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日本の旧石器時代(にほんのきゅうせっきじだい)は、日本列島への人類居住とともに始まる。人間の足跡は、約20、30万年前まで遡るかもしれないともいわれているが、確実な遺物は出土していない。確かな年代が得られているものとしては、約3万5千年前からで、終わりは約1万3千年前頃まで―地質学的には氷河時代と言われる第四紀の更新世の終末から完新世初頭―。
目次
日本列島の形成[編集]
日本に不完全ながらも弧状列島の形が出来上がりつつあったのは、今からおよそ500万年前である。その頃は、まだユーラシア大陸と陸続きであった。その後、火山の噴火による地殻変動があり、氷期と間氷期が交互に繰り返す氷河時代には地形の変化が起こった。そして、約1万3000年前から1万2000年前頃には大陸から離れ、現在の姿の日本列島ができあがった。
概要[編集]
一般には、磨製石器使用以前とか土器使用以前の人類の歴史全体を旧石器時代というが、地域ごとに見ると同じ定義でくくれるほど単純でないことがわかっている。この「人類」にはわれわれ現生の人類(ホモ・サピエンス)のほかに多数の初期人類(例えばネアンデルタール人=ホモ・ネアンデルターレンシス)が含まれている。
日本列島で最も古い人類遺物は約3万年前に出現したとみられ、粗雑な石製加工具類が主体を占める。現在確認できる限りでは、これらが列島における人類の最初の足跡である。化石人骨の出土が豊富な西アジアからヨーロッパにかけての地域では4万年前から3万年前(最後は2万5千年前くらい)あたりはちょうど古代型人類と現代型人類との交替期にあたるが、人骨の出土例がない列島では、最初にわたってきた人類がわれわれの直接の祖先(ホモ・サピエンス)なのかそれとも異なる系統の人類なのかは分かっていない。旧石器時代の終焉は土器の使用される縄文時代の開始期であり、約1万2千年前くらいである。教科書的には土器の使用と定住生活は結び付けられるが、それは定義的なものに過ぎず、実際には土器の出現以降も移動生活が長く続いた。
なお、世界史的通説としては旧石器時代の人類は打製石器のみを用いたことになっているが、列島の旧石器時代では約3万年前には磨製の斧を製作しており、打製石器の使用=旧石器時代、磨製石器の使用=新石器時代という分かりやすい定義はあまり意味をなさない。
先土器時代の発見[編集]
日本では、縄文時代より前の時代を先土器時代とか無土器時代という。日本では土器の時代を遡る時代の遺跡や遺物が長い間発見されず、土器以前に日本列島に人類は居住していなかったと考えられていた。そのため縄文時代以前の地層が考古学者によって調べられることはなく、長きにわたってこの学説は覆されなかった。
1949年(昭和24年)に、相沢忠洋が、群馬県新田郡笠懸村岩宿で関東ローム層中から旧石器を発見した(岩宿遺跡)。日本の旧石器時代の調査・研究は、ここから始まった。現在までに、北海道から九州にかけて5000カ所を超える遺跡が確認されている。これらの遺跡のほとんどが約3万年前から1、2万年前の後期旧石器時代に残されたものである。
1980年代から、東北地方を中心に、前期旧石器時代・中期旧石器時代が日本に存在したという証拠が次々に「発見」された。「発見」の中心人物は藤村新一で、従来の常識を覆す「成果」とされた。しかし、2000年11月に、藤村が発掘現場に石器を埋めるところを毎日新聞取材班が撮影し、11月5日に旧石器発掘捏造を報じた。その後の調査で藤村が関与した遺跡のすべてが疑わしいものとされ、いまのところ、前期旧石器時代・中期旧石器時代の確実な遺跡は日本には存在しないと理解されている。
2003年12月に、長崎県平戸市入口遺跡で「約10万年前の地層の中から石器が発見」と報道されたが、段丘発達が明瞭ではない平戸地域において、層位が明瞭とはいえない状況であり、約2万2、3千年前に鹿児島の錦江湾から噴出した姶良火山灰層(AT)より古いとしか断定できていない。2006年1月現在、日本の旧石器で層位が間違いなく確認でき、最も古いもので、4万年前まで遡るかどうかといった状況である。
住居と墓制[編集]
日本列島の旧石器時代の遺跡は、台地・段丘・丘陵・高原などの見晴らしの良い洪積世の台地縁辺にあることが多い。
日常生活の場としての拠点遺跡、獲物の解体場遺跡、石器製作場遺跡などがある。定住住居跡の出土例が少ないことから、旧石器時代人は、一定の生活領域内を移動しながら採集狩猟生活をしていたと考えられている。
約2万2000年前の木材を組み木にして草や皮で覆っている竪穴住居が見つかっている。形の整った径6メートル、深さ20センチメートルの円形竪穴住居である。外周に柱穴をもつもので径10センチぐらいの材を20本近く、斜めに立て並べ、中央で簡単な組み木を施している。この住居跡からは、構造がよく分かったうえにサヌカイト製のナイフ形石器や翼状の剥片が約200点も一緒に出土している。
調理・暖房・採光のための石囲炉、地床炉、土坑炉などがあり、熱のために赤色化していたことで火が使われていたことがわかる。土坑の形態は多様で、貯蔵穴かどうか分かっていない。礫群は、こぶし大前後の川原石が径12メートルの範囲に数十個以上密集したもので、火熱を受け赤色化していて、調理施設に関連したものと考えられている。一個から数個散らばっている配石は、幼児頭大の礫で、火熱を受けた後がなく、厨房や作業台に使ったものと考えられている。
そのほか、死者を埋葬する土壙墓が見つかっている。死者の生前の装身具や石器・玉などが副えられ、そこにベンガラ(赤色顔料、べにがら)が残っているものがある。シベリアやカムチャツカ半島、東アジアでの死者を埋葬する習俗が遅くとも2万年前にはできていたらしい。呪術的なものとしてつくられたらしい高さ約9センチ、幅2~3センチの「こけし」形の石偶(せきぐう)が出土している。また、礫に細い線で動物を描いたもの(線刻礫)も見つかっている。旧石器時代の遺跡は、石器や剥片などの遺物が集中している箇所が複数、複数の礫群、配石と炉址、住居跡、土坑、墓坑などで構成されている場合が多い。集落の規模と構成はまだ分かっていない。
日本列島では、後期旧石器時代を遡る確実な人類化石は知られていない。しかし、最終氷期以前に渡来したと見られる哺乳動物の化石は各地から報告されており、そうした動物を追って大陸の旧石器人が日本列島へ移動してきた可能性は充分考えられる。つまり、原人段階の人類が残した旧石器文化の存在さえも想像される。この期の遺跡の調査例は少ない。石器や生活道具類が発見される程度である。短期間の移動生活をしていたのではないかと推測される。
道具[編集]
ナイフ形石器[編集]
後期旧石器時代は、土器出現以前で、一般にわれわれと同じ種の現生人類(ホモ・サピエンス)と彼らに固有の石器技術である石刃技法とが認められることを特徴とする。彼らは、石製道具の生産手段として細長い剥片(石刃=せきじん)を連続的に打ち剥がす石刃技法と呼ばれる技術を好んで用いた。岩石資源利用効率の高さが関連したといわれている。日本列島では約3万年前以降、この石刃技法によって作られた石刃とそれに関連する石器群が多量に製作・使用されており、これらのうち細長に整形されたものがナイフ形石器と呼ばれる。切り出し小刀や日本刀のような形をしており(刃とそうでない部分との角度の違い)、その大きさは1cmから10数cmまでと幅広い。木や骨の軸柄に取り付けられ、突いたり切ったりする多様な道具の機能部を構成したと考えられている。ただし肝心の軸柄の部分は見つかっておらず、どうやって取り付けられていたのかはよく分かっていない。これは軸柄がおそらく、土中では長い年月残りにくい木材や骨で作られていたからである。日本以外の地域や異なる時代の類似の道具から類推すると、どうやら小型のものは柄の横側に多数並べてはめ込まれ、大型のものは柄の先端に単独で取り付けられたと思われる。本州~四国~九州におけるナイフ形石器群の終焉は今から約1万5千年前で、組織的な細石刃石器群の出現とほぼ同時期である。
細石刃[編集]
細石刃(さいせきじん)とは小さい石刃のことである。骨や木の軸に掘られた溝に並べてはめ込み、各種道具の機能部を構成する。同じ形の石刃でもはめ込む軸の大きさや形状によって異なる機能と用途を持った道具を作ることができる。定義的には中期旧石器時代から存在するが、押圧剥離による組織的な細石刃技法の出現は後期旧石器時代に特有である。大陸では早くから出現し、古ければ3万5千年前程度といわれている。大陸と当時陸続きだった北海道では2万年前には使われ始めるが、津軽海峡をはさんだ本州・四国・九州(3島は陸続きで、朝鮮半島とは朝鮮海峡をはさんでいる)では1万5千年前以降(暦年代ではもう2千年ほど古い)のようで、ナイフ形石器の急激な減少ないし消滅と相関する。1万2000年前頃、細石刃石器群は終末を迎える。細石刃石器群を出土する遺跡は北海道から九州まで約500ヵ所ほど知られている。
土器の出現[編集]
細石刃石器群の後に、大型の磨製石斧と大型の槍先尖頭器(石槍)を特徴とする石器群が出現する。シベリア方面及び樺太から北海道という北のルートを渡ってきたと考える者がいるが、どこにも根拠がなく、少なくとも津軽海峡以南の地域ではそれまでの伝統から発達して出現した可能性のほうが高い。 日本で最初の土器がどのようにして出現したのかははっきり分かっていないが、一応北方から伝播してきたと考えられている。しかし特に証拠があるわけではない。旧石器時代の終末に、九州では豆粒文土器(長崎県・泉福寺洞窟)、本州では無文土器が出現している。北海道では本州よりも少し遅れたとされる。北から来たのに、南で発達するという一見矛盾する現象は、その出現の契機と発達の背景とが異なることを意味している。南九州でいち早く発達した様子が知られていることから、それには気候の寒暖と植生の違い、ひいては生業内容の違いが関係したと推測されている。一般に土器は、運搬・貯蔵・煮炊きに使われるが、出現期の土器の役割はまだ十分解明されていない。
木器[編集]
木器は遺物として残りにくいが、約12~5万年前の砂礫層の中からハリグワという広葉樹を用いた板状の木製品が出土している。用途はまだ分かっていない。この砂礫層の年代の板だとすると、中期旧石器時代の板ということになり、旧人が工作した板ということになる。
木に石器を取り付ければ、鍬・斧・槍・矢・スコップなどの生産用具をつくることができ、生産効率を高めることが出来る。径10センチの木材なら、今の建築材料の柱の太さとそうかわらない。それを20本もだから、木の柄の付いた斧で木を倒したのだろうか。
食料の獲得[編集]
旧石器時代人は、主として狩猟によって食料を得ていた。当時の遺跡からは、野牛・原牛・ナウマンゾウなどの大型哺乳動物の骨、ニホンシカ、イノシシ、ノウサギなどの中・小哺乳動物の骨が発見されている。そして、大型哺乳動物を解体する作業場となるキル・サイトも発見されている。このように、旧石器時代人は、大型哺乳動物を追う狩人たちであったと思われる。竪穴住居跡を伴う遺跡がほとんど発見されていないのは、旧石器時代人がキャンプ生活をしながら移動を繰り返していたからだとも推定されている。
漁労の直接的な証拠は発見されていないが、そのような活動があっただろうとは推測されている。まず、伊豆諸島の黒曜石が南関東で出土しており、同諸島で細石刃が発見されている。ここから、旧石器人も何らかの航海技術や海上交通の手段をもっていたことが想像できる。さらに、日本の旧石器文化がシベリアとの強い関連性があることが分かっており、そのシベリアで固定式のヤスや離頭式の銛頭(もりがしら)が見つかっている。日本は酸性土壌のため人骨や獣骨が残りにくいが、日本でも同様の道具を用いて刺突漁を行なっていた可能性がある。
縄文時代の人々にとっては、植物採取が食料獲得の中で大きな比重を占めていたが、旧石器時代の人々にとってはどちらかというと狩猟が主体であったようだ。当時は数百kmにも及ぶ距離を移動していたというから、それは移動性のある動物の行動生態と関連しそうであるし、また彼らの道具を見ると、植物質資源の加工・処理に有利な頑丈なタイプの石器(削器や石斧)よりも、狩猟具に使いそうな先の尖った石器(有背石刃、尖頭器)や壊れ易いが鋭い刃(石刃、細石刃)のある石器というような道具が発達したからである。
更新世(洪積世)の人類化石[編集]
更新世の火山噴火による火山灰が、瀬戸内、近畿地方を除く日本列島の大部分に降り注いだので骨を分解してしまう酸性土壌の占める地域が多く、旧石器時代の遺跡に人骨・獣骨化石が残る例がほとんどない。
こうした中でも更新世人類とされる化石の産出地が10カ所ほど報告されている。これらの人骨の化石は、約3万年より以前のものとされるが、多くの疑問も出されている。国立科学博物館の資料によると、明石・葛生・牛川・三ヶ日・聖岳の各人骨は、かつて言われていたよりもずっと新しい時期のものか、人骨でないものである可能性が高いという。
- 静岡県浜松市岩水寺(がんすいじ)[浜北人]。2002年9月、科学的な測定法で約1万4000年前の旧石器時代のものと確認された。
- 大分県大野郡清川村岩戸遺跡(きよかわむらいわと)
- 沖縄県宜野湾市大山洞穴(ぎのわん)
- 沖縄県国頭郡伊江村真謝カダ原洞穴(くにがみぐんいえそんまじゃかだばる)
- 沖縄県中頭郡北谷町桃原洞穴(なかがみぐんちゃたんちょうとうばる)
- 沖縄県那覇市山下町第一洞穴
- 1968年に発見。約3万2000年前とされる6~7歳の子供の人骨で、国内では最古級の人骨である。
- 港川人:1970年に沖縄県島尻郡八重瀬町港川(しまじりぐんやえせちょうみなとがわ)採石場で数体の人骨化石が大山盛保によって発見された。人骨は少なくとも5体をかぞえ、男性2体を含むという。約1万8000年前とされる。縄文時代が約1万3000年前から始まるとされていることから、後期更新世(洪積世)末及び後期旧石器時代末にあたる。
- 葛生人(くずうじん)は、栃木県葛生町で1950年代に発見され、元早稲田大学教授直良信夫によって更新世人類と考えられた。しかし、発見された骨は歴史時代の人骨であったり、動物骨であることが分かった。
- 三ヶ日人は、1960年前後に静岡県三ヶ日町(現浜松市)で発見され、後期更新世人類と考えられたが、縄文時代前期の人骨と分かった。
- 牛川人は、1957年に愛知県豊橋市牛川鉱山で発見され、東京大学名誉教授鈴木尚によって中期更新世人類と考えられたが、人骨の特徴を備えていなかった。
- 聖岳人は、1962年に大分県聖嶽洞穴で頭骨の一部が発見され、元新潟大学教授小片保によって中国の山頂洞人と似ているとされたが、形態面や年代推定から歴史時代に属する可能性が極めて高くなった。
- 明石人は1931年に直良信夫により発見され、直良は旧人としたが学会は受け入れなかった。その後、人骨は戦争で焼失し石膏模型のみが残った。戦後、長谷部言人がこれを原人として論争が起こったが、現在ではごく一部を除き新しい時期の人骨とする意見が強い。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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