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賈 詡(か く、147年 - 223年11月)は、中国の後漢末期から三国時代の魏にかけての政治家。字は文和(ぶんわ)。
董卓・李傕・段煨・張済・張繍に仕えた後、曹操・曹丕の2代にわたり重臣として活躍した。子は賈穆、賈訪。孫は賈模。曾孫は賈胤、賈龕。
目次
生涯[編集]
若い頃[編集]
涼州武威郡姑臧県の出身。若い頃から頭の回転が速くて機転が効いた[1]。しかし容姿が貧相な上に小柄だったため、余り評価はされなかった[1]。後漢は家柄が尊重されるため、父親に何の家柄も力もなかった賈家は評価の対象外だった[1]。故郷における賈詡の学問の師匠は梁光で中央政府にも名の通った名士であったが、ある時師匠が賈詡に質問した[1]。いつもはこの程度の質問くらいすぐに答えるはずの賈詡が黙っているのを不審に思ったが、身体の調子でも悪いのかと思って後日にした[1]。今度は全てすぐに正しく即答したため、何故過日は黙っていたのかを聞くと賈詡は「あの時、先生はお孫さんのことで頭がいっぱいのご様子でしたからお答えするのを控えておりました」と答えた[1]。実は梁光の娘と初孫が里帰りする日だったのだが、賈詡にそれを教えた覚えはない[2]。梁光はなぜそれがわかったのか尋ねると、「先生が外で赤子の泣き声がするたびに気にしておいででしたので」と答えた[2]。梁光は賈詡の洞察力に舌を巻いた[2]。梁光は賈詡の優秀な能力を改めて思い知り、中央政府に推薦し孝廉に挙げられた[2]。この梁光の推挙があって賈詡は郎になった[1]。
賈詡は洛陽に出たがやはり貧相な外見と家柄の無さのため、評価はされなかった[2]。ただし唯一評価してくれたのが閻忠で、賈詡を見て「まるで知恵の塊だ。その機略は漢の張良や陳平にも匹敵する」とまで賞賛したという[2]。しかし賈詡は胸の病を患い、健康の問題で故郷に帰る事になる[3]。そして西に向かう50人ばかりの隊商に加わった[3]。ところが現在の陝西省においてその隊商が異民族の氐族の楊炳に襲撃された[3]。賈詡はこの時、西辺地域で武名の名高い段熲の外孫と偽り、自分を殺した後は他の者と一緒に埋葬せず、段熲の外孫として別に埋葬するように伝えた[4]。楊炳は段熲の名を知っていたため大いに慌ててすぐに縄目を解いて特別の待遇を行ない、盟約を結んだ上で丁重に送り返した[4]。ちなみに他の隊商は全員首を刎ねられており[4]、賈詡は咄嗟のはったりで生き延びたのであった。
董卓の時代[編集]
故郷で療養して健康を回復した賈詡は再度洛陽に出て、太尉掾となった[4]。これは段煨のコネを頼ったものであった[5]。189年、中央政府の混乱に乗じて董卓が上洛して実権を握ると、賈詡は董卓に認められて太尉掾の職はそのままで平津都尉、討虜校尉に任命された[5]。これは賈詡の能力だけではなく、実は董卓を中央に推挙したのが段煨であったため、段煨系の人物として賈詡は優遇されたのである[5]。
190年、董卓が長安に強行遷都すると、賈詡も長安に移って董卓の娘婿である牛輔の与力となった[5]。192年、董卓は王允・呂布により暗殺された[5]。
李傕の時代[編集]
董卓の死後、娘婿の牛輔も部下に暗殺された[5]。董卓の旧臣は大混乱となり、李傕らは故郷の涼州に逃亡しようとしていた[5]。そんな李傕らに賈詡は「ここで軍を棄てて逃げれば亭長(末端の役人)一人でもあなた方を捕らえることはできる。軍勢を引き連れて西へ向かい、行く先々で軍を集めて長安を攻撃し、董卓公の復讐を果たすべきです。事がうまく運べば天子(献帝)を奉じて天下をとる。事がうまく運ばなかった場合にはそれから涼州に逃げかえればよいのです」と進言した[5][6]。李傕らは賈詡の進言に心を動かし、西で兵力を集めて長安を攻撃した[6]。これにより呂布は逃亡し、王允は殺された。この功績で賈詡は左慿翊となった[6]。李傕はさらに賈詡を重用するため侯に封じようとしたが、賈詡は「あの策は自らの生命を救うためのもので、功績などありません」と固辞した[6]。しかし李傕は賈詡をあくまで重用したかったため、尚書僕射への就任を求めたが、「尚書僕射は諸官を取り仕切る首長であり、天下の人々が期待をかける官職で、私には人を抑える名声がなく、人々を心服させることなどできません」と拒否した[6]。だがそれでも李傕は賈詡の任官を求めたため、賈詡は尚書に就任した[6]。
賈詡は官吏の選抜登用を主とした政治改革を行なった[6]。この時の賈詡は董卓や李傕のために乱れた朝廷を再建しようとしていた[6]。しかし李傕は郭汜と激しい権力闘争を始め、長安は市街戦で荒廃した[6]。賈詡は道理にもとるとして両者を諌めたが、このため次第に賈詡は両者から煙たがれるようになった[6]。この頃、賈詡の母親が亡くなったのでこれを理由に賈詡は官を全て辞したが、李傕は帰郷は許さずに光禄大夫に任命した[7]。李傕は郭汜との決着をつけるために献帝を自分の陣営に取り込もうとした[7]。賈詡は李傕に対して「正義にはずれる行為」として諌めたが李傕は聞かずに献帝を自分の陣営に迎え入れた[7]。
この頃、李傕と並ぶ董卓の旧臣である張済は賈詡を誘って長安から離れようとした[7]。しかし賈詡は「私は国家からご恩を受けており、信義からいってそれに背くわけにはいきません」と述べて断った[7]。しかし賈詡もいつまでも李傕陣営にいることの危険は悟っており、機を見て離れようとした。しかし李傕は賈詡の能力を知っていたため離れることは許さず、むしろ宣議将軍に任命して官位で優遇した[7]。
李傕は勇猛な羌族3000人を傭兵として雇った[8]。彼らの機嫌を取るために献帝の御用品と彩りのある絹織物を下賜した上、官女の中から美女を選んで与える約束までした[8]。そのため羌族の傭兵は増長し、特に官女のことで彼らは気が高ぶって宮門まで来て中をじろじろと窺う始末だった[8]。献帝は心を痛めて賈詡に相談し、賈詡は傭兵の代表者を呼び集めて山海の珍味で催した[8]。そして「この珍味は陛下の下賜されたものだ。遠慮なく食べてくれ。ただし聞いてほしい。陛下は長安での戦は望まれていない。お主らが長安で戦をしないなら、お主らに官女か、それとも爵位と宝物のどちらかを与えようというのだが」と条件を出した[8][9]。美味しい料理で気を良くしていた代表者らはすぐに爵位と宝物を選び、それを与えられると李傕に協力せずに故郷に帰ってしまった[9]。このため李傕は郭汜と和解せざるを得なくなった[9]。
賈詡は李傕をいよいよ見限ることにした[9]。張済と組んで献帝一行を長安から脱出させようとしたのである[9]。賈詡を信任していた李傕はその口車に乗って献帝の東行をはじめは許してしまった[9]。しかしやがて献帝を自分の手元から放したことに後悔し、軍を出して追撃を開始した[9]。そして献帝一行に追いついた李傕は献帝以外の要人、つまり司徒の趙温、衛尉の周忠、司隷校尉の栄卲らを処刑しようとした[9][10]。この時賈詡が李傕を諌めて処刑を中止させようとした。この時点でまだ李傕は賈詡を信任していたため、処刑を中止した[10]。
段煨の時代[編集]
賈詡は李傕から献帝を引き離すため、新たな策を考えた。自分と同郷で当時は華陰(陝西省華陰)に駐留していた段煨に手を回し、李傕をまた口車に乗せて献帝から引き離すと段煨軍に献帝一行を護衛させ、食料を献上させて安全地帯まで逃がした[10]。そして賈詡も李傕の下から去って段煨の下に身を寄せた[10]。この頃になるとその能力を高く知られていた賈詡は段煨からも粗略に扱われることはなく表面上は十全の礼をもって遇されたが、段煨は内心賈詡に実権を奪われるのではないかと怖れた[10][11]。
賈詡は段煨の心を敏感に読み取り、新しい仕官先を模索していた[11]。その頃、南陽(現在の河南省南陽)を根拠地にしており、賈詡と同じ董卓の旧臣で張済の甥である張繍から使者が送られて誘いがかかった[11]。賈詡は張繍の下に向かおうとしたが、妻子は華陰に残そうとした[11]。段煨の下から離れようとしているのに妻子を置いていけば家族が手にかけられる恐れがあるし、また不遇ではないのに何故段煨から離れるのか聞く者があった[11]。賈詡は「申し分のない待遇であるが、段煨は猜疑心の強い性格で私に対して警戒心を解こうとしない。礼は厚いがこの先長く頼りにすれば将来私はきっと命を狙われる。だが私が自分の下から去ればむしろ喜ぶだろう。それに段煨は私が外部で強力な支援者と結びつけば自分の助けにもなるので、私の妻子は置いておいても大丈夫だ」と述べた[12]。賈詡は南陽に去ったが、残された妻子は段煨に庇護されて不自由になることはなかった[12]。
張繍の謀臣[編集]
賈詡は張繍に荊州刺史である劉表との同盟を勧めた[12]。しかし張繍は拒否した[13]。
197年、張繍は曹操に攻め込まれて降伏した。しかし曹操が張繍の義理のおばを妾にし、更に張繍を暗殺しようとしたため、張繍は反乱を決意。賈詡は計略を立てて張繍軍が曹操軍の陣営を通過する許可を曹操にもらった後、曹操軍を奇襲して大いに打ち破り、曹昂・典韋らを戦死させた。これに怒った曹操が軍を率いて逆襲してくると、張繍と賈詡らは曹操と戦った。この時、曹操が軍を率いて突然撤退を開始した。張繍は追撃の好機と見たが、賈詡は今追撃したら必ず敗北するという事で追撃を止めた。しかし張繍は言う事を聞かずに出撃して大敗した。張繍が逃げ帰ってくると、賈詡は再度出撃したら、今度は必ず勝てると進言した。すると今度は勝利して張繍は凱旋してきた。賈詡は曹操が張繍の追撃を読んで自ら殿軍を務める事を読み取っていた。だから1度目は追撃したら大敗すると読んでいた。だが1度目を叩けば、曹操の撤退は敗北のためではなく、留守の国許で何か事件があり帰国を急いでいるのだから、2回目の時は曹操は軍の先頭にあり、殿軍は別の武将が務めて手薄になっているはず。だから追撃を勧めたのである[13][14][15][16]。
200年、曹操と袁紹による官渡の戦いが始まる。袁紹は張繍を味方にするための使者を派遣した。張繍は袁紹のほうが国力が優位な事、曹操と敵対していた事からこれに乗ろうとしたが、賈詡が使者を制して曹操に味方するように説いた。その理由として曹操が後漢の皇帝である献帝を擁していること、袁紹は強大だから張繍が少数の兵を率いて味方をしても尊重しないこと、曹操は兵力が少ないから味方になった張繍を尊重することを理由とした。張繍が曹操は長年戦った宿敵であり、曹操の息子らを戦死させたことを気にすると、天下を支配することを志す曹操は個人的な恨みを忘れ、徳義を四海の外まで輝かせようとするものだから、曹操は過去に戦ったことを気にしたりしない、と説いた。こうして賈詡は張繍と共に曹操に降伏し、その謀臣となった。この時曹操は張繍を得たことより、賈詡を得たことを喜んだという[16][17][18][19]。
曹操の謀臣[編集]
曹操は降伏したばかりの賈詡を優遇し、献帝に上表して執金吾、都亭侯、冀州牧にした[19]。ただし冀州牧は冀州が事実上袁紹の支配下にあったため、改めて参司空軍事に任命した[19]。官渡の戦いでは国力と兵力に勝る袁紹の前に曹操は押される一方だったが、賈詡は「貴方は袁紹と較べて聡明、勇猛、人の使い方、決断力に優れています。機を逃さずに決断なされたら必ず勝てます」と進言した。その進言どおり、曹操はやがて勝利した。この時、曹操は「文和、君こそが天下の人々の信頼と尊敬を私に与えてくれることになろう」と述べた[19]。
208年、華北を平定した曹操は劉表と孫権を下すために南下を開始した[19]。劉表は南下を開始した頃に病死したため、荊州は戦わずして曹操に下った[19]。この時賈詡は、肥沃な荊州を利用して民衆を慰撫して土地を落ち着かせれば、孫権は戦わずして帰服すると進言したが、曹操は聞き入れずに性急に軍をすすめて赤壁の戦いで孫権に敗れて北に逃走した[20]。
211年、馬超と韓遂ら涼州の軍閥が反曹操連合軍を結成して反乱を起こした。この馬超軍は機動力に富んだ騎馬軍団であり、その精強ぶりにさすがの曹操も手を焼いた。そこで賈詡は「反間の計」による切り崩しを進言した。実は韓遂は曹操と孝廉の同期で旧知の間柄だった。そこで曹操は韓遂に和睦を求めて陣営に招いた。韓遂は曹操の歓迎を受け、昔話などで盛り上がり歓待された。しかし曹操から肝心の和睦の話は出なかった。馬超は韓遂が戻ってくると、曹操との会談の模様を訊ねた。韓遂は和平の話は何もなく歓待されただけ、と答えた。これは事実なのだが、馬超はそうとらずに曹操と韓遂が密約を結んだと邪推した。賈詡はさらに手を加え、曹操から韓遂に対して書状を送るように勧めた。その書状の内容は何という事もないのだが、あちこちが書き加えられたり、消してしまった跡があった。それを見た馬超は韓遂が故意に書き換えたのだとまたも邪推し、疑惑を深めていった。こうして連合軍は盟主が相争う状態になり、曹操と戦うどころではなくなった。馬超らは大敗した[20][21][22][23]。
曹操は自らの後継者を誰にするかで迷っていた。候補者は長男の曹丕と3男の曹植であった。曹丕は曹植に世子の立場を奪われることを恐れた。賈詡は曹丕に対して有徳の態度を尊重して無官の人間のように謙虚な行ないを実践し、朝から晩まで孜孜として怠らず、子としての正しい道を踏み外さないようにすることを勧めた。賈詡は頭のよい曹操では奇策を用いては逆効果だと考えたのである。曹丕は賈詡の進言に従って深く自らの修養に励んだため、曹操に認められるようになった。しかしまだ曹操は迷っていた。そこで曹操は賈詡に後継者選定に関して尋ねたが、賈詡がいつものように明確な答えを出さずに沈黙したままだったのを不審に思い、再び訊ねた。すると賈詡は「袁紹と劉表の父子の事を考えておりました」とだけ返答した。この両者は長男ではなく末子を可愛がり長男を世子に立てなかったため、2人の死後に御家騒動が起こって自滅する事になった。賈詡は誰とは言わず、暗にそれを曹操に告げたのである。曹操はこれを聞いて大笑し、曹丕の後継を決定した[23][24][25]。
文帝の謀臣[編集]
220年1月に曹操が死去すると、後継した曹丕に仕えた。曹丕が文帝として即位し魏王朝を開くと、賈詡は太尉に任命された。また爵位は魏寿郷侯に封じられ、300戸の加増を受けて合計800戸となった[25]。文帝はその内の200戸を賈訪に与えて列侯とした[25][26]。長男の賈穆は駙馬都尉とした[26]。
文帝は孫権の呉に南征しようと計画する。賈詡はそれを常に諌めた。蜀への遠征に際しても常に諌め、「文治の徳によって領民を慰撫し、両国に変事が起こるのを待てば平らげることは困難ではない。文を先に、武を後にされるのが妥当」と進言した[26][27]。
223年11月、77歳という高齢で死去した[28]。謚は粛侯[28]。爵位は長男の賈穆が継いだ[28]。
人物像[編集]
賈詡は知略に優れた参謀だった。しかし曹操の譜代ではなく外様でありしかも曹操と敵対した時期もあったため、自身が完全に信頼される事はないともわかっていた。そのため私生活は大変謙虚で、後継者争いでは曹丕側に付きながらも自らは目立った行動はせずに屋敷の門を閉ざしてひっそりと暮らし、朝廷から退出すると私的な交際はしなかった[25]。それでいて曹操や曹丕(文帝)には的確な進言をしている。文帝は賈詡の進言を無視して南征を連年のように行なったが、全て失敗に終わった。
陳寿は賈詡のことを「打つ手に失策がなく、事態の変化に通暁していた。と断言して良いであろう。前漢の張良、陳平に次ぐ人物であろうか」と賞賛している。
小説『三国志演義』でも知略に優れた軍師として登場し、様々な場面で的確な進言をしている。曹操との戦いでは曹操の策略を読んで苦杯を嘗めさせている。劉備の死後、文帝が蜀を攻めるべきかどうかを重臣に諮問した際、諸葛亮らがおりまだ時期尚早と反対している。
賈詡が登場する作品[編集]
- アニメ
- 人形劇
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P182
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P183
- ↑ 3.0 3.1 3.2 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P184
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P185
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 5.6 5.7 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P186
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 6.6 6.7 6.8 6.9 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P187
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 7.5 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P188
- ↑ 8.0 8.1 8.2 8.3 8.4 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P189
- ↑ 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 9.5 9.6 9.7 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P190
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P191
- ↑ 11.0 11.1 11.2 11.3 11.4 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P192
- ↑ 12.0 12.1 12.2 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P193
- ↑ 13.0 13.1 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P194
- ↑ 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P195
- ↑ 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P196
- ↑ 16.0 16.1 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P197
- ↑ 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P198
- ↑ 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P199
- ↑ 19.0 19.1 19.2 19.3 19.4 19.5 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P200
- ↑ 20.0 20.1 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P201
- ↑ 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P202
- ↑ 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P203
- ↑ 23.0 23.1 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P204
- ↑ 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P205
- ↑ 25.0 25.1 25.2 25.3 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P206
- ↑ 26.0 26.1 26.2 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P207
- ↑ 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P208
- ↑ 28.0 28.1 28.2 伴野朗『中国・鬼謀列伝』、P209