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床次竹二郎

床次 竹二郎(とこなみ たけじろう、慶応2年12月1日1867年1月6日) - 昭和10年(1935年9月8日)は明治大正、昭和初期の官僚政治家である。

来歴・人物[編集]

慶応2年12月1日1867年1月6日)、薩摩藩士床次正精・友子の長男として、現在の鹿児島市新照院町に生まれる。幼名は竹熊。父・正精は薩摩藩主の一門・宮之城領主島津久治に仕えた武士で御納戸役を勤め、明治維新後は司法省に入省し判事となった。また独学で油絵を学んで、伊藤博文らの肖像や大日本帝国憲法発布式典の絵などを描いている。

竹二郎は第一高等中学校を経て、東京帝国大学法科大学政治科に入学。大学の同期生に山之内一次、伊集院彦吉原嘉道、一級下に後に竹二郎の政治顧問を務めることとなる佐々木多門らがいる。明治23年(1890年)に大学を卒業後、大蔵省に入省しその後内務省に転ずる。宮城県参事官、岡山県警察部長、東京府書記官、徳島県知事、秋田県知事などを歴任し、明治39年(1906年)、第1次西園寺公望内閣で内務省地方局長に就任。内務大臣だった原敬に重用され、立憲政友会との関係を深めていく。原内相のもと、郡制廃止に努力するも貴族院の反対で頓挫した。明治41年(1908年4月24日 - 6月12日樺太庁長官。明治44年(1911年)、内務次官。大正元年(1912年)、第2次西園寺内閣総辞職に伴い次官を辞任。大正2年(1913年)の第1次山本権兵衛内閣の成立時には、薩派と政友会の提携に奔走。山本内閣では鉄道院総裁に就任。鉄道幹線広軌化計画の中止と地方路線拡張方針を打ち出した(日本の改軌論争を参照)。

大正2年(1913年)11月に政友会に入党。大正3年(1914年)、山本内閣総辞職を受けて辞任。郷里の鹿児島県から衆議院議員補欠選挙に立候補し当選する。以後、昭和7年(1932年)の総選挙まで連続8期当選。政友会院内総務、大正7年(1918年)の原敬内閣で内務大臣兼鉄道院総裁。長年の懸案であった郡制廃止、選挙法改正による選挙権拡張と小選挙区制の導入を実現した。また内務省内に社会局を新設したほか、協調会を設立し社会政策に取り組んだ。大正10年(1921年)に原が暗殺され、後継の高橋是清内閣でも内相に留任したが原の死後、政友会は党内における内紛が激化し原の有力な後継者に目されていた床次も党内改革派に同調し高橋らと対立するようになっていった。

大正13年(1924年)1月、清浦奎吾内閣が成立すると高橋が憲政擁護の立場から清浦内閣打倒を唱えたが竹二郎は清浦内閣支持に回り腹心・榊田清兵衛らと共に政友会を脱党、政友本党を結成し総裁に就任した。しかし党勢は振るわず、大正14年(1925年)に政友会との合同には反対しながらも政友会との提携を図る。その後、政友本党内部に憲政会に接近する動きが進行し竹二郎自身は消極的ではあったものの後藤新平の仲介によって昭和2年(1927年)、憲政会・政友本党が合同して立憲民政党が結成され竹二郎は党顧問に就任した。しかし民政党の対中国不干渉政策に反対し昭和3年(1928年)8月に民政党を脱党、新党倶楽部を結党した。政友会と新党倶楽部は共同で衆議院議員選挙法改正案を提出した。導入されたばかりの中選挙区制から小選挙区制への復帰を狙った内容だったが、政友会・新党倶楽部両党に露骨に有利な選挙区割りであるとして「床マンダー」との罵声を浴び民政党や無産政党の激しい抵抗を受け失敗した。

昭和4年(1929年)7月に政友会へ復党し、昭和6年(1931年)12月に犬養毅内閣の鉄道大臣に就任。犬養首相が五・一五事件で暗殺された後、後継総裁の座を鈴木喜三郎と争い敗れた。昭和9年(1934年)7月、岡田内閣成立に当たっては党内の反対を押し切り逓信大臣として入閣し政友会を除名された。在任中の昭和10年(1935年9月8日心臓病により死去、享年68。東京多磨墓地(多磨霊園)、鹿児島市新照院町徳大寺に分けて葬られた。

「万年首相候補」と呼ばれ首相候補と目されるも余人の不評を買い、政権獲得の夢を遂に果たせなかった。一方で鉄道員の福利厚生に意を用い、公傷退職者を救済するため鉄道弘済会の創設に尽力した。発会に当たっては、5,000円という多額の寄付をしている。

次男の床次徳二佐藤栄作内閣で総理府総務長官を歴任、目白学園創設者で宮崎県選出の衆議院議員だった佐藤重遠は娘婿にあたる。

外部リンク[編集]

テンプレート:歴代知事 (日本)

先代:
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樺太庁長官
第2代: 1908年
次代:
平岡定太郎
先代:
水野錬太郎
内務大臣
第36・37代:1918年 - 1922年
次代:
水野錬太郎
先代:
原脩次郎
鉄道大臣
1931年 - 1932年
次代:
三土忠造
先代:
南弘
逓信大臣
1934年 - 1935年
次代:
岡田啓介
先代:
(結成)
政友本党総裁
初代:1924年 – 1927年
次代:
(解散)
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