとして、人称による分類が哲学者[[ジャンケレヴィッチ]]により提唱された。<ref>養老孟司『死の壁』などにも類似の死体分類がある。</ref>。
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仮死状態から医学処置などで蘇生した人の4-18%が仮死体験の状態で体験した出来事を報告する。つまり、医師などによって死亡したと判定されたのに、時間を経て再び生き返る人がいる。別の言い方をするなら、仮死状態から生き返る人である。ゆえに「[[臨死体験]]」と呼ばれている。
#[[一人称]]の死:[[英語]]での[[人称]]「I」にあたる。自分の死。一人称の死の難しいところは、'''自ら経験できない'''(つまり、死の後は[[知覚]]する[[主体]]が存在しない)という点であり<ref>しばしば[[臨死体験]]などで「死後の世界」から還ったという主張がなされるが、その場合死んだ人がなぜ話していられるのか、という矛盾が生じる。</ref>、根本的な不可知性から恐れの感情が生じる<ref>世界各地にある[[死と再生の神]]話は、それに対する心理的反応とも捉えられる。</ref>。[[エピクロス]]は「われわれが存在している間は死は現存しないし、死が存在すればわれわれは現存しない」と述べた。
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#[[二人称]]の死:英語での人称「you」にあたる。親しい者の死。自らの大きな人生経験として受け止められ、愛着があるために悲哀などの感情が起こる。この死に接し、次は自分の死であると自覚させられる。
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#[[三人称]]の死:英語での人称「it」「he」「she」などにあたる。いわばアカの他人の死。二人称の死が取り替えのきかない存在なのに対し、他の他人の死でも置き換えられる点に特徴がある。
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=== 死の事実性の認識 ===
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有史以来、「臨死体験」をした人々が多くいたようであり、西洋でも東洋でも類似の内容が様々な文献に記録されているという。ハーバードで宗教学の講義を担当するキャロル・ザレスキーは、中世の文献は臨死体験の記述であふれていると指摘した。また、日本でも『[[今昔物語]]』『[[宇治拾遺物語]]』『[[扶桑物語]]』『[[日本往生極楽記]]』などに臨死体験そっくりの記述があるという<ref name="Sabom1986Jobun">{{Cite book|和書|author=マイクル・B・セイボム|year=1986|title=「あの世」からの帰還  臨死体験の医学的研究|publisher=日本教文社|chapter=日本版のCarl Beckerによる序文|pages=i, ii, iii|id=ISBN 978-4531080427}}</ref>。
[[人間]]が他の[[生物]]と異なる一つの特徴は、人間、とりわけ自分自身がやがて死ぬということを「知っている」ことである。いいかえると、未来を考えることができる動物は人間だけであるといえる。[[哲学者]][[樫山欽四郎]]は、『哲学概説』において、人間の[[本質]]的な特性として「死を自覚する存在」であることを挙げ、「死を知ることがなければ、人間はこれほど楽なことはない」という趣旨の言葉を述べている<ref>樫山欽四郎 『哲学概説』 (初版1964年) 創文社 ISBN 4-423-10004-5(ISBN 978-4-423-10004-2)。樫山は、序説部分で、[[哲学]]の意義として、人間における[[実存]]の諸問題を例示して、このような言葉を述べている。</ref><!--記述内容は良いので存続させるべき。ただし書名を特定したほうがよい、ということ-->。
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自己が死ぬことを知っているがゆえに、人間の哲学的営みは始まるのであり、古来より伝わることわざには、「[[哲学]]は死の[[練習]]である」というものがある。しかし、死を知るということは哲学への契機でもあり、また[[宗教]]への契機でもあり、更に、一般に人は、自己の死をどのように受け止めるか受け入れるか、一生をかけて問いかけ続けているともいえる。
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近年では医学技術により、停止した心臓の拍動や呼吸をふたたび開始させることも可能になったため、死の淵から生還する人の数は過去に比べて増えている<ref name="Sabom1986Hashigaki">{{Cite book|和書|author=マイクル・B・セイボム|year=1986|title=「あの世」からの帰還  臨死体験の医学的研究|publisher=日本教文社|chapter=セイボムによる はしがき|pages=xiii-xv|id=ISBN 978-4531080427}}</ref>。
  
突然に[[事故]]などで襲ってくる死の場合は、死について考える余裕さえない。しかし、[[飛行機事故]]などで、突然に、あと半時間後、一時間後には死ななければならないと自覚された場合など、人はさまざまな想いに耽り、短時間のあいだに死を受容せねばならない必要に迫られる。
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臨死体験の研究というのは、欧米では地質学者の[[アルベルト・ハイム]]が登山時の事故で自身が臨死体験したことをきっかけに行い1892年に発表し先鞭をつけ、その後 1910年代〜1920年代に数名により研究が発表されたが一旦途絶え、1975年に[[エリザベス・キューブラー=ロス|キューブラー=ロス]]と[[レイモンド・ムーディ]]という医師があいついで著書を出版したことで再び注目されるようになった<ref name="Sabom1986Jobun" />。1982年には、やはり医師のマイクル・セイボムも調査結果<ref>Michael B. Sabom, ''Recollections of Death'', 1982</ref>を出版した。<ref name="Sabom1986Jobun" />
  
=== 死をどのように受け止めるか ===
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人は死に臨んで、まばゆいばかりの[[光]]、美しい景色などを見たり、この世を去った久しい身内などが現れたりするという。自分が宙に浮き上がり、その後に肉体の中に戻ってきたことを思い出すこともあるという<ref name="Sabom1986Hashigaki" />。臨死体験は様々に解釈されている。スピリチュアルな解釈と唯物論的解釈があり、医師や科学者の間でも解釈は分かれている<ref>注:セイボム、キューブラー=ロスらは医学者・科学者である。</ref><ref name="Sabom1986chap11">{{Cite book|和書|author=マイクル・B・セイボム|year=1986|title=「あの世」からの帰還  臨死体験の医学的研究|publisher=日本教文社|chapter=第十一章|pages=pp.303-315|id=ISBN 978-4531080427}}</ref>([[臨死体験]]にて詳説)。
このようなことは、[[戦場]]などの特殊な場合を除き、一般[[市民]]の[[日常生活]]においては稀にしか起こらない。しかし、回復の見込みのない[[病]]にかかり、あと、三か月ないし一か月の[[余命]]と[[自覚]]するケースは特殊なものではない。このようなケースでは、人は、自分が「死なねばならない・間もなく決まった期間の経過後、死ぬ」という[[事実]]に向き合い、死の定めをどう受け入れるか、さまざまな試みを行う。
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死を自覚した人が、どのように自己の死の事実と向き合い、どのようにその事実を拒否したり受け入れたりするのか、多数の「死に行く人」と、言葉を交わし、心理治療に従事してきた、[[エリザベス・キューブラー=ロス|キューブラー=ロス]]は、多くの人が辿る、「死の受容への過程」を次のような段階にモデル的に示している([[参考文献|参考文献1]])。
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== 死の受容 ==
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{{Seealso|アクセプタンス}}
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=== 哲学と死の受容 ===
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古代ギリシアの[[プラトン]]は、[[哲学]]を「melete thanatou (死の練習)」と見なすと、[[魂]]の永遠性を信じて平然と死ぬことができるように心の訓練をすることが哲学をすることであるとした(『[[パイドン]]』)。
  
;第一段階:「否認と孤立」
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ドイツの哲学者[[マルティン・ハイデッガー]]は主著『[[存在と時間]]』において、人間の存在様式の哲学的概念として自身の「[[現存在]]」という特徴的用語を用いて「死は現存在が自己に先んじてそれにかかわるもの」とし、「現存在」を「死にかかわる存在」と規定する。また、'''平均的日常性=「ひと」の世に頽落している現存在は死に対する非本来的存在様式である'''とし、[[実存]]の目覚めとしての本来性への立ち返りのために「先回りして死に近づく覚悟性」の必要を説く。<ref>『実存主義』松浪信三郎/岩波新書p102-</ref>ハイデッガーの死についての考察は、デンマークの哲学者[[セーレン・キルケゴール]]の実存思想、ロシアの小説家[[フョードル・ドストエフスキー]]の作品などに依拠しており、戦後の日本の哲学者にも強い痕跡を残している([[実存主義#不安の時代]]参照)。
:病などの理由で、自分の[[余命]]があと半年であるとか三か月であるなどと知り、それが[[事実]]であると分かっているが、あえて、死の運命の事実を拒否し否定する段階。それは冗談でしょうとか、何かの間違いだという風に反論し、死の事実を否定するが、否定しきれない事実であることが分かっているがゆえに、事実を拒否し否定し、事実を肯定している周囲から距離を置くことになる。
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;第二段階:「怒り」
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:拒否し否定しようとして、否定しきれない事実、宿命だと自覚できたとき、「なぜ私が死なねばならないのか」という「死の[[根拠]]」を問いかける。このとき、当然、そのような[[形而上学]]的な根拠は見つからない。それゆえ、誰々のような社会の役に立たない人が死ぬのは納得できる、しかし、なぜ自分が死なねばならないのか、その問いの答えの不在に対し、[[怒り]]を感じ表明する。
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;第三段階:「取り引き」
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:しかし、死の事実性・既定性は拒否もできないし、根拠を尋ねて答えがないことに対し怒っても、結局、「死に行く定め」は変化させることができない。死の[[宿命]]はどうしようもない、と認識するが、なお何かの[[救い]]がないかと模索する。この時、自分は強欲であったから、財産を慈善事業に寄付するので、死を解除してほしいとか、長年会っていない娘がいる、彼女に会えたなら死ねるなど、条件を付けて死を回避の可能性を探ったり、死の受容を考え、[[取引]]を試みる。
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;第四段階:「抑鬱」
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:条件を提示してそれが満たされても、なお死の定めが消えないことが分かると、どのようにしても自分はやがて死ぬのであるという事実が感情的にも理解され、閉塞感が訪れる。何の[[希望]]もなく、何をすることもできない、何を試みても死の事実性は消えない。このようにして深い[[憂鬱]]と[[抑鬱]]状態に落ち込む。
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;第五段階:「受容」
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:抑鬱のなかで、死の事実を反芻している時、死は「[[無]]」であり「[[暗黒]]の虚無」だという今までの考えは、もしかして違っているのかもしれないという考えに出会うことがある。あるいはそのような明確な考えでなくとも、死を[[恐怖]]し、[[拒否]]し、[[回避]]しようと必死であったが、しかし、死は何か別のことかも知れないという心境が訪れる。人によって表現は異なるが、死んで行くことは[[自然]]なことなのだという[[認識]]に達するとき、心にある[[平安]]が訪れ「死の[[受容]]」へと人は至る。
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これはキューブラ=ロスが多数の「死に行く人」の事例から観察した範型で、人は必ずしも、以上のような段階を経て、死の受容に至るわけではない。色々な自己の死との向かい合いがあることを、ロス自身も認めている。
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[[オーストリア]]出身でハイデッガーと同時代の哲学者[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン]]は、[[第一次世界大戦]]の[[塹壕戦]]に一兵卒として参戦中に著述した『[[論理哲学論考]]』<ref>ハイパー・テキスト版論理哲学論考[https://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html]</ref>において、「死は生の出来事ではない。人は死を体験することが出来ない」(6.4311)とする。また、永遠とは無限の時間持続ではなく無時間性のことであるならば、現在を生きる者は永遠を生きるとし、「われらの生に終わりはない。われらの視野に限りはないのと同じように」と結ぶ。続いて、ウィトゲンシュタインは6.4312において、人間の魂の時間的な意味での不死が、それだけでは我々のいわゆる「人生の謎」を解くための助けにならないことを指摘する。<ref>この箇所の説くところは、[[原始仏典]]である箭喩経[http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/malunkya.html]に似る。</ref>
また[[ラ・ロシュフコー]]は「箴言集」の中で「死を理解する者はまれだ。多くは覚悟でなく愚鈍と慣れでこれに耐える。人は死なざるを得ないから死ぬわけだ。」と述べており、これもまた一つの死の受容の形であるといえる。
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いずれにせよ、人が死を受け入れて[[尊厳]]を持って死に臨めるようにするためには、周囲の理解と協力が必要不可欠である。また自分の親しい人間に死が訪れたとき、人はたいてい涙するが、国や宗教によっては「死は新たなる境地への旅立ち」というような思想もあるので、まれに笑って送り出すこともある。
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== 死の表現 ==
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哲学者の[[樫山欽四郎]]は、『哲学概説』において、人間の本質的な特性として「死を自覚する存在」であることを挙げ、「死を知ることがなければ、人間はこれほど楽なことはない」という趣旨の言葉を述べている<ref>樫山欽四郎 『哲学概説』 (初版1964年) 創文社 ISBN 4-423-10004-5(ISBN 978-4-423-10004-2)。樫山は、序説部分で、[[哲学]]の意義として、人間における[[実存]]の諸問題を例示して、このような言葉を述べている。</ref>。[[人間]]が他の[[生物]]と異なる1つの特徴は、人間は全て(そして自分自身も)やがて死ぬということを「知っている」ことだともいう<ref>いいかえると、未来を考えることができる動物は人間だけであるという。</ref>
古来、「死」という語を声に出したり書にしたためたりするのは不吉なことであり、多くの文化で[[タブー]]とされてきた。このため日本では、「'''[[他界]]'''」、「'''[[臨終]]'''」、「'''[[逝去]]'''」、「'''[[昇天]]'''」、「'''[[永眠]]'''」、「'''[[物故]]'''」、「'''逝く'''」、「'''亡くなる'''」、「'''世を去る'''」、「'''[[鬼籍]]に入る'''」、「'''[[あの世]]に行く'''」、「'''冥土'''<small>(めいど)</small>'''へ旅立つ'''」、「'''不帰の客となる'''」、「'''[[黄泉]]に赴く'''」、「'''帰らぬ人となる'''」など、さまざまな婉曲表現が用いられてきた。現在でも病院で入院患者が死亡すると、[[医師]]や[[看護師]]は他の同室の入院患者に対して「〜さんは'''お帰りになりました'''」などと説明することが多い。
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宗教的に「死」を表現する場合は、[[神道]]では「'''[[帰幽]]'''」と表現し、[[仏教]]では「'''[[往生]]'''」、「'''[[成仏]]'''」(いずれも誤った用法が半ば常識化したもの)といったり、高僧の死を「'''[[入滅]]'''」、「'''[[入寂]]'''」、「'''[[遷化]]'''」などといい、[[キリスト教]]では信者の死を「'''[[帰天]]'''」、「'''[[召天]]'''」、「'''[[永眠]]'''」などともいう。
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自己が死ぬことを知っているがゆえに、人間の哲学的営みは始まるのだともされる。死を知ることは哲学への契機でもあり、また[[宗教]]への契機でもある。一般に人は、'''[[人生の意味|生の意味]]'''を問いかけるのと同様に、死の意味をどのように受け止めるか受け入れるか、一生をかけて問いかけ続けているともいえる。また、哲学者三木清は「死は観念である。」として、生や病気と対比的に扱いながら思想を展開している。
  
他にも[[親族]]の死を「'''不幸'''」、貴人の死を「'''身罷'''<small>(みまか)</small>'''る'''」、「'''お隠れになる'''」と表現する。また中国の古典<ref>『[[礼記]]』曲礼篇によると「[[天子]]の死を崩と曰ひ、[[諸侯]]は薨と曰ひ、[[大夫]]は卒と曰ひ、[[士]]は不禄と曰ひ、庶人は死と曰ふ」とある。</ref>にならい、日本でも古くから王や女王および[[四位]]や[[五位]]の[[位階]]をもつ者の死を「'''[[卒去]]'''」と言い、[[皇族]]や[[従三位|三位]]以上の[[公卿]]の死を「'''[[薨去]]'''」、[[天皇]]や[[皇帝]]の死を「'''[[崩御]]'''」、「'''[[登霞]]'''」などとも表現してきた。
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[[2007年]]、46歳の若さで逝去した日本の哲学者[[池田晶子 (文筆家)|池田晶子]]は、ウィトゲンシュタイン的な意味において「死は存在しない」と主張した。池田は最後のエッセイで、[[臨済義玄|臨済録]]における[[普化]]の棺桶抜けを連想させる凄みのある態度を見せつけている。
  
さらに、高齢まで生きて死ぬことを、「'''天寿を全うする'''」、「'''[[往生|大往生]]する'''」などといい、幼くして死ぬことを「'''[[夭折]]する'''」、若くして死ぬことを「'''[[早世]]する'''」という。無念の死を「'''果てる'''」、旅先での死を「'''行き倒れる'''」ともいい、悪人の死でさえ「くたばる」といった。
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我々は世間的日常性において、誕生を以て「生の始まり」、死を以て「生の終わり」と見なす。しかし、我々は実存的地平においては自らの誕生を体験することはなく、我々の生は既に始まってしまっているものとしてそれぞれ個人の眼前に立ち現れる。これを裏返せば、我々は眠りの瞬間を体験することがないように、「生の終わり」としての死を体験することもないのであると解釈することも可能であろう。
  
なお日本では死を「旅立ち」と表現することがあるが、これは[[転生]]を否定しない文化が存在する日本では通じる表現であっても、違う[[文化圏]]では違った意味合いを持つので注意が必要である<ref>特に[[キリスト教]]は、一般に[[転生]]を否定し、人格の同一性の永遠な持続を信じ、現在の肉体的生の一時中断後の延長として「復活」と「永遠の命」があると考える。</ref>
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ハイデッガー的に言えば、世間的日常性に頽落した人間が何かのきっかけに実存的覚醒に至り「死に関わる存在」として現存在の本来性に立ち帰った時、それまで当たり前に知っていたはずの「生の終わり」としての抽象観念に過ぎない「死」が眼前から消失してしまうことによって、「死は存在しない」という言い表しがたい奇妙な実感に襲われることは起き得るのである。<ref>『論理哲学論考』[https://tractatus-online.appspot.com/Tractatus/webfontjp/index.html]6.5-6.522を参照</ref>
  
また、幼くして死ぬことを「'''[[天使]]になる'''」と表現することも多い。
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=== 死の人称による分類 ===
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哲学者[[ジャンケレヴィッチ]]は、人称による死の分類を提唱した<ref>養老孟司『死の壁』などにも類似の死体分類がある。</ref>。
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# [[一人称]]の死:[[英語]]での[[人称]]「I」にあたる。自分の死。
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# [[二人称]]の死:英語での人称「you」にあたる。親しい者の死。自らの大きな人生経験として受け止められ、愛着があるために悲哀などの感情が起こる。この死に接することで、次は自分の死であると自覚させられるのだ、という。
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# [[三人称]]の死:英語での人称「it」「he」「she」などにあたる。いわば無関係な人物の死。二人称の死が取り替えのきかない存在であるのに、無関係な人物の死でも置き換えられる点に特徴がある。
  
== 宗教における死、死後の観念 ==
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=== 死の受容についての研究 ===
[[仏教]]の教えでは、死は人間の四つの[[苦|苦しみ]]([[生]]・[[老化|老]]・[[病気|病]]・死)のひとつであるとされている。
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人が死をどのように受容するかについては、近年になってようやく真摯に研究されるようになってきた。
  
[[宗教]]や[[民族学]]的には、死は[[現世]]での[[肉体]]の滅びではあるが、必ずしも生命や[[魂]]([[霊魂]])の消滅を意味しないと考えることも多い。そこでは死後の世界である[[来世]]([[黄泉]]の国・[[彼岸]]・冥界・冥土・冥途・冥府・[[極楽]]・[[天国]]・[[地獄]]・[[奈落]])での活動や'''再生'''([[転生]]・[[輪廻]])が信じられている。[[仏教]]では悟りを得た死者は[[成仏]]し([[仏]]になる)輪廻から解き放たれると考えられている。中には、死者の全てが成仏すると考える宗派もある。古代[[エジプト]]の[[ミイラ]]もこのような死後の観念によって生み出された。
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かつては、例えば、[[フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー]](1613年-1680年)は「箴言集」で「死を理解する者はまれだ。多くは覚悟でなく愚鈍と慣れでこれに耐える。人は死なざるを得ないから死ぬわけだ。」などと述べていた。
また、死は[[死神]]や[[悪魔]]によってもたらされると信じる場合もある。
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== 死のイメージ ==
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突発的事故などで襲ってくる死の場合は、人は死について考える余裕さえない。回復の見込みのない[[]]にかかり、医師などから[[余命]]が数ヶ月と宣告されるような場合、人は、自分が死なねばならない、じきに死ぬ、という事実に向き合うことになる。死の定めをどう受け入れるか、さまざまな試みを行う。
[[タロット|タロットカード]]における[[死神 (タロット)|死のカード]]は、死そのもののほか、破滅、損失、失敗、災難、危険、愛の終わりなどを象徴する。
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[[]]では、死は'''[[黒]]'''で表現されることが多い。喪服は一般に黒であり、訃報は俗に黒枠(black letter)とも呼ばれる。しかし、これは{{要出典範囲|欧米において死者が白い服を着ているというイメージから、白が死を連想させる色として忌み嫌われたため}}である。[[死神]]の像は、鎌を持った[[髑髏]]が、黒いマントを着た姿で表現される。しかし、これも花嫁の衣装が魔物から身を守るために幽霊の着るような白い色をしているというのを鑑みれば、むしろ死神は死者ではなく異界からの殺人者(生者)の象徴であるといえよう。
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死を自覚した人は、一体どのように自己の死の事実と向き合い、どのようにその事実を拒否したり受け入れたりするのか? [[エリザベス・キューブラー=ロス|キューブラー=ロス]]は、実際に多数の「死に行く人」と言葉を交わし心理治療に従事した経験を総合することで、多くの人が辿る「死の受容への過程」を、次のような段階的モデルで示してみせた{{Sfn|エリザベス・ロス|2011}}
また、[[血]]のイメージである[[赤]]系統の色が死の表現として用いられる場合もある。しかし、[[赤]]は血の色のイメージから活発、健康といった生のイメージをも指す場合が多い。一般にゴシック思想は死と混同され、関連されがちであるが、こういったことを考えると正確には生者の側から見た死、客観的な死である</ins>{{要出典}}<!-- 一般にと記述されてますが、何から見て一般なのでしょうか -->といえ、むしろ死そのものよりも退廃、腐敗のイメージを愛好しているといえる。
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ロシアでは、死は一般的に老婆の姿でイメージされる。ロシア語においては「死」という単語(смерть)は女性名詞であるため。
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; 第一段階:「[[否認]]と孤立」
また、日本など[[漢字文化圏]]の国では数字の[[4|四]]の読みが「死」を連想させることから、ホテル、旅館、モーテル、国民宿舎などの[[宿泊施設]]の客室番号などで「4」が避けられることがある。(階番号は除く(例:'''4'''01号室))更に、日本では、数字の [[42]](四十二)の「し・に」の読みが「死に」に聞こえるとして凶運とされ、客室番号やナンバープレートでは「42」が避けられることが多い。[[キリスト教]]圏では[[13]]が避けられる。これはキリストが十字架に掛けられ処刑されたきっかけとなった[[イスカリオテのユダ|ユダ]](13番目の弟子)に由来すると解される{{要出典}}。中国では白が喪服の色であるため、白い色が死を連想させやすい。また、日本でも西洋の文化が急速に入ってくるまでは喪服も死装束も白であった。
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: 病などの理由で、自分の[[余命]]があと半年であるとか三か月であるなどと知り、それが[[事実]]であると分かっているが、あえて、死の運命の事実を拒否し否定する段階。それは冗談でしょうとか、何かの誤りだという風に反論することで、死の事実を否定するが、否定しきれない事実であることが解っているが故に、事実を拒否、否定することで事実を肯定している周囲から距離を置くことになる。
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; 第二段階:「怒り」
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: 拒否し否定しようとして、否定しきれない事実、宿命だと自覚できたとき、「なぜ私が死なねばならないのか」という「死の[[根拠]]」を問いかける。このとき、当然、そのような[[形而上学]]的な根拠は見つからない。それゆえ、誰々のような社会の役に立たない人が死ぬのは納得できる。なぜ自分が死なねばならないのか、その問いの答えの不在に、[[怒り]]を感じ表明する。
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; 第三段階:「取り引き」
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: 死の事実性・既定性は拒否も出来ず、根拠を尋ねて答えがないことに対し怒っても、結局、「死に行く定め」は変化させることができない。死の[[宿命]]はどうしようもない、と認識するが、なお何かの[[救い]]がないかと模索する。この時、自分は強欲であったから、財産を慈善事業に寄付するので、死を解除してほしいとか、長年会っていない娘がいる、彼女に会えたなら死ねるなど、条件を付けて死を回避する可能性を探ったり、死の受容を考え、[[取引]]を試みる。
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; 第四段階:「抑鬱」
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: 条件を提示してそれが満たされても、なお死の定めが消えないことが分かると、どのようにしても自分はやがて死ぬのであるという事実が感情的にも理解され、閉塞感が訪れる。何の[[希望]]もなく、何をすることもできない、何を試みても死の事実性は消えない。このようにして深い[[憂鬱]]と[[抑鬱]]状態に落ち込む。
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; 第五段階:「[[受容]]」
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: 抑鬱のなかで、死の事実を反芻している時、死は「[[無]]」であり「[[暗黒]]の虚無」だという今までの考えは、もしかして誤っているのかもしれないという考えに出会うことがある。あるいはそのような明確な考えでなくとも、死を[[恐怖]]、[[拒否]]することで、[[回避]]しようと必死であったが、死は何か別のことかも知れないという心境が訪れる。人によって表現は異なるが、死んで行くことは[[自然]]なことなのだという[[認識]]に達するとき、心にある[[平安]]が訪れ「死の[[受容]]」へと人は至る。
  
[[マルセイユ]]版タロットカードでの死は「13番」と呼ばれ、明確な名前はない。それは「死」は口に出して呼んではならないもののためである。
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ただしこれは、キューブラ=ロスが多数の「死に行く人」の事例を観察して得たひとつの範型であって、人が全員、以上のような段階を経て、死の受容に至るわけではない。色々な自己の死との向かい合いがあることを、ロス自身も認めている。
  
しかし死は同時に「新たな旅立ち」や「再生」を意味することもある。この中には大地への帰還(地より生まれて地に帰る)の思想のほか、再生に絡み[[胎内回帰]]的なイメージを持つ場合もある。[[沖縄県|沖縄]]の[[亀甲墓]]は[[女性]]の[[子宮]]を意味しており、胎内回帰と再生を祈ったシンボルであるという。
+
いずれにせよ、人が死を受け入れて[[尊厳]]を持って死に臨めるようにするためには、周囲の理解と協力が必要不可欠である、ともされる。
  
この他、永遠の安らぎや安息と称する場合もある。これは死という現象を「肉体を休める」[[睡眠]]になぞらえて安らかな死を祈る思想で、不可避である親しい者との別れを、より健全で穏やかなイメージに置き換えた形とも言えよう {{要出典}}
+
=== 医療の場におけるスピリチュアルケア ===
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{{See also|スピリチュアルケア}}
 +
医療の現場(病院、あるいは死を覚悟せざるを得ない人々が多くいる[[ホスピス]]などの[[ターミナルケア]]の場)では、人は「病気であることの意味」「生かされていることの意味」「死ぬことの意味」などに関して様々な疑問を抱き苦痛を感じる。このような痛みは「スピリチュアルペイン」と呼ばれる。欧米の医療では伝統的に、このような痛みを和らげるサービス、すなわち[[スピリチュアルケア]]を提供するしくみが整っている。日本の医療の場では長らく対応が遅れていたが、1990年代に入ってから徐々に進展が見られるようになった。
  
これらはさまざまな宗教にも関連して、多様な「死の文化」を形成している。このような死の文化では、[[メメント・モリ]]や[[死の舞踏 (美術)|死の舞踏]]のような[[流行]]性のムーブメントすら発生しており、死という現象を慣れ親しむもの、あるいは常に思い描くもの、更にはユーモラスに扱うことで恐れないで済むものといったような扱いも見られる。
+
=== 文化・宗教による相異 ===
 +
前述のごとく、死を哀しい出来事だとする文化・宗教がある一方で、死を喜ばしい出来事だとする文化・宗教もある。
  
今日の日本を含む先進国では、医療技術の発達にも伴い死は[[日常生活|日常]]より切除され、病気や怪我による死は病院で扱われ、老衰による死は[[老人ホーム]]で扱われるなど、より曖昧模糊としたイメージしか持たない傾向が見られる。しかしかつての死は常に日常と隣り合わせであった時代には、より密接で現実的なイメージを持っていた。[[ネイティブアメリカン]]の文化などでは「今日は死ぬのに良い日だ」という言い回しもあるようだが、これは先に挙げたメメント・モリのイメージに似ている。普遍的な現象であったがために、平行進化的に同じ結論に達したのであろう {{要出典}}。
+
死を哀しい出来事だとする文化圏・宗教では、自分と親しい人間の死が訪れた時などは涙している。だが、死は新たなる世界への旅立ちとしている文化圏では、笑顔で送り出す。
  
その一方で現代社会では、死は記号化され<!--事実というわけではなく、そう解釈している評論家がいる、ということ。実際は、死に対する態度は人それぞれ。なので、そう述べている評論家名を特定すべし-->{{要出典}}曖昧なイメージしか持たないため<ref>養老孟司『死の壁』 新潮社</ref>、「終わり」や「開放」、更には死のイメージに[[カタルシス]]を求める者すら見られる。一種の[[逃避行動]]ともみなされる{{要出典}}場合もあるが、死のカタルシス性に対しては、日本で[[1990年代]]末頃より[[社会問題]]としても取り沙汰された[[自殺系サイト]]などで、自身の死のイメージにカタルシス性を求める者の動向も見出される {{要出典}}。しかし、こういった層の中には死を真摯に受け止めている人間もいるのは確かである。
+
[[エリザベス・キューブラー=ロス]]の書籍に以下のような表現があるという<ref>ビル・グッゲンハイム『生きがいのメッセージ』p.347-348</ref>
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{{Quotation|
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死なんてものは、春になって重いオーヴァー・コートがもういらなくなったときに、それを脱ぎ捨てるようなもの......... 肉体は不滅の自己を閉じ込めている殻にすぎない。
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}}
  
== 文学・芸術における死 ==
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アメリカ・[[インディアン]]の[[プエブロ]]族には「今日は死ぬのにもってこいの日だ」という言葉も伝わっている<ref name="nancy">ナンシー・ウッド『今日は死ぬのにもってこいの日』めるくまーる、1995、ISBN 4839700850</ref>。
文学に関わる死の概念は、作品において描かれる死と、作品自体の"" に大分類することも可能である。
+
{{Quotation|今日は死ぬのにもってこいの日だ。生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。すべての声が、わたしの中で合唱している。すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。今日は死ぬのにもってこいの日だ...|プエブロの古老が語る言葉<ref name="nancy" />}}
  
=== 作品で描かれる死 ===
+
== 歴史学における死の認識 ==
文学作品の多くは、死とその風景をモチーフとし、あるいは利用してきた。モチーフとしては、『[[源氏物語]]』や、『[[罪と罰]]』、『[[ハムレット]]』のようにストーリーの発端に死を置くもの、『[[若きウェルテルの悩み]]』や、『[[オイディプス王]]』のように、死の強烈なイメージを中心的に提示するもの、また、[[推理小説]]のように、意味と無意味の境界として死をテーマ化するものがある。[[評論家]]、[[小説家]]の[[笠井潔]]が、最後のものについて行なった、「推理小説は[[第一次世界大戦]]が生んだ無意味な死体の山から生まれた{{要出典}}」なる定式化も存在する。
+
[[歴史学]]者かつ[[ホロコースト]]研究者[[ティモシー・スナイダー]]の『ブラッドランド』によれば、死や[[殺害]][[価値]][[意味]]を見出すことには[[危険]]が伴う{{Sfn|スナイダー|2015|p=267}}。一つは、価値・意味といったものが、死や殺害と同一視される危険である{{Sfn|スナイダー|2015|p=267}}。もう一つは、そのような価値や意味を求めることで、死亡数や殺害数がさらに増加する危険である、と言う{{Sfn|スナイダー|2015|p=267}}
  
さらに、死の風景は時代と場所によってその描かれ方に類型が見られる。[[ギリシャ]][[叙事詩]]においては、戦士達の誇り高き死が頻繁に現われる。[[近代]][[フランス文学]]では、例えば、『[[ゴリオ爺さん]]』や『[[ボヴァリー夫人]]』に見られるようなベッドの上の死の情景と、陰で[[遺産]]の計算をする看病人逹の冷やかな様子が頻繁に描かれた。
+
{{quotation|現代の[[記念]][[文化]]は、[[記憶]]が必ず[[殺人]]を防ぐものと思い込んでいる。これほど多くの人々が'''[[]]を落とした'''のなら、'''何か途方もない[[価値]]'''のあることのために死んだはずだと思いたくなるのが[[人情]]だ。公開して、[[発展]]させて、適切な形で[[政治]]的な記憶として残していけるはずだと。
  
文学的な人物の死とは何か、というテーマに関しては、文学理論家の[[ミハイル・バフチン]]は「[[]]の条件は空間的な境界と時間的な終りを持つことであり、死は文学作品の人物を美的形象とする契機となる{{要出典}}」という考え方を提示している。<!--すなわち、文学にとって人間の死は飽くまで終りであり、死を越えて続く持続はすでに宗教の領域である{{要出典}}といえる。-->
+
そうすると、'''途方もない価値'''は'''[[民族]]ないし[[国家]]の価値'''へと変わる。何百万人もの[[犠牲]]者は、[[ソ連]]が「[[大祖国戦争]]」に勝つため、[[アメリカ]]が「よい[[戦争]]」に勝つために死んだにちがいない。[[ヨーロッパ]]は[[平和主義]]的教訓を学んだはずだ。[[ポーランド]]は[[自由]]の[[伝説]]を、[[ウクライナ]]は[[英雄]]を持つ必要があったのだ。[[ベラルーシ]]はその[[美徳]]を証明しなければならず、[[ユダヤ人]]は[[シオニスト]]としての[[使命]]を果たさなければならなかった。
  
<!--この意味で、[[フエンテス]]の「[[アウラ]]」や[[川上弘美]]の『[[惜夜記]]』などは文学の境界例{{要出典}}である。-->古井由吉は『仮往生伝試文』をはじめとする作品群の中で、死と自己とのかかわり合いを特異な文体で描き出している。死が、対立事項でもなく、恐怖の対象でもなく、ともかくも生が続く限り常にからめとられざるを得ないもの{{要出典}}として、描かれている。
+
しかしあとからこのように正当化することは、[[国政]]や国民[[心理]]、民族心理にまつわる重要な[[真実]]を伝えはするが、'''記憶そのものとはほとんど関係がない'''。[[死者]]は記憶されるが、死者は覚えていない。ほかの[[人間]]が[[力]]を持ち、彼らの死に方を決めた。
  
=== 作品自体の死 ===
+
[[後世]]もやはりほかの者が彼らの死の[[原因]]を決めている。'''殺害'''から'''[[意味]]'''が引き出されれば、'''さらなる殺害'''が'''さらなる意味'''を生み出す危険性が出てくる{{Sfn|スナイダー|2015|p=267}}。}}
作品が人の目に触れぬようになったり、作者の意図した事柄が、部分的にすら受け取られなかった場合、その作品は意味をなくし(比喩的な意味で)" 死ぬ " 。[[ギリシャ]][[ローマ]]において人間は死すべきものと呼ばれ、神々、則ち不死なるものの永遠性との対立によって、時間的に限られたものとイメージされ、芸術家や詩人とはこの限界を乗り越え、人間と神々を媒介するものと考えられた{{要出典}}。現在でも芸術作品は "不死性" と結び付けられて捉えられることが多い。なお、古代ギリシャの悲劇は、作者の死と共に演じられなくなる慣習があったが、唯一アイスキュロスの作品はあまりの人気のために死後も上演された。アリストパネスの喜劇『蛙』で、それについて言及した下りがある。
+
  
この芸術作品のイメージを決定的に転倒させたのは、[[フリードリヒ・ニーチェ|ニーチェ]]による「神の死」という宣言であった。神なき時代の文学といえば、日本人にとっては日本の[[私小説]]作家達の[[自殺]]や[[心中]]のモチーフを思い起こす人が多いだろうが、[[西洋]]では[[20世紀]]の前半に、死すべき存在としての人間を肯定的に捉えようとした[[ハイデッガー]]や[[ユンガー]]、[[モーリス・ブランショ|ブランショ]]を連想する人が多い。また、[[ヴァルター・ベンヤミン]]はすでに死んでしまった芸術作品の「救済」が歴史家の使命であると考えた。
 
  
さらに、<!--情報化や技術の進展によって、芸術の概念にとっては大きなターニングポイントとなった-->前世紀後半には、「小説の死」、「文学の死」という<!--<<「エゴイスティック」と表現すると価値評価が入っている>>若干エゴイスティックな-->言葉が[[ミラン・クンデラ|クンデラ]][[大江健三郎]]らによって用いられた。
+
== 比喩的な用法 ==
 +
自然言語というのはその成り立ちからして基本的に比喩やメタファーに満ちているものであるが、死という表現も、何かしら生命に擬せられる存在が、その比喩的な「命」を失うような場合にも使われる。「[[ローマ帝国]]の死」、「[[天体|星]]の死」などである。
  
== 死についての名言 ==
+
現在では、[[機械]]装置などが破損した場合に「死んだ」などと形容されることもある。とくに[[コンピュータ]]に対しては、電源が切れた、クラッシュした、あるいは[[プロセス]]が停止したなどの状態を比喩的に「死んだ」と表現することがあり、その延長で「プロセスを殺す」(進行中の処理を停止させる)などといった比喩表現も使われる(一例を挙げれば、UNIX系オペレーティングシステムでは単なる比喩に止まらずプロセス停止コマンドとして'kill'コマンドが存在している)。生命の不可逆的な死とは異なり、これら機械の比喩的な死では破損した部品を交換するなり修理して、コンピュータの場合はクラッシュしたプログラムに関するメモリを破棄して記憶媒体から読み出しなおすなど復旧させる方法は幾らでもある。特に技術筋にもなると「異常や故障が手に負えなくなり、それを破棄して異常のないものに入れ替えする以外に対処方法がない」場合に「死んだ」と表現する。
*「死とは、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]](の[[音楽]])を聴けなくなることだ。」([[アルフレート・アインシュタイン]]([[アルベルト・アインシュタイン]]の従弟で音楽学者・モーツァルト研究家))
+
<!--生命までもモノに喩えてしまう機械論のことか。{{要出典}}生命も一種の[[分子マシン]]の集合であり、動物でもその極大な構成物に過ぎないという考え方もある。このため[[サイエンス・フィクション]]分野では、そういった「壊れた部品を交換する」などして生命を「修理しよう」というアイデアもしばしば登場する。[[テセウスの船]]の問題のように、部品交換で「生き返った」生命が前の生命と同じものなのか(=前の個体は既に死んでいて、目の前で生きているのは別の存在)?という多義的な問題も含んでいる。-->
*「[[武士道]]というは、死ぬことと見付けたり」([[葉隠]])
+
*「死に至る病とは、絶望のことである」([[キエルケゴール]])
+
*「人は死ぬ。だが死は敗北ではない。」([[アーネスト・ヘミングウェイ|ヘミングウェイ]])
+
*「死は人生の終末ではない 生涯の完成である」([[マルティン・ルター]])
+
*「戦士は死ぬ。だが、思想は死なない。」([[フィデル・カストロ]])
+
*「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」「朝(あした)に道を聞かば夕べに死すとも可なり」([[論語]])
+
<!--死を述べた言葉ではなく努力する姿勢を述べたもの・「死して後已まん」はこれを改変した第二次大戦時の日本の国威発揚スローガンの一種:*「斃(たお)れて後(のち)已む 」([[礼記]]表記」)-->
+
<!--他に比べると明らかに知名度が低い雑多な記述(百科事典として示す例としては雑小なケースで不適切):
+
*「死って、気持ち悪いものだよ」([[三浦春馬]]
+
*「人が死ぬってことは、料理がこの世では食べれなくなる現象である。熱々の[[シューマイ]]も。」([[岡田将生]])
+
-->
+
  
== 法律における死 ==
+
相撲の「[[死に体]]」、野球の「[[死球]]」などの表現でも用いられている。また、一定の[[職業]]に就いていた者が、様々な諸事情によってその職務が著しく困難になった場合などはたとえ[[生物学]]的には生きてはいても[[マスメディア]]などでは「○○生命が絶たれる」などと表現される。また、[[政治家]]や[[芸能人]]、[[ジャーナリスト]]など社会的に注目される職業に従事する者が、自身が運営している[[ブログ]]のいわゆる「[[炎上 (ネット用語)|炎上]]」などによって事実無根の様々な[[風評被害]]を受けることにより、上記のような社会的活動を行えなくなったものなども職業人としては「死んでいる」もしくは「殺された」ようなものであるため「社会学的な死」とみなされる。
人間の死が法律上どのような影響を与えるかについては、「[[人の終期]]」を参照のこと。
+
  
== さまざまな死 ==
+
=== 芸術作品の死 ===
大きく分けると[[事故|事故死]]、[[自殺]](自死・自決)、[[他殺]]、[[病死]]、[[老衰|老衰死]]の5つ。
+
芸術作品が、人の目に触れぬようになったり([[死蔵]])、作者の意図した事柄が部分的にすら受け取られなくなった場合、その作品は意味をなくし" 死ぬ "とされる。
  
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+
[[古代ギリシャ]][[古代ローマ]]において人間は死すべきものと呼ばれ、神々、則ち不死なるものの永遠性との対比によって、時間的に限られたものとイメージされ、芸術家や詩人とは、この限界を乗り越え[[人間]]と神々を媒介するものと考えられた{{要出典|date=2007年9月}}<ref>なお、古代ギリシャの悲劇は、作者の死と共に演じられなくなる慣習があったが、唯一アイスキュロスの作品はあまりの人気のために死後も上演された。[[アリストパネス]]の喜劇『蛙』に、それについて言及したくだりがある。</ref>。現在でも芸術作品は "不死性" と結び付けられて捉えられることが多い。
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* [[安楽死]]
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* [[縊死]]
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* [[餓死]]
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* [[過労死]]
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* [[刑死]]
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* [[死産]]
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* [[自然死]]
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* [[傷害致死]]
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* [[過失致死]]
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* [[衰弱死]]
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* [[ショック死]]
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* [[心中]]
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* [[戦死]]
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* [[尊厳死]]
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* [[転落死]]
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* [[突然死]](急死)
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* [[腹上死]](性交死)
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* [[悶死]]
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* [[轢死]]
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* [[吊死]]
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* [[憤死]]
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* [[獄死]]
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* [[頓死]]
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* [[牢死]]
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* [[焼死]]
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* [[水死]](溺死)
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* [[滑落死]]
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* [[窒息死]]
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* [[敗死]]
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* [[諌死]]
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* [[殉死]]
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* [[殉職]]
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* [[殉教]]
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* [[怪死]]
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* [[変死]]
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* [[圧死]]
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* [[老死]]
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* [[磔刑死]]
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* [[夭死]]
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* [[夭折]]
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* [[若死]]
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* [[凍死]]
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* [[熱死]]
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* [[忠死]]
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* [[誅殺]]
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* [[客死]]
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* [[切腹]]
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* [[惨死]]
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* [[愧死]]
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* [[慙死]]
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* [[毒死]]
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* [[往生]]
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* [[狂死]]
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* [[情死]]
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* [[拷問死]]
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* [[斬首]]
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* [[出血死]]
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* [[失血死]]
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* [[横死]]
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* [[孤独死]]
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* [[即死]]
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* [[脳死]]
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* [[墜死]]
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* [[徒死]]
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* [[爆死]]
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* [[獄門]]
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* [[刎死]]
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* [[徒労死]]
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* [[惨死]]
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* [[渇死]]
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* [[恍惚死]]
+
* [[野垂れ死]]
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* [[斃死]]
+
* [[薬殺]]
+
* [[縊死|扼殺]]
+
* [[撲殺]]
+
* [[戮死]]
+
* [[淫死]]
+
* [[脱血死]]
+
* [[凌遅死]]
+
* [[敗血死]]
+
* [[恋死]]
+
* [[相対死]]
+
* [[癌死]]
+
* [[討死]]
+
* [[喀血死]]
+
* [[酔生夢死]]
+
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+
  
== 脚注 ==
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[[ヴァルター・ベンヤミン]](1892-1940)はすでに"死んでしまった"芸術作品の「救済」が歴史家の使命であると考えた。
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 +
20世紀後半には、[[ミラン・クンデラ|クンデラ]]や[[大江健三郎]]らが、「小説の死」、「文学の死」といった言葉を用いた。
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== 注釈 ==
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{{複数の問題|section=1|出典の明記=2018-10|独自研究=2018-10}}
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<references group="注"/>
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== 出典 ==
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{{Reflist|3}}
  
 
== 参考文献 ==
 
== 参考文献 ==
*『死ぬ瞬間 - 死とその過程について』(エリザベス・ロス 著、中央公論新社、2001年)ISBN: 4-12-203766-2
+
* {{Cite |和書|title=死の壁 |author=[[養老孟司]] |date=2004 |isbn=978-4106100611 |publisher=新潮社}}
 +
* {{Cite |和書|title=[[死ぬ瞬間]] - 死とその過程について |author=[[エリザベス・キューブラー=ロス]] |publisher=中央公論新社 |date=2001 |isbn= 4-12-203766-2}}
 +
* {{Cite book |和書 |last=スナイダー |first=ティモシー |authorlink=ティモシー・スナイダー |translator=[[布施由紀子]] |year=2015 |title=ブラッドランド:ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 |publisher=筑摩書房 |isbn=978-4-480-86130-6 |ref=harv }}
  
 
== 関連項目 ==
 
== 関連項目 ==
 
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*[[死体]] - [[検死]] - [[死斑]]
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*[[死亡届]] - [[葬儀]] - [[墓]] - [[棺]]
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* [[死体]][[死斑]][[検死]]
*[[死亡帳]]
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* [[葬儀]][[葬送]][[墓]][[棺]]
*[[自殺]](自決とも)
+
* [[死亡]][[死亡届]]
*[[遺書]] - [[遺言]]
+
* [[崩御]]
*[[レクイエム]]
+
* [[遺書]][[遺言]]
*[[パニヒダ]]
+
* [[自殺]][[安楽死]][[尊厳死]]
*[[死生観]]
+
* [[殺害]][[殺人]][[戦死]][[殉死]][[殉教]]
*[[涅槃]]
+
* [[死刑]][[死罪]]
*[[ダイ・イン]]
+
* [[死生観]][[輪廻]]
*[[食物連鎖]]
+
* [[永眠]][[召天]][[帰天]]
*[[殺害]]
+
* [[死生学]]
**[[屠殺]]
+
* [[遺影]]
**[[殺菌]]
+
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**[[殺人]] - [[殺人罪]]
+
== 外部リンク ==
**[[死刑]] - [[死罪]]
+
{{SEP|death-definition|The Definition of Death|死の定義|nolink=yes}}
*[[戦争]] - [[戦死]]
+
**[[粛清]] - [[ホロコースト]]
+
**[[死の灰]]
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*[[火葬場]]
+
*[[火葬]] - [[自然葬]]
+
*[[死生学]]
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*[[メメント・モリ]](memento mori)
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[[Category:人の一生]]
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{{DEFAULTSORT:し}}
 
[[Category:死|*]]
 
[[Category:死|*]]
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[[Category:人の一生]]
 
[[Category:法医学]]
 
[[Category:法医学]]
[[Category:戸籍|しほう]]
 

2020年1月12日 (日) 20:09時点における最新版

Disambiguation

この項目では死そのものについて説明しています。

  • 死の文化的な位置付けについては死と文化をご覧ください。
  • 法令や社会における人の死を意味する様々な用語については死亡をご覧ください。
  • 権利の主体としての人の死については人の終期をご覧ください。
  • {{{8}}}については[[{{{9}}}]]をご覧ください。
  • {{{10}}}については[[{{{11}}}]]をご覧ください。
  • {{{12}}}については[[{{{13}}}]]をご覧ください。

(し、英語death)とは、

ただし、何をもって人間の死とするのか、その判定や定義は文化、時代、分野などにより様々である(→「死亡の判定・定義」節を参照)。一旦は命が無いとされる状態になったが再び生きている状態に戻った場合、途中の「死」とされた状態を「仮死」や「仮死状態」という。伝統的に宗教哲学神学が死を扱ってきた。近年では、死生学法学法医学生物学等々も死に関係している。死の後ろに様々な言葉をつなげ、様々なニュアンスを表現している。例えば「死亡」「死去」「死没」などがある。

世界においては1日あたり、おおよそ15万人が死を迎えるが、そのうち2/3は高齢による加齢関連が死因である[3]。先進国になるとその割合は高く、90%ほどが加齢関連である。 防ぎうる死 も参照

診断[編集]

判定・定義[編集]

どのような状態になったことを「死」とするのかということについては、各地域の文化的伝統、ひとりひとりの心情、医療、法制度、倫理的観点などが相互に対立したり影響しあったりしており、複雑な様相を呈している。領域ごとに異なった見解があり、またひとつの領域でも様々な見解が対立している。たとえば今 仮に、医学的な見解ひとつに着目してみた場合でも、そこには様々な見解がありうる。養老孟司は次のように指摘した。

生死の境目というのがどこかにきちんとあると思われているかもしれません。そして医者ならばそれがわかるはずだと思われているかも知れません。しかし、この定義は非常に難しいのです。というのも、「生きている」という状態の定義が出来ないと、この境目も定義できません。嘘のように思われるかも知れませんが、その定義は実はきちんと出来ていない[4]

ここではまず、多くの人々がとってきた見解を中心に、様々な見解を説明してゆく。

息が止まること
伝統的にと強く結びつけられて考えられてきた。よって、息が無くなった状態は死だと考えられてきた。
全身のさまざまなしるし
日本人では、従来(そして現在でも一部では)、が伸びる間は、まだ(ある意味で)命はまだあるのだ、と感じている人がいる。現在でも、自分の親や子供などを亡くした遺族などの中には、家族(の身体・遺体)の髪や爪が伸びているのを見て、まだ生きていると感じ、荼毘に付すのを拒む人がいる。
臨終の場における医師の恣意的な判断
前述のように実際には医師にとっても生と死の境目ははっきりしているわけではない。ただ、言葉として「生死」という言葉があり用いられている以上、「間に切れ目がある」という前提が置かれてしまっており、また社会の制度としては、どういう形にせよ、切れ目を決めることを求められることになり、実体とは関係なく、法律というものは言葉で組み立てられているので、死を(法的に、形式主義的に)規定することが可能で、死亡診断書の「死亡時刻」欄に何らかの時刻を書くことで「この時点から死だ」とすることに決められている[5]。よって(本当は境目ははっきりしていないのだが)医師は死亡診断書の「死亡時刻」欄を空欄にしておくことは許されず、(ともかくそれに書き込み)それによって「死の瞬間」が(形式的に)決定される。しかし、これは言葉の上で(恣意的に)決めたにすぎず、実体としての「死の瞬間」とは別のものである[5]
三兆候
医療で用いられる「死の三兆候」で、次の三つ。
数十年前に臓器移植の問題が出現するまで、こう考えておけば基本的には問題はなかった[6]
バイタルサイン
現代の医療の現場では、基本的にまずバイタルサインを見て生命の状態を判断している。つまり心拍数・呼吸数・血圧・体温である。そしてバイタルサインによる生命のしるしが無くなった段階で、瞳孔反射を調べ、それも無い場合に死亡したと判断する、というのがひとつの(よくある)方法である。[注 1]
臓器移植と線引き
死は実は定義困難なのだが、医療の現場では前述の「死の三兆候」を用いることで、ともかくそういう細かいことを考えずに済んでいた。ところが、臓器移植という問題が出てきた段階で考え込まざるを得なくなった[6]
米国などで医師の一部によってさかんに臓器移植の試みがなされるようになると、こうした医師はできるだけ新鮮な臓器を使いたいと考え、少しでも早く臓器を摘出したいと考えるようになった。そのほうが移植された人の予後は良好になる傾向があるからである。だが、新鮮な臓器のほうが予後が良好だからと言って、早めに臓器を取り去った後に、その人は手術時に「生きていた」とされ、臓器を取ったことによって「死んだ」状態になったと判断されると、その一連の行為は(一種の)「殺人」ということになってしまう。そこで、臓器移植をさかんに行おうとする医師たちなどが、意識の有無を生死の線引きに用いることを提唱し、「脳死」という概念を用いることを主張した。それによって、人工心肺などを用いることで、脳が死んだ状態でも、残りの臓器はかわらず生かしておき、その新鮮な状態の臓器を移植することができる、と考えるようになったのである。彼らは「脳の電気的活性の停止が意識の終わりを示す」と考え、「脳の電気的活性が止んだとき、人間は死んだのだ」と言うようになった[注 2]
「脳死」という考え方は、様々な激しい議論を生み、かなりの論争にもなった、現在では一時ほどは激しくはないが、今も様々な議論は続いている。
現代では「脳死が死だ」というふうに捉える人もいるであろう[7]。だがこの「脳死」概念ですら線引きは様々で、(脳のどこが死んだ段階を「脳死」とするか意見は分かれ)、「脳の神経細胞が全部死んだ時点が脳死」とする人もいる[7]。しかし、仮にこの論法を取る場合でも、一体どの時点で神経細胞が全部死んだのか、実はわからない[7][注 3][注 4][注 5][注 6][注 7][注 8]
脳死の議論は、一見したところではまるで科学の話のようでも、本当は問題となっているのは、社会が一致して決める「死」が問題の中心になっているようだと養老は指摘した[8]。臓器移植を巡る「脳死」概念では、臓器移植をしようとする医師、臓器をとられる人とその家族、臓器を受け取る人の立場 等々は対立していてかみあわない。
そもそも、人体というのは様々な種類の細胞で出来ていてそれらが全体で生きているのに、そうした数多くの細胞の中から脳の神経細胞だけを特別視するほどの明確な根拠があるわけではない[7]と養老孟司は指摘した。
脳の神経細胞だけを特別視するということは、皮膚や筋肉の細胞を差別(軽視)している、ということになる[9]。おまけに筋肉というのは、「脳死」の判定後でも電気刺激を与えるとよく動く[10]。筋肉は生きつづけているのである。こういうことからも、"「生死の境目」や「死の瞬間」は厳格に存在している"とする考えは、思い込みにすぎないことがわかる、と養老は書いた[10]
臓器移植法」を見ても、そういうことはよく現れている[11]。同法には "脳死は死である" などとは書かれていない[11]。単に、脳死状態の患者からは臓器を移植してもよい、としか書いていない[11]。つまり、生死の線引きをはっきりさせようとこだわると困る人がいるからそれを言わないようにしているわけで、「脳死者から臓器移植していい」というのは「どうせなら鮮度がいい臓器がいい」という(外科医や、臓器を受け取る側の)事情・都合で決めたに過ぎない[11]
また村上陽一郎も、医学が人間をパーツの集まりとしか見なくなったから「脳死」などという概念を作りだしたのであって、苦しむひとりひとりの人間としての患者への視点がすっかり欠如してしまっているからそうなってしまっている、と指摘し、「脳死」という概念はかなり不適切だ、と指摘している[12]
脳死 も参照
臓器移植と脳死を巡って議論が活発だった時に、死(脳死)を「これから先は死に向かって、不可逆的に進行する過程になる状態である」と書いた人がいた[13]。法医学の教員でも、「人の死は、心臓、それら全ての不可逆的な機能停止」という人がいる。「生命活動が不可逆的に止まる事」などとも[14][注 9][注 10]

法律上、何をもって人の死とするかという問題については「人の終期」も参照

立場によって見解は異なり、現在でも「死」の判定や定義については、それぞれの立場で、様々な見解が示され続けている。

法的[編集]

死亡 も参照 ほとんどの国では医師による死亡診断書によって法的な死とする。

誤診[編集]

早すぎた埋葬 も参照 医師に死亡を宣告された後、生き返った人々の逸話が多くある。

イギリスのビクトリア時代のそのような逸話では、あるものは防腐処理を始めた時に、あるものは死の数日後に棺の中で意識を回復するなどして動き回ったりする。当時のイギリスでは、このような早すぎた埋葬を、強迫観念的に恐れるようになる人がいた。同時代以前には、ペストなどの伝染病流行時に、感染を恐れて検死がずさんだったりするケースもしばしばあったとされ、これが死者復活(→吸血鬼ゾンビグールなど)の伝承となったと考える者もいる。

これらは、その当時の検死技術が完全ではなく、ショック状態における体温の急激な低下や、呼吸量の著しい減少、あるいは血圧低下による脈の微弱な状態を死亡と誤って判定したケースや、一時的な心肺停止後に偶発的に心臓の鼓動が正常に戻るなどして「生き返った」とみなされたのだろう。このため近代的な検死では、最初のチェックから一定時間後に生命の兆候がないかを再チェックするようになっている。

検死技術の発達以前における土葬では、このように生きているにもかかわらず埋葬され、生き埋めとなる可能性は誰にでもあり、またそれらの可能性は大変な恐怖を伴った。そのため発明家たちは被埋葬者の状態を棺外に伝える方法を発明した。地表にはベルと旗があり、それが棺内にひもでつながっていた。棺の蓋には金槌や滑車装置で壊せるガラスの仕切りがあった。しかしこれは気休めでしかなく、この滑車装置が棺にかけられた土のため機能し得ず、棺を破壊したところで割れたガラスと土が被埋葬者の顔を覆う事になる。(安全な棺も参照)

原因[編集]

人間が死に至る原因を「死因」と言う。

直接的に死亡に繋がった原因の事を「直接死因(direct cause of death)」と言い、直接死因を招いた原因を「原死因(underlying cause of death)」と言う。要出典

(一般的な死因の分類と必ずしも一致するわけではないが参考までに)死亡診断書での「死因」の分類では次のようになっている[15]

交通事故」、「転倒・転落」、「溺死」、「煙、火災および火焔による障害(火災による死)」、「窒息」、「中毒[15]
  • 「その他の外因死、不詳の外因死」[15]
「自殺」「他殺」[15]「その他の外因死、不詳の外因(戦争による死、による死[15][17]

子宮内の胎児が死亡した状態で産まれる事を、死胎検案書では「自然死産」や「人工死産」と分類する[18]厳密には胎児そのものの死因を表すものではないが、胎児が死亡した際に用いられる。

なお病死に関しては、近年の日本ではガン心疾患肺炎が3大要因となっている[19]日本の健康 も参照


生物学的な死の説明[編集]

死に至った場合、生物体は次第に崩壊に至る。これは主として二つの作用による。

  • ひとつは、生物体自身が自らを分解することである。たとえば消化酵素のように、生物体を分解することが可能な酵素は生物体内のあちこちに存在しており、これによって生物体が分解されないのは、生命活動のひとつとして、それらを隔離した状態にする活動があるからである。死によってそれが止まれば、生物体は自ら分解を始める。
  • もう一つは、他の生物に分解されることである。生物の体は、それ以外のさまざまな生物にとって有益な栄養源である。特に微生物は常に空気中や地面などから侵入を試みている。これが成功しないのは、生きた生物には免疫の働きがあるからである。死によってその活動が止まれば、たちまちそれらの侵入と繁殖が始まる。

単細胞生物等の死[編集]

原則として単細胞生物には寿命老化)による死という概念が無い。 多細胞生物はテロメアによって細胞の分裂回数が制限されており、分裂回数の限界が老化をもたらすが、真核単細胞生物は例外なくテロメラーゼによってテロメアを修復することで、無限に増えることができる。

単細胞生物に寿命なるものをさがそうとしても、ゾウリムシの分裂制限ぐらいしか挙げられない。 ゾウリムシを人為的に一個体ずつに隔離する事を繰り返して、自家生殖もしくは接合を行わせないよう注意深く飼育したところ、350回程度の細胞分裂の後に死を迎える。これはゾウリムシは自家生殖もしくは接合による核の融合がテロメラーゼを働かせるスイッチになっているからである。故に、自然界で寿命を迎えることは、ありえないと言って良い。

多細胞生物の死[編集]

多細胞生物では細胞組織個体の死は区別される。

死の過程[編集]

細胞死[編集]

通常の細胞機能は、不可欠な細胞代謝のために必要なエネルギーと、酵素と構造タンパク質の生産、細胞の化学的および浸透的恒常性の維持、などを含む。通常に機能している細胞は、酸素、リン酸塩、カルシウム、水素、炭素、窒素、硫黄、栄養的な基質、ATP、などを摂取する必要があり、また無傷の細胞膜と酸素を消費する不変の活動も必要とする。これらの要素のうちどれが遮られても、細胞死は起こりえる。

死体現象[編集]

詳細は 死体現象 を参照

現在の日本の法医学では、一般に、死後人体におこる変化を死体現象と総称する。まず、心拍が停止した時点を死亡時間とし、その後見られる現象は以下の通りである。死亡後に見られる明らかな変化の多くは、血流の停止によってもたらされる。

まず、体表温度が速やかに室温に近づいていく。死後、体芯温度は体表温度と異なり、緩やかに気温に近づく。多くの場合、気温は体温より低いため、低下する(死体冷)。体温の低下速度は、死亡時の体温や死体の大きさ、環境や着衣など、いくつかの要因によって変化する。周囲の湿度が低い場合、指尖、鼻尖等の突出部位から速やかに乾燥し皮膚の収縮がみられ、ミイラ化が始まる。生理学的には、血流停止後、酸素の供給が途絶えた全身の細胞の内、神経細胞などの脆弱な細胞から、数分以内に不可逆的な変化が始まり、最後に筋繊維などの一番疎血に強い細胞が死滅する。末梢の、上皮など血液以外から酸素を得られる細胞では血流の停止による水分の不足(乾燥)、電解質の異常などを原因に細胞死が始まる。乾燥から免れ、周囲の空気から何とか酸素が供給されている場合、毛根などの細胞はしばらく生存する可能性もあるが、死体の髭や髪が伸びると言われる場合、多くは表皮の乾燥による収縮のため、毛髪がより露出して見えることによる錯覚であるとも言われている。また、まばたきが行われないため、角膜の乾燥、角膜の細胞死による蛋白の変性による白濁が速やかに進行する。 哺乳類では、死体が腐敗するより前に死後硬直が始まる。死体硬直の発現までの時間とその持続期間は、死亡時の筋肉の温度と気温に影響を受ける。死体硬直は通常、死の2-4時間後に始まり、筋肉はこの過程で、筋原線維内にあるATPの減少と乳酸アシドーシスのため、徐々にこわばっていく。死後9-12時間経過すると、筋原繊維の機能が失われるため死体硬直は解除される。死後硬直中に他動的に関節を屈伸させると死後硬直は解除される。また気温が十分に高ければ、死体硬直は起こらない。

もう一つの死後の反応に死斑がある。死後、溶解酵素が漿膜から放出され、フィブリノゲンの溶解性分解を引き起こす。血管内の血液の内、血漿はこの過程で死後30-60分以内は永久に非凝固性(血清に近い状態)になる。重力による血の貯留(沈下)により局所の皮膚色の特徴のある変化をもたらす。死斑は死体の体重を支えている位置には形成されず、その周囲からでき始める。死斑は死後2時間以内に発現、最初は圧迫により消退するが、次第に固定され、強い圧迫によっても消退しないようになる。また、途中で姿勢(体位)を変えると、死斑の位置も移動する。その後、周囲の温度によるが、概ね8-12時間で固定、以後体位による移動は見られない。死斑の色は死因と環境で異なる。寒冷死の場合、死斑は鮮紅色を呈する。また、練炭による自殺などで見られる一酸化炭素中毒死の死斑も、特徴的な鮮紅色を呈する。死斑の広がりは、死体の表面にかかる圧力によって異なる。死斑は、皮下の血液によるため、大量出血、または、重症の貧血があった場合は、ほとんど見られないことがある。次に、周囲の温度によるが、概ね半日後に胆嚢から胆汁が腹腔内に漏出、腹部に緑色斑が出現すると、次第に拡大する。また、特に夏季など温暖な季節では、山林、またはハエが多い場所では、死亡後直ちにハエが体表に産卵すると、産卵後わずか数時間で孵化、ハエの幼虫による食害が始まる。

死体の分解は、実際には周辺の環境しだいで多種多様な経過を辿るが、概念的には以下の段階を経て推移する。

  1. 自己分解 (autolysis):死体の「自己消化」は体内の酵素の働きによって進む。構造の完全性を失った細胞膜からは溶解酵素が放出され、高分子と残った細胞膜を変性させる。自己分解は、最も代謝が活発な細胞である分泌細胞と大食細胞から始まる。
  2. 腐敗 (putrefaction):嫌気性細菌による残された細胞の消化。自己分解の最終段階では、好気性の環境が死体内で確立される。これは、嫌気性菌の成長に有利に働く。これら嫌気性菌の大部分は内生の腸内細菌であるが、一部は外因性の土壌細菌である。これらのバクテリアは死体内の炭水化物、蛋白質、脂質を分解、酸とガスを生成して、死体の変色、臭気、膨張、液化を引き起こす。腐敗の進行速度は湿気や気温の影響を受ける。
  3. 腐朽 (decay):好気性バクテリアと真菌による残された細胞の消化。腐敗の最終段階では液状の腐敗物が流出、軟部組織は縮小する。残った組織は比較的乾燥した状態にある。腐朽の特徴は好気性微生物による蛋白質のゆっくりとした分解であり、これにより硬組織だけが残った死体は白骨化する。
  4. 分解 (diagenisis):硬組織である骨と歯の分解。バクテリア、藻、菌類などの微生物は、生理的経路をたどるか、骨質を透過することによって、骨に侵入する。骨質の透過は、酸性代謝物質と酵素の代謝物質の排出によって達成される。特徴ある非生理的経路を生成することから、「穿孔経路」と呼ばれる。微生物の進入によって有機骨基質は化学分解される。その結果生じた代謝物質は、周囲にある無機物基質を破壊する。また、結晶質のリン酸カルシウムからなる無機物基質の分解は、環境中の化学要因に影響を受ける。酸性の環境は、部分的な骨の鉱物質消失に至る、リン酸カルシウムの溶解をもたらすと、また部分的に本来よりもかなり大きく、より水溶性のある分子に再結晶化する。これら微生物と環境の働きによって、微小構造が分解される。

アポトーシス も参照


臨死体験[編集]

詳細は 臨死体験 を参照

仮死状態から医学処置などで蘇生した人の4-18%が仮死体験の状態で体験した出来事を報告する。つまり、医師などによって死亡したと判定されたのに、時間を経て再び生き返る人がいる。別の言い方をするなら、仮死状態から生き返る人である。ゆえに「臨死体験」と呼ばれている。

有史以来、「臨死体験」をした人々が多くいたようであり、西洋でも東洋でも類似の内容が様々な文献に記録されているという。ハーバードで宗教学の講義を担当するキャロル・ザレスキーは、中世の文献は臨死体験の記述であふれていると指摘した。また、日本でも『今昔物語』『宇治拾遺物語』『扶桑物語』『日本往生極楽記』などに臨死体験そっくりの記述があるという[20]

近年では医学技術により、停止した心臓の拍動や呼吸をふたたび開始させることも可能になったため、死の淵から生還する人の数は過去に比べて増えている[21]

臨死体験の研究というのは、欧米では地質学者のアルベルト・ハイムが登山時の事故で自身が臨死体験したことをきっかけに行い1892年に発表し先鞭をつけ、その後 1910年代〜1920年代に数名により研究が発表されたが一旦途絶え、1975年にキューブラー=ロスレイモンド・ムーディという医師があいついで著書を出版したことで再び注目されるようになった[20]。1982年には、やはり医師のマイクル・セイボムも調査結果[22]を出版した。[20]

人は死に臨んで、まばゆいばかりの、美しい景色などを見たり、この世を去った久しい身内などが現れたりするという。自分が宙に浮き上がり、その後に肉体の中に戻ってきたことを思い出すこともあるという[21]。臨死体験は様々に解釈されている。スピリチュアルな解釈と唯物論的解釈があり、医師や科学者の間でも解釈は分かれている[23][24]臨死体験にて詳説)。

死の受容[編集]

アクセプタンス も参照

哲学と死の受容[編集]

古代ギリシアのプラトンは、哲学を「melete thanatou (死の練習)」と見なすと、の永遠性を信じて平然と死ぬことができるように心の訓練をすることが哲学をすることであるとした(『パイドン』)。

ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーは主著『存在と時間』において、人間の存在様式の哲学的概念として自身の「現存在」という特徴的用語を用いて「死は現存在が自己に先んじてそれにかかわるもの」とし、「現存在」を「死にかかわる存在」と規定する。また、平均的日常性=「ひと」の世に頽落している現存在は死に対する非本来的存在様式であるとし、実存の目覚めとしての本来性への立ち返りのために「先回りして死に近づく覚悟性」の必要を説く。[25]ハイデッガーの死についての考察は、デンマークの哲学者セーレン・キルケゴールの実存思想、ロシアの小説家フョードル・ドストエフスキーの作品などに依拠しており、戦後の日本の哲学者にも強い痕跡を残している(実存主義#不安の時代参照)。

オーストリア出身でハイデッガーと同時代の哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、第一次世界大戦塹壕戦に一兵卒として参戦中に著述した『論理哲学論考[26]において、「死は生の出来事ではない。人は死を体験することが出来ない」(6.4311)とする。また、永遠とは無限の時間持続ではなく無時間性のことであるならば、現在を生きる者は永遠を生きるとし、「われらの生に終わりはない。われらの視野に限りはないのと同じように」と結ぶ。続いて、ウィトゲンシュタインは6.4312において、人間の魂の時間的な意味での不死が、それだけでは我々のいわゆる「人生の謎」を解くための助けにならないことを指摘する。[27]

哲学者の樫山欽四郎は、『哲学概説』において、人間の本質的な特性として「死を自覚する存在」であることを挙げ、「死を知ることがなければ、人間はこれほど楽なことはない」という趣旨の言葉を述べている[28]人間が他の生物と異なる1つの特徴は、人間は全て(そして自分自身も)やがて死ぬということを「知っている」ことだともいう[29]

自己が死ぬことを知っているがゆえに、人間の哲学的営みは始まるのだともされる。死を知ることは哲学への契機でもあり、また宗教への契機でもある。一般に人は、生の意味を問いかけるのと同様に、死の意味をどのように受け止めるか受け入れるか、一生をかけて問いかけ続けているともいえる。また、哲学者三木清は「死は観念である。」として、生や病気と対比的に扱いながら思想を展開している。

2007年、46歳の若さで逝去した日本の哲学者池田晶子は、ウィトゲンシュタイン的な意味において「死は存在しない」と主張した。池田は最後のエッセイで、臨済録における普化の棺桶抜けを連想させる凄みのある態度を見せつけている。

我々は世間的日常性において、誕生を以て「生の始まり」、死を以て「生の終わり」と見なす。しかし、我々は実存的地平においては自らの誕生を体験することはなく、我々の生は既に始まってしまっているものとしてそれぞれ個人の眼前に立ち現れる。これを裏返せば、我々は眠りの瞬間を体験することがないように、「生の終わり」としての死を体験することもないのであると解釈することも可能であろう。

ハイデッガー的に言えば、世間的日常性に頽落した人間が何かのきっかけに実存的覚醒に至り「死に関わる存在」として現存在の本来性に立ち帰った時、それまで当たり前に知っていたはずの「生の終わり」としての抽象観念に過ぎない「死」が眼前から消失してしまうことによって、「死は存在しない」という言い表しがたい奇妙な実感に襲われることは起き得るのである。[30]

死の人称による分類[編集]

哲学者ジャンケレヴィッチは、人称による死の分類を提唱した[31]

  1. 一人称の死:英語での人称「I」にあたる。自分の死。
  2. 二人称の死:英語での人称「you」にあたる。親しい者の死。自らの大きな人生経験として受け止められ、愛着があるために悲哀などの感情が起こる。この死に接することで、次は自分の死であると自覚させられるのだ、という。
  3. 三人称の死:英語での人称「it」「he」「she」などにあたる。いわば無関係な人物の死。二人称の死が取り替えのきかない存在であるのに、無関係な人物の死でも置き換えられる点に特徴がある。

死の受容についての研究[編集]

人が死をどのように受容するかについては、近年になってようやく真摯に研究されるようになってきた。

かつては、例えば、フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー(1613年-1680年)は「箴言集」で「死を理解する者はまれだ。多くは覚悟でなく愚鈍と慣れでこれに耐える。人は死なざるを得ないから死ぬわけだ。」などと述べていた。

突発的事故などで襲ってくる死の場合は、人は死について考える余裕さえない。回復の見込みのないにかかり、医師などから余命が数ヶ月と宣告されるような場合、人は、自分が死なねばならない、じきに死ぬ、という事実に向き合うことになる。死の定めをどう受け入れるか、さまざまな試みを行う。

死を自覚した人は、一体どのように自己の死の事実と向き合い、どのようにその事実を拒否したり受け入れたりするのか? キューブラー=ロスは、実際に多数の「死に行く人」と言葉を交わし心理治療に従事した経験を総合することで、多くの人が辿る「死の受容への過程」を、次のような段階的モデルで示してみせた[32]

第一段階:「否認と孤立」
病などの理由で、自分の余命があと半年であるとか三か月であるなどと知り、それが事実であると分かっているが、あえて、死の運命の事実を拒否し否定する段階。それは冗談でしょうとか、何かの誤りだという風に反論することで、死の事実を否定するが、否定しきれない事実であることが解っているが故に、事実を拒否、否定することで事実を肯定している周囲から距離を置くことになる。
第二段階:「怒り」
拒否し否定しようとして、否定しきれない事実、宿命だと自覚できたとき、「なぜ私が死なねばならないのか」という「死の根拠」を問いかける。このとき、当然、そのような形而上学的な根拠は見つからない。それゆえ、誰々のような社会の役に立たない人が死ぬのは納得できる。なぜ自分が死なねばならないのか、その問いの答えの不在に、怒りを感じ表明する。
第三段階:「取り引き」
死の事実性・既定性は拒否も出来ず、根拠を尋ねて答えがないことに対し怒っても、結局、「死に行く定め」は変化させることができない。死の宿命はどうしようもない、と認識するが、なお何かの救いがないかと模索する。この時、自分は強欲であったから、財産を慈善事業に寄付するので、死を解除してほしいとか、長年会っていない娘がいる、彼女に会えたなら死ねるなど、条件を付けて死を回避する可能性を探ったり、死の受容を考え、取引を試みる。
第四段階:「抑鬱」
条件を提示してそれが満たされても、なお死の定めが消えないことが分かると、どのようにしても自分はやがて死ぬのであるという事実が感情的にも理解され、閉塞感が訪れる。何の希望もなく、何をすることもできない、何を試みても死の事実性は消えない。このようにして深い憂鬱抑鬱状態に落ち込む。
第五段階:「受容
抑鬱のなかで、死の事実を反芻している時、死は「」であり「暗黒の虚無」だという今までの考えは、もしかして誤っているのかもしれないという考えに出会うことがある。あるいはそのような明確な考えでなくとも、死を恐怖拒否することで、回避しようと必死であったが、死は何か別のことかも知れないという心境が訪れる。人によって表現は異なるが、死んで行くことは自然なことなのだという認識に達するとき、心にある平安が訪れ「死の受容」へと人は至る。

ただしこれは、キューブラ=ロスが多数の「死に行く人」の事例を観察して得たひとつの範型であって、人が全員、以上のような段階を経て、死の受容に至るわけではない。色々な自己の死との向かい合いがあることを、ロス自身も認めている。

いずれにせよ、人が死を受け入れて尊厳を持って死に臨めるようにするためには、周囲の理解と協力が必要不可欠である、ともされる。

医療の場におけるスピリチュアルケア[編集]

スピリチュアルケア も参照 医療の現場(病院、あるいは死を覚悟せざるを得ない人々が多くいるホスピスなどのターミナルケアの場)では、人は「病気であることの意味」「生かされていることの意味」「死ぬことの意味」などに関して様々な疑問を抱き苦痛を感じる。このような痛みは「スピリチュアルペイン」と呼ばれる。欧米の医療では伝統的に、このような痛みを和らげるサービス、すなわちスピリチュアルケアを提供するしくみが整っている。日本の医療の場では長らく対応が遅れていたが、1990年代に入ってから徐々に進展が見られるようになった。

文化・宗教による相異[編集]

前述のごとく、死を哀しい出来事だとする文化・宗教がある一方で、死を喜ばしい出来事だとする文化・宗教もある。

死を哀しい出来事だとする文化圏・宗教では、自分と親しい人間の死が訪れた時などは涙している。だが、死は新たなる世界への旅立ちとしている文化圏では、笑顔で送り出す。

エリザベス・キューブラー=ロスの書籍に以下のような表現があるという[33]

死なんてものは、春になって重いオーヴァー・コートがもういらなくなったときに、それを脱ぎ捨てるようなもの......... 肉体は不滅の自己を閉じ込めている殻にすぎない。

アメリカ・インディアンプエブロ族には「今日は死ぬのにもってこいの日だ」という言葉も伝わっている[34]

今日は死ぬのにもってこいの日だ。生きているものすべてが、わたしと呼吸を合わせている。すべての声が、わたしの中で合唱している。すべての美が、わたしの目の中で休もうとしてやって来た。あらゆる悪い考えは、わたしから立ち去っていった。今日は死ぬのにもってこいの日だ...

プエブロの古老が語る言葉[34]

歴史学における死の認識[編集]

歴史学者かつホロコースト研究者ティモシー・スナイダーの『ブラッドランド』によれば、死や殺害価値意味を見出すことには危険が伴う[35]。一つは、価値・意味といったものが、死や殺害と同一視される危険である[35]。もう一つは、そのような価値や意味を求めることで、死亡数や殺害数がさらに増加する危険である、と言う[35]

現代の記念文化は、記憶が必ず殺人を防ぐものと思い込んでいる。これほど多くの人々がを落としたのなら、何か途方もない価値のあることのために死んだはずだと思いたくなるのが人情だ。公開して、発展させて、適切な形で政治的な記憶として残していけるはずだと。

そうすると、途方もない価値民族ないし国家の価値へと変わる。何百万人もの犠牲者は、ソ連が「大祖国戦争」に勝つため、アメリカが「よい戦争」に勝つために死んだにちがいない。ヨーロッパ平和主義的教訓を学んだはずだ。ポーランド自由伝説を、ウクライナ英雄を持つ必要があったのだ。ベラルーシはその美徳を証明しなければならず、ユダヤ人シオニストとしての使命を果たさなければならなかった。

しかしあとからこのように正当化することは、国政や国民心理、民族心理にまつわる重要な真実を伝えはするが、記憶そのものとはほとんど関係がない死者は記憶されるが、死者は覚えていない。ほかの人間を持ち、彼らの死に方を決めた。

後世もやはりほかの者が彼らの死の原因を決めている。殺害から意味が引き出されれば、さらなる殺害さらなる意味を生み出す危険性が出てくる[35]


比喩的な用法[編集]

自然言語というのはその成り立ちからして基本的に比喩やメタファーに満ちているものであるが、死という表現も、何かしら生命に擬せられる存在が、その比喩的な「命」を失うような場合にも使われる。「ローマ帝国の死」、「の死」などである。

現在では、機械装置などが破損した場合に「死んだ」などと形容されることもある。とくにコンピュータに対しては、電源が切れた、クラッシュした、あるいはプロセスが停止したなどの状態を比喩的に「死んだ」と表現することがあり、その延長で「プロセスを殺す」(進行中の処理を停止させる)などといった比喩表現も使われる(一例を挙げれば、UNIX系オペレーティングシステムでは単なる比喩に止まらずプロセス停止コマンドとして'kill'コマンドが存在している)。生命の不可逆的な死とは異なり、これら機械の比喩的な死では破損した部品を交換するなり修理して、コンピュータの場合はクラッシュしたプログラムに関するメモリを破棄して記憶媒体から読み出しなおすなど復旧させる方法は幾らでもある。特に技術筋にもなると「異常や故障が手に負えなくなり、それを破棄して異常のないものに入れ替えする以外に対処方法がない」場合に「死んだ」と表現する。

相撲の「死に体」、野球の「死球」などの表現でも用いられている。また、一定の職業に就いていた者が、様々な諸事情によってその職務が著しく困難になった場合などはたとえ生物学的には生きてはいてもマスメディアなどでは「○○生命が絶たれる」などと表現される。また、政治家芸能人ジャーナリストなど社会的に注目される職業に従事する者が、自身が運営しているブログのいわゆる「炎上」などによって事実無根の様々な風評被害を受けることにより、上記のような社会的活動を行えなくなったものなども職業人としては「死んでいる」もしくは「殺された」ようなものであるため「社会学的な死」とみなされる。

芸術作品の死[編集]

芸術作品が、人の目に触れぬようになったり(死蔵)、作者の意図した事柄が部分的にすら受け取られなくなった場合、その作品は意味をなくし" 死ぬ "とされる。

古代ギリシャ古代ローマにおいて人間は死すべきものと呼ばれ、神々、則ち不死なるものの永遠性との対比によって、時間的に限られたものとイメージされ、芸術家や詩人とは、この限界を乗り越え人間と神々を媒介するものと考えられた要出典[36]。現在でも芸術作品は "不死性" と結び付けられて捉えられることが多い。

ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)はすでに"死んでしまった"芸術作品の「救済」が歴史家の使命であると考えた。

20世紀後半には、クンデラ大江健三郎らが、「小説の死」、「文学の死」といった言葉を用いた。

注釈[編集]

  1. 死の判定をする医療者について。原則として医師と歯科医師以外の者が患者の死亡を宣言する権限はない。消防機関の救急業務規程の中では、「明らかに死亡している場合」や「医師が死亡していると診断した場合」には、救急隊は患者を搬送しないと定められている。すなわち、それ以外の場合では、患者が生存している可能性があるものとして取り扱うことが求められている。「明らかに死亡」とは、断頭、体幹部の離断、死体硬直、死斑、腐敗、炭化、ミイラ化その他の明らかに生存状態とは矛盾する身体への損害(いわゆる社会死状態)をいう。社会死要件を満たさない場合、救急隊員は救命措置を開始後に、医師の診断を受けるまでそれをやめてはならない。病院到着時の診察で死亡が確認されることを、DOA(Dead on arrival = 病院到着時すでに死亡)という。
  2. 生きている、死んでいる、ということは客観的に決められる、と一般人はしばしば思っているが、実はそういうことはなかなか決められない。だから、江戸時代に(医学研究のために)解剖を行う時も、その対象は刑死体(=死刑に処せられ死んだ人の遺体)だった。というのは、遺体を解剖で切るにしても、「もしも生きていたらどうする」という心配がつきまとうが、(前述のように)生死の境目は厳密にははっきりせず、もしはっきりするまで待とうとなると、肉が腐って骨になるまで待たなければならなくなり、「ここまで(腐るまで)見たから死んでいる。これなら死んでいないとは言わせない」という時点まで待つと、今度は(組織が腐って破壊されており)解剖する意味がなくなる状態になってしまう。だから、生死の判定というそもそもはっきりしないことについて心配しなくてよい唯一の対象である死刑囚を解剖の対象として選んだのだ、と養老は解説した。死刑囚ならば、解剖を開始した後に「生きていたかも知れない」とか「まだ生き返るかも知れない」などと言われても「大丈夫、これはもう死ななければならない人なんだから」という論理が成り立ったというのである。(養老孟司 2004 66-67)
  3. 実は意識の有無の判定も容易ではない。意識の停止は睡眠中や昏睡中にも起こりえるため、停止は一時的なものではなく、永続的で回復不能なものでなくてはならない。意識の停止がたんなる睡眠であった場合は脳波計で比較的簡単に確認できる。 だが、脳の一部の機能が失われたと外的にモニタできた場合でも、その状態で意識があるのか無いのか、判断できない場合が多い。
  4. 一部の人は、脳幹が生きているかどうかを線引きに使えばいい、と主張している。だが、脳幹の機能が停止しているにもかかわらず、聴覚野のほうは生きて機能を保っていて、周囲の人の言葉を理解している患者の事例も発見された。
  5. 一部の人は、「人間の意識に必要なのは脳の新皮質だけである」と主張している。こうした人は「新皮質の電気的活性だけを基準に死の判定をすべきである」とする。"大脳皮質の死によってもたらされる認識機能の永続的で回復不能な消失が、死を判定する基準となる"と述べる人もいる(関西医科大学大学院法医学生命倫理学研究室による関西医科大学法医学講座)。"人の思考と人格を回復する望みはないから"と考えるのである。
  6. 酸欠によって大脳皮質の機能が失われた場合でも、脳の電気的活性が脳波計が感知するにはあまりに低かった場合、何も存在しなくても、脳波計はノイズ(見かけの電気信号)を感知することがある。(病院では、脳波計を使って死を判定をするときは、病院内で広く空間を隔てるなどの精巧な実施要綱があるという。)
  7. 米国では、2005年に、植物状態におちいったテリー・スキアボ尊厳死を巡る事例が、アメリカの政治を脳死と人為的な生命維持の問題に直面させた。一般的に、そのように死の判定を巡って争われた事例で、脳の死因は無酸素状態によって起こる。 大脳皮質はおよそ7分間の酸欠で死に至る。
  8. 人工心肺などの医療技術が登場したことによって、心肺停止状態でも恒常的に脳を生かし意識を保つことも可能になった。また、機能のみが廃絶しても心肺機能を人工的に維持することが可能となり、心肺機能が保たれているが脳の活動を示す所見がない状態を「脳死」、心肺停止による心肺脳全ての停止を「心臓死」と呼ぶようになった。また、人間の心臓や肺に代わる生命維持装置、あるいはペースメーカーなどによって生命を保つことが可能な場合が現れた。また、心肺蘇生術と迅速な細動除去の発達によって、鼓動や呼吸は再開させることができる場合も現れ、死に関する従来の医学的な考え方でも割り切れなくなってきた。そして心拍や呼吸の停止を「臨床死」と呼びわけることも行われるようになった。「死」をめぐる状況は複雑化してきているのである。
  9. こういう提案をする人は、「不可逆的」の意味を理解するには人間の例で考えるとわかりやすい、と言う。人間の髪の毛心臓が全て停止していても、数日間は伸び続ける。この間は毛根細胞は生きているが、心肺脳が全て停止している場合、やがては毛根の活動も停止してゆくことは免れない。こう考えて、「個体の状態の不可逆的な活動停止への変化が死」だと言う。この考え方では、逆に事故などで心肺停止状態に陥っても心肺蘇生によって息を吹き返した時には、この間の心肺停止は可逆的なので死とは言わない、のだという。(出典:関西医科大学大学院法医学生命倫理学研究室による関西医科大学法医学講座
  10. 養老孟司は、このような「死に向かって不可逆的に進行する過程になる状態」が死だ、とする定義は、もっともらしく聞こえはするが、根本的に問題がある、と指摘している。というのは、そもそも人間は全員死ぬ。つまり、人間は全員、生まれた時から死に向かって不可逆的に進行する存在であり、後戻りできない。そもそも人は誰でも、最初からその状態で生きているのに、「不可逆的に…」といったことを定義として持ち出す論者は、ある人が、論者がイメージする"死に向かって不可逆的に進行する過程" なるものに、いつから入ったのか、どうやって判定するのか? と、養老はその定義・論法の問題点を指摘している。(養老孟司 2004 69)

出典[編集]

  1. 1.0 1.1 広辞苑 第五版 p.1127
  2. 2.0 2.1 大辞泉
  3. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「doi10.2202.2F1941-6008.1011」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  4. 養老孟司 2004 55
  5. 5.0 5.1 養老孟司 2004
  6. 6.0 6.1 養老孟司 2004 69
  7. 7.0 7.1 7.2 7.3 養老孟司 2004 57
  8. 養老孟司 2004 67
  9. 養老孟司 2004 59
  10. 10.0 10.1 養老孟司 2004 58
  11. 11.0 11.1 11.2 11.3 養老孟司 2004 70
  12. 村上陽一郎『生と死への眼差し』青土社 2000、ISBN 4791758625
  13. 養老孟司 2004 68
  14. 関西医科大学大学院法医学生命倫理学研究室サイト掲載情報関西医科大学法医学講座
  15. 15.0 15.1 15.2 15.3 15.4 15.5 15.6 関西医科大学法医学講座 - 死亡診断書
  16. 「自然死」には老衰による死などが含まれる。
  17. 病死か外因死か不詳の場合には「不詳の死」となる。
  18. 死亡診断書(死体検案書)記入マニュアル - 厚生労働省
  19. 日本人の死因3位に浮上した「肺炎」
  20. 20.0 20.1 20.2 マイクル・B・セイボム (1986) マイクル・B・セイボム 日本版のCarl Beckerによる序文 [ 「あの世」からの帰還 臨死体験の医学的研究 ] 日本教文社 1986 ISBN 978-4531080427 i, ii, iii
  21. 21.0 21.1 マイクル・B・セイボム (1986) マイクル・B・セイボム セイボムによる はしがき [ 「あの世」からの帰還 臨死体験の医学的研究 ] 日本教文社 1986 ISBN 978-4531080427 xiii-xv
  22. Michael B. Sabom, Recollections of Death, 1982
  23. 注:セイボム、キューブラー=ロスらは医学者・科学者である。
  24. マイクル・B・セイボム (1986) マイクル・B・セイボム 第十一章 [ 「あの世」からの帰還 臨死体験の医学的研究 ] 日本教文社 1986 ISBN 978-4531080427 pp.303-315
  25. 『実存主義』松浪信三郎/岩波新書p102-
  26. ハイパー・テキスト版論理哲学論考[1]
  27. この箇所の説くところは、原始仏典である箭喩経[2]に似る。
  28. 樫山欽四郎 『哲学概説』 (初版1964年) 創文社 ISBN 4-423-10004-5ISBN 978-4-423-10004-2)。樫山は、序説部分で、哲学の意義として、人間における実存の諸問題を例示して、このような言葉を述べている。
  29. いいかえると、未来を考えることができる動物は人間だけであるという。
  30. 『論理哲学論考』[3]6.5-6.522を参照
  31. 養老孟司『死の壁』などにも類似の死体分類がある。
  32. エリザベス・ロス 2011
  33. ビル・グッゲンハイム『生きがいのメッセージ』p.347-348
  34. 34.0 34.1 ナンシー・ウッド『今日は死ぬのにもってこいの日』めるくまーる、1995、ISBN 4839700850
  35. 35.0 35.1 35.2 35.3 スナイダー 2015 267
  36. なお、古代ギリシャの悲劇は、作者の死と共に演じられなくなる慣習があったが、唯一アイスキュロスの作品はあまりの人気のために死後も上演された。アリストパネスの喜劇『蛙』に、それについて言及したくだりがある。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

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